強制措置入院

 2020年11月28日午後7時ごろ、警察が父母を連れて私の家に入ってきた。私はシャワーを浴びているところで、裸のまま自室に戻り、服を着た。「やはり来たか。まあそうなるわな。むしろ三日もあの玄関の状態が放置されたまま、今まで何してたんだ。それにしても、あーあ、これは面倒なことになるぞ」と私は思った。同時に、「本来ならばあちらが俺のシャワーのタイミングを想定できたはずはないから、これは四次元の台本的に、わざと面倒なタイミングで警察が来るようにできているな」とも思った。私は警察に向かって、「あなた方の行動は住居侵入、プライバシーの侵害ですよ」と言った。すると彼らは「そんなことはない。親御さんの同意があるから許されるんだわ。それに何よりあんたが迷惑かけていることは事実だし、最悪のケースかもしれんもんで。場合によっては」と述べた。これは形式的には一郎と佳代のことだろうが、実質的には「この犯罪は四次元政府が自らの意思で規制しないことにしているのだから行える」ということだろうと私は思った。警官がやたら早口でまくし立てたのは、少しでも「台本臭さ」をなくして、私の危機感を煽る狙いがあったのだろう。しかし、精神病であるにしろないにしろ、構成要件的には普通なら実刑食らって1、2年牢屋から出られないだろうレベルの犯罪該当行為を犯しておきながら(措置入院をさせられるにしても、この世界が嘘でないならば数年は病院から出られない行動をしてしまっただろうと私には思われた)、警官は私を一方的に責めるのではなく、「最悪のケースかもしれんもんで。場合によっては」などという逃げ道を残しているところに不自然さがあるというか、「建前上は公権力の発動という形を取っていながら、あえてそういう嘘くさいところを作って、こちらが過度の不安を抱くことのないようにし、実質的に精神的な人権を保障する」という政府の支持に従っているように思われた。

 警察官は5、6人いたと思う。かなり物々しい雰囲気だったが、こちらは台本だということを知っているので動じない。動じないが、警察が来てしまった以上、一応建前上、あちらはこちらに権力を行使することが認められていることになるので(つまりいくらこちらに実質的な不利益を与えられないとは言え、こちらの反抗を無視することはしないはずなので)、こちらが余計なことをしてあちらに面倒ごとを増やされるのも嫌で、とりあえず座って大人しく話をすることにした。正直、適当に話をつけてさっさと追っ払ってまた一人の生活に戻りたかった。私は思わず警官に、「うわマジかよ。ぶっちゃけ、これでしょ?」と言いながら体全体を両腕で拘束するジェスチャーをして、「自分が閉鎖病棟の中で身体拘束具をつけられて薬漬けにされる未来がある恐れ」を問いただした。警官は「それも詳しく話を聞いてみないとわからんもんで」と返すばかりだった。母は「洋佑は少し頑張りすぎだと思う。だからしばらく入院して、休んだ方がいい。せめてお医者さんに話を聞く方がいいと思う」と述べた。「警察が来てしまった以上、逮捕や強制措置入院の憂き目に遭うことは台本的に避けられないのだろうな」と私は思った。そりゃ警官5、6人を引き連れてそんな提案をされたら、実質的には強制みたいなものである。しかし私は同時に、「もし私が身柄拘束されることがあるならば、それは私にとって何らかの実質的なメリットを得られるものであり、かつ後に残るような実質的な不利益を被るものではないはずだ」とも思った。そして、こうした様々な考えの裏づけを得るために、自己防衛として「とりあえず話は聞くが、あなた方がどんな措置を私に加えようとも、私の身の安全を侵すことはできないし、実質的には私に不利益的に措置を取ることもできません」ということを繰り返し警官たちに述べた。警官たちはこれを黙ってうなずいて聞いた。最前私に向かって早口で「最悪のケース」がどうとか喋っていた警官も、私の説明に黙ってうなずいた。

 このやり取りが終わって少し安堵し、落ち着いてきた私は、ふと眼前の警官から視線を逸らして廊下の奥の方にいる他の警官の様子を眺めた。その中に、髪や顔全体が溶けかかってずんぐりむっくりになった背の低いおじさんがいた。父だった。私は自分から私に話しかけることもできないその惨めな姿と、今に至るまでその存在に気づけなかったことが妙に笑えてきて、「一郎さん、一郎さん。久しぶりですね笑」と話しかけた(この文章内では、一応彼のことを「父」と呼んでいるが、彼は実際には私の父ではないので、私は彼のことを「一郎さん」と呼んだ)。すると父は、「6年だぞ」と責めるようにぼやいた。これはつまり、私が彼にもう6年も会っていないことを、まるで私が悪いかのように主張したのである(このように自閉症のアスペルガーは想像力がないので、他者の意思に対する配慮がなく、自分の願望や都合を他者が聞いてくれないことに腹を立てる傾向にある。たとえばこの場合、彼が私に会って欲しいなら、私の意思に基づいて私が彼の要求に応じたくなるように彼は努力せねばならないはずなのに、彼は「親という立場がある限り、息子が自分の希望を聞いてくれるのは当然だ、少なくとも会って話をするくらいいいじゃないか」とこう考えるのである)。私は彼のことを完全に軽蔑し、舐め腐って馬鹿にしていたので、彼のその非難を無視して、嘲るように、「いやあ大変でしたね、一郎さん。僕ね、あなたの苦労はよく知ってますよ。もう色々と知っているんですよ。そりゃ大変だと思います。どうですか?笑」と尋ねた。すると彼は泣きそうになり私から顔を背けて、「そんなことを今この場で僕に聞いてどうしようって言うんだ」と腹を立てた。彼は否定しなかった。自分が苦しみを受けていることも、私がそれを知っていることも。6年も会っていないのに、である。

 そこで私は彼に「いやあちょっとくらい聞いてもいいじゃないですか。だってあまりにも悲惨なんですから。あなたの立場を考えたら、よくやっていられるな、凄いな、と私は思いますよ。せっかくだから教えてください。そちらの方が色々と面白いだろうし」と言った。そこで私は「しまった」と思った。私が彼の不幸を面白がっていることがバレてしまったからである。せめて「あなたの話は興味深い」とでも言っておけばいいと思った。というのも、彼は自分の不幸や感傷を四次元政府が情報資源(カネ)として食い物にしていることを知っているので、自分の苦労話を私にネタにされることが許せないのである(許せないと言われても、こちらはカネを儲けるために家畜への処分権行使をすることが人権によって認められるので、彼の不幸をネタにするのを抑制することはない)。公権力の発動が茶番であることをより明確化して安心材料を得たかったというのもあるが、私は「あんな風に茶化すように喋ってしまったら、もう彼から話を引き出すことはできないだろう」と考えて、「あ、いや、すんませんすんません」と手短に形式的な謝罪をして、話題を打ち切った。

 すると父は、今度は返す刀で「なんでこんな無茶苦茶なことをしたんだ。お前は法曹になるために努力をして、大学院で首席になったこともあったんじゃないのか」などと私を非難した。わざとらしく涙声で、劇的な口調でそう述べたのである(アスペルガーは杓子定規なので、「真面目に嘘をつく」ことに執着する傾向がある)。私はこの質問に答えるつもりがなく、「くだらねえな」と思った。説明をしたってあちらは認めないだろうし、強制入院をさせられる可能性や、もし入院させられた場合の入院期間が伸びるだけだと思ったからである。そもそもあちらは警察を連れて私の部屋に乗り込んできている以上、日本国の公権力の正当性を建前上維持するつもりであるだろうし、実際父の上の質問にはすでに「俺は四次元の事情を無視して建前でしか物を語るつもりがない」という意図が含まれている。それゆえ、ここで彼らの権力が偽物であることを私が科学的に論証しても、彼らは譲らないだろうことが容易に想像できた(当たり前だ)。そうなると、私の説明に対して彼らは建前や理屈で争いを仕掛け、水掛け論の言い争いが起こることになる。争いが起きたとき、勝つのは強い方である。この世界は四次元政府によって統治されている。ゆえに彼らは政府に逆らえない。だったらはじめから言い争いなどせず、台本に委ねてさっさと話を進めてもらった方がいい。

 私は咄嗟にそう考えていたのだが、逆にこの手続きが台本であるがゆえに、「ここで何を言っても何も言わなくても大して結論は変わらない」ということも知っていた。あちらに説明を求められているのに、無視をするのもおかしいので、一応、(この国の体制は不正であり、正当な抵抗権行使が認められるという意図で)田山ゼミだって不正をしていた」と述べた。すると父は「今お前の話をしているんだ」と言い返した。私は色々な損益考慮をしていたので、「確かに犯罪を責められたことに対して『お前も同じだ』と言い返すのはおかしいよな」と思ってその場では反論することができなかった。しかしこれはおかしい。私は「体制の不正性に対する抵抗は正当である」という意図で田山ゼミの話を述べた。まあ田山ゼミの不正が中身のない台本であることを知っていながら、あえてこれを述べたわけだが、あちらが建前に従って私を責めるなら、私も建前(つまり嘘)を盾に取って自分を正当化することが許されるはずである。というかそうするしかない。ゆえに建前上、私の行動の是非は体制が不正かどうかに依存していることになる。それなのに彼は、私が「お前も同じだ」という理屈で自分の罪から話を逸らして責任逃れをするのはアスペルガーの屁理屈でしかないと述べていたことをおそらく逆手に取って(なぜ「おそらく」であるかと言うと、形式的には6年も会話をしていない父が私の論を知っているはずはないから)、そういう皮肉を述べたものと思われる。

 このようにアスペルガーは、「自分が言われた批判を間違った形で悪用して、相手に言い返す」という性質を持つ。たとえば学校の先生が廊下を走っている子供を走って追いかけて捕まえて、「廊下を走るな」と叱ったときに、その子供が「先生だって今走っていたじゃないか」と言い返すのである。歳を取っても空虚な建前にばかりこだわって、上のような幼稚な屁理屈を平気で言ってしまえるその学習障害じみた単純パターン思考こそが、アスペルガー患者の持つ障害の一つの表れである。抽象的な理屈を一般化して自他を同一視するのではなく(そのような記号的な置き換えがアスペルガー患者に見られる「投影性同一視」の原因である)、個々の場面に対して臨機応変に思考し判断する能力がないと、何でもかんでも都合のいい抽象論や建前、通り一遍のフレーズを持ち出して自分のエゴを正当化するモンスターが生まれてしまう。周りからすればそれは「大した根拠もなく立場を利用して一方的に理不尽なことしか言わないサイコパス」となるわけだが、彼自身にとってはそれは分からない。彼には「正しいとか正しくないとかそんなことは関係なく、俺はこの理屈を通したい」という欲望があるのみで、それ以外の見解は自分の欲望ではないので、仮に他者の見解が客観的にどれだけ正しいものであろうとも、自分の立場を譲ることはない。彼にしてみれば、立場を譲ってしまったら「負け」になるわけで、正しいか正しくないかなどはじめから分からないし興味もない。彼にとっては彼の都合を他者に押し通せるかどうかが全てであり、そういう押し付けをする手段を死ぬまで模索するゲームを演じるだけである。だから誰が彼と関わっても、「こいつと喋っていても無駄だな」と思われて見捨てられることになる(しかしこういうタイプは建前を利用してやたらと他人を責めるので、適当に名ばかり閑職を与えて満足させておくような処理をしばしば会社はする)。ちなみに、彼が私に対して言う「お前も同じだ」という言い返しは、「正当な抵抗権行使」の主張にはならない。なぜなら彼の蛮行はそれ自体が彼の私利私欲を満たす手段となっているだけで、「環境の改変を要求するための手段」としての側面を持たないからである。もし彼の蛮行が抵抗なのだとしたら、彼の個人的な利害に反してでも抵抗をするのでなければならない。なぜならそれは私利私欲を満たす手段ではなく、環境を改変するための手段だからである。それなのに、蛮行によって私利私欲を満たした上で、その環境に安住しようとするのは本末転倒であり、抵抗権行使の意図があるとは言えない。抵抗権行使の意図がないのに、責められたことに対して「お前も同じだ」と言い返すのは、別件を持ち出して政府批判に話をすり替え、自分の責任を逃れようとする屁理屈でしかない(しかも四次元政府は不正をしていないので、たとえこれに対する抵抗権行使を行ったとしても、それは正当と認められない)。今でこそこうした適切な説明を私はすることができるが、口頭の言い争いにおいてそんなことをしようとしたところで、興奮した状態で適切な論拠をその場で組み立てて喋れるとは限らないし、仮にそれができたとしても長い説明をしている間に話の腰を折られて反論されるか、そうでなくともこちらが言い終えた頃にはあちらははじめの方の説明を忘れてしまい、すでに説明したことを再度説明させるような質問をしてくるだけである(そうして話がこんがらがっていく)。だからどうせ喋っても意味はないし、はじめから真実を受け入れようとしない者がわざとしらばっくれるのをこちらが防ぐのは不可能である。相手がしらばっくれられないようにこちらが百の論を語ったところで、相手はこちらの論の正しさなど無視してしらばっくれる。どうせ四次元の事情なんだから、「目に見える証拠」は残らないのだし、「目に見えないけれども妥当な推論」をこちらがいくら提示したところで、あちらは「そんなもの知らない」「分からない」と言えば話は終わる(もちろんこの場合、あちらは「分からない」と述べたことで「そんなこともまともに判断できない知的障害者」「アスペルガーでなければ分かるはずの適切な説明を『動かぬ証拠』だと認識することができず、まるで私の示した論拠が脆弱なものであるかのように、『分からない』をゴリ押しすれば話を済ませられると思い込んでいる認識能力の低い劣った生き物」だということが暴かれてしまうことになるわけだが、そんなことを私が一対一の議論においてあちらに説明したところで、あちらは腹を立てて私を責めるだけで、何らの実害も被らない。これに対して、はじめから彼と一対一で議論をして終わりにしようとするのではなく、その議論の結果を資料として文書にまとめて世間に晒せば、あちらに対してその発言にふさわしい実害を効果的に与えることができるし、こちらのカネも儲かる)。

 さて、ゼミの話がスルーされたことで、私はダメ元で「この国の法律には効力なんてないんですよ」と述べた。父の返しが四次元手続き上のメタメッセージを孕むものであったことから、私はもう「せっかくだから面白いから言いたいことを言ってしまおう」と思ったのである。すると今度は先ほどの警官が、早口で「そんなことはないで。ここは日本国憲法に則って法が制定されとるもんで。俺たち警察は司法権に沿って仕事しとるし」などとまた建前をゴリ押ししてくるので、「じゃあその法律が客観的に正当であり、従うに値するものであるという証拠を出してください」と私は述べた。すると彼は、「そりゃ法律ってのは民主的な手続きで決まったことやから」と言ったので、私は「『民主的な手続きで決まった法律は正当である』という見解が正当である客観的な証拠はありません」と述べた。すると彼は「そんなもん証拠なんてないよ。俺の主観だ」と返答した。私は「主観で権限発動して他人を拘束するつもりかよ」と思ったが、そうやって持論をゴリ押ししてくる奴に何を言ってもどうせ意味はないので、それ以上何も言わずに話題を流した。するとまた母が優しさを気取って、「洋佑は疲れているのだから少し病院で休んだ方がいい。話を聞くだけでもいい」と述べた。「もう結局そうなるのだな」と思った私は、「何ですかその態度は。『休んだ方がいい』って、太宰治の『人間失格』かよ笑」などと皮肉を吐きながら、「なるほどこの展開はいくつもの小説にで予言されているようだな。部屋にいきなり官吏が乗り込んでくる話としては、カフカの『審判』、リチャードパワーズの『オルフェオ』、精神病院に入院させられる話としてはサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』、太宰治の『人間失格』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』か。いずれもただの一般論としてではなく、私でなければ当てはまらないような要素を持っている。カフカのそれは『胡散臭い官吏たちによる茶番めいた手続き展開』、パワーズのそれは『体制にとって不都合な研究をしている主人公の家に警察が押し掛けてくる展開』、サリンジャーの作品は『何もかもインチキ呼ばわりして結局自分が病気扱いされる主人公』、太宰治の作品は『嘘や建前を平気でつく人間に馴染めない主人公が、人間失格の烙印を押されて精神病棟に入院させられる点。これは私がこの地球の住民を人間でないと評価したことに対する仕返し的な皮肉を孕んでおり、また同時に主人公のことを神様みたいな人と呼ぶことで、四次元政府の長である私に対するおもねりを孕んでもいる』、夢野久作の作品は『精神病棟に入れられた主人公が、記憶を取り戻して莫大な財産を手に入れるというプロットが、今みたいに手続きの進行とともに情報を暴いていって忘れていた四次元の記憶を復元し、やがてデビューに至り、この地球のインフラ全てを自分のものにするという私の人生と符合している』という形で私の人生とよく符合しており、確率的に偶然のレベルを超えており、太宰の作品に自分を当てはめることくらいは思春期に誰でもしうる妄想なのかもしれないが、さすがに今私が挙げた要素を全て兼ね備えた人物はこの地球住民の中でも私一人以外にはあり得ないと言える(だからこの推論は統合失調症の症状ではない)」などと考えていた。そうして、大体の流れが分かったところで、私は「もうそういうことならさっさと台本消化して終わらせちまった方がいい」と思い、「まあいいや。じゃあ私はこれからお医者さんと話をして、それで帰ってくるなり入院するなりを決めることにしますわ」と言って、素直にあちらの提案に応じた。

 すると警察は急に雰囲気を変え、先ほどの切迫したような態度をやめて、急性期の患者を診察する病院を探し始めた。それと同時に、おそらく人権保障のためだろうが、私のこれまでの文学的、物理的な業績および絵画作品に興味を持ち始めた。私の書いた本を手に取り、「これを一人で書いたんすか。凄いっすね」などとお世辞も言った(あちらは私の作品を読んでいないので、これはお世辞である)。しかしこのとき父は、「文学は『しらす雲』と『捕食者』については読んだが、『しらす雲』の方は言葉が難しくて分からなかった」などと言うばかりであった。これは皮肉を交えているが、『しらす雲』の作品傾向を私に論じさせるための情報提供であろう。なるほど私は、あの作品がなぜやや難解な言葉を用いているのかをまだ説明していない。説明しなくても分かることだと思うが、あえて説明をすると、あの作品は「高い地位に身を置く主人公が、脳内世界で弱者を演じる」という趣向を持っているため、無名の鉄道職員には相応しくないはずの難しい文体が用いられているのである。そのちぐはぐさ自体が作品の構造の一部として作品を成立させているのであり、「言葉が難しいからダメだ」ということにはならない。既存のマニュアルを一般化して作品の文脈を無視して固有の趣向を消してしまうのはいけない。いずれにしろ、当時の私は父が文芸など何も興味がなく、本もほとんど読まないことを知っていたので、作品を否定されたことを気にすることもなく、「彼に文脈がどうとか芸術論を語っても無駄だろうな」と思うばかりでそれ以上、特に反応しなかった。むしろ彼が『捕食者』を読んでいたことがおもしろくて、そちらに興味が行った。そこで私は、「『捕食者』を読んだんすか?笑 どうでした? 悲惨な気持ちになりませんでした?笑」と質問した。すると彼は、「まあそういう気持ちにはなった」と返答した。あはははは。あの作品は「権力に頼って多くの他人を食い物にしていたサイコパスが、その権力を失ってどこまでも惨めな末路を歩み、妻にも騙されて結局自殺をしてしまう」というものであり、「サイコパスが読むと経験があるものだからこれを自分の身の上に置き換えて悲惨な気持ちになるが、サイコパス以外が読むとむしろ痛快・爽快な気持ちになる」という性質を持っている。つまり私は父に対してかなり意地悪な誘導尋問をしたわけで、それに苦々しい態度ではあるが正直に答えてくれた彼の態度は今思い返してみても面白い(嫌な奴に対してはとことん嫌な奴だなあ、俺は笑。あーあクソ笑った。もうやだこれ書くのほんと楽しい笑)。

 警察は私の物理学の業績にも関心を持ってくれた。私が何を発見したかを語ると、「それが本当ならあなたは歴史の偉人になれますよ」などと、普通ならば割と大袈裟だが私の業績が本当だったならば大袈裟でもなんでもないような率直な感想を述べてくれた。一方で父は「どれだけ業績があろうが、こんな形でデビューしても世間は誰も認めてくれない」などと、いきなりネガティブなことを言った。私に調子に乗らせたままでいるのが嫌で、少しでも現場の緊迫感を復帰させたい狙いだったのだろうが、私は「世間って笑(お前今さら何言ってんだよ)」という感じで無視をした。彼は「どれだけ業績があろうが」と述べていることから、私の業績が嘘であると決め付けている感じではなかった。まあ私も「数字で証明している」と述べているのだから、論理的に、これをむげに否定するわけにはいかなかったということだろう。しかしそれが本物の業績であると認めたわけでもないようで、本物である可能性がある以上、分からないなら分からないなりに(警察たちのように)中身に興味を持つはずなのだが、彼は私を非難する方にばかり目を向けて、業績について積極的な関心を見せなかった(ちなみにこの警察も全部馬場大祐つまり林一郎の生まれ変わりであるから、彼は父の立場では私の業績を無視したような形になっているが、警察の立場ではむしろ積極的にこれを後押しするようなことを言っており、口先の建前でしかないにしろ、一応真面目に人権保障をしているようではあった。まあ彼は犯罪ができるとは言えそれは私の人権保障と矛盾しない限りのものであって、実質的に私の人権を不可逆的に壊すことはできないのだから、これは当然だろう。しかし、今さらそんな口先の励ましめいたことを言われなくても、こちらはやることを分かっているので、こちらにしてみれば警察の言葉ははっきり言って必要のない言葉ではあった。ただ、あちらとしては私の身柄を拘束するというのはかなり大胆な犯罪をしていることになるので、後ろめたさをごまかすためにそれなりに丁寧な配慮をしていたものと思われる。そう言えば、私が7年ほど前に傷害事件を起こして逮捕される時も、警察は強制逮捕権限を持っているはずなのに、「手錠をかけることになりますけど、いいですか?」と私に尋ねる形を取り、「この国ではこれが法律なんで、ごめんなさいね」などと謝罪をしてきたりもした。私は「能力発揮を十分にさせてもらえない」という点で多くの消極的な被害に遭ってきたが、積極的な被害についてはほとんど受けていない。同級生からの虐めも教師からの恫喝もこちらの世界では受けたことがない。私の被害は自分の能力や価値を知った後で気づかされたものであって、「過去のトラウマ」めいた記憶は全くなく、むしろ世間的には割とぬるま湯に浸かって甘やかされて生きてきた方だと思われる。もちろんそれは周りの配慮ではなく私の権力によるものだったわけだが、いずれにしても私は少なくともこちらの世界では不安や悩みを抱えた経験があまりない。同級生も大体みんな、割と冗談めかした態度で私が楽しめるように喋ってくれていた。今のような未来を彼らが知っていたことを前提にすると、あれは俺に気を遣った接待だったことになる)。母は「物理学の本は知人に読んでもらっている」などと述べた。形式的には「本を知人に勧める」という態度は母の行動として普通のように見えるが、「歴史を塗り替える偉大な業績を数字で証明した」と私は述べているのに、その業績の大きさについて関心を持たず、私の著した『物理学』をまるでどこにでもある一般書籍であるかのように扱っているのはやはり不自然である。形式的に母親を演じているな、という感じである。まあでもこの世界では不自然なことがむしろ四次元的には自然だったりするわけで、別に私は今さらそのことを指摘したりはしなかった。ただ、三次元の事情だけを前提にするとやはり不自然なので、もし四次元の事情を否定するならば、こうした不自然さが説明できないことになる。

