文学論

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「影響」と言っても、それは「文体に関して影響を受けた」ということであって、「作家として影響を受けた」ということではない。該当場面は、カフカによる「過去からの情報窃盗」のネタを書いたものなので、そのような文体で書くことが望ましいという判断から、あのような書き方となった。ゆえに私は彼から「作家として影響を受けた」ということはない。
彼は他人の作品に客観性のない難癖をつけたり、アスペルガーである自分の執筆能力のなさを売りにしたりと、作品の価値以外の点で読者の関心を引こうとするばかりで、中身のない生き物である。
※「進化に方向性はない」という見解もあるが、それは生物という構造内部における無方向性のことであって、「環境に対する適応」という点においては、環境条件による方向づけがなされている。内部的に進化の方向が定まっていないからこそ、環境によってその方向が完全に規定されるのであり、あらゆる生命はより合理的な環境の利用を目指して進化を繰り返していることになる。これはつまり、全生命が究極的には「神(環境の完全なる統制および創造主)」を目指しているのと同じことである。

「全生命の営みを包括的に価値づけている」というのは「情報的に価値がある」ということであって、それは美や善や徳に結びついているわけではない。彼らの行いは醜悪で有害である。彼らは他人の目を意識しながら生きているのであり、その死刑執行に対する抵抗も偽りやひけらかしを多分に含んだものであった。こうしたところから彼らの浅ましい日和見根性が透けて見えるのであって、だからというだけではないが、この点においても彼らの抵抗は醜いと言える。

資料として、川端康成の『雪国』の一部を載せておく。

『嘘烏』の引用もしておく。※主人公および女(烏)はいずれも失明している。

中略

まあいいや。巧えなあ俺は。わざと無能さを晒して、俺の作品の価値を知らせるのが彼の情報提供である。

比較のために記号の作家の作品の描写と私の作品の描写を並列して載せておく。

まずは記号の作家の作品。

ドストエフスキー『罪と罰』

中略

カフカ『変身』

カフカ『審判』

プルースト『失われたときを求めて』

中略

川端康成『雪国』

村上春樹『風の歌を聴け』

村上春樹『ノルウェイの森』

保坂和志『季節の記憶』

磯崎憲一郎『肝心の子供』

中略

中略

次に私の作品。

『捕食者』

中略

中略

『妖精の正夢』

彼女の行動を主観的に描写した中に、ところどころで客観的な俯瞰の視点が入るのは、この作品が芝居をモチーフにしていることと符合している。また、「逐語的な比喩は娯楽小説でしかない」という批判があるとしても、私の作品が逐語的な比喩によって芸術を行えているわけだから、その理論は本質的ではない。「一般的には逐語的な比喩は娯楽小説に多用されることが多いが、文芸作品にも逐語的な比喩が見られることがある」という説明をせねばならない。客観的な批評をする際には、理屈で現実を歪めて解釈してはいけない。「記号の作家の作品は芸術ではない」と言われたからと言って、仕返しをしてはいけない。比喩が書かれているかどうかは言葉の表現の問題なので、表現の背後にある情報的な文脈の有無とは関係がない。

『野牛の落陽』

第三段落の浜辺の描写は、描写の対象を一文ごとに移り変わらせて記述を断片化させているが、情報自体は「統合的な空間イメージ」から引き出されたものであり、文脈は失われていない。だから前に書かれたイメージから素直に次に書かれたイメージが浮かび上がってくるのであり、「統合性のない情報が後から後から注ぎ足されていて、一文ごとに個別に意味を取っていかないと読みにくい」という感じがない。

中略

中略

中略

『レモンの皮とキシリトールガム』

中略

中略

中略

『世界』

中略

中略

中略

本作『世界』においては、「回想とともに場面が平行世界に移行し、そのまま元の時点の状態とは食い違った別の過去が生じる」ということがしばしば起こる。それまでの展開と矛盾した唐突なカミキリムシの出現も、その他の認識の倒錯も、「平行世界の遷移」を表している。

中略

中略

『現象』

中略

中略

中略

投稿者: 林洋佑

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