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狂人と言い争ったって全部水掛け論で、自分も狂人みたいに見えるに決まっている。まともな環境で成功が得られりゃいいんだよバーカ。
日本人と関わっていたら、誰でもどんな有能な者でも馬鹿に見えることだろう。だってこいつらは卑屈な嫉妬感情から他人を害しておいて、咎められてもアスペこじらせて「理屈なら絶対負けない。譲らない」だもん。「俺たちから見たらお前が悪に見える」「お前だって同じだ」。どうしたって幼稚な言い争いにしかならねえよ。ゆえに彼らのような頭では、私を含めて関わる者全員を低レベルな生き物として見下し、「なんだよ。あいつだけ調子に乗って活躍しやがって」と妬みを抱くのも無理はないと言える。自分たちが頭悪いだけなのに、全員が馬鹿に見えるんだろうな。

















島田の演説(っぽいセリフ)は要するに「卑屈な嫉妬感情の正当化」であって、だから日本人の支持を得られる。そう説明しときゃ分かりやすかったわ。


彼らのことを名指しで批判したところで、彼らにはこの三次元世界の生活などないわけで、私に見られているところだけその生活があるかのように装っているに過ぎない。彼らは名前を出されてもすぐに転生して別人になりすますことができるのであり、名指しの批判にはあまり意味がない。






「土人の発想しかできない愚図が偉そうに他人に理屈を吐くな」としか言いようがない。彼らはただ形式を偽るだけで、実際には法やルールの意識など何もないのだから、他人に善や正義や法と言った社会的な観念を語っちゃいけない。分かってねえ奴が偉そうに喋るな(というとこいつらは、「お前が言うな」と返してくるのだが、私は文明人だよ。虫けら。文明の開拓もできねえ未開の猿が、文明を語るなって話。分かる?)。




大学では俺が出来の悪い試験答案に甘い成績を勝手につけられて後ろめたかったから、次はそういうことがないように努力して良い点を取ったら、今度は「出来が良すぎるからこれは不正に違いない」とほのめかされてしまった。「お前がどんな手を打っても、こちらはそれを上回ってお前を犯罪者に見せかけられる。俺たちの不正を暴こうとして、自分の正当性を示そうとするような卑劣な真似は許さない」ということだろう。まあだから、要するにこいつらはこういう生き物だということだ。それをお前らがすげえことだと思うなら、すげえんじゃねえの。お前らの中ではな。




保坂和志の『季節の記憶』はいかにもアスペが書いた下手な作品で、場面が場面として機能しないまま臨場感のない作者の語り、というか知識のひけらかしになってしまっている。どうせ下手だと言われるのは確定しているから、わざと下手に書いて「これは仕様です」と言い張りつつ、ドストエフスキーやプルーストの作品の価値を偽装しようとしたのだろうが、その場しのぎ的でくだらやい。ドストエフスキーやプルーストも文章に文脈がないせいで、語りや描写に臨場感がないのは変わらない。描写について言えば、部屋や教会内の景色の描写などについて、一読して景色がイメージできないくらい文章が下手である。だから何度も読み返して自分の頭の中で情報を構造化せねばならない。文脈のない文章では、こういうことが起こる。




