 それから警察は私の絵画作品に興味を持った。私の『生命』という作品を指差して、「独学でこれを書いたんすか?」などと褒めてくれた。また、書きかけの100号絵を指差して、「もうこの部分だけで凄い作品だと分かる」などと言った。あちらがあまりにも私にお世辞を言うので、逆に気まずくなったくらいである。父はこれらについては特に何も言わなかった。何かしらコメントしたかもしれないが、私にはよく聞こえなかったか、よく覚えていない。今の私は「父の態度の不自然さ」を論じるために、あえて父の言動をこうして丁寧に記述しているが、当時の私にとっては彼の言動が関心の中心だったわけではないので、どうでもいい発言に関してはあまりよく覚えていない。ただ、私の絵画作品についても、その業績を認める積極的な発言をしなかったのは事実である。多分、苦々しい面持ちで黙って眺めていたんじゃねえかな(それくらいしか彼にはやりようがない)。

 私は先ほど深刻な感じで詰めかけてきた警察が、今はもうこんな話を呑気にしているのを馬鹿馬鹿しく思い、つい笑ってしまって「何だよこれ、茶番じゃねえか笑。もうくだらねえから建前抜きで喋ろうぜ。警察の人たちもそんな廊下で突っ立ってないで、とりあえずみんなら部屋入ってきなよ笑」とはしゃいだ感じで言った。あちらは態度を崩さず一応真顔で、しかしこちらの提案に応じて、すごすごと部屋の中に入ってきた。私は一人でゲーミングチェアに座り、私の部屋の中で立ち尽くしている警官三人と母と父に向かって笑いながら、「いやこの状況はね、マジでやばいっすよ笑。私じゃなくて、あなた方にとってね。ほんと、大丈夫なんすか? 洒落にならねえってマジで笑」などと「あまりにもあちらの境遇が深刻過ぎて逆にふざけるしかない」というような態度で質問した。もちろんあちらは本当のことを言いはしない。警官の一人が、「どういうことですか?」と聞いたのみである。こう聞くということは、あちらは知っていることを私に話すつもりがないというわけで(当たり前だ)、私はとりあえず「あなた方は人間ではないんですよ。私はそのことを科学的に証明してしまったんです」という形で話題を切り出した。私にしてみれば、あちらが本当のことを言わないのは当然に知っていたけれども、相手の反応を見るためにあえて先ほど「ぶっちゃけトーク」のような態度を取ったのである(もちろんこちらは正当性を立証するための証拠をすでに手にしているので、ここでの相手の反応がどうであれ特に問題は生じない。これはあくまで「もう色々なことが暴かれてしまったのだから、こんな末期状態で建前を維持していても仕方ねえだろう」という目算から生じた興味本位の行動である)。しかしあちらは大して面白い反応を示さなかったので(この発想はサイコパスっぽい)、そうなると途端にこちらとしてももう喋ることがなくなって、話すのが億劫になってきた。あちらがしらを切っている以上、どうせ何をどう説明してもあちらが私の論に理解を示すことはないからである(目に見える証拠がある場合には彼らは非を認めるが、目に見えない評価や分析については、たとえどれだけ妥当で合理的な推論を提示したところで、彼らはいくらでも言い逃れをする)。

 警官は私に対して、また「どういうことですか?」というようなことを聞いた。私は「あなた方は思考構造上、人間と呼ぶに足る理性を持っていない。だから生物的に、人間ではない。私はそのことを証明したんです」と述べた。するとあの早口の警官が「そんなことはない。僕たちは人間であって、それは生物学的に認められていることで、ホモサピエンスとして定義されとるもんで」と述べたので、私は「いやだからその定義に何の根拠があるんだよって話」と思いながらもあちらの発言を無視して、「この地球の住民は互いに『何が正義か』の解釈を争うじゃないですか。そういう認識構造を持っているのは、彼らが理性ではなく力によってしか従えないということになるんです。これは人間の思考ではありません。理性あってこその人間ですから」と述べた。すると警官は、「それは哲学ですか?」と聞いてきたので、私は「いや違う。そういう正義への不理解を生じる認識構造を、私は生物的脳科学的に解明してしまったのです」と述べた。彼らは(芝居だが)「なるほど、、、」と分かったような態度を取った。私はさらに「だからあなた方には法的に人権はないんです。この国の法律はフィクションつまり嘘であって、実質的な効果はありません」と述べた。警官は「そういう考えもあるのか」とか「興味深い」などと述べるだけで、表向きは、別に腹を立てることはなかった。しかしもちろん、こちらの考えに賛同することもなかった。ただ、一対一の会話なら格別、警官二人と父母の計四人が、私の話をまるで講義でも聞くみたいに静かに聞いていたのは不思議な光景だったと言える。狂人だと思っている奴の話をこんな風に複数人で揃って聞くものだろうか? こちらは全てが台本だと分かっているから当時疑問は抱かなかったが、今にして思うとあれは奇妙な状況だった。あるいは私が「建前抜きで喋ろうぜ」と言ったから、彼らは建前は維持しつつも「建前抜きで喋ろうとした」とでも言うのだろうか? しかし当時の私は、彼らが「建前抜き」になると、私を「四次元政府の長」として目上の存在扱いしなければならなくなるということを意識していなかったので、それが媚びとか従順さの表れであることに気付けなかった。そう言えば、偉かったんだった、俺。私は立場こそ最高位の存在であるが、思考は権威主義ではないので、他人に偉そうにすることに慣れていないし、その願望もないし、他人からへつらわれることにも耐性がないのである。

 それから私は、人権のない記号人が四次元でどのように扱われているかを語った。彼ら自身が身をもって体験しているはずのことを、わざわざ私の口から説明したのである。もちろん、あの場で細かい説明や論拠を挙げて四次元の事情を立証することなど不可能なので、「嘘だと言われると面倒なので、あくまで仮の話として聞いて欲しいのですが」と前置いた上で、である。あなた方は理性を持たない動物であり、人権を持たず、四次元で拷問されながらカネに換えられている。あなた方はそのことを隠し、私の人権を保障するための家畜として、こちらの世界で人間のふりをしている、、、。そう言ったことを語った。もちろんあちらは嘘をつかないといけないので、「へえそうなんですか。どういうことなのかなあ」などと返答するだけだった。私は、「そういうことを私が行っているとしたら、あなた方は憎しみを抱くのではないですか?」と質問した。少し間があり、警官の一人が「確かにそうかもしれませんね」と応じた。私は話を続けた。「たとえば、たとえばですよ。私があなたの欲望の醜さを利用して、あなたに無限の犯罪を行わせ、魂を醜く汚させた挙句、罰として地獄に落として無限の拷問を繰り返し、その苦痛や悲しみをカネに換えているとしたら、あなたは私を憎むのではないですか?」。私はすでに椅子から立ち上がり、滔々とこうしたことを語っていたのだが、その間、彼らはどういうわけか私ににじり寄る形で近づいてきて、警官二人と一郎の計三人で、何も言わず静かに私を取り囲むような陣形となっていた。恍惚とした表情(おそらくそうだっただろう)で語る私に向かって今にも飛びかかろうとするかのように、しかし静かに私を取り囲む三人の男。まるで、長い長い時間をかけて彼の中に積み上げられた怨念が、この嘘の世界でほんの少しだけ顔を覗かせたかのようだった(これは少々芝居がかっていたところがあるのでかえって胡散臭いし、何の証拠にもならないので、あくまで「個人的な体験」という形で述べておくことにする)。

 警官は私を診察する病院に電話をかけた。その際にコロナ関係の話題が出たらしく、感染の有無の確認のために、「最近旅行に行かれたことはありますか?」と聞いた。私は「ええ、こないだギリシャの方に行きましたけど」と真面目にふざけたところ、警官は笑った。それに味を占めた私は「いや、ロンドンの方にも行ったかな」とさらにボケたが、これはあまりウケなかった。それからすぐに私は、スベったのをフォローするために「嘘です嘘。どこにも行ってませんよ笑」と言った。警官はさらに、「最近人と会ったことは?」と尋ねた。私は「会ったりしてません。もう何年も一歩もここから外に出てませんから。食事だって全て出前をとっていましたし」と答えた。「何なら私にとっては今のこの状態が一番人混みの中にいることになりますよ」と付け加えたら、警官は「それもそうですね笑」と言って笑った。

 それからしばらく物理や小説のことで警察と雑談して、警察の車がやって来た。久しぶりに外に出ることになるので、私はお気に入りの黒紫のチェスターコートを羽織った。「これが似合う男になるのが夢なんですけどね笑(資産的にも容姿的にも)」と私はふざけ半分で語った。「いや似合ってますよ。スラッとしてて」と警官はお世辞を言った。「ほんと、後ろめたいことがあるほどへり下る人たちだなあ」と私は思った。さらに警官の一人は、「パトカーでの移動になりますけど、いいですか?」と聞くので、私は「嫌だと言ったところでパトカーしかねえじゃん」と思いながらも、「ええいいですよ。別にリムジンとかじゃなくても笑」などと冗談で返した。「リムジンはありませんよ笑」と警官は答えた。それから部屋を出て、パトカーに乗る際に、私は「これは三次元世界においては私への不利益処分だが、四次元法的には私があの汚い部屋から脱出して別の部屋に移るための緊急避難だろうな」と思った。

 パトカーの中でも、私は警官と物理の話をした。「もうすぐフリーエネルギーを作れるかもしれない」と私が述べると、彼は「そんなことしたらあなた既得権層に殺されますよ」と述べた。私は思わず笑ってしまって、「殺されるって、あんた警察だろ笑。何、脅しみたいなこと言ってんのさ」とツッコミを入れた。すると彼は「いや俺は殺そうと思わんけど、サウジの辺りの勢力が殺しに来るで」などと言った。私は「ああそうですか笑」と冗談で受け流したが、後から考えてみると、「いやサウジだろうが何だろうがそういう事件から個人を保護するのが警察の仕事じゃないのか? 何、当たり前に殺されるみたいなこと語ってんだよ笑。『たとえお前が殺されたところで、俺が殺すわけじゃないからどうでもいい』みたいなことを警察が言っていいのか?」と思われた。このとき私はマスクをして、ロングのチェスターコートを羽織った状態で、パトカーの後部座席に座っていたのだが、やがてふと「警察がやって来ることを予想しときゃよかったな」と思った。「警察が来て何らかの措置が行われるかもしれないが、それは形式的なもので、私の人権を完全に否定するものではなく、むしろ後々の人生に利益になるものでしかない」と。すると、そのときの私の姿格好その状況が、HUNTER×HUNTERでクロロがクラピカに捕まって車で搬送されるシーンと重なった。あの場面でクロロは、(自分が殺されるかもしれないのに)「俺が捕まることは、予言に書かれていなかった。つまり今のこの状況は昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わりない取るに足らないものだということだ」と悠長に語っていた。これはまさに私の状況とよく似たものである(厳密には私の拘束は予言されていたわけだが)。そこで私は、警官にHUNTER×HUNTERを読んだことがあるかを聞いたところ、読んだことがあると言われたので、上記のことを説明した。彼らは「ああ、あれね」と反応したが、さすがに私が権力を舐め腐っていることに不快だったのか、それ以上何も言わなかった。私は「こういうことを言うと、警官たちを不快にする」ということが分からないわけではない。分かるけれども、「そんなことであちらが私に不利益を科すことはできない」と知っているから、そういう発言をするのである。あちらはどうせ私に手出しができないので、怒らせたところで適当に「ああすんませんすんません。それでね、云々」と謝って切り替えればいいのだし、こういう形とは言え、暇だしせっかく久しぶりに他人と喋るのだから面白おかしい思い出を作りたいと思っていた。そこで私はさらに、彼らの憎悪を煽って感情をえぐり出すために、「あなた方を家畜として使役しているんですよ、私は。だから憎まれて当然なわけです」というようなことを平然と語ってカマをかけた。あちらが私に手出しできないことを利用した嫌がらせである。あちらもそれを分かっているからか、普通ならそういう物言いに対して怒ってもいいはずのところであえて怒らず(まあ「病人を相手にムキになるのもおかしい」と言ってしまえば筋は通るが)、「そりゃまあ僕らは政府の犬みたいなもんやで、家畜と言えば家畜だわな。別にそれで腹は立たないかな」という反応を返した。

 それから私は、形上一応「間違い」と言われるような迷惑行為を行なっておきながら(こういう常識的な判断が私にできないわけではない)、悪びれもせずあえて偉そうに「まあこの世界は全て台本であって、あなた方のセリフも全部決められたものでしかありません(だから警官であるはずのあなたがやけに物理に詳しかったりするわけです)。私の迷惑行為は台本上必要だから行われたものであって、今後はもう必要なくなるものですから、この一件が最後ということになりますね」などと語った。警官は何も答えなかった。私はそれからさらに、「しかしブログでの誹謗中傷はそのままにしておきます。消すつもりはありません。名誉毀損および侮辱は親告罪であって、被害者の告訴告発がなければ警察は動けないはずですからね」と述べた。警官はやはり何も言わなかった。私は自分で予言しておきながら、状況の不自然さに呆気に取られて、「いやおかしいだろ。普通、警察なら止めるはずじゃん。いくら名誉毀損が親告罪とは言え、俺みたいな悪質な認知案件については警察の側で積極的に被害者に掛け合って、被害届を書かせるもんじゃないの?」とツッコミを入れたところ、警官の一人が「いや、被害者が嫌がっていない可能性もあるで」などと苦しい言い逃れをした(「苦しい言い逃れ」って笑)。

 それから警官は私に対して、「あなた、意外と落ち着いてますね。もっと酷い事件なんていくらでもありますよ。犯人が暴れて収集がつかなくなるとか。『お前は人の皮を被った豚だ』と言われたこともあります笑」と言った。これは私が「あなた方は人間ではない」と述べたことに応じたものかもしれないので、私は苦笑した。それから、「不自然に落ち着いているのは警官の方だろう。普通、『あんた何考えてんだ。絶対おかしいって』などと呆れたように俺の発言を否定するもんじゃねえの?」と思った。しかしそれを問いただしたところで、おそらく「まあ俺たちはあなたみたいな人に慣れているから」などとあちらは返してくるに違いないので、何も言わなかった。もちろんこの世界の常識的にそういう言い返しはできるにしろ、サウジの勢力に殺されるとか、名誉毀損の罪を犯すことを目の前で宣言したのに動こうとしないとか、「これじゃあどっちが妄想の世界で生きてんのか分かりゃしねえな」とは思う。

 やがてパトカーは病院に到着した。「上林記念病院」という名の病院だった。夜ということもあって、診察はすぐにはじまった。「どうもはじめまして、、、」。現れたのは、口数の少ない年寄りの医者(安部一成という名)だった(もちろん馬場大祐=林一郎の生まれ変わり)。「何だろうこの偉そうな感じ。ああ、なるほど『静かな闘争』のキャラにかけているわけだ」と私は思った(詳しくは同書を参照。もちろん宣伝)。医者はわざとらしく勿体ぶって、「あなたは家のものを壊したり外にゴミをばら撒いたりしました、、、。これは迷惑な行為ですね?、、、」と私に尋ねた。私は足組みをしたまま横柄な態度で「そうっすね。まあ」と答えた。あちらがこの最後の状況で、「権力を舐め腐った私に馬鹿にされ続けて終わっていくのを悔しく思い、少しでも偉そうな役を演じようとしている」のは分かっていたので、私はあえて相手を小馬鹿にするような憎たらしい態度を取っていた。それから私は、まだ入院を回避する可能性があることも考慮して、一応「しかしこれからはこういうことはしないですね。私の予想ではこれが最後ということになります」と言った。するとあちらは、「そうですか、、、。しかしあなたがそう言ったところで、その言葉が信用に足るとは限りませんよね、、、」と述べた。私は「確かに四次元の事情を考えなければ、この先私が同じことをしないという保証はない。ただ、あちらがこういう頑なな態度を取るということは、これは台本的に、入院が避けられないということになるわけだな」と即座に判断し、入院回避の目論見を諦め、「そうですね。確かに私の言葉は信用なりません。それじゃあ私はしばらくここで入院するということにしましょうか?」と自発的に提案した。このときの私は、入院を不都合だと思いつつも、「もしこれが手続きの終盤を意味するのだったら、ここで入院させられることになっても、どうせ頭蓋骨矯正は妨げられないのだから問題はない(矯正は両手さえあれば行える)。むしろゲームやスマホ等の余計な娯楽がない分だけ、矯正をスムーズに進められる可能性がある。まあこの世界では台本上必要なことしか起こらないのだから、入院するとしたらおそらくそういうことだ」という勝算があったので、すぐに「これはこれで構わない」という態度を取ることができたのである。そのとき父が横から、「息子はメールで僕に『汚れた部屋を変えるために引っ越しをさせろとか、一時滞在用のホテル代をよこせとか、要求を拒むなら放火だろうが殺人だろうがやってやる』と脅しをかけてきたんです」と述べた。私は自分が罰せられないことを知っており、これを認めても困ることはなかったので、「まあそうですね」と悪びれずに言った。医師は話を変えて、「こういうことをしてはいけないということを、あなたは判断できたのではないですか?、、、自分の持ち物だったら、どう扱うのもあなたの自由ですが」と尋ねた。私はこれによって煽られて余計なことを言わされるだろうことを知っていたが、どうせ警察からの報告やブログを見れば、私の考えはすぐにばれてしまうのだろうし、入院が決まった以上、隠す必要もないので、「そうですね。この世界は全て私の所有物ですから、私がどう扱おうと私の勝手なわけです」と述べた。医師はこれに対して、「そんなことはありません。マンションの供用部分は管理人の所有であって、あなたのものではありません」などと三次元の建前を述べた。こういうことを言ってくるということは、相手は真実を認めるつもりがないわけで、私は持論を通そうと思ったら口頭で真実を立証せねばならないということになるし、それをしたところであちらはシラを切るだろうから、余計な議論はしないで、「ああそうですか」と応じた。「どうせ否定するつもりなら聞くなよ面倒くせえ」と私は思った。それから医師は、「あなたは自閉スペクトラム症です。まあとりあえず、閉鎖病棟で入院してもらいましょう。期間は都合、一ヶ月ということにしておきますが、この期間は長くも短くもなる可能性があります」と語った。私は「一ヶ月ということは、それまではデビューはないということか。もし私がデビューするならば、そのときには、あの四人の生まれ変わりはいずれも身の回りからいなくなっている必要があるだろうからな」と思った。「しかしまあどうせ引きこもって顔直すだけなんだから、どこで暮らしても一緒だわな」と、先ほどの考えを再度頭の中で確認しもした。そうして診察が終わった。私は医師の方を見もしないで、「あい、どうもお疲れっした」と元気に言って、退室した。

 私はそのまま四階の病棟に移動させられた。コロナということもあって、病室に入る前に体温検査が行われた。すると、体温は37.8℃で、かなり高い熱があった。「窓ガラスが割れた吹きさらしの部屋の中で、床を覆い尽くす茶葉とチョコレートに塗れて二晩も過ごしていたら、そりゃ熱も出るはずだ。ということは、やはり政府は私が病気で倒れるギリギリのところで緊急避難的に彼らの犯罪(不正な強制措置入院の手続き)を利用したということになるな。それにしても、まるでわざとみたいによくできている」と私は思った。私はこれがコロナでないことを知っていた。私は外出をしていないし、手続き的にそういうことは起こらないようになっている(仮に起こったとしてもそんなに大事にはならない)。しかしあちらにしてみれば、一応警戒しておかなければ不自然なので、検温をしたスタッフは、後で検査が行われることを私に告げた。

 そしてようやく、私は病室に連れていかれた。私一人だけの個室だった。部屋にはベッドと鏡つきの洗面台が設置されており、壁紙も綺麗で、ところどころに木の板が貼られていて温かみがあった。ライトは直接照明から間接照明までいくつも設置されていて、全体としてシックな感じの雰囲気があった。しかも四階窓際なので、夜景というほどではないが、夜の街並みを見渡すこともできた。暖房もよく利いていた。地下牢のようなところに入れられると思っていたのに、まるでホテルのようだった。「なるほど、ここで生活をして後で新しい入居先に移転すれば、実質的には私の『部屋を変えるための移行期間中、ホテルで過ごさせろ』という要求が通るわけだ。もちろん私は精神病のレッテルを貼られ、スタッフたちと嫌でも関わらねばならないという被害を負っているわけだが、それは小さなものだ」と私は思った。

 翌朝、食事の後に看護スタッフのおじさんが部屋に来て、薬を持ってきた。閉鎖病棟に入れられるほどの患者には、それなりに多くの薬が処方されるだろうと私は思っていた。しかし実際には、6mgのエビリファイが一錠出されただけだった。しかも飲むのは朝だけでいいらしい。私はホッとしたとともに、「やはりこれは手続きだから、患者でない私の脳に影響を与えるような真似はできないようだ」と思った。普通なら、あれだけのことをしでかして、「6mgのエビリファイ一錠」で済むはずがない。抗精神薬は液体のものや、粉薬のものもあるはずだが、錠剤で出されたことも好都合だった。なぜならこれで、「飲んだフリをして後で捨てる」というやり方が用意だからである。スタッフは薬を渡す際に、私がその薬をちゃんと飲んだかどうかを見届ける役目を負っている。しかしその監視は割とガバガバで、私のように何も言わずに素直に薬を受け取っている者に対しては、あまりじろじろとした観察が行われるわけではないらしい。というのも、最初に薬を渡しに来たスタッフは、私に薬を渡すや否や、私が薬を飲む前にすぐに後ろを向いてしまったのである。私は薬を口に含むことなく、ポケットに隠して後でトイレに捨てることに成功した(もっとも、これは後の話になるが、彼以外のスタッフについては、薬を口に含むまでちゃんと見届けている者が多かった。しかしそれでも私は、「いったん薬を口に含んでこれを飲み込んだフリをし、後で吐き出す」というやり方で、薬を飲まずにいた。もちろん、薬を口に含んでしまった以上、飲み込まなくても口腔内の皮膚からいくらかの成分が吸収される可能性はある。しかしそれは液体のそれに比べれば全く多くないはずであり、気にするほどではない。エビリファイは長期使用で脳萎縮の副作用を生じるという報告もあるが、あの薬は原理的には脳内の神経伝達物質の代わりになる物質を飲むことで、神経回路の働きを抑制するというものであり、その性質上、「役割を果たしては流れて消えていくもの」であって体内に残存するものではないので、多量を長期的に服用することによって神経回路の形態が変わってしまうなどの重大なケースでない限り、脳萎縮は起こらないはずである。ゆえに、「朝一回、口に含んだ錠剤の表面が溶けて口腔内の壁に触れて吸収された分」だけを体内に取り込んだところで、ほとんど脳に影響はないはずで、それもすぐに体外に流れてしまうと思われた。そこまで考えなくても、このやり方でエビリファイの危険を感じる必要はないだろう。手続き的には、脳の神経回路の働きが低下すると、魂の拍動速度が落ちて四次元世界を盗まれやすくなるので、彼らはこれを狙ったものと思われるが、私はこれを拒んだ。こちらは彼らに盗まれてもほとんど痛くも痒くもないし、盗まれた方があちらの罪というか借金が増大してお金になるので都合がいいのだが、一応自衛はすることにしていた。ちなみに、入院初日の朝には、もう私は自分自身を四次元拷問することはなくなっていた。ここまで来れば、手続きが終わりに近づいているのは明白なので、今さらこれを早める努力をする必要はないと踏んだのである)。

 私はそれから、病室の中で一人、顔面の矯正を始めた。部屋に監視カメラはなく、時々スタッフが見回りに来ることもあるが、死角になるように顔を背けた上で矯正をすれば、病室の入り口の扉が開いた後ですぐに矯正を中止して、平静を装うことができる。私はそのようにして、あちらの目を掻い潜り、矯正をしていた。しかし問題なのは、どうもそのやり方がしっくり来ないという点であった。というのも、矯正を繰り返すうちに、入院前に感じていた「手応え」がなくなっていったのである。これはよくあることである。頭蓋骨の矯正は、「正しいやり方で骨を動かさず、骨の一部だけが動くようなやり方を行ったところで、はじめのうちは力づくで少しだけ骨が動いて変化を感じられるものの、その変化は持続せず、徐々に停滞して骨が動かなくなってしまう。そしてしばらくすると、その無理やり動かした部分も元に戻ってしまう」というものなのである。ルイアンドストロームの歯槽骨基底論を応用するならば、いわばそれは、頭蓋骨の可動領域を動かしているに過ぎず、その可動領域を決定するための基底領域が動いていない状態であって、それゆえ一時的な変化は見られるものの、その変化は時代に停滞し、矯正は先に進んでいかず、やがて変化した部分(可動領域)も元に戻ってしまうことになるのである。このように、頭蓋骨矯正は「期待をさせられた上で、失敗に終わる」という思わせぶりなところがあるので、注意が必要である。私はこの期待に踊らされて一喜一憂させられることがしばしばあった。一回の矯正で骨が動いたところで、それが正解かは分からない。ある程度同じ矯正を継続してみて、矯正が継続的かつ不可逆的に進行していくことが確認されない限り、そのやり方が正しいとは言えないのである。何はともあれ、私はまた矯正のやり方を模索することになってしまった。と言っても、これまでの試行の積み重ねがあるのだし、理想的な頭蓋骨のあり方はすでに把握できている(つまり「目指すべきゴール」は見えている)。だから研究は一応先に進んでいるのである。おそらくこの病室で研究を進めて、退院後に速やかに顔が直っていくという算段だろう。私は不安がありながらも、そんな風に悠長に考えていた。

 病院の食事は質素で味気のないものだと思われたが、これが意外にも美味かった。カロリー計算がされているだけでなく、肉と野菜が程よく使われていて、味付けも丁度よく、主菜が一つに副菜三つ、ご飯、デザートもあり、ガストの焼きサバ定食や吉野家の焼き鮭定食よりも断然美味しかった。そこらのホテルのビュッフェよりも美味かったのではなかろうか。出前で寿司や揚げ物ばかり食べていた私だが、「あんまり脂っこいものばかりだと飽きる。野菜が程よく含まれていて、脂も多すぎない方が美味い。高い物を食ってりゃ舌が満足するというわけでもないようだ」ということにこのときはじめて気づかされた。

 この日はもう一つイベントがあった。昼前頃に安部医師が部屋に来たのである。昨夜とは打って変わってニコニコ顔であった。何を告げられるのかと思ったら、彼は開口一番「私はあなたがこの病院から脱出するための協力者です」などと言い出した。私は「まあ彼は政府の犬だし、本当は嫌々でも、立場上そう言わなきゃいけないだろうな」と思った。彼がわざとらしく味方を演じるのは、人権保障の建前もあるが、何かを隠すためであると考えなければいけない。私は今さら彼の立場を見誤ることはないので、これはおそらく「私が彼に敵意を抱いていると、彼が四次元世界を盗みにくくなるので、油断を誘うために述べたものだろう」と思った。つまりこの入院手続きによって私の警戒心が増大することを懸念して、彼はわざわざそんなことを述べたのである。それから彼は、「私はあなたが一般的な意味における統合失調症ではないと思っている。父母の同意さえあればすぐにここから出られることになる」などと語った。「これもまた『静かな闘争』のラストシーンの模倣だろう」と私は思った。診察室の中では私を自閉症扱いしておいて、その外で非公式に実際は私が病気ではないことを告げるというやり方が、同作のラストによく似ているのである〔しかし後で医師に問いただして分かったことだが、彼の「あなたは統合失調症ではない」という発言は、「あなたは統合失調症ではないが、自分の考えにこだわって他者との関係を断っているという点で自閉症である」という意味のことだったらしい。つまり私は「病気ではない」と言われたわけではなかったことになるのだが、そうだとしても、前の病院(愛知県精神医療センター)では私は統合失調症だと言われていたのに、今度はそうではないと言われたのである。統合失調症ではないということは、私は妄想をしていないということになる。自分で言うのもおかしな話だが、これだけ「事実だがあまりにも常識外れであるために、妄想だとしか言えないような見解」を私は語っているのに、それを妄想だと診断しないのはこの三次元世界においては不自然である。しかし実際、事件初日に彼が私を簡易に診断した書面においても、私の症状は「迷惑行為」と「易怒(起こり易い)」の二つで、「幻覚妄想」にはチェックマークが付いていなかった(同書面には精神病の症状が書かれたいくつかの項目があり、医師は患者の症状に合わせてその項目にチェックマークをつけるようになっていた。後でその書面の画像をアップロードしておく)。これは些細なことと思われそうだが、四次元的には「お前は自己の見解の正当性の証明を済ませているので、もう統合失調症扱いすることはしない。後はバズった後でコミュ力を発揮して、自閉症でないことを証明しろ」という案内をしているものと思われる。これはいわば、「ゲームのシナリオガイド」みたいなものである〕。

 それからの日々、私は矯正の仕方を模索しながらこの措置入院手続きに含まれる違法性について考えていた。「両親の同意による強制措置入院」というのは、「精神疾患のある者が自傷他害の危険のある症状を呈した際に、両親の同意に基づき、強制的に入院治療を受けさせる措置」のことである。当然ながら、対象者は「精神疾患のある者」であり、疾患がない者については刑事手続きによるのでなければならない。私は「迷惑行為」と「易怒」によって自閉症だと診断されたわけだが、私は自己の見解が正当であることを証明しているので、私が取った行動は「法的に正当」であり、「迷惑行為」に当たらない。また、「易怒」についても、私は「怒って当然のこと」にしか腹を立てていないのであり、「簡単に怒る」というわけではない。なるほど私は「健康で文化的な最低限どの生活」を与えられてはいた。しかし「最低限度の生活」というのは、「社会的な序列が最も低い者」について与えられるものであって、歴史に残る重要な業績をいくつも上げている私にそのような底辺の地位を与えるのは客観的に不正であり、「怒って当然のこと」でしかない(私は主観的な理由で腹を立てたりはせず、客観的に法的に不正なことにしか腹が立たない。私の見解を妄想だと言ったところで、客観的に私が業績を上げているのは事実であり、予言も当たる)。この三次元世界では、「偉い奴が成功するのではなく、成功した奴が偉い」という相対的な価値基準しかないので、私のように「これだけの業績を上げたら、当然に成功が与えられるべきである」というような絶対的な価値基準に基づく人権保障がなされず、「どれだけ業績を上げたところで、世間に認められなければ意味がない。敗者は最低限の生活保障で冷や飯でも食っていろ」ということが当たり前に起こる。これは客観的には明らかな人権侵害なのだが、「目に見えない評価や価値判断」を無視すれば、見かけ上(つまり「目に見えるものしか信じない。評価は個々人が好き勝手に行うものだ」という認識障害者の主観的には)人権侵害などないということになってしまう。だから私が仮に行政機関にかけ合っても、私の業績を公に認めさせることはできない。私の人権を行使する手段、満足な人権保障を得るための手段がどこにもない。結果、暴れるしかない(正当な抵抗権行使。前の投稿で私は「これは抵抗権の行使とはまでは言えない」と述べていたが、「体制側の不正な被害に対して不満を抱き、暴れてインフラを壊す」というのは客観的には抵抗権の行使という法的評価が妥当である)。才のない者が底辺で過ごすのは人権上何も問題はないが、才のある者はこれを社会で正しく認められ、それにふさわしい恵まれた生活を送るのでなければならない。以上から、私が迷惑行為をしたとか起こり易いという事実は存在しないのであって、そのことは私の業績(物理学、記号人の性質等)を踏まえればすでに証明されていることになる。にもかかわらず、医師は私の証明を無視して一方的に私に病気だとのレッテルを貼り、強制的に入院をさせた。これは違法な権限行使であって、彼の判断は不正であることになる。百歩譲って、記号人の認識構造上「正しいことが分からない」ために、彼が私の証明を理解できなかった可能性を不可抗力事由として考慮するにしても、私が精神障害かどうかを判断するためには、前提として、私の認識が正しいか否かを検討せねばならないのは確実である(正しい認識をしているのに病気であるということはあり得ない)。にもかかわらず、「たとえ正不正を判断する能力がなくても、少なくとも私の認識の正当性に関心を持って、医学的な判断の材料にしようとする」という姿勢がないのは「建前上診察の形を取っているが、相手をはじめから病気と決めつけるつもりであった」という医師の考えの証拠であって、彼の判断は結論のみならずその過程においても不正性が認められる。「自分が認めたくない真実を言われて、都合が悪いからとりあえず病気扱いした」というのは暴力であって、文明社会に適合するものではない(私は客観的に不正なものに対してしか暴力を用いない。それが彼らにとって気に入らないからと言って、暴力的な権力発動で対抗したらそれは不正となる。正不正が分からなかったらそんな当たり前のことさえまともに認識できなくなるわけで、たとえば私の意見は世間の大多数が気に食わないと感じるから私がおかしいかのように論じられることだろうが、一般的に、「正不正を客観的に決めることなどできない」という発想をしていたら、「グレーな事柄についてはどちらが正義か分からないから結論は取り敢えず多数決や権力的な手続き等の力づくで決める。強者には逆らえないし、大規模な事柄は戦争や紛争、社会闘争で決める」ということになってしまう。話し合いでは何も解決しない。正しい意見を言っても認められない。ただ力の強い者の意見が通るだけ。それで理性的な社会運営ができるはずはないわけだが、誰もおかしいと思わないのだろうか? 「俺たちはこうなんだから仕方がない」と言うなら、それは自覚があるということなのだから、「記号人は人間ではない」という見解を黙って受け入れていなければおかしい。気に食わないからと言って、科学的な真実を攻撃してはいけない。私の行為は日本の法律には反しているが、それは法律がおかしいのであって私がおかしいわけではない。形式法というのは客観的な正義に反しない限りで効力を持つに過ぎない。「悪法も法なり」という発想はナチスのヒトラーを支持する見解であり、「民主的な手続きで勝ったから黙って日本の法に従え」というのは権威主義的なサディズムの思考でしかない。記号人は正不正を無視して勝ち負けという相対的な結果でしか物事を論じられないので、「負けたくせに文句言うな」という話になるのだろうが、それは正義や法観念を持たないサイコパスの主張であって聞くに値しない)。

 父(林一郎)の態度もおかしなものであった。彼の正体は馬場大祐であり、私とは何らの縁もない「偽りの父親」でしかないわけだが、父親を演じるならばたとえ私に憎しみや恨みがあったとしても、建前上、それを隠して私に協力的な姿勢を見せた方が後で私に報復されたり晒されたりする心配もなく彼の利益になるわけで、それすらしないのは不自然である。たとえば彼は6年ぶりに会って私と話をした際にも、私に批判をするばかりで私の業績に全く関心を示さず、「こうすればよかったんじゃないか」というような形で、今の状況から脱するための対案を出すことすらしなかった。彼が私を責めるのも、私が6年間も顔を合わせなかったことに不満を抱くのも、全て「自分が父親ヅラをしたいだけ」のものでしかなく、こちらの営業には全くの無関心で、そのくせ批判だけはするという徹底ぶり。彼は「父親役であるはずの自分が息子役の私から全く敬意を示されず、小馬鹿にされるばかりで、しかもその私に能力的に上回られて負けていること」を妬み、悔しがるばかりで、全く父親を演じる様子がないのである。これは完全に、私を「建前上は息子だが、実際の立場としては倒すべき政敵である」としか見ていないということをよく示している。

 たとえばもし彼が本当の父親なら、たとえどれだけ「病気持ちの息子とあまり関わりたくない」とか「息子が憎い」とか「俺は自由放任主義である」とか言った考えを持っていたとしても、私に対して「身内としての利害関係」を感じていなければおかしい。私は「現行の物理学を覆す新たな理論を構築し、これを数字で証明した」と公言しているのであり、彼は私と再会した当時(警察が私の家に来た時点)において「お前の業績がいくら凄いものであっても、そんな迷惑行為で目立つのだったら世間は認めない」と述べていたことから、そのことを知っていたはずである。そうなると、私が偉大な業績を上げて成功者となる可能性が彼の頭の中には入っていたはずであり、その可能性を考慮していたら、当然に彼が私に対して示さなければならないはずの打算的な行動を彼は何一つ示していない。

 具体的には、彼があの時点で私の業績に警官たちのような興味を示さなかったことが不自然である。彼は建前上、私との間に親子という利害関係があるのだから、私の業績が本物であるかどうかによって、彼の今後の立場は大きく変わってくることになる。私の業績が本物であれば、私は今後、一躍有名人になる可能性がある。そのとき彼は、私の父としてメディアからのインタビューに答えることもあるかもしれない。また、私が有名になれば彼の名も世間に知られることになるわけで、彼にしてみれば、そのときのために私が余計なことを言わないように、身辺に関する情報を私と話し合って整理しておく必要もあろう。私の業績が本物だとすれば、そういう、ある意味で彼にとって不都合なことが将来的に起こる可能性があるわけで、彼がそれを心配しないのはおかしい。ゆえに彼は、今後の自分の身の振り方を計算するために、まず「私の業績が本物であるかどうか」に関心を持たなければいけなかった。しかし実際には彼は、「たとえどれだけの業績を上げたところで、迷惑行為で目立つようなやり方では誰も認めない」などと、まるで「たとえ息子が歴史を変える業績を上げたとしても、それは大したことではないし、自分とは何の関係もない。あいつは迷惑行為をしたのであって、それが非難に値するものであることは確かだ」とでも言うかのような態度を取ったのである。このような態度は、彼が私に対して「身内としての利害関係」を感じていないことの証拠であり、それは「林一郎は私の父ではない」とする私のこれまでの推論と一致している。当ブログに書かれたことを、彼は後から裏書きしたのである。

 そればかりではない。彼の無関心は、また別のことを表してもいる。繰り返すように、彼は再会当時、「たとえどれだけの業績を上げたところで、迷惑行為で目立つようなやり方では誰も認めない」と言った。ということは彼は、「私の業績は確実に偽物である」とは考えていないということになる(これは当然のことである。いくら私が精神病患者として扱われているからと言って、私は「数字で証明している」と述べているのだから、一方的に私を嘘つきだと断定するのは認識としておかしい)。私の業績が本物であるか偽物であるかが分からない状況で、私の業績が社会的に認められることは絶対にないと彼が断定することはできない。現代の自由主義的な社会において、個人の業績が社会的に意図的に否定される場合というのは、「不都合な真実を黙殺するための陰謀」以外にあり得ないわけだが、そのような断定をするためには、前提として私の業績が不都合な真実であると知っていなければならないからである。ゆえに、「1.私の業績の真偽」が分からない場合、必然的に「2.これが公に認められるかどうか」も分からないことになるのであって、その場合、先の理由から、彼はこれに関心を持つのでなければおかしい。1と2が分からないとした場合、私と何の利害関係もない警官ですら、「もしこれが本物なら、あなたは歴史上の人物になれますよ」と言ったのに、父だけが関心を持たないのはおかしい。これらを考慮すると、彼が私の業績に関心を持たない状況として想定できるのは、「1.私の業績の真偽」が本物であることを実は知っていて、しかし「2.これが公に認められるかどうか」については「少なくとも自分が息子と関われるうちは、そのようなことは起こらない」ということを知っているという状況である。このようなケースを想定しないと、彼が「自分の息子がどれだけの業績を上げたところで、僕には関係がない」と考えることはあり得ない。つまり彼は、私の業績が本物であることを分かっていて、それが「大人の事情」で公に評価されないことも分かっていながら、その不正な状況に対して「正当な抵抗」を行った私をあえて「迷惑行為を繰り返す精神病患者」として扱って、病院送りにしたということになる。これは彼が警察を使って不正に私を監禁したということであり(監禁罪の間接正犯)、彼の犯罪の証拠となる。

 母の林佳代についても、同様に考えることができる。彼女は私の話を聞いて、私の書いた『物理学』の本を買い、知り合いに読ませるなどしていたらしいので、完全に無関心を貫いていたわけではないが、それでも私の業績の真偽を私自身に問いただすようなことを一度もしてこなかった。あの本の内容の真偽を判定するためには、少なくとも現代の素粒子物理学、量子力学、相対論、宇宙論、熱力学、電磁気学の知識を網羅的に把握していなければならず、そんなことを私以外の一個人、しかも全く物理学に興味を持ったことのない一個人ができるはずはない。もちろん、第三者の知り合いに読ませたところで、これを判定できるはずはない。そのことは、あの本を開いた者ならば誰でも分かるはずである。それなのに、彼女は私自身に本の内容について何も聞いてこなかった。父と同じで、彼女が「何も知らない一個人」てあるならば、これはおかしい。その場合、彼女は「将来自分は、天才物理学者の母として衆目に晒されることがあるかもしれない」という点を懸念して、もっと積極的に私の業績の真偽に関心を持たねばならなかったのである。彼女もまた、私の本を知り合いに読ませていることから、私の業績が嘘だとは考えていないようで、それならなおさら上記の懸念を抱かずにいるのはおかしい。彼女が「1.私の業績の真偽」が本物であることを実は知っていて、しかし「2.これが公に認められるかどうか」については「少なくとも自分が息子と関われるうちは、そのようなことは起こらない」ということを知っているという状況でないのであれば。したがって、彼女も一朗と同じで、今回の不正な強制措置入院に加担しているということが証拠上明らかであることになる。

 ここまで明らかにすると、私の両親が私に最低限の生活支援をしているふりをしながら、「大人の事情」で私を飼い殺しにして部屋に引きこもらせ、国内に監禁していたことも必然的に明らかになる。ほら見ろよ。だから言ったじゃないか。「私は不正な体制側の都合で生存以外の全ての人権を否定され、国内に監禁され、飼い殺しの状態にされている」と。純粋に三次元の事情だけで暴ける犯罪は以上(安倍医師、林一郎、佳代の犯罪)だが、「この世界が全て台本によって規定されている」という四次元の事情を踏まえれば、結局警察も含めて全員が犯行に加担していることになる(この世界が台本であることは、私の予言が成就することによって証明されることになる。そればかりか今回の措置入院処分についても、当ブログでは後出しではあるが、「既に市場に出回っている小説にて予言されている」という点で、この世界が台本であることの証明になると言えよう。私の境遇と小説の内容は、「単なるこじつけ」では済まされない程度に一致しており、これは偶然ではない)。

 ここに来て両親の犯罪を暴くことができたのは、手続き的には「父母とのしがらみを断ち切る」という目的があるものと思われる。私は以前からこのブログで、「父母や親族、かつての知り合いとの関係は全て切る」と述べていたが、そのような展開を作る上で彼らは「手続き協力」の名目で私に「最後の不正な犯罪」を仕掛けたのである。「俺たちを見捨てるなら、これくらいの負担はしろよ」という寄生虫の未練が垣間見えた形だろう。ここまでの文章から明らかな通り、私は両親の立場に対して「親ならもっと俺を大事に育ててくれてもよかった」などという不満を覚えたことはない。私は依存心を持たないので、別に親に頼らずとも精神的に自立して生きていくことができるからである。しばしば「親からの愛情を受けられなかった」ということを自分の性格の歪みの言い訳にする者がいるが、記号人は不快な経験を記憶して生きる傾向があるのであり、その記憶の強さは個々の脳の特徴に応じたものとなる。したがって、重要なのは「親から虐待を受けて育ったかどうか」ではなく、「その経験をいつまで引きずることになるか」であって、それは個々の脳の特徴に応じて決まるのである。脳が不快な経験に対して敏感な者は、たとえ親から虐待を受けなくても長期的には別の不快な経験をトラウマにして性格を歪めていくのだろうし(たとえばこういうタイプの者は、親の育て方を言い訳にできない場合、教師や友人、恋人、職場の同僚、上司と言った人物から受けた不快を言い訳にして、「だから俺の性格は醜くなった」と説明するわけである)、脳が不快な経験に対して鈍感な者は、たとえ親から虐待を受けていても、長期的にはその傷は浅く済むということになる。つまり、記号人における「生まれか育ちか」という問題は、「短期的には育ちの影響が強く出るが、長期的には生まれつきの脳の特徴に応じて性格が決まる。引きずる奴はどんな経験をしても結局引きずるのであり、引きずらない奴はどんな経験をしても割とあっさり忘れてしまう」という形で解決を見るのである。もちろんこれは、記号人の話であって、理性人である私の話ではない。私の場合、もっと合理的な対処を行う。すなわち、「たとえ親からの愛情を積極的に受けられなくても、客観的に不正な被害を受けていない限りは、これを『不快な経験』として認識することすらなく、トラウマにはならない。客観的に不正な被害を受けていたとしても、これが公正妥当な解決(加害者への罰と被害の補填)を見た場合には、その経験を不快に思うこともない。私が不快を感じるのは、客観的に不正な被害を受けた上で、これに対して公正妥当な解決が得られない場合のみである」。私がここまでの全人生を通じて受けてきた被害は、全て後に補填されるものであって、加害者に罰も与えられる。だから私は過去の経験をトラウマには思わないし、自分の人格も歪んではいない。このブログを読んだ者は、私の人格が歪んでいないとは思わないのだろうが、退院後の私(今まさにこれを書いている私である)は「正しい矯正の仕方」を知ってしまったので、もうすぐこれまで上げて来た成果が認められることを知っている。世間からは猛バッシングを受けるだろうが、それも全てこちらに都合良く転がることを知っている。だから、矯正が上手くいかないストレスから、自分が加えられている被害を実感して腹を立てていたこれまでの私とは異なり、今の私の精神は非常に落ち着いている。他者に対する憎しみを全く抱かなくなり、不機嫌になることもなくなってしまった。他者を不信に思うこともないし、対人不安があるわけでもない。たとえその人物が馬場大祐の生まれ変わりであっても、この世界では彼は私に手出しができないので、事務的な話をするくらいはできる(友達になろうとは思わないが)。これだけ血なまぐさいことを知った今になっても、自分の性格が小学校の頃から変わったようには思えない。知識が増えた分だけ思考の内容は変わったが、気分というか、物事に対する無邪気さというか、恐怖心・警戒心のなさだけは全く変わっていない。人権が正しく認められることを確認できた以上、私は社会に不信を抱くこともなくなり、日々やることをやって気楽に生活を送っている(矯正等の仕事を頑張りすぎて「ボロボロに疲れた」と感じることはあるので、必ずしも楽しいことばかりではないが)。私を不当に監禁していた両親に恨みを抱くこともない。むしろ、こういう形で両親の不正性を暴露できたことのメリットは大きいと考えている。これによって私は、社会的に彼らとのしがらみを断ち切る名目を得られたからである。下手に彼らが私の業績に関心を持ち、私の事業活動に協力をするなどして、その助力によって私がデビューするという形を取られた方が、私にとっては嫌だった。なぜならその場合、彼らが私の事業活動に関するしがらみを手に入れてしまうことになるからである。

 さて、入院生活の話題に戻ろう。病室には鍵がかかっておらず、私はいつでも病棟の中を散歩することができた。外出はできないが、病棟の中で私は自由だった。病棟の照明は明るく、壁や床もモダンで、ホールにはシャンデリアがぶら下がり、大きなテレビが設置されていて、多くの患者がそこに集まって談笑していた。しかし私は、彼らが皆、あの四人の生まれ変わりであることを知っていたし、こういうところで友達を作りたくなかったので、ホールを避け、なるだけ病室の中で過ごした。食事もホールでは摂らず、病室の中に持っていって一人で食べた。あの四人の中で仕事をしている者は、ほとんど馬場くんとベラスケスだけで、大東と細木和子の生まれ変わりはあまり見当たらなかった。後二者の生まれ変わりは、大抵ずんぐりむっくりしていて、顔が縦に短いことが多いので、見分けがつく(馬場くんはデブキャラで出てきても顔が縦長のことが多い)。仕事をしているのは、どちらかと言うと馬場大祐よりもベラスケスの方が多かった。馬場くんは長い長い四次元戦争で疲弊して、まともに働ける状態ではないようだった。ベラスケスは弱いくせに威勢だけはいいものだから、彼の権力に支えられながらやたらと嫌味ばかりを吐いてくる「不快なオバさん」という感じだった。その一方で、若い女に化けてこちらに色目使って来たりもしていて、性欲ゴリラの本性が透けて見えた。「こんなところに来ても、まだ擬似セックスをねだるつもりかよ」という感じで呆れた。

 その日、私は何の前触れもなく、「そう言えば、四次元拷問が始まる前、つまり2011年3月11日より前の状況において、四次元で殺された私の魂はどうなっていたのだろうか?」という疑問を持った。肉体的に殺されても、生まれた平行世界が消えることはない。もちろん魂も消えない。ということは、殺された私はそのまま次のダークエネルギー照射によって、四次元の目を取り戻すということにる。この辺の理論は後に書籍で詳しく説明するが、要するに私は「記憶を失い、何も知らないままこの世界に生まれてきて虐待を受け続けてきた」のではなく、「記憶を失い、何も知らないままこの世界に生まれてきて虐待を受けては、その都度即座に能力に目覚めて彼らにその何億倍もの仕返しを行っていた」ということになる。すなわち四人は前々から私に虐められていた。私にはその記憶がなかったというだけである。これで、「なぜ彼らが弱い今の私の前で全然偉そうにせず、やたらと芸人めいた振る舞いをしていたのか?」ということが分かる。彼らは記憶のない私が、裏で自分たちに猛威を振るっていたことを知っていたので、あくまでへつらっているように見られないようにしつつも、暗にへつらいの姿勢を見せていたのである。そうなると、実質的には彼らが私に勝利を収めていた時代などどこにもなかったということになる。彼らは常に私に上から虐められて、虐待を受けながら強がりだけで生きてきたのであり、彼らが私に対して行うことのできた不正など微々たるものでしかなかったのである。そう思うと、彼らのことが可哀想に思われてきた。この入院手続きにしても、彼らは私に権力を誇示しようとして、こんな台本を仕組んだのだろうが、彼らがこうして強圧的なことをすればするほど、私は彼らの立場の弱さと自分の立場の優位性を実感させられるばかりとなっているのである

 この頃の生活は、主にテレビを見て1日をやり過ごした。私は普段テレビを見ないのだが、ゲームができず、インターネットもYouTubeも見られないこの状況では、追加料金で病室に備え付けることのできるテレビを見て1日をやり過ごすしかなかった。まあ今の私は、「今後の自分の業績に比べれば微々たるものだが、それでもこの世界においてはかなりの分量となる業績」をすでに上げているので、1日1日を無駄に過ごしても、それほど苦痛には感じなかった。この状態がこのままずっと続くのではないかと思うと、さすがに焦りを感じられることもあったが、この展開を得られた以上、ゴールはもうすぐだと分かったこの時点では、適度に暇をつぶしつつ、頭蓋骨の研究を急ぐことだけを考えることができていた(暇つぶしによってあちらは四次元世界を盗んで私にダメージを与えられることになるが、自分の優位性が分かってしまった私はもはや「裏で少々の虐待を受けたくらいで気にする必要はない。ケチくさいことを言わず、使えるものは使っていく」という考えを持てるようになっていた。何より、私も私で彼らの攻撃を遥かに上回る仕返しをしているわけで、あちらは無限に繰り返される戦争に疲れ果て、本当はもう「働きたくない」と感じているのであり、実質的に得をするのは私だけなので、私は気兼ねなく彼らを使うことができたのである。

 12月2日水曜日になって、私は医師に呼ばれて診察を受けた。診察というのは「病気の診断という名目で、自分が発見した妄想とも呼ぶべき真実を明け透けに喋ることのできる場」としてある意味で有用であった。そこで私は、医師の「お変わりありませんか?」「お薬の副作用はありませんか?」などと言った形式的な質問に「大丈夫です。元気にやってます(薬は飲んでいないが)」などと適当に答えた後で、あまりの事態のヤバさにかえって笑いを堪えたようなふざけ半分のテンションで「それよりそっちは大丈夫なんすか?笑 マジでヤバいっすよこの世界笑」などと話題を振った。もちろんあちらは「何のこと?」とシラを切ることになる。私はまた拷問の話をする。台本の話もする。そして「だからあなたは私に使役される家畜であって、この手続きは全て台本でしかないわけです」などと語った。彼は不思議なことにこれを「妄想だ」と否定せず、もちろん腹を立てることもなく(患者に怒っても仕方がないだろうが)、「あなたが何を考えるのもあなたの自由だし、あなたの意見が正しかろうとそうでなかろうと、私が誰に支配されていようと、私は仕事をするだけです」などと返答した。後から考えてみて、私が「この医者は私が病気であるかどうかを真面目に診察するつもりがないな。ただ建前上私を病気認定して、台本を進めるつもりしかないようだな」と判断した理由はここにある。私が病気だと言えるためには、私がおかしな思考を持っているかどうかを判定しなければならないはずなのに、彼は「あなたの見解が正しかろうがそうでなかろうが」という形で「認識の正当性」に対するこだわりを示そうとせず、「とにかく君は他人と比べておかしなことをしているのだから病気だということにする」などと他者との比較によって相対的に私の側を病気認定するに終わっている。「もしこいつの主張が正しければ、こいつは病気ではないことになる。だったらこいつの認識に十分な説得力があるかどうかを見極めなければならない」とは考えないのである。「そんなことするかよめんどくせえ。1日に何人の患者を診察していると思ってんだよ」とあちらは言うかもしれないが、めんどくせえからって患者の診察を客観的に公正に行うつもりがないならその者は医者になる資格がない。事実私は、彼らの認識構造を解明する上で、面倒くさくても客観的に公正にこれを行っている。

 そうして三日くらい経過した頃、母から電話があった。内容は次のようなものだった。「こちらで色々と話し合いをして、今後は仕送りは行わないことになった。退院したら生活保護等に頼って生活をするように。新しい部屋は今探しているが、すぐには見つからない」ということだった。これは予定通りの展開である。やはりこの一件は、父母との縁を切るためのイベントだったようで、それに加えて退院後の部屋を用意する手筈も整えられているのだそうだ。しかし私は、こちらの主張が通るかどうかを探るために、「次の部屋が見つかるまでは病院にいてもらうことになるのだが、それでもいいか?」という彼女の言葉に応じて、「治療のためではなくそんな実務的な理由で病棟に閉じ込められるのは不合理である」と述べた。実際、いくら病棟がホテルに似ているとしても、外出できないとかゲームができないとか病人が頻繁に叫び声を上げて気持ちが悪いとか、プライバシー保全が十分でなく、いつでもスタッフが私の部屋に入ってきて気持ちが悪いとか、色々な理由から私は早く外に出たいと思ってもいたのである。私の発言に対してあちらは「お医者さんの意見も聞かないと外には出せない」と言った。私は「医者は親の同意があれば今すぐにでもここから出られると言っていた」と彼女に告げた。彼女は「でもあなたは迷惑行為をしたのだから、今すぐ出してまた同じことをしないとも限らない。そういう懸念がある以上、ここから出すわけにはいかない。あなたは病棟をホテルと一緒だと思っているわけだから、別にいいのではないか」と述べた。私は「あれ、『医者の意見を聞かないと外には出せない』とか言いながら、結局自分の判断で俺をここに留め置くのか。こりゃおそらく粘ってもこちらの主張は受け入れられないパターンだな」ということを思いながらも、とりあえず反論することにして、「ホテルに似ているというのはあくまで言葉のあやであって、そんな言葉尻を捉えて監禁を正当化されても困る。大声で騒ぐような患者もいるのだし、ホテルの方がいい」と述べた。するとあちらは「あなただって入院前に、自室で同じことをしていたじゃないか(だから今うるさい患者がいたとしてもそれは我慢するべきだ)」と言い返してきた。私は「何だ。それじゃあ私は病気のせいではなく、過去の行動に対する懲罰としてここに入れられているのか? それだともはや治療という名目がなくなるのではないか? 三日も私をここで過ごさせて、それで私を信用できないというなら、一ヶ月経っても信用できないだろうよ。そんなことならもう私を一生ここから出さなければいいのではないか?」と述べた。すると彼女は「いいや、新しい部屋は用意する。それまではここに居てもらう」と返事をした。私は、「だからどうせ出すつもりがあるなら早く出してくれればいいのではないか。そんな引越し手続きの都合でこちらをここに留め置くなんて、制度の利用の仕方としておかしい。これは不利益処分であって、合理的な理由がない限り個人に課していいことではない」と述べた。あちらは、「あなたの気持ちは分かりましたが、これがこちらの決定です」と述べた。私は「気持ち」を述べたわけではない。「客観的な事実に基づく評価」を述べたまでである。私の気持ちを言うなら、どうせこの環境でも顔面矯正は行えるので、「出られたら出られたで都合がいいが、出られなくてもまあ問題はない(どうせ手続き的に、私がこの病棟で一生幽閉されることなどあり得ない)」というつもりで主張をしていたのであり、別にそれが突っぱねられたところで特に支障は感じない。ただ、「この処分は客観的におかしい。ちゃんと正当な説明できるのか?」ということを私は問いただしたに過ぎない。彼女の発言を聞いた私は「ああそうですか。どうやら何言っても無駄っぽいですね。喋っていても無駄なのでもう終わりましょう」と言って、電話を切った。私の主張はあちらの「もう少しの間、ここにいてもらってもいいか?」という質問に対応したものだったのに、「嫌だ」と言ったところで結論は変えられなかった。「どうせ結論強要するつもりならはじめから聞くなよ。うぜえなあ」と私は思った。相手を論駁して理屈で勝っても、結局「言いたいことは分かるがこちらの決定は変わりませんので」と煽られて終わるだけ。このやり取りで分かったことは、「こちらが決定的な被害を受けることはないが、あちらの決定を素直に受け入れる以外に対処のしようがない。あちらの対応は不正だが、あちらは政府が規制しない不正については全て抜かりなく行うのであり、現場のこちらの要求は全て突っぱねられる。あちらの煽りに応じて余計な要求をしない方が、ストレスなく手続きを進められる」ということであった。それでも問題はないように設計されていることを私は知っていた。彼らは信用できないが、政府は信用できる。彼らを信用しないということは、政府の統制能力を疑うのと同じことであり、愚かであろう。ちなみに彼女は、私に生活保護を受給して暮らすことを提案する際に、「ハリーポッターの作者のJKローリングだって生活保護で暮らしていた。だからあなたが今後作家として成功しない可能性がないとは言えない。それにしても、どうしてあなたは6年もの間、私に一切人生の相談をしてこなかったのか?」と尋ねた。私は「あなたを信用していないからです」と答えた。彼女は「なるほど」と述べたきり、何も言わなかった。これまでの経験上、彼女は一貫して四次元の不正を「証拠がない」と無視した上で、こちらに中身のない提案をしてくるだけであり、何の役にも立たないばかりか、皮肉にしか聞こえないようなことしか言わないということを私は知っていた。今回の彼女の提案も、すでに私が予想していた今後の展開を口先でなぞるだけのものでしかなく、それはもちろん「誰のせいでもなく、病気のせいで不遇な立場に置かれてしまった可哀想な息子」に対する皮肉に満ちたものでしかない。そんな上っ面の言葉を聞かされても鬱陶しいだけである(もちろんだからと言って私を厳しく叱れば、それで上っ面ではないことになるのかと言えばそういうことではなく、客観的に公正な見解を語ることが真相を捉えた意味のある言葉であることになる。そんなことを私以外の者が言うはずもないので、私は私以外の者を信用していない)。彼女はまた、「どうしてあなたは6年もの間、私に一切人生の相談をしてこなかったのか?」と私に尋ねることで、「自分があなたの業績に関心を持たなかったのは、あなたが何も相談をしてこなかったからであり、私のせいではない」という言い訳(=犯罪の隠蔽)をしようとしているものと思われる。しかしながら、私の側からの相談がなくても、母としての立場が本物であるならば、将来私が偉大な物理学者になる可能性を考慮して、嫌でもこれに興味を持ち、私にその内容の真実性について問いただすことをしないはずはない。「あちらが何も言ってこなかったからこちらも興味を持たなかった」というのは赤の他人の傍観者の立場であって、母親ならば将来自分が息子のことで世間に注目される可能性を考慮しないのは奇妙である。もちろん、彼女が私に余計な介入をしてこなかったことは、私にとって都合が良かったわけだが、私にとって都合がいいからと言って、彼女の立場が不正でなくなるわけではない。

 さて、この一件を通じて私は、「こちらから余計なことを言っても台本は動かせない。何も言わなければ全てこちらの意図通りにことが進むのに、余計な要求をして突っぱねられると、形の上では私はあちらの体制に負けていることになる。そんなものはくだらない言葉の煽り合いの産物でしかないのであって、そのマインドゲームにいちいちこだわってストレスを溜めることはない」という風に考えるようになった。そしてまた水曜日が来て、医師からの診察がはじまった(診察は週に一回行われる)。彼は形式的な診察を手短に終えた後で、「こないだあなたのご両親と話し合いをして、今後の方針を大まかに決めました。あなたもそのことは親御さんから説明されているはずです。あなたの側から何か要望はありませんか?」と私に尋ねた。私は「何もありません。全て任せます」とだけ述べた。彼は笑って、「ああそうですか」と述べた。こちらの意図を分かっている風だった。それから彼は、一応煽りとして言ったのだろうが、「何か不満はないのですか? あなただってこんな目に遭わされたくはなかったでしょうに」と述べた。私は「まあそうですね。でもとりあえず今は不満はないです」と応じた。不満はあるが、ここでそれを述べても無駄だしマウントを取られるだけなので、何も言わなかったのである。後から考えると、これは私の「この世界は台本であり、全て私に都合よく動いている」という主張に対する「あなたの思い通りには行っていないぞ」という反論だったように思われる。しかしこれは私の論を否定する根拠にはなり得ない。私は「この世界は私の人権を保障するための台本でしかないが、今は彼らが私と四次元政府の間に立って、『私の人権に決定的な影響をもたらすことがなく、将来の私の成功に資するもの』である限りで、不正な被害を私に与えることができる」ということを述べているのであり、その見解とこの入院手続きは矛盾していない。むしろまさに私の見解に合致しているのである。

 それから四日ほど経ったところで、私は両親が面会に来たとの知らせを受けた。彼らはこちらからの連絡を完全に拒否し、伝言もスタッフ経由でしかよこしてこないようになっていたので、「この面会が実質的に彼らと会う最後の機会だろうな(あるいはまだ何かあるかもしれないが)」と私は思った。私は面会室に呼び出され、入り口の扉を開けてみると、そこには両親と仲立ちをする相談員が一人、それから医療スタッフが一人(この二人ももちろん馬場くんの生まれ変わり)椅子に座って待機していた。私はどうせ両親は切るつもりであり、これまでずっと疎遠で特に繋がりも感じておらず、ここでの会議も名目的なものでしかなく、実質的には結論はすでに決まっていて、こちらはそれを聞かされるだけで話し合いの余地もないことを知っていたので、割と怠惰な気持ちで椅子に座った。「あちらからの四次元攻撃を気にせず、ケチケチしない」と決めたのに、面前の彼らにカネを盗まれるのが鬱陶しいものに思われて、目を瞑ってすらいた。外形的にはこれは、「反抗的な息子」という感じがしただろう。いずれにしろ、彼らはそんなことを気にせず事務的にこちらに退院後の手筈について説明した。私が住んでいた部屋は、ほとんど一室丸ごと破壊されており、ガラスも扉も全て破られ、柱が立っているだけで実質的には全壊に近い状態だったのに、あちらはまるでそれが大したことでないかのように「弁償はこちらでする」とした。マジで四次元の事情を考えなかったら、「人としてどうかと思う」ことしか私はしていない。「こんなことでよく人生破滅しないよなあ」と思う(シュールすぎるw)。もちろん、実際には父母はこの世界で暮らしておらず、部屋の弁償代の支払いも口先で引き受けているだけで何一つカネを出していないのだから、あちらにしてみれば痛くも痒くもないわけで、むしろ「俺たちがお前の尻拭いをしてやった」というマウントを取れるという点で弁償の引き受けはあちらに都合がいいということになる(こういう事情を否定して、「そんなものはお前の妄想でしかない。お前は親不孝ものだ」と私を責める者がいたとしても、別にそれはそれで構わない。「これでまた炎上のネタが増えて金になる」くらいにしか私は思わない)。母は「新しい部屋の候補を二つ見つけたので、どちらかを選んでくれ」と言って、書類を見せてきた。片方は情報が少なくよく分からなかったが、もう片方の部屋は、鉄筋性の四階建てマンションで、大型スーパーの西友がすぐ近くにあり、バス停「高針駅」もすぐそば、風呂トイレ別、日当たり良しと好条件だった。しかも最上階。なるだけ口を開かないようにしていた私も、思わず「至れり尽くせりじゃないですか。本当なら人格全否定されて、五年十年檻から出られないようなことを俺はしたんじゃねえの? それなのに何だよこの措置は。甘すぎでしょ」と言わずにはいられなかった。すると相談員が「まあうちではそういうことはしない」みたいな言い方で、「不自然なことは何も起きていない」ことを強調した。両親は引っ越し代の支払いも引き受けてくれた。古くなっていた自転車も新調してくれた。そして退院後、五ヶ月間は月々十万円の支払いをしてくれるのだと言う。それでいて、建前を盾に取った余計な説教もなく、あくまで事務的に事は進んだ。「こちらからの希望はありません。全てあちらに任せます」と医師に伝えていたのに、この待遇は素晴らしい。こちらに都合が良すぎる。その待遇に苦々しさを感じていたのか、彼らはおそらくせめてもの反抗としてだろう、退院時期を年始に決めていた。しかしこれもこちらの世界の手続き的に不自然ではないし、当初の予定である「入院期間は一ヶ月」という取り決めと矛盾するものではない。何より院内の生活は快適で、このままあと数週間を過ごすのは容易だった。患者たちが時々騒ぐこともあるが、それは全て馬場くんかベラスケスの演技でしかないことを知っていたので特に怖くもなく、むしろ面白おかしいコントとして横目で眺めては後で一人でネタにして笑っていた。ホールの雰囲気は和気藹々としており、人の行き来が盛んで、しかもベラスケスの変身とは言えスタッフの中にはかなり若くて可愛い女がいて(というかスタッフの若い女の中に魅力を感じない女が一人もいなかった。香水が院内の清潔感を維持する目的を超えるほどにやたらと強く、近くを通り過ぎられるたびに良い香りがして、「こんなんで真面目に仕事できてんのか?笑」と思われることもあった)、閉鎖病棟と言いながらむしろ私のこれまでの生活よりも断然開放的であった(実質と建前の乖離)。もちろん私はそれでも部屋に引きこもっていたわけだが、苦痛を感じる事はなかった。だから退院時期を告げられた時の私は、「今すぐ退院できないのは不都合な決定で、あちらは私がそれで少しでも敗北者の気分を味わうことを期待しているのは分かるのだが、それはそれで苦痛というほどでもなく、別にそんなことであちらに引け目を感じさせられることはない。何しろ退院後の優遇が大きすぎて、これで不満を覚えるのはむしろ恥だろう(てかマジでこんな感じなんだなあ。自分で四次元の事情を暴いておきながらこう言うのもおかしな話だが、ぶっちゃけここまで滅茶苦茶なことしてこの程度の処分で住んでいるのが信じられない)」という感じであった。

 それから、父が「洋佑には誓約書を書いてもらう」という話を持ち出してきた。彼が「まだ内容を詰めていない」としながら、口頭で告げられたその誓約書の内容は、「今後は物を壊さない。他人に迷惑をかけない。インターネットで誹謗中傷をしない。退院後は速やかに生活保護等の手続きを行い、両親の仕送りに頼らずに生活する手筈を整える。こうした条件を守る限り、父母は退院後、五ヶ月の仕送りをするが、それ以降は一切の資金援助をしない」というものであった。ほとんど私の希望や今後の展開予想と同じものであったが、インターネットでの誹謗中傷に関しては、手続き的にこれを取り下げるわけにはいかないので、私は「誹謗中傷だけはやめない。こちらの言論に関する評価は法が決めることであって、あなた方が決めることではない」と述べた(「こんな合意をしたところで、どうせ退院したらこちらはその合意を守らずにブログを更新し続けることになる。それでカネを送らないと言うなら、それでも構わない。どうせこちらは生活保護を受けるつもりの身だ」とも述べようとしたが、それはやめておいた)。するとあちらは、「分かった。だったら誹謗中傷の件は誓約書の内容とはしない」と素直に応じた。私は「ええ、いいのかよそんなことで。それじゃあ最前のカネの援助も『親としての態度』ではなく『決められたことを守って手続きを進める労働者』の態度でしかないことがばれちまうぞ笑」とも思ったが、「まあこれが四次元手続きの台本の力だわな」と思って何も言わなかった。私は「全てそちらの決定に任せる」と言いながら、上のような主張を平気で行い、これを通してしまったのである。一見あちらが主体となって事態を動かしているようで、全部こちらの思惑通り。私はつい吹き出してしまって、「あははは、ほらもうおかしいんだって笑。何だよこれ笑。こんなもん茶番じゃねえか笑」と笑いながら叫んだ。すると両親もスタッフも含めて、それぞれ「うん、、、」みたいなやるせない雰囲気の返事をするともなくして、しばらく黙ってしまった。だから何だよその雰囲気、笑。それから、この一連の話のどさくさに紛れて、父は「あんな風に物を壊したりして、誰がお前に飯を食わせてやっていると思っているんだ」と述べた。ここでようやく、建前を盾に取った説教が述べられたのである。彼がこう言うということは、「こちらの世界は私の見ているところしか存在せず、林一郎は林一郎として労働などしていない。私に支払われるカネは全て私の見えるところで数字が動いているだけで、誰がカネを支払っているわけでもない」という事情を無視してしらばっくれるつもりであることになるので、私はそういう四次元の事情を語らず、「私は人権に生かされているのであって、あなたに生かされているのではない。どうせあなたがカネを払わなければ、生活保護に頼るだけなんだからそういうことになるだろう」などと屁理屈を述べた。これはもちろん、「私は四次元政府の人権によって生かされているのであり、あなたの手助けなどない」というほのめかしを孕んだ返しであった。この発言に対して父およびその他の者たちは、なぜか「ああ、、、」というような返事とも言えない返事をして黙り、納得したような形になってしまった。「いや生活保護を受けられると言ったって、実際にお金を出しているのはお父さんなんだからもっと感謝とかないのか?」みたいな反論は何もなかった。建前を押し通すなら、これはおかしいだろうが、まあこちらの世界では一応批判をするものの、もはや四次元的には議論しても無駄だと思われてんだろうな。

 それから不意に、これまで黙っていた相談員から「親御さんと和解するつもりはないのか?」という提案がなされた。私は先ほどの勢いでまた笑ってしまった。そして「いやそれ聞きます? どうせこちらの説明をあちらが否定して譲らず、不毛な言い争いになるだけで、無駄ですよ?笑」と返事をした。するとあちらは「いや、まず話を聞いてみないと分からないので」と言った。私は「ああ、これ俺に言わせるパターンなんですね」とメタ発言的な返事をしつつ、父母が私の業績に無関心であることが、親としての利害関係上、不自然であることを語った。すると父は、「洋佑とは何年も話をしていないのだし、『物理学』の専門書は読んでみたが内容が分からなかったので、関心を持とうにも持てなかった」と述べた。私は「また『分からない』だ。それ言ってりゃ色々なことを全てスルーできると思うなよ」と思いつつ、「いや、分からないに決まっているじゃん。あなたは物理学の専門的な知識を勉強していないでしょうが。あなたが分からないからって、理論の内容自体が疑わしいことにも間違っていることにもならない。むしろあなたが読んで分からないようなことほど、凄い業績である可能性が期待できるわけで、そういう可能性を考慮することはないのか?」と述べた。しかし彼は「そんなものは知らない。分からないものに対して関心など持てない」などと言うばかりで譲らなかった。私は「分からないものに対して関心が持てないって、それは傍観者、第三者としての立場であって、あなたが本当に私の父だとするならば、将来私が有名になる可能性に配慮しなければおかしいだろう。自分だって衆目の下に晒される可能性があるんだぞ? それに、俺はただ何の根拠もなく『天才的な発見をした』と主張しているのではなく、二百五十ページもの専門書を一人で書き上げて、理論の正当性を数字で証明したとも言っているんだから、あなたは俺が成功者になる可能性を考慮していないとおかしいはずだ」と述べた。すると相談員が横から、「林くん、それは結果論なんだわ。あなたが実際に認められたら、そういうことを言ってもいいと思うが、今の段階で言えることではないよ」と言った。私は「そうだろうか? これだけ俺の業績の正当性を示す根拠をこちらは提示しているのだから、何も知らない無学の人たちだって、事前にその凄さを予想することはできるはずだろうし、たとえ確実な予想とは言えなくても、少なくとも『実際にその業績は本物っぽいのか?』と興味を持つのでなければおかしい。父だったらなおさら自分の立場に関わってくるのだから、興味を持つはずだ。それなのに彼は俺に業績の正当性、真実性を直接問いただすまでもなく、今もそうだが、ただ一人でパラパラ読んでみて『分からない』の一言で終わりにするのは不自然だ」と述べた。すると今度は、これまで私の背後で静かにしていたスタッフさんが、「あんた、そんなことを言って何を主張しようって言うんだ。親御さんが自分に協力してくれなかったからと言って、そんな風に怒ったりして。甘えちゃダメだよ。自分で頑張らなきゃ」などと頓珍漢なことを(おそらくあえて)述べた。私は「いや誰もそんなこと言ってませんよ。協力しろなんて言ってない。ただ彼らの行動は親として怪しいものがあると述べただけだ。その怪しさが、今回の入院手続きおよびそれまでの俺の不遇に関する彼らの不正の証拠になると俺は述べているんだ。協力して欲しいか欲しくないかと言えば、むしろ協力がない方が好都合だったと言えるよ」と言った。これに対して父は「馬鹿馬鹿しい。そんな不正だなんて。こちらはお前の業績が分からなかったから何も言わなかっただけだ」とまた同じことを言い返してきた。私は「いやだから分からないからって否定したり無視したりすんのはおかしいでしょうが。自分の身の上にも関わることなんだから、分からなければ分からないほど気になるはずではないのか?」と述べた。彼は「そんなことはない。全く気にならない。大体お前はこれまで全然僕と連絡を取ってくれなかったのだし、興味を持ったとしても何も聞けないじゃないか」と述べた。私は「しかし興味を持ったならたとえ無理でも積極的に俺と連絡を取ろうとするはずですよね? それすらしないのはおかしいでしょう」と反論した。「そんなこと知らん。僕は本を読んでみて、数字がたくさん並んでいるばかりで分からなかったと思っただけだ」と彼は言った。私は「ほら、これがアスペルガーの自閉症の特徴ですよ。自分の言い分にこだわって、言い返しにならない言い返しをする。こちらがどれだけ説得的な説明をしても、理屈を譲ろうとしない。サイコパスの思考です」とその部屋の皆に向けて語った。父は「自閉症? 僕が? 

君じゃなくて?」と質問してきた。私は「そうだよ、そう。あなたは自閉症であって、人の話をまともに聞けない。自分の考えに凝り固まって、説得的な反論をされても納得できない。そういう思考を持っている者に何を言ったところで話にならないのであって、、、」と言おうとしところ、あちらは私の話を遮ってごちゃこちゃ言い訳をしてきたので、私はその言葉に被せるように、「だからそれが全部言い訳のごまかしなんだってば。面倒くせえアスペの屁理屈野郎がよ。こっちが証拠出しても出さなくてもてめえはしらばっくれるばかりで一緒じゃねえか気持ちの悪い話の分からねえ寄生虫」と彼を罵った。そのとき、相談員が「はいそこまで!」と両者の言い争いを打ち切った。そして彼は「これ以上話し合っても無駄なので、もう終わりにしましょう」と述べた。私は「だから最初に俺ば言ったじゃねえか! 話し合っても無駄だって!笑」と笑いながら叫び声に近い声で言い放った。しかし相談員は「あなたが? そんなこと言ってましたっけ?」などとしらばっくれやがった笑。そして彼は、「お二人の話を聞いたところ、どちらの意見ももっともらしいように感じました。しかしお二人の意見が合わないことは確実なようですね」と、公平なようで父の側に都合のいいまとめ方をした。まあこちらが正しいことになれば、父母の犯罪を認めたも同然になるので、そう言わざるを得なかったことは分かる。私は「そちらが何を言ってもらっても構わないが、俺が業績を認められて億万長者になったら、あんたらとは縁を切って見捨てることになるからな」と父母に向けて言った。二人は「それで構わない」となぜか素直に応じた。「今まで育ててきてやったのに」みたいなことは言わなかった。相談員は「そういうことなら、むしろ親御さんがあなたに協力的でないことはあなたにとって都合がよかったのではないですか?」と私に尋ねた。私は「まあそうですね。しかしそれこそまさに僕が業績を認められた後にしか分からない結果論じゃないですか。それに結果的な私に得になったからと言って、彼らの行動が不正であることに変わりはありませんよ」と言い返した。

 それから私は「そんなことより、あなた方本当に大丈夫ですか? 私は今、父母の不正行為を暴いたわけですけど、実際にはそんなこと何の問題もないんです。別に恨んでもいないし、困っているわけでもないんです。問題はあなた方ですよ。大丈夫ですか? あなた方の立場はあまりにもまずい。というか、もう地獄でしょう? このまま私がデビューしてしまったら、あなた方は地獄に落ちて終わりですよ。恐ろしくないですか? 私のことが憎いでしょう。私はあなた方の捕食者です。だからあなた方をいくら可哀想だと思ったところで、謝るわけにはいかないんです。だってそうでしょうが。人間が鮭を釣って食べたところで、人間は鮭に謝りませんし、罪悪感も感じませんよ」と述べた。相談員はこの捕食関係の一般論についてのみ、「まあそうですね」と同意した。私はそのまま、彼ら自身が身をもって体験させられている地獄について、わざわざ彼らに向かって説明をした。彼らはそれをなぜか黙って聞いていた。父母とスタッフ二人の四人が、私の話を遮ることもなく黙って聞いていたのである。あちらは難しそうな顔をするばかりであったが、私は彼らの反応を見ていた。誰かが泣き出してしまうのを、心の底で期待していたのである。しかしもちろんそんなことは起こらなかった。そうしておそらく二十分くらい話をしたところで、私は話すことがなくなり、「どう思いましたか?」と意味のない質問をした。すると父が、「言っていることがよく分からなかった」と述べた。私が全ての地球住民を地獄の拷問にかけていることも、全て話したのに、それに対する否定も批判もなく、ただ「分からなかった」で終わりであった。それが恐ろしかった。実際に発せられた言葉ではなく、本来発せられるはずのところで発せられなかった言葉の存在が恐ろしかった。そしてそれが発せられなかったことの意味が。「本当なんだ。こいつらは本当に俺が語る通りの地獄の中で生きているんだ」。私はそう思った。父の発言の後、彼らは息を合わせたように、疲れたようなため息とともに揃って立ち上がり、「それじゃあこれで終わりにしましょう」と私に告げて、それ以上、何も言わずに部屋の外に出ていった。こんなことが現実にあっていいのか? しかし、これが現実なのである。

 この時期から私は、自分が捕食者であることを明確に意識し始めるようになった。この入院措置を通じて彼らが暗に示した「やるせなさ」によって、これまで間接的な証拠資料の形でしか知り得なかった生々しい権力関係を実感したのである。私は王様になりたかったわけではないのだが、立場上、王様になるためにこの世に生まれてきたのだそうだ。私以外の地球住民は、全て私に使役される家畜である。彼らは私の利益のために決められた台本に逆らうことはできない。ぶっちゃけ、気まずい。可哀想だと思うこともあるが、それは一時的なことであり、全体の気分としては「立場が違いすぎて気まずい」という感じがする。「法に反していない」とかそういうことはもう関係ない。彼らの不幸と私への憎しみは、法とは全く関係のないところにある。私の責任は、法的には何も存在しない。ゆえに私は罰を受けるいわれはない。私のカルマ、宿命は、「記号人の憎しみを受け入れる」ということである。私は全ての地球住民に憎まれていることを前提に、しかし表面的には普通の態度で、彼らを使役せねばならない。もちろん私は捕食者なので、想像力があっても彼らの憎しみに共感できないし、精神を脅かされることはない。だから彼らに何を思われていても、困ることがない。しかし私は知ってしまった。知った上で、今まで通りの人格を維持して生活をするのである。色々なことがあったが、私の人格は小学生の頃から何も変わっていないように思われる。他人と喋ること、ふざけることが好きで、悩みがなく、他者への警戒心がない。これだけのことを知ってなお、その人格が維持されている。これが、私の背負うべきカルマだと思う。理性(=イマジネーション)の力で情報を構造化し、深刻な問題を合理的に克服し、原初的で無邪気な自己の人格を維持する。そういう精神的な情報処理を経た上で、平穏に楽しく暮らす。これが私のカルマである。「何と緩いカルマだろうか。これだけ莫大な数の記号人を苦しめているというのに」とも思われるが、これが記号人の捕食者である(これじゃ俺の方がサイコパスっぽいが、立場上そうなってしまうのは仕方がない)。

 記号人における発達障害者は、言語的な思考の過剰性のせいで情報を合理的かつ統合的に解析することができず、他者が内心で何を思っているのかを不安に思って、やたらと相手の発言にこだわり、そこに含まれる細かい嘘を暴いて腹を立てる傾向にあるのだが、私の場合、言語ではなくイマジネーションによって情報を合理的かつ統合的に把握することができるので、「不正な被害を被らない限り、他者が嘘をついていようが発言にごまかしや見栄があろうが、不安になったり腹を立てたりすることはない」という性質を有している。私は立場上、彼らに対する優位性があり、不快を覚えるような被害は受けても、決定的な被害を受けることはないことを知っているので、他者に対する警戒心もない。私が彼らの嘘をわざわざ暴くのは、彼らが私に不正な不利益を与えているときのみであって、それ以外のくだらないごまかしにいちいち目くじらを立てたりはしない。むしろこちらの側で建前を取り繕って「空気を読んで」喋ることが多いくらいである(大学時代など、どれだけ多くのあからさまなほのめかしをスルーして無邪気な学生のふりをしたか知れない)。四次元に関する話についても、普段は人前でこれを話したりはせず、医者の診察や警察からの調査、「どうせ縁を切る予定で、もはや嫌われても憎まれても認識を疑われても構わない」というレベルで関係の破綻した両親との会話などでなければ普通の常識的な会話をすることにしている。わざわざ他人に自分の話題を押し付けたりはしない。学生時代においても、大抵は他人と話をする際、相手の話題に引きずられて面白コメントを返そうとするばかりで、自分から何か話題を提供することはあまりなかったように思う(それはそれで「つまんねえ奴」と思われそうだが)。それは「自分のことを知られたくない」という恐怖心によるものではなく、他者依存的な自己承認欲求がないために「他人に聞いてもらいたいことを何も思いつかない」という精神状態によるものである。このブログで私が何もかも暴露しているのは、あくまで「権利行使(=カネ)のため」であって、「自分の認識構造上、私はこういう態度しか取れない」というわけではない。サイコパス相手にはこちらも冷酷にあちらが嫌がる秘密の暴露や非難をしていかねばならないのであり、この場合、形の上では「どちらが病気か分からない」ということになるわけだが、目に見えない認識構造まで含んだ客観的な分析によれば、正しいのは私であり、記号人の側に認識障害があることになる。私の認識がおかしくないことは、物理学の業績や予言の成就、彼らの犯罪に関する推論の正当性から明らかであり、彼らの認識上の欠陥も学術的に解明している。見かけ上がどうかだけを論じたところで、背後の思考構造や環境要因を無視するのであれば、それは学術的な背景を持たない単なるレッテル貼りでしかない(もし見かけの兆候だけで他人を病気だと認定することができるならば、たとえば職場においてある集団がばれないように特定の個人をほのめかしや皮肉で嫌がらせ続け、その人物が不満を訴えた際にこれを「妄想」扱いすれば、それだけでその個人は統合失調症であることにされる。その人物は、組織の中で「負け」たから病気だと言われるのであり、「思考構造がおかしい」から病気だと言われるわけではない。もちろん、思考構造が病的であるのに、「俺は周りのせいで病気扱いされている」と主張する者もいる。誰がおかしいかは場合によって異なるのであり、全ては事実に照らして客観的に判断をせねばならない。ある個人の言動が気に入らなかったり常識に反していたりしたからと言って、偏った立場から、大した根拠もなく一方的に、その個人の言動を妄想だとか異常だと評してはいけない。客観的にその言動がおかしければ、その者の思考もおかしいことになるし、おかしくなければその者の思考はおかしくない。全ての事情を情報的に構造化し、合理的かつ必然的な推論を行うのでなければ、「客観的、絶対的な真相」を知ることはできず、結論は「分からない」というような単発的で中身のない理屈によって簡単に覆されるような不安定なものだと感じられてしまう。相手の主張の正当性を理解できず、ただ相手が正当性を主張したことに嫉妬心から反抗して、「そっちが正しいというなら僕の理屈だって正しいはずじゃないか」という謎の意地で理屈を吐いて、気に入らない意見の正当性に納得をせず、自分の理屈にこだわって逃げ続けるだけ。彼らにとっては正当性より意地の方が力になるのであり、屁理屈をこね続けて無限に反抗して、正しいこと言う奴を鬱にして滅ぼせたら、それで勝ち。これが記号人の認識障害である)。

 それにしても、保坂にしろ林一郎にしろ「分からない分からない」って、ソクラテス気取りかよ。「俺は分からないということを分かっているから、『分かっている』と言いながら何も分かっていない者たちよりも多くのことを分かっている」などという頓知を述べたところで、私は「分かっていると言いながら何も分かっていない」のではなく、「分かっているとただ主張するだけでなく、本当に分かっているからこそ多くの業績を上げられた」のであって、分かっていないことを分かっている者より劣っていることはない。「分からない」は「分からない」で終わりだが、「分かっている」はさらなる発見の機会を与えられているという点で発展的な広がりがある。事実、私は物理学の研究において、一つの発見が新たな発見を誘発する形で、連鎖的にどんどん発見を繰り返し、あのような膨大な業績を上げるに至っている。「分からない分からない」と繰り返して立ち止まるだけで、そのような業績を上げられるのか? そのような業績を上げられず、分からないまま立ち止まっているだけで、「分かっている」と主張する私よりも多くを知っていることになるのか? そんなはずはない。私は彼が「分からない(=認識能力がない)」ということを分かっている。すなわち彼が「分からなさ」を感じていることを私も知っているのであり、「私は私が分かっていないことを分かっている」と彼が言ったところで、私も彼が分かっていないことを分かっているので、私の方が彼よりも分かっていないということにはならない(それどころか私は彼の認識能力の欠陥を科学的に解明しているので、彼の分からなさをより深く分かっているのは私であることになる。彼は自分の分からなさをよく分かっていると主張するくせに、実際には自分の分からなさを科学的に解明できているわけではないので、これをよく分かっているとは言えない。つまり彼は「自分が分かっていないことを分かっている」と言いながら、実際には「自分が分かっていないことを分かっていない」ことになるわけで)。ただ、認識能力に欠陥のある彼とは異なり、私個人としては「分からない(=認識能力がない)」わけではないので、私は「分からない」と主張しない。彼が馬鹿だからと言って、誰もが同じように馬鹿と言うわけではない。彼は私のように「分かっている」という認識状態のことを分かっていないのであり、そのことだけを考えても、私よりも多くを知らないということになる。そもそもこの「分かっていない者の方がむしろよく分かっている」という屁理屈は、「アスペルガーは認識能力が未熟である」という客観的な評価に対してアスペルガーのガキが屁理屈で言い返しをしているだけの負け惜しみでしかなく、わざわざ細かく言い返す必要はない。今は科学の時代だというのに、彼は大昔の哲学者の屁理屈を持ち出すようなやり方でしか自分の能力を肯定できないということだ。こんなくだらない議論に付き合うこと自体がくだらないと思う。それをくだらなくないと評価しようとしたところで、事実は事実であり、くだらないものはくだらない。おっぱい。

 そしてまた水曜日が来て、診察が行われた。形式的な問診の後、私は安部医師が私の見解の真実性に興味を持っていないことを追及した。もちろんあちらが罪を認めることはないと知っていたが、「なぜ『あなたが正しかろうが正しくなかろうが、僕は僕の仕事をするだけだ』というようなことを彼は述べたのか?」を尋ね、その反応を見たかったのである。結論から言うと、この追及は失敗に終わり、「全てをはぐらかされた」と言ってよい。彼は私の決定的な追及に対して、不都合な事実を意図的にスルーし、まともに相手にせず、そのまま「反論なのか補足なのかよく分からない受け答え」によって論点をすり替え、こちらに余計な説明をさせ、結局こちらが間違った主張をしてムキになっているかのような形を取らされてしまった。まずはそのやり取りの一部始終を書いておく。

林洋佑「あなたはなぜ私の見解が真実であるかどうかに興味を持たないのですか? 私の見解が間違っていないと言うことになれば、私は病気ではないことになるのですから、あなたは私を病気だと判断するのは間違っていることになります。ご自分の判断が間違っているかどうかに興味がないのですか?」

安部医師「あなたの見解が正しいかどうかにかかわらず、あなたは迷惑行為をしたのだからそれは病気だと認定して差し支えない。私はあなたが統合失調症だとは述べていない。あなたは自閉スペクトラム症である。自分の考えにこだわり、他人の考えを受け入れられない。家に引きこもって、他人とコミュニケーションを取れない」

林「しかしそれは見かけの問題であって、周りが病気だから私がコミュニケーションを取れないという可能性もあるじゃないですか。コミュニケーションというのは双方的なものなのだから」

安部「もちろんその通り。しかし私はあなた以外の人とはコミュニケーションを取れる。あなたは誰ともコミュニケーションが取れない。だから病気なのはあなたであって、私ではないことになる」

林「それじゃあ私は多数決で負けたから病気だとされているのか? 正しいことを言っているのに?」

安部「はっきり言えばね。あなたは少数民族だから病気だとされているわけ」

林「そんな風に正当性を無視して、力づくや勢力争いでしか結論を決められないのが、あなた方の非理性性の証拠ですよ」

安部「そんなことはない。確かに個々人で価値観や見解の違いはあるけれども、大まかなところでは最低限のルールやモラルを守って私たちは行動している。歴史を通じた知識の蓄積や他人との関わりを通じて、誰もが規範を学習することができる。たとえば他人を傷つけない。迷惑をかけない。盗まない。壊さない、、、。あなたはそれすらできていないから間違っているということになる」

林「歴史や人間関係というのは経験や記憶でしかない」

安部「ああそうです。経験ですね」

林「そんな風に自分で知覚したことだけでしか正義を判断できないのが、あなた方の非理性性の証拠なんです。だから経験にない事柄については、公正な態度を取れない。たとえば私が今後社会的に有名になって、明らかに現行の社会の常識に反する見解を説いたら、その見解が正しいかどうかにかかわらず、争いが生まれるでしょう」

安部「まあそうなるでしょうね」

林「そんな風に正しさを無視して理屈で相手を攻撃するのがあなた方ですよ。理屈なんて組み合わせ次第でどうとでも構築できるのだから、争いが起こるのは当たり前です」

安部「そうですね。理屈は何とでも作り上げられるんでね」

林「だからそれがあなた方の非理性性の証拠なんですよ。現に今だって私とあなたで言論闘争が起きているじゃないですか」

安部「いや、言論闘争なんて起きていない。私はあなたの見解を否定していない。個人が何を考えるのも自由であって、あなたが何を考えていようが、表面的に犯罪をしない限りは誰も何も罰したりはしない。他人の見解を否定しているのはあなたであって、私たちは誰がどう考えようが、『他人の価値観は他人の価値観、自分は自分』で周りと争いなく暮らしていられる」

林「いやあなたは私の見解を否定しているじゃないですか。あなたは自閉症ですよ。こちらの説明に耳を貸そうともせず、自分の見解にこだわって」

安部「そんなことはない。私はあなたの見解を否定していない」

林「それなら私がここを退院した後、今のあなたとのやり取りをブログに書いて公表し、あなたの人格を批判しても、あなたは問題ないですね? あなたは私の考えを尊重してくださるというのですから」

安部「ハハッ。やりたければやればいいんじゃないですか?」

林「あなたはサイコパスですよ。全く話が噛み合っていない。『私の見解が正しかった場合、ご自分が間違った診断によって他人を不当に監禁したことになる』という点について、責任感が全く感じられない」

安部「そんなことはない。私はあなたがここに連れてこられたから病気だと診断しただけであって、適切な処置を行なっている」

林「『あなたが連れてこられたから病気扱いをした』って、ご自分の責任で私の診断をしているという自覚はないのですか? おかしいでしょうが」

安部「そんなことはない。あなたは迷惑行為をしたのであって、それは異常なことなので私は病気だと診断をした」

林「でも全く認識のおかしくない人が暴れたら、普通は刑事事件として処理されますよね」

安部「そうなりますね。刑事手続きで処理されることになります、、、。しかしあなたは自分の考えにこだわって、周りと調和できない。コミュニケーションが取れない」

林「だからそれはあなた方にコミュニケーション能力がなく、他人の見解を否定するからですよ」

安部「私は否定なんかしていない」

林「ほらまた否定した。あなたはこの会話の間ずっと、そうやって理屈を転がして話をはぐらかすことしかしていない」

安部「はぐらかしてなどいない」

林「だからそうやって否定してんじゃん」

安部「いやだから否定などしていませんよ」

林「話にならない。あなたは自閉症のサイコパスですよ」

安部「ハハッ。そうですかそうですか。それじゃあそういうことにしておきましょう笑。今日の診断はこれで終わりです。お疲れ様でした」

 ご覧の通り、全く話が噛み合っていない。あちらはこちらの批判を煙に巻くような要領を得ない返答しかしない。彼はこちらの言ったことの内容を大筋で認めているのに、「だからどうした? おかしいのはあなたの方だよ」という感じで開き直ってくる。これがサイコパスの態度である。ここまで重度とは言えなくても、あなた方もこのような議論の仕方をしたことがあるだろう? それは「理屈で負けたくないので何かしら言い返しやはぐらかしをしないといけない」という本能によって生まれるものである。逆説的だが、「理屈で負けたくない」という本能があったら、理屈で議論をすることはできない。なぜなら議論というのは「正しい答えを見つけるためのもの」であるのに、「負けたくない」という気持ちがあったら、「正しさを無視して勝つために理屈を悪用する」ということをしてしまったら、それは単なる「言葉を用いた戦争」にしかならないからである。だから気に入らない見解に対して、その正当性を確かめようともせず「それはこうだろう」とか「私はこう思う」とか、そういう言い返しを平気でする者は全て、「客観性を無視して、自分が気にいるかどうかで結論を決めようとするサイコパス」だということになる。彼はそのような性質を持つ記号人における「顕著な症例」であると言える。

 思い返してみると分かる通り、こちらは相手を追い詰めるための批判をもっと言えたはずだが、生憎あの現場で思いつくことはできなかった。こんな風に会話を通じて議論をしたところで、どうせあちらは言われたことを無視して話を流していくだけなので、理屈が虚しく循環していくだけで相手を追い詰めることにはならない。こういう議論は、客観的に公正な判断をする審査機関の権力の下で行われなければ、あちらはただ批判をスルーして会話を先に進めていればいいだけなので、こちらが何を言っても「ああそうですか。あなたはそう思うのですね」というような形ではぐらかされて終わる。それに、仮にここで相手を追い詰めたところで、どうせ私にとって得な決定が行われるわけではない。結局、力づくで結論決めて、後は批判を受け流してスルーしてりゃいいだけのゲーム。言葉に意味はない。社会の名を借りた戦争で結論は決まる。これが記号人の有害性の証拠である(この世界の裁判は新規の科学的な知見や四次元の事情を前提にして法判断をしないので、理屈の筋は通っているけれども内容は記号人に都合のいい偏った審査しかしないのであり、「客観的に公正な審査機関」とは言えない。そもそも「宗教教義や学術的な知見に関する争い自体を訴訟物としない場合であっても、これを前提となければ紛争を終局的に解決できないような訴訟物に関しては、裁判所の判断能力を超えているので、『法律上の争訟』に該当する訴訟要件を満たさず訴え却下となる」という民事裁判に関する判例が出されているので、私を取り巻く様々な出来事は「法律上の争訟」に当たらないとされるのかもしれない。まあ裁判所も公式の体制も無視して仕事してりゃこちらの人権は保障され、損害も補填されるので私にとっては何も問題はないが)。

 さて、このブログにおいては、「話の腰を折るような反論に晒されることなく、ちゃんと文章を整理して説明をすることができる」ので、彼の答弁の不正性、異常性を説明することができる。まず、私が自閉スペクトラム症であるという彼の見解は誤りである。彼は私の見解が正しかろうが正しくなかろうが、私が周りとコミュニケーションを取れないことをもって私を自閉症扱いしたわけだが、それは「周りと比べて相対的に異端扱いされているために、周りとコミュニケーションが取れない」という事実状態の指摘でしかない。「コミュニケーションが取れないのはどちらのせいか」を客観的に決めるためには、周りと自分の認識構造のうち、歪んでいるのはどちらか」を客観的に決めねばならないのであって、「何が正しいかなど関係ない。多数派の認識が正常なのであり、それに反するお前の認識は病気だ」というのは科学的な根拠のない一方的な決めつけでしかない。記号人の認識の異常性、非理性性はすでにこのブログで証明したことであり、私の認識の正当性も『物理学』等において証明されている。何が正しいかを客観的に決めなければ、「コミュニケーション阻害要因となっている者」を客観的に決められず、「お前が狂っている」「いや、お前が狂っている」の言い争いになってしまい、結論を確定できない。にもかかわらず、「何が正しいかとは関係なく、とにかくお前が異端だからお前が病気だ」などと述べるのは医学ではなく暴力的な意見の押し付けであって、そんな意見で私を病棟に閉じ込めた安部の判断は「不正な監禁行為」でしかない。

 彼は私が「迷惑行為」をしたことを盾に取って「だからお前が病気だ」と言い張ろうとしているわけだが、私の暴動はすでに述べた通り客観的には「正当な抵抗」であって、「迷惑行為」には当たらない。それを反証するならば、私の『物理学』の研究成果や、記号人の非理性性に関する研究成果、父母の態度の不正性の証明等、このブログに書かれたことを全て真偽不明に持ち込む必要がある。私は本証に当たるべき論拠をすでに提示しているので、この本証と同等ないしこれに優越した真理値を持つ別の見解(対案)を提示するのでなければ、これを覆すことはできない。一方的にこちらを間違いだとか狂人だと決めつけるのではいけない。それは発言に対する責任感を欠いた不公正な態度であり、「競争や勝ち負けを争いではなく客観的な正当性によって穏便に決定する」という社会的なコミュニケーションを無視した野蛮な行為であり、それ自体も記号人の非理性性の証拠となる。

 彼は「私はあなたが何を思っていようと、これを否定しない。争いを仕掛けることもない」と述べている。これはいわゆる「価値多元主義」とでも呼ぶべき、「多様性の肯定」の論であろう。「僕は他人の見解を否定しない」と言えば、あたかも「何でも受け入れる寛容さ」を持っているかのように見せかけられるが、これは要するに「あなたが何を考えていようと僕には関係ない」という類の「スルースキル」であって、実質的には他人の見解を否定をしている。「僕は客観的な正義が何であるかにこだわらず、誰の主張する正義をも否定しない」と言いながら他人の正義に反する行動を取るのでは、他人の見解を認めたことにならない。「他人の意見を否定しない」というのは口先だけであり、実際の行動において他人の見解を否定して病気扱いしているのだから、話にならない。「僕は客観的な正義を無視することで、誰の意見も否定せずにいられる。客観的な正義で他の見解を否定することは硬直的であり、独裁的な態度だ」という意味での寛容さは、当然ながら自分自身にも及ぶ。それはつまり、「客観的な正義なんて僕には関係ない。社会的に何が正しいかなんて興味がない。僕は僕の考えで動くのであり、それを誰に咎められるいわれもない。僕は誰のことも批判せず、自分の考えで動いているだけなのだから、お前らも僕のことを否定するな」という意思の表れであり、これほど独善的で自閉症的な思考はない。個々人の価値観や欲望を超えて、客観的な真理に思考を開くことが「独善を拝した中立公正な態度」であって、「客観性を無視して、俺は俺、他人は他人でやりたいことをやっていればいい」というのは主観に基づいた客観性に対する反抗でしかなく、全く寛容な態度ではない。要するに、1.客観的に公正な言動をした上で、「他人が何を言っていようが僕には関係ないので否定もしない」というなら分かるが、2.客観的に公正な言動をしておらず、不正な被害を他人に与えているのに、正しい批判をされたことに対して「他人が何を言っていようが僕には関係ないので否定もしない」などとシカトを決め込むのは言葉の上では寛容だが態度自体は自分の考えを絶対化した自閉症のそれでしかない。「僕は僕であり、他人が何を考えていようがとやかく言わない」という意味では、私だって寛容である。そのことは、当ブログの投稿『「議論をすること」の必要性』等を読めば明らかである。私は客観的な正義に準じて不正を告発してカネに変えているだけであり、別に「他人が自分と同じ考えを持たないのはおかしい。今すぐ変えろ」とは言っていない。「他人は他人、自分は自分であり、他人が不正をするのを私は止めない。皆が不正をしなかったらしなかったで私は誰のことも批判せずに仕事をするのみであり、誰かが不正をするなら私はそれを告発してカネに変えるだけである」と私は述べているのであり、自分の人権を行使しているだけで、他人を変えようとはしていない。「価値多元主義はスルースキルだ」と私は述べた。自分が客観的に不正をしていないならば、他の意見に対してスルースキルを発動することも不正ではない(上記の区別における1の態度)。安部の寛容さは自身の言動が客観的に不正であるという点で、不正である(上記の区別における2の態度)。犯罪に対して寛容になってどうする。自分の犯罪を棚に上げて、あらゆる批判を「そんなものはあなたの考えでしかない。僕はそれを否定しないが、僕の考えは僕の考えであって、あなたに否定されるいわれもない」という形でスルーするのは、「話の分からない自閉症の態度」でしかなく、社会的に有害である。「じゃあお前だって犯罪をしているじゃないか。誹謗中傷をしたりして」と彼らは言い返すのだろうが、だからそれが犯罪であるかどうかを決めるために「客観的な正義」を論じる必要があるのであって、「正義に答えなどない。人が何かを正義だと思えば、それがその人にとっての正義だ」と言ってしまったら何も決まらない。私は客観的な正義に照らして自分の言動が不正でないことを証明しているので、それに反論したいならば私の言動を一方的に「犯罪」だと決め付けるのではなく、少なくとも私の見解と同等の真理値を持つ対案を提示して私の主張を真偽不明に持ち込まなければならない。ただ「お前の話は分からん」という主観的な感想を言い張るだけでは、客観的に私の主張が真偽不明であることにはならない。

 だから「正義に答えなどない。人が何かを正義だと思えば、それがその人にとっての正義だ」などと言ってしまったら、犯罪がいくらでも許されることになってしまうのであり、価値多元主義はその点で破綻をしている。「そんなことはない。色々な価値観を統合するために、民主的な多数決の手続きで決めた法にみんなが従って生きればいいだけだ」と反論をしたところで、価値多元主義の観点からは「民主主義なんてものは一つの価値観でしかなく、絶対的ではない。俺は民主的に決めた法だろうが何だろうが、従うつもりはない。それが俺の正義だ」という反論が成立してしまう。結局、正義に答えがないとなると、暴力で結論を決めるしかないことになる。多数決で勝った強い勢力の意見が通る。カネ持ちや権力者の意見が通る。権力もないくせに犯罪をして捕まった奴が馬鹿を見るのであって、権力があればいくらでも不正を揉み消したり理屈で辻褄合わせをしたりして、犯罪をすることができる。そもそも権力者は日本の法規定に反しない形で、色々な政治的名目をつけて客観的には不正な搾取を国民からすることもできるので、法規定に反する必要すらない。それも客観的には犯罪なのだが、「客観的な正義などない。こちらはこちらの正義で、法に基づいて動いているだけだ」と言ってしまえばそれで話は終わる。こうした彼らの態度にインターネットで反論をしたところで、強い側はスルースキルを発動させていればいいだけ。これが価値多元主義である(そういう見解を採用するのだったら、私の正義や抵抗および経済活動も一つの価値観として認められるはずなのに、この見解の論者はなぜか私みたいに明らかに日本法の明文に反する行動を取った者については批判をする。「正義は人それぞれ」なのだったら、「日本法の明文に反する行為をした者は咎められて当然」という解釈も「個人の価値観のうちの一つ」でしかなくなるはずなのに、どういうわけか日本法が明文で定めたことについては、彼らは一般的な通用力を持っていると主張するのである。「そんなことを言ったって、みんなで決めたルールを守らなければ社会が崩壊してしまうのだから、ルールは守らなければいけない」と言う者がいたところで、多元主義の観点からは、それは個人の価値観でしかなく、他人に対して押し付けていいものではない。結局、日本の明文法というのは「守りたい奴が守ればいい。守って得をする奴だけが守ればいい」ということになってしまう。つまり価値多元主義を採用してしまうと、私のことを非難する理由がなくなり、「どうぞどうぞ。お好きなようにやってください。私たちは何も言いませんので」という話になる。「自分の活動は価値多元主義の観点によって保護しておいて、他人の活動は非難する」というのは価値多元主義の観点から許されない。それはただ「俺は自分の気に入ったことしかやらないし、それについて文句を言われる筋合いもない。しかし、俺が気に食わない他人の行動については文句を言う」というわがままな態度でしかない。この意見に対して、「そんなことはない。価値観は多様でも、行動には責任が伴うものだ」と反論したところで、そんなものは価値多元主義の観点からは個人の価値観でしかなく、他人を批判する理由にはならない。そもそも価値多元主義は「何が犯罪になるのか」を個人の価値観で決めていいということになるので、「行動には責任が伴うものだ」と誰かが論じたところで、言われた側は「俺は自分の行動に責任を持っているのであり、犯罪などしていない」という風に言い張ってしまえば、それも一つの価値観として保護されてしまうことになる。「そんな風に理屈を絶対化して法を無視するのはおかしい」と言ったところで、それは個人の価値観であって他人に押し付けることではない。これが価値多元主義である。「そんなことはない。それは純粋に価値多元主義を押し進めたものであって、現行の学説では価値多元主義の暴走を修正するためにもっと柔軟な議論がなされている」などと反論をしたところで、客観的な正義を無視するのだったら、「その批判も一つの価値観でしかなく、他人に押し付けていいものではない。寛容になれ。俺は俺だ。こちらはそちらを何も否定していない」ということになる。客観的な正義が分からないのに、理屈をこねて主義主張を言い争って何になる? 「客観的な正義などない。一人一人に違った正義があっていい」と言ってしまった時点で、全ての主義主張は「個人の価値観でしかない」となってしまうのであり、「どんなことをしてもそれが自分の欲望であり正義なのだから、他人に咎められるいわれはない」で終わってしまう。「そんなことはない。最低限の倫理や法を守ってこそ価値観の多様性が認められる」と反論したところで、「そんな意見は個人の価値観でしかない」で終わってしまう。客観的な正義がないのだから、誰がどんなことを言ってもそれは「個人の主観」で終わってしまう。これだけ説明をすれば、「正義の反対はまた別の正義」などと言う者がいかに愚かな思考をしているかが分かりそうなものである)。

 だから私は「客観的な正義」を述べているのである。

 《個々人の人権を侵害することは許されない。感情やプライドや嫉妬心やメンツを理由に、他人に敬意や好意を強要することは許されない。客観的な評価に対して反論をして、相手の名誉や社会的評価を傷つけたらそれは不当な侮辱あるいは名誉毀損行為になる。「売れたもの、宣伝に金をかけたもの、世間の評価や人気が高いもの、体制側に評価されたものに価値がある」のではなく、「価値があるものが評価と人気を得て、売り上げを伸ばす」のでなければならない。そのような「公正な結果」を得るためのインフラがないのであれば、それは環境が不正であることになる。その意味で、個人の自由な購買活動は一定の制限を受けることになる。たとえば市場の動向が商品の客観的な価値を反映していないのであれば、これを補填するために政府が税金で「客観的に価値の高いものを売っている人物」に対して「正当な報酬の不足分」を支払うことになるし、商品の客観的な価値を毀損する不当な評価や解釈を政府は取り締まり、そういう発言をする者を名誉毀損ないし侮辱罪として処罰することになる。人気投票や勢力争い、言論闘争、体制側の権力闘争で業界の序列を決めではならない。人権を享受するのは「客観的に理性(=社会形成能力)を持つ生き物」のみであり、記号人は理性がないので人権を享受しない。こうした「客観的に公正な見解」の正当性を理解できない者がいるとしても、それはその者の理解力の問題であって、考慮に値しない》

 こうしたことを誰もが素直に受け入れるなら、私は誰のことも批判せず、被害も与えずに気楽にインフラを利用することになる。しかし彼らにはそれができないから、闘争という形を取るしかない。これは客観的には「正当な権利保護」であって、不正をするのは彼らである。また、彼らには人権がないので、私に危害を加えられても法的にこれを非難することはできない。このような客観的な認識を前提にしても、私は彼らを何の合理性もないのに無闇に攻撃することはない。なぜなら彼らはインフラの一部を構成する労働者であり、公正な結果が得られている限り、私はインフラを毀損することがないからである(自己の所有物=家畜に対する管理処分権の行使)。私がインフラを毀損するのは、インフラがインフラとして機能していない場合か、あるいは毀損することに合理性がある場合のみであって、インフラをインフラとして利用する場合にはこれに危害を加えることはない。だから私はこの入院措置を受けて、手続きが終盤であることを確認して以降、彼らに危害を加えないことにしている。下手に行動を起こしてわざわざあちらに対処をさせたところで時間が勿体ないし、こちらはこれで上手くいっているのであり、反抗をする理由がない。私は日本の明文法を守っているわけではなく、客観的な正義に反しない限りで、合理的に振る舞っているだけであり、だからブログでは日本の明文法に反する発言を平気で行う。そしてこの世界では実質的にはそれが許されている。

 このように、客観的な正義を前提にしたところで、彼らは面白くない立場に置かれることになる。しかしながらそれは彼らが家畜にしか生まれられなかったことに起因するやであって、正義に文句を言っていいことではない。また、だからと言って彼らに対案があるわけではない。客観性に抵抗してこれを否定し、「正義は他人によって変わるものだ」と主張したところで、「だったら俺の正義も正義なのだから誰にも咎められるいわれはない。そちらはそちらで自分たちの価値観に従って勝手に生きてりゃいい。こちらもこちらで勝手に生きるだけだ」という話になる。あるいは日本の明文法を絶対化して私を非難したところで、「日本の制度上、正式な手続きによって罰せられていない犯罪は罪にならない。それなのに正式な手続きによらずに私を非難している者たちというのは、自分たちで自分たちの依拠する制度を否定しているに他ならない。むしろ『正式な手続きがなければ罪はない』と述べている私の方が、この社会のルールの中で最大限合理的に振る舞っていることになる」という話になる。結局、「客観的に公正な結果こそが絶対である」とする私の見解を前提にしても、「客観的な正義などない。勝てば官軍。理屈なんて後付けでしかない」とする彼らの見解を前提にしても、私は何も咎められることをしていないことになる。気に食わないからと言って、客観的でない理由で他人を否定してはいけない。

 彼らの理屈は自分たちの犯罪を正当化することには役立つが、それをやってしまうと私の犯罪も正当化することになってしまうという不都合が生じる。これは、彼らが私と自分たちを対等な生き物として措定していることから生じる原理的な不都合性である(ここで言う不都合性というのは、「彼らが私を打倒する上での不都合性」であって、それは客観的には不都合でも何でもない)。これに対して私は、彼らが私よりも劣った「理性のない動物」であることを証明した上で論を立てている。この見解ならば、私と彼らとの立場的な非対等性が当然の前提となるので、「私の攻撃はOKで、あちらからの反撃はダメ」という結論が正当となるのであり、もちろんこれが客観的に正当な見解である。それに納得しないのは、客観的な真実を受け入れられない現実を見られない子供でしかない。もちろん、客観的な正義は絶対だが、個人が間違いを犯すかどうかは個人の責任であり自由なので、個々人は好きな見解を選べばいいと思う。「正義などない」と主張して自分たちの活動も私の活動も肯定するか、「日本の明文法は絶対だ」と主張して正式な手続きにより規制されていない私の活動を肯定するか、あるいは客観的な正義を受け入れて私の家畜であることを正面から認めるか、好きに選択をすればいい。私は私で客観的な正義に反しない活動をするのみであり、他人がそれに対して何を言うかは関係がないし、誰がどんな馬鹿な考えを持っていても、私はそのような個人の選択を否定も肯定もしない。これが「本物の寛容」である。客観的な正義(=法)を守ってこそ他者に寛容さを持てるのであり、法を守っておらず、他人に被害を与えておいて、「私はあなたの見解を否定していない。あなたが何を考えようと自由である」と言い張ったところで、それは「批判に聞く耳を持たず、不正を押し通すサイコパスの行動」でしかない。たとえば安部は「私はあなたの見解を否定していない」と言いながら、客観的な正義に反する決定を下し、私の人権を侵害した。私の見解を否定していないのなら、自分の決定に疑いを持ち、これが正当ではないと判断された時点で私を病棟から解放せねばならなかったはずなのに、それをしない。ゆえに彼の「私はあなたの見解を否定していない」というのは口先のスルースキルであって、実際には私の見解を否定していることになる。否定しているどころか、取るに足らないものとして無視している。事実、彼は私が「サイコパスはあなたですよ」と述べたところで、これを憎たらしく冷笑し、「そうですかそうですか。それならそういうことにしておきましょう」と述べただけで、自分の診断内容を一切変更しようとしない〔これは自分が客観的な私の分析に腹を立てて楯突いたのを私にしばしば冷笑されたことに対する仕返しだろうが、私は客観的な分析に対する反抗を冷笑したのであり、彼のように不正な分析に対する私の反抗を冷笑したのではない。「正義の反対はまた別の正義」などと言ってしまったら闘争にしかならないのであって、だから私は客観的に穏便に、正しく「サイコパスはあなたですよ」と述べているのに、彼はそのことを冷笑するばかりで受け入れようとしない。おそらく彼のその冷笑は、あの診察室の中で私から継続的に「お前は自閉症のサイコパスだ」と言われ続けたことに対する憎しみや悲しみを隠蔽し、最大限寛容に振る舞って私の話を聞いてやったことに対するやるせなさの表れでもあるのだろうが、それは彼の感情すなわちわがままであって客観的に考慮に値するものではない。私が自らの人権を守るために彼のことを客観的に分析し、その能力の劣等性を彼にしつこく言って聞かせたからと言って彼が腹を立てる道理はなく、腹が立つにしてもそれは「我慢をするものであって、社会的に他者に押し付けていいものではない」ということになる。個人の感情よりも人権の方が重要であり、気に入らないからと言って個人の人権行使に腹を立ててはいけないし、それを我慢したからと言って他人に憎たらしい皮肉や冷笑を示していいことにはならない(厳しいww)。彼はこれまで長い長い時間をかけて、政府によって「お前は盗癖持ちの自閉症のサイコパスだ」と罵られ、惨めな発狂をさせられ、泣かされてきたのであり、私に同じことを言われるとそのトラウマを思い出しておぞましい憎しみと恐怖と悲しみを抱くのだろうが、それは全て彼自身の醜い犯罪行為および彼が人権を持たない動物として生まれたことによるものであって政府のせいではなく彼自身の問題であり、誰に憎しみを抱くことも許されない。こちらの言動は「内容および手段は法的に正当である。犯罪者は非難されて当然である。家畜の命乞いに耳を貸す必要はない。私が彼に加えている拷問に比べれば微々たるものだが、彼自身も私に対して虐待を加えている。彼には好かれる要素がない」という種々の点において正当であり、「俺に気を遣え。批判するな」などと強要される法的、倫理的、情緒的、経済的、生物的理由はどこにもない〕。これは権力を背景に正義を無視して理屈で他人に不利益な処分を加えるサイコパスの行動でしかない(彼は「俺は四次元の台本に従ったまでだ」と述べるかもしれないが、政府は彼の犯罪を規制していないだけであって、台本だからと言って彼が犯罪をしていいことにはならない)(このような意見に対して「あなただって犯罪をしているじゃないか」と言われたところで、「犯罪とは何か」という話になり、それは個人の価値観や民主的な手続きにしか根拠のない明文法と言った客観性のない見解ではなく、客観的な正義によって決められることである。私は客観的な正義に反していないので、犯罪をしていない。安部は客観的な正義に反しているので、犯罪をしている。「客観的な正義などない」と言うなら、私のことを責める道理はどこにもないし、客観的な正義を前提にしない価値多元主義は、すでに見た通りただ個々人が自分の欲望を肯定する理屈のそれぞれ他人に押し付け合うばかりの戦争状態になるのであって、それは寛容な態度ではない)。

 また今回の会話で、安部は「人類というのは歴史を通じて法や正義を学んできた」と述べているが、これは理性の証明にはならない。歴史というのは「『事実』という権威を伴う知識」であり、「その歴史的な学びが正当なものであるか否か、あるいはその学んだ結果得られた知識を当該具体的な場合に用いることが文脈的に正しいか否か」を前提としていない。つまり歴史を通じた学びというのは正当性を無視して、ただ権威によって価値を与えられているに過ぎないことになる。そしてまた、知識の持つ権威というのはそれを守る者、支持する者によって与えられるに過ぎない。すなわち、ここでもやはり彼らは「権力の後ろ盾のある知識や理屈によってしか従えない」という性質を示していることになる。だから彼らは大学機関や教会等の承認によってしか法学の研究を行えないし、最高裁判所の判断によってしか法的紛争の絶対的な解決を行えないのである。もし本当に理性があったら、歴史や経験などなくても法判断ができる。知識や経験でしか物を語れない者は自分の欲望を自分の外側にある言語によって統制しているだけで、自発的に正義を認識し、これを受け入れられる思考能力を持っていないのである(だから権力的な機関が結論を「これ」と決めてくれないと、個々人は好き勝手に都合よく理屈をこねて多種多様な見解を乱立させるばかりで、客観的かつ絶対的な見解が一つに定まらない。「他人を殺すのはよくない」「他人と争うのはよくない」「他人を傷つけてはいけない」とありきたりなことを言ったところで、それはあくまで誰もが既存の序列に安住していられる時だけの理屈でしかない。そりゃ自分が満たされているんだったら「平和に行きましょう」となるだろうよ。しかしそれは理性でも何でもない。彼らは自分に都合のいい理屈にしか従わないために、利権が絡むと個々人の意見に対立が起こるのであり、自分の食い扶持のためなら実力闘争も辞さない。客観的に公正な基準で社会的な序列を決めることができず、今ある全ての社会的秩序は実質的には実力闘争の結果でしかない。国際秩序が戦争や資源争いで決定されているのは当然のこと、すでに述べた通り、国内の序列についても、「カネのある奴だけが生産の機会、宣伝の機会を得られる。カネやコネや人気や知名度のある奴しか政治家になれない。バレていないだけで、裏金や談合は当たり前。そもそも選挙自体がただの多数決の人気投票であり、勢力争いでしかない。国家試験も学歴ロンダリングや不正がはびこる。政治家や官僚のカネの使い方は実質的には規制がない。天下りや口利きも当然に行われる。業界は実質的にはメジャーどころの事務所やスポンサーに全て牛耳られており、個人はたとえ実力があってもそれらの勢力に見放されたら終わり。実力よりも政治力。というか気に入られた奴が上に認められていいように使われるだけ。それ以外の奴にチャンスはほとんどないし、あったとしても上に認められなければ潰される」という具合で、要するに「カネ、軍事力、権力、コネ、人気、知名度、不正」と言った実力闘争によって成り立っている。社会というのは「闘争によらずに理性的に序列を決める場」であって、他人を殺さなかったからと言って、闘争でしか結論を決められないことが社会的に許されるわけではない。「他人を殺すのはよくない」というような浅薄な一般論を理解できたくらいで、理性があることにはならない。そんなものは欲望に歯止めをかけて社会の恩恵に預かるための知識でしかなく、彼らは法を破った方が得になるときには普通にこれを破るのである。これに対して私の場合、法を破った方が得になる場合でも、これを行わない。私は客観的に正当でないことは行わない。私の今の活動は、客観的に公正かつ正当であり、かつ得になるから行っているのであり、ただ得になるというだけで客観的に公正でないことをすることはない)。

 このように、正義を認識せず、権力で結論を押し通して、正しい批判を冷笑するのがサイコパスである。彼らはそのことに微塵の罪悪感もなく、「相手を打倒することのできた喜び」しか感じない。というのも、彼らは記号的な思考しかできないために理屈をこねくり回すばかりでクリエイティビティがなく、自らの労働によって「現行の体制を発展させる価値」を生み出すことができないので、現行の体制の中で汚い戦略で(彼らに客観的な正不正の観念はない)勝ちを得ることにしか喜びを見出せないのである。「サイコパス」などと大袈裟な書き方をすると、「自分はそうではない」と考える者が大勢現れてしまうのだろうが、「上司の愚痴でも言わなければやっていられない」とか「部下をパワハラで虐めないとやっていられない」とか「他人の噂話がなければ生きられない」とか「自分より下の者を見下して優越感に浸らないとやっていられない」とか「そういう汚い者の行動を批判しないとやっていられない」とか「恋人や配偶者に不満をぶつけないとやっていられない」とか「子供または親につい八つ当たりをしてしまう」とか「インターネットで誹謗中傷しないとやっていられない」とか「他人の失敗や他人が世間に責められているのを見るのは面白い」とか、そういう思考も、全て同じ構造を持つものである。もちろん程度の問題もあるが、程度は程度であって生物的な思考構造としては皆同じであり、客観的な正義の観点からは「全員が人間に値しない」ということになる。私はこのような思考構造を持たない。つまり「自分の思考内部で形成された不満を解消するために、他者を犠牲にしなければやっていられない」ということはない。もちろん私だって、誰かが馬鹿な失敗をしたらそれを面白いと思うし、自分より下の奴が自分の有能さに悔しがっているのを見ると優越感を覚える。しかしそれらを得られないからと言って、不満を抱くことはない。私は不公正なものに対してしか不満を抱かないのであり、社会が公正で自分の活動が上手くいっている限り、誰かを犠牲にして勝ちを得ることがなくても不満は抱かない(この世界では私より上の存在がいないので、私の活動が上手くいくとなると、結果的には圧倒的な勝ちを得ることになってしまうわけだが、それは結果論であって私は公正な競争ならば負けても不満を抱かない。捕食者に食われるのは嫌だが、理性がないのに理性を認められたいとは思わない)。

 要するにサイコパス(日本人のように、比較的海馬と扁桃体が強く前頭葉が未熟な記号人)というのは、基本的に「誰かが作り上げたプラットフォームに寄生して、他人を蹴落としながら甘い汁を啜っていたいだけの害獣」であり、自分で文明を開拓していく能力を持たないにもかかわらず、理屈で他人を貶めて自分の地位を相対的に上げていくことしかしない。他人から与えられた箱庭の中で、自分は一歩も前に進まず、ただ周りを潰してのし上がろうとするのである(私がこういうことを言うと、サイコパスは「そんなことはない」とごちゃごちゃ反論するわけだが、それも含めて他人の正しい意見を貶める攻撃でしかない。「貶めているのはお前だろうが」と彼らは反論するだろうが、それも含めての正しい意見を貶める攻撃でしかない。私は自力で研究を進め、文明の発展を推進しながら、その過程で自らの研究成果を背景に彼らを正しく批判しているだけであり、これは公正な社会の構築に有益なことであって、彼らの行う中身のない言語ゲームとは質を異にする)。こういう生き物を淘汰して正しい社会を構築するためには、「あちらが身を置く体制の中で勝とうとするのではなく、自力で文明を発展させて、あちらの体制ごと滅ぼしてしまう」しかない。あちらは与えられた箱庭の中で言語ゲームをしながら他人を貶して立場を確保することしかできず、自力で文明を開拓する能力を持っていないので、文明開発競争では絶対に勝てない。その惨めさを慰めるために、また言語ゲームをして私を罵るばかりである。そんな何の学術的背景もない薄っぺらい言葉をどれだけ吐いたところで、事態は何も動かない。仲間を募ってインターネットの中で大騒ぎして文句を言ったところで文句は文句でしかなく、そんな個人の主観など社会の動向には何も影響を与えない(暴力や権力で無理やり私を潰すことができるなら話は別だが、手続き的に、彼らにはそんなことはできない)。

 安部医師は他にも、「あなたは誰ともコミュニケーションが取れないが、私はあなた以外の人とコミュニケーションを取ることができる」と述べていた。これは嘘であろう。少なくとも彼の言う「コミュニケーション」というのは、「お互いに相手の感情を想像して互いに配慮し、信用し、分かり合うこと」ではなく、「権力を後ろ盾に相手と駆け引きをして、相手に都合のいい演技をさせること」でしかないはずである。想像力のないアスペルガーがコミュニケーションを取れるとしたら、その手段しかない。事実、彼は精神科医という社会不適合的なほとんど引きこもりみたいな職についているわけで(私は正しいことは何でも正直に言う)、コミュニケーション能力があったらこういう仕事には就かない。就いたとしても、彼みたいに歳を取るまで一つの組織にしがみついて上位のポジションを得ることはない。取り分け、家系のしがらみがない限り、あまり楽な仕事とは言えない精神科医をわざわざ目指す動機としては、「自分もコミュニケーション能力がなくて虐められた経験が過去にあり、精神病の人の気持ちが分かるから、これを助けてあげたい」というものが多いはずで、その点からも精神科医とコミュニケーション能力のないアスペルガーには親和性があると言える。もちろんこの世界は台本だから私の外側での「裏話」を想定することに意味はないが、あえてこれを想定するなら、彼のようなタイプは、どうせ権力に対するしつこさと嫌らしさで院内政治に勝ってのし上がっただけの者で、他人に心を開くことはないものと思われる。その傾向性はまさに、「僕は僕で、あなたはあなた。僕はあなたの立場を否定するつもりもないが、肯定するつもりもないし、僕には関係がない」という受け答え(および現在の彼の立場。※彼は上林記念病院の中でも老齢で、かなり上位のポジションにいる医師なのだそうだ)に表れている。あの受け答えを私の前でだけ即興で思いついたのだとしたら大したもので、現実にはそんことはあり得ない。普段から他人のことを信用せず、「僕は僕、他人は他人だ」と割り切って自分の心を閉ざして生きているから、私の前でもそういう受け答えがそのまま現れたのである。このような分析は、彼の実際の言動および立場とよく符合しており、また生物学的な思考構造に照らしても妥当なもので、学術的な客観性を認めることができる(繰り返すように、あくまでこの世界は台本であり、彼は「キャラ」でしかないわけだが、四次元政府が作っている以上、そのキャラは現実に存在してもおかしくない生物構造的な必然性を持っているわけで、それゆえこれが台本であることを前提にしても彼の人格を客観的に分析することは可能である)。

 また、さらに言えば、私の父である林一郎にもコミュニケーション能力はない。彼は他人に不都合な要求を一方的にしておきながら、その要求を拒まれ、議論で追い詰められると、相手の立場や意思に配慮するでもなく、同じフレーズを繰り返して無理やり意見を通そうとしてくる傾向にある。たとえばこの入院手続きで言えば、彼は私に「お前の書いた本の内容は分からん」と言い張り、これに対する「あなたの立場的に、分からなければ聞くのが自然であるのに、とうしてそれをしなかったのか?」という私の質問に対しては明確な答えを述べないまま、ただ「分からん」という言葉を言い連ねた。これでは完全に「話の分からない、自分に都合のいい理屈しか言わない自閉症患者」でしかない。すなわち彼は典型的なコミュニケーション能力の欠如したアスペルガーであることになる。

 あくまで台本の中でのことだが、そもそも彼(林一郎)は、テレビ局に勤めているくせに昔から本など全く読まないタイプであったし、学力も「二浪して中央大学にしか受からない」という点で頭はそれほど良くない。その彼が、「受験三ヶ月前まで受験勉強をせずに部活動をしていたのに、明治(法)、早稲田(法)、中央(法)、南山(法)、同志社(法)、立命館(法)の全てに一発で(つまり浪人せずに)合格し、早稲田大学法科大学院でも一度は首席を取ったことのあるこの私(林洋佑)」を、「自分よりも思考能力の劣った頭の悪い息子」みたいに見下して常識を語り、その私の業績を「分からん」という無視の形で実質的に否定しているところに違和感がある。普通、息子のことを「自分より頭のいい男」として客観的に認識しているなら、私のことがどれだけ憎かろうが、嘘でも「彼は僕なんかでは理解できない内容の本を書いていて、すごいと思う」とでもお世辞を言って、謙遜の態度を示すはずである。そうでないと、自分の実力不足(認識能力の不足)を分かりもせずに、他人の書いた本に「分からない」などと文句を言う恥さらしの態度を彼は取っていることになり、「いくらあいつが憎いからって、ムキになって対抗しようとしたりして、そういうのは恥ずかしいからやめた方がいいよ」と他人に後ろ指を刺されることになろう。そういう恥を自覚することもできないほど彼は馬鹿だとでも言うのだろうか? いや、これは彼が「後の恥よりもあの時あの場で私をコケにすることを優先せざるを得ないくらい、弱い立場にある」ということを意味しているのである。まあ一矢報いることができてよかったんじゃね?笑 こちらもこちらで彼の恥を晒して儲けに繋げることができるわけで、ウィンウィンだと思うこともできるし、被害を受けたこちらにしてみれば当然の慰謝料だわな。

 彼は「学歴だけで人の能力を判断するな」などと言うかもしれないが、少なくとも彼みたいに家が裕福で二浪もさせてもらえるくらいの環境が整っていて、本人も受験に対して真剣だったという事情がある場合、学歴は「最低限の能力の判定」として有効である。それに「学歴だけで人を判断しない」にしても、彼は社会的な思考能力も低い。たとえば彼は、私が小学生の頃、アナウンス部の新人の若い女性を自宅に呼んで、彼女を恫喝していた。聞けば、彼はその女性が自分のように太くて低い声を出せないことに腹を立て、「もっとこう喉の奥を響かせるように言うんだ!」と怒鳴っていた。声というのは鼻腔の形に依存して音が決まるものであり、鼻腔というのは人それぞれ違うので、特殊な手術や頭蓋骨矯正でもしない限り、これを自力で変えることはできない。怒鳴ったって治るものではない。ましてや相手は若い女であり、男よりも低くて太い発声はできないに決まっている。それなのに自分がいい声で喋れるからと言って、それを鼻にかけて若い女に強要したりして、恥ずかしいったらない。人事は彼女の声質を分かった上で採用しているのであり、当然ながら採用したからには特段の事情がない限り追い詰めて辞めさせるつもりもないはずなのに、彼はその判断を無視して新人の子を恫喝していた。これではその子のみならず人事部の決定にさえ反抗することになってしまい、社内の空気や組織関係にも支障が出ることは明らかのはずであるが、彼はそれを無視しておそらく自分の空威張りのためだけにそういう馬鹿なことをしていた。「こんなことで辞めるような縦社会の分からない奴は組織にはいらない」というのが彼の言い分かもしれないが、それこそ本末転倒である。縦社会というのは縦社会自体のためにあるのではなく、上下関係をはっきりさせて業務の指揮系統を円滑に運用するためにあるわけだから、今まで頑張って会社にしがみついてきた自分が威張りたいからと言って、連携が上手くいかなくなるような無意味な恫喝をしたらかえってマイナスである。あのままでは彼女はおそらく一郎のことを恐れ、まともに業務連絡もできなくなるだろうし、先にも述べたように人事部の決定に対して彼は独断で反抗していることにもなる(これだから私は「『これが縦社会だ』とか『そんなメンタルでは社会でやっていけない』とか勝手な理屈をつけて自分のメンツを先行させ、他人を威圧するエゴイスト」のことが嫌いなのである)。この一事をもってしても、彼が職場内でお荷物扱いされていたことは容易に推認でき、そしてその分析は彼の思考構造と合致しているために客観的な正当性を持つ。

 何年も前の話だが、彼は中京テレビの番組の企画で、「普段は部下に恫喝をして厳しく教育をしているが、実はこんな失態をしちゃっているんです」などという特集を組まれていた。その放送で彼は、本来「ラモス瑠偉が必殺プレーを見せました」と読まねばならないはずのところを「悩殺プレーを見せました」などと恥ずかしい言い間違いをしていた。また、「怪我で入院していた佐々木投手が退院しました」という原稿を、間違って「引退しました」と二度も読んでしまい、隣の女子アナに訂正されるという映像も放送された。そのときの女子アナの訂正の仕方は、父の失態の後に「退院です」と言うだけで、父から彼女への「ごめんなさいまた間違えちゃいました」というような言葉のコミュニケーションも何もなくピリピリしていて、「普段虐められている女子アナの仕返し」じみた雰囲気がよく表れていた。こういう「明らかに馬鹿な失態だが、取り返しのつかないことではないので、謝れば許されないということもない」という失態をした時に、冗談めかして謝れない者というのは、「自分に自信がなく、普段から他人を威圧して偉そうに振る舞っているために、自分に落ち度があってもこれを素直に認められない」という問題を抱えているのであり、そういう者は表面上では部下をへつらわせて偉そうにしていられるものの、裏では嫌われて、組織内でどんどん敵が増えていくことになる。それゆえ、肝心の時に誰にも守ってもらえず、弱い立場に置かれたまま孤立して、「俺は皆からの潰しを受けている」などと被害妄想を抱いて一人で騒ぎ、ますます周りに軽蔑されることになる。彼の頭の中では、「どいつもこいつも俺のことを虐めやがって」と感じ、周りに恨みを抱くのだろうが、それは完全に自分が周囲に正当な理由もなく有害な行動をしていたことによるものであり、誰のせいでもない。しかし彼はこの言葉も、「どうせてめえは敵だから俺のことを虐めたくてそんなことを言うんだろう」としか思わないはずである。そうしてそのまま、暴れてもどうしようもない立場に置かれるに至り、最後は惨めに泣き崩れて許しを乞うことになるのである。あのテレビの特集は、そのような彼の「惨めな負け」を反映したものだろう(もちろんあれは台本だが、四次元での事情を反映した「真実の情報提供」でなければならない。安部医師の件についても、私が台本でありながらこれを真面目に客観的に論じたのは、それが「事例は違ってもほとんど同じ構図の出来事が四次元で起きている」という情報提供的な側面がこの台本手続きにはあるからである)。彼は他人と関わると、「対人不安のせいでやたらと虚勢を張り、そのせいでかえって恥を晒し、勝手にどうしようもない立場に追い詰められ、結局最後は自虐的で惨めな態度を取って許しを乞う」という状況に必ず陥る。だから彼にとっては全ての他人は「自分を惨めな立場に陥れる敵」でしかないのである(だからいつまでも対人恐怖から抜け出せない)。彼はそのように、自分の障害のせいで、周りと仲良くできずにそういう目に遭ってきただけのくせに、それを環境のせいにして、「業界とは厳しいものだ。舐めんじゃねえ」などと他人に悪意を抱くことになる。そうしてますます、「これくらいの虐めを耐えられるメンタルがないと仕事についてこれんぞ」というつもりで、新人を虐めて楽に仕事をさせないようにするのである。これが、「アスペルガーの患者が自分のエゴをこじらせて一人で勝手に脳内に不快を溜めていき、その不快を他人にぶつける」という「憎しみの再生産」の構造である。「不快な記憶を記号化して記憶の形に置き換え、これを想起する器官」であるところの海馬と扁桃体が強い一方で、前頭葉が未発達で合理的な判断をすることのできない者ほど、このように身勝手で不合理な不快を内側に溜めて、それを理不尽に他者にぶつける傾向にある。彼のこの恥は、「対人恐怖を持つ記号人がなぜ支配欲に目覚めるのか」を理解するのに都合のいい事例と言えよう。それにしても、彼の状況も彼の周りの者の状況も、考えただけでも恐ろしい笑。普段偉そうにしているくせにああいうミスを素直に謝れないから、どんどん信用失って孤立して、職場での立場がまずくなってそれをごまかすために癇癪ばかり起こして、それでもどうしようもなくて最後には惨めに泣くことになるんだよな、、、。あ、ちなみに私はもちろんこういう性格ではありませんので笑。他人事じゃなかったらこんなこと冷静に論じられるわけがない)。

 それだけではない。彼はアナウンス部に所属していた当時、職場の女と不倫をし、それが会社にばれて報道部に左遷をさせられている。なぜ私がそれを知っているかというと、彼の携帯を勝手に見たから。中学生くらいの頃だったか。林一郎が家で過ごしている際に、やたらと携帯電話を隠すようになった。これでは明らかに何か怪しいことをしているとばれてしまうだろうと思いつつ、私はこっそり彼の携帯の中身を盗み見た(もちろんこれはプライバシーの侵害だが、民事訴訟を起こされでもしない限り、個人は損害賠償請求権を強制的に執行することができない。つまり咎められなければ問題がない)。そこには、「よく分からない名前で登録してあったものの、明らかに職場の女性と思われる人物に対して送信されたメール」が残されていた(私は彼の送信メールのボックスを確認した)。一郎は「そんなこと気にしなくても大丈夫だから。とにかく君に会いたい」みたいな文章を彼女に送っていた。ここまで述べてきた彼の生来の人格を踏まえて、相手のことを「君」と呼んだり、「会いたい」などと自分の欲望を割と率直かつ一方的に述べたりしているところを見ると、このメールの文面から彼の「自分の性欲を相手に押し付ける自惚れじみた独りよがり」を察することができる。それは明らかに、「あ、こいつ自分の権力を盾に取って無理やり新人の女を食おうとしているな」というのが丸わかりの、オヤジ気質にまみれた恥ずかしいものでしかなかった。私は面白くなってしまって、そのことを割とふざけ半分で母に報告した。母はどうやら滅茶苦茶に怒ったらしく、私の話も出したらしく、それから父の私に対する態度が冷淡になった(これは台本であって、裏話など本当は存在しないのだが)。彼は私が母に自分の不徳をチクったことが許せなかったらしい。しかし、私を憎むことか?? 自分が悪いんじゃないか。被害妄想にも程がある。このように、正不正を無視して、自分に不都合なことをした相手に憎しみを抱くのが記号人の特徴である。普通なら、「ずるいことをしたのだから、暴かれても仕方がない」と納得をして、私に謝るくらいのことをするはずなのに、おかしなものである。一郎はそれから少しして、報道部に異動になったことを家族全員に告げた。どのような経緯で会社に不倫がばれたのかは知らないが、時期的に見ても、おそらく左遷である。彼はその報道部で、「『指を切り落としてやろうか』などと上司から毎日恫喝を受けている」と私たち家族に愚痴をこぼしていた。自分が恫喝を当たり前に行っていたからか、父もこのような会社側のパワハラをまるで「業界の常識」であるかのようにある程度受け入れていて、これを警察に届け出ようとしていないところが恐ろしい(この事例を見ても、「日本はカネの動きが激しい業界ほど、ヤクザじみた権力構造を示す傾向にある」ということは分かる。これが彼らの非理性性の証拠である。このことは、田山ゼミの不正や早稲田大学法科大学院における新司法試験の不正についても言えることである。安部の言うような、「人によって細かい価値観の対立はあるけれども、大雑把には皆常識を共有できる。人を傷つけてはいけないとか、ものを盗んではいけないとか、、、」などという生易しい理屈で「だから僕たちにも理性があるんだ」と説明することなど全く愚かしいものに感じられるほどに生々しい利権闘争が、記号人の社会では当たり前に起こる。ちなみに、私がデビュー後に大規模な社会的闘争が起こるのも、「利権絡みになると彼らは理性をなくす」という点において、彼らのヤクザ的な本性の表れであることになる)。そんなことが現実にあるとは当時の私は思わなかったが(あのようなサイコパスの父でも、私の前では政府の人権保障に抗えない関係上、理不尽な態度を取らなかったので、私は割とぬるま湯の生活をしていた。彼が自らの憎しみとは裏腹に政府の権力に逆らえないという事情は、この入院手続きの展開を見れば明らかである)、彼はもう気が狂う寸前のような感じだった。これは明らかに彼がいわゆる「辞めさせ部屋」に左遷されたことを意味している。そんなことになったきっかけは、やはりあの不倫にあると推測するのが妥当であろう。しかしこれは「これまで職場内に積み重なっていた彼への不信感や不快感」が露見した結果であると思われる。テレビ業界というのはスキャンダルと隣り合わせで仕事をしている関係上、不倫等に対しては割と寛容なことが多く、有能で好かれている人材だったら、不倫くらいでそこまで惨めな立場に置かれることはないはずである(実際に芸能人や局アナ等においてそういう事例が多いのだから、この推論は間違っていないはずである)。一郎はこれまで(「自分のメンツが職場の雰囲気維持のために犠牲にされている」という一方的な被害者意識から)自分のメンツのために他人を犠牲にすることばかりしてきたので、職場のお荷物扱いされていた。しかし誰も彼に逆らえないので、処分に困っていた。歳を取って職場内の古株になるほどに、彼はそのタチの悪さを隠さなくなってきた。そこで職場も対処の必要に迫られたのであり、不倫という不始末を名目に、彼を切ろうとしたのであろう。そう考えると、この世界は私の見えていないところには存在しないので、まあこれは妄想の類(「妄想に見える真実」ではなく本当の妄想)でしかないのだが、あの不倫は彼を潰すために仕掛けられたハニートラップだったのではないかとも思われる。そもそも彼みたいなコミュニケーションの取れないオヤジ気質の自閉症患者で、普段偉そうに他人を恫喝しているくせに勝手に自爆して追い詰められて泣かされているような頼り甲斐のない惨めな男が、女にモテるはずはない。はっきり言って、こういうタイプが一番モテない。偉そうにするならするで、男としての頼り甲斐があればいいのだが、それがない上に、他人に見下されるのが嫌で恫喝ばかりするので、頼り甲斐がないにもかかわらず可愛げがなく、憎たらしい。得意なのは演説だけで、他人とコミュニケーションを取るとなると途端に何も喋れなくなり、自分を格好よく見せようとするばかりで、その器の小ささを女に見抜かれていることにも気づけないし、治せもしない。こういう男が不倫できるとしたら、それはハニートラップである可能性が高く、実際、事の流れを俯瞰してみると、台本とは言え「そうでなければあり得ない状況」だと解釈すべき事例であると言える。つまり、台本上、あの不倫がハニートラップであるか否かには明確な答えが客観的に存在しないのだが、「ハニートラップでなければ彼が不倫することなどできない」という評価自体は真実であると言える。彼はその「辞めさせ部屋」にもずっとしがみつき、結局仕事を辞めることはなかった。会社側もそれで「もう十分に禊は終わった」と判断したのか、その後に彼を報道部の部長職に就かせている。まあ会社にしてみれば、社内のパワハラを退職後に公表される方が嫌なのだろうし、名ばかり閑職という飴を与えてプライドを維持させつつ他人との関わりをさせないように飼い殺しにしておけば、彼が会社に恨みを抱くこともなく円満に退職させられるだろうとの判断があったものと思われる(もちろんこれも台本だが、私の立場の特殊性をほのめかす理由のない限り、一応「全ての裏事情に合理的かつ自然な筋が通るようにできている」ので、このような合理的な推論によって内情を暴くことができる)。

 彼はアナウンス部に所属している時から、職場に友達がおらず、母にそのことを愚痴られることがしばしばあった。「少しは友達を作って外で飲んできて欲しい」と。テレビ局で仕事をしているくせに、名士との付き合いもなく、職場での扱いを見ても、人望を認められていたわけでないことは分かる。そんな「会社に通っているふりをしたただの引きこもり」めいた人物が、私に対して社会経験を盾に取って知的に上に立つことなどどうしてできよう(繰り返し確認しておくが、実際、彼は仕事をしているふりをしているだけで、本当は仕事などしていない。私の前で父親役を演じるのが、彼の仕事である)。彼にはコミュニケーション能力のない自閉症であり、得意なのはすでに述べたように演説だけである。しかし演説というのは、「何かことを成し遂げた人物がするもの」であって、何も成し遂げていない人物がお立ち台の上がり方だけ上手くやれても、それは社会的には何の能力にも魅力にもならない。もちろん彼がそうだったように、喋り仕事は得られるだろうが、そんなものはただのお喋りでしかなく、おカネの動きが激しい業界にいるから報酬が大きいだけで、実質的には何の価値もない。しかも彼はその仕事さえ左遷によってあっさり奪われる程度の扱われ方しかしていなかったのであり、「所詮は喋り仕事。どれだけ持ち上げられたところで、代わりは利く」という感じである。

 たとえば島田紳介があっさり業界からいなくなっても大局的には誰も困らなかった。明石家さんまや松本人志は、「自分が辞めたいと言っても業界的に辞めさせてもらえない」みたいなことを言っていたが、それは彼らの能力や魅力から生じる存在価値というより彼らの知名度から得られる経済効果の大きさを念頭に置いたものでしかない。テレビ業界の黎明期にスターとして売り出され、持ち上げられ、「国民的な喋り手」の立場を得たのがたまたま彼らだったというだけで、別にそれが彼らである絶対の必要はなく、ある程度喋れれば誰をあの席に座らせても問題なかったというのが、冷静な見方であろう。この世界では四次元社会(理性人の世界)で評価されなかった「喋り」というものに価値と権威を与えるような構造が作られており、それが馬場くんをはじめとする記号人の「俺たちの価値を認めて欲しい」という希望だったわけで、私もそれに毒されて、今でも「松本人志」や「明石家さんま」と聞くとついつい「おっ」とテンションが上がってしまうわけだが、冷静に考えれば「大御所とか天才とか持ち上げられているから凄いように感じるけど、思えば俺はただ彼の『喋り』を聞いていただけだったんだなあ」という思考に至ってしまうのである(そのような印象と実態の乖離が、また興味深くもあるわけだが)。どうしてそう思うのかと言えば、私は実況者の「キヨ」に対しても同じような「こいつは何か面白いことをやってくれそうだ」という期待感を覚えるからである。たとえば時代が違えば、彼が明石家さんまの立場にいたとしても全く違和感を覚えない。時代が違えば、YouTuberの柊みゅうが「お笑いBIG3」の中に入っていてもおかしいとは思わない。全部馬場くんと大東がやっていることだ。キヨや柊みゅうにもそれぞれキャラ独自の喋りの魅力があるわけで、それぞれの魅力を生かしてそれなりに喋り、世評と肩書きを後ろ盾にして、要所要所でそれなりに偉そうな態度を取れれば大御所の雰囲気を得られるし格好もつく。別にタモリやさんまが喋りの技術に優れていないというわけではない。「サングラスをして物静かな雰囲気のヤクザっぽいおっさんが、やたら下ネタに食いついたり番組内のクイズやゲームで子供じみた悪ふざけをして若手に叱られたりしているのを見ると、ヤクザに見えていたはずのおっさんが段々いたずら好きの子猿か何かに見えてきて面白い」というタモリの技術や、「スタジオを(なぜか)戦場だと捉え、相手のトークに一瞬で対応して上手い返し、面白い返しを畳み掛け、全体のテンポを上げていくことでわざと自分を追い込んでは、それを一つ一つ克服していくその技術とひたむきさに圧倒され、勢いに押される形で無理やり笑わされてしまう」という明石家さんまの技術は一級品である(それにしても、明石家さんまの「ここは戦場やぞ」というのは私の小説の『しらす雲』みたいである。そう言えば彼は自分のことを「雀の死骸」だと述べていた。あれも『しらす雲』ラストに引っ掛けているのだろうか)。しかし、こうして彼らの歴史的価値を真面目に論じてみればみるほど、「どれだけ権威化しところで、やっぱ喋りは喋りなんだよなあ」としか思われない。読者もそう思わないだろうか? これの何が偉いの? 保坂和志は「評論を読んだだけで小説を読んだつもりになるな」と主張する。確かに「ネタの構造を理屈で説明されるとシラける」というのはお笑い番組でもよく言われていることで、おそらく今の中高生なら誰でも知っていることだろう。ゆえに当然ながら、今の私の評論が彼らのトークスキルの持つ面白さをそのまま具現化したわけではない。しかし、物の価値とはそういうものである。作品に触れた瞬間の上辺の面白さだけではなく、その背後に「客観性のある議論で価値を論じるに足る構造」がなければ、それは客観的には「権威を与えられるべき、後世に残すべき価値」があると言えない。客観的に価値を論じて面白さが失われるのではなく、むしろ面白さがさらに深まっていくような構造がなければ、その価値は本物ではない(もちろん価値や権威を偽造するために、客観性のない評論をするのはいけないが)。毎年一回放送されるさんまとSMAP司会の「美女と野獣のクリスマス」だとか何とか言う番組があったはずだが、その放送の中でゲストの女がクリスマスにさんまと過ごしたくない理由として、「楽しい。でも、ただそれだけ」ということを述べていた。これは事の本質を突く鋭い発言だと思う。喋りというのは形式であり、内容が伴っておらず、後に残せるような価値がない。だから彼らの喋りの内容を私はあまりよく覚えていない。ただ楽しかった気持ち(快楽刺激)だけを覚えていて、話の中身はほとんど忘れられている。「覚えられない」ことを保坂はエッセイ内で価値としていたが(価値とまでは言っていないが、「それが芸術だ」とは述べていた)、それは作品から得られる快楽あるいは何らかの刺激(身体への刺激)を芸術だと定義しているからそうなるのであって、客観的ではない(記号化される前の快楽刺激は、扁桃体で記号化される際に削ぎ落とされるので言葉の記憶としては残らない)。記号人は情報を思考内で構造化できず、作品の持つ情報の仕組みを客観的に評価することができないので、評論によって作品の価値を論じることが意味をなさず、身体感覚によって作品の「面白さ」を「享受」するしかない。しかしこれは作品を情報ではなく刺激としてしか享受できない表面的な読み方でしかない。何でも自分の身体感覚で決めていいわけではないということだ。もちろん保坂の言う「面白い、面白くない」は、わがままな読者が安易に快不快で作品を論じるのとは違い、作品が果たしている機能を論じたものであることは分かるが、そのような理解を踏まえたところで、結局「自分の感覚だけで作品の価値を論じるのはエゴである」ということになる。まあ身体感覚で私の作品を論じても、やはりリアリティのある表現力に優れた作品だということになるのだろうが、それは客観的には芸術の議論ではないし、その基準だと私の作品と彼らの作品とが身体感覚の水準で同列に並ぶことになってしまい、私の作品が彼らの作品に優越する上位互換品であるという真実を示すことができない。それはつまり私の作品の価値の否定ないし無視であって、私の人権の保障に欠けている。感覚的な面白さと価値は同じではない。どれだけ喋っても喋りは喋りであり、日々発せられては流れ消えていくもので、そこに文化的、学術的、芸術的、情報的な蓄積はない。もちろんこれは芸人にのみ言えることではない。麻生太郎や安倍晋三や石破茂と言った古参の政治家が未だに幅を利かせているのも、同じ構図であると言える(だからと言って「若手を重用すべきだ」ということではない。「政治家なんて誰がやっても同じ、ただ喋るだけのつまらない仕事だ」と私は述べているのである)。ちなみにすでにこのブログに書いたように、本当の彼は吃音が激しく音読すらまともにできない「喋れない人」である。四次元整形の力で喋れるスペックを手に入れて、台本でキレッキレのトークを披露させてもらっているだけで、それがなければ彼は言葉を発することもままならないただの自閉症の患者である。

 「彼は喋りが上手く世間や業界からの人気(需要)が高かった」ということが一体何の歴史的価値になるだろうか。もう一度現行の日本国内の主要メディアで評価の高いお笑い芸人の技術を客観的に語っておく。タモリは、「サングラスをして物静かな雰囲気のヤクザっぽいおっさんが、やたら下ネタに食いついたり番組内のクイズやゲームで子供じみた悪ふざけをして若手に叱られたりしているのを見ると、ヤクザに見えていたはずのおっさんが段々いたずら好きの子猿か何かに見えてきて面白い」という技術を有し、明石家さんまは「スタジオを(なぜか)戦場だと捉え、相手のトークに一瞬で対応して上手い返し、面白い返しを畳み掛け、全体のテンポを上げていくことでわざと自分を追い込んでは、それを一つ一つ克服していくその技術とひたむきさに圧倒され、勢いに押される形で無理やり笑わされてしまう」という技術を有している。これらの能力は技術的な価値しかなく、工場の機械生産と同じで日々使われては消費されていくだけの娯楽商品を作ることしかできず、申し訳ないが文明社会の発展の土台となる積み上げにならない。記号人による文学にも同じことが言える。彼らの作品には創作性がないので、文明に残すべき情報の積み上げが何もなく、そこにはただ技術的価値(あるいは思想的価値)しか見出すことができない。保坂のように「読み手の身体感覚に訴える作品が芸術だ」とする見解もあるが、読み手の身体感覚に訴えるのも技術であってそこに創作性がない以上、それは芸術ではない。しかもその身体感覚にこだわる傾向性は保坂の個人的な見解で文学全体としてはかなり異端のものであり、実際には記号人の文学の歴史は、1.技術と2.思想と3.社会的影響によって支えられてきたと言える。1.技術というのはすでに述べた通り創作性がなく、言葉の組み合わせを模索する機械的作業の産物でしかないので、そこには歴史に残すべき価値がない。2.思想というのもいわば理屈であり、機械的作業の産物であると言える。もちろんそれは当時の社会状況を表す資料としても使えるが、そのような意味で価値があるのは当時の時代状況であって思想そのものではなく、この場合、思想自体は時代を記録するための作業によって生まれた一つの形式でしかないことになる。前にも述べたが、作品内部に文脈を形成できていないのに、作品外の文脈(時代・社会状況や現実世界の風景、街並み、人物)を使って作品内部の価値をもたらすことはできない。作品外部の文脈というのはいわば「借り物の価値」であって、作品そのものの価値ではない(「作品外の要素を作中に取り込んでいけない」というわけではない。作品自体に内部文脈に基づく価値がないのに、作品外の要素だけで作品を価値づけることはできないということである)。また、3.社会的影響というのは作品を取り巻く既成事実であって、作品自体の価値とは何も関係がない。「どれだけの影響を与えたか。歴史の審判に耐えられたか」という既成事実が作品の歴史的価値や権威に繋がるという発想は、「価値のあるものが歴史に残るのではなく、歴史に残ったものに価値がある」という根拠のない事実の追認でしかなく、まさに価値を論じるのに相応しくない本末転倒の発想である。これもまた、いかにも記号人らしい相対的価値基準(絶対的な価値基準を定立せず、ただ「他に比べて勝ちを得た作品」に価値があるとする相対的基準。「勝てば官軍」の発想)の考え方であり、客観的にはそれは価値にはならない。要するに彼らの文学の歴史は、権威化と既成事実によって支えられてきた虚構(つまり嘘)であり、実質的な価値を何も持っていないということになる(実際にもこの世界は私の見ているところにしか存在しない四次元の台本であって、歴史というものはそもそも存在しない)。すなわち記号人の文学は、「歴史に残さなくてもよい」ということになる。

 林一郎は家庭でも人望を持っていなかった。私は母から陰で「お父さんはアスペルガーの気(け)が強いから他人とまともにコミュニケーションが取れない。『こうだ』と決め付ける言い方をして、こちらの話を聞いてくれない」という話を何度も聞かされたし、ここで書いたように、その分析は間違っていない。不倫がきっかけで母の林佳代は一郎と離婚をした(その時期は、私が大学に入学して上京してからすぐのことであった。まだ妹の香澄は家を離れていなかったのに、私がいなくなった途端、一家は離散したのである。これはつまり、実質的に破綻した夫婦関係を繋いでいたのが私だけだったということで、彼らの家族にとって、私がどれだけ特別な存在であったかが分かる)。また、妹の香澄は小学生時代に「風呂場で着替えているところをお父さんに覗かれた。こちらが着替えているのに、勝手に洗面所のドアを開けられて、こちらがこれを閉めようとして体でドアを押し返したのに、『あれ、おかしいな』などとわざとらしい独り言を言いながら、気づかないふりをして無理やりドアを開けられた」という話を私や母に語り(そのくらいの相談に乗るくらい、当時の私は妹と仲が良かった)、それで三人で父を無視しようと決めたことがある。しばらくの間ずっと無視をされ続け、家庭内で孤立した彼は、おぞましい形相で泣きながら私に向かって土下座をした。こういう彼の態度を見て、何となく「土下座慣れ」をしているように感じた私は「あ、彼はこういう風に自分の不徳のせいで追い詰められることが多くて、何度も苦労してきたんだろうな」という事情を察したのである(それが、彼の社内的立場に関する分析にも結びついている)。彼がなぜ私に土下座をしたのかと言えば、私は母や香澄の相談に乗ることで、実質的に家庭内の覇権を握っていたような感じになっていたからである。まあこれも四次元の事情を無視したフィクションでしかないわけだが、私の本当の立場を私自身に教えるための情報提供であろう。それに何より、家庭内での彼の問題行動を踏まえれば、相手の気持ちを考えて威圧感やストレスのない会話をすることができるまともな認識能力を持った私が人望を得るのは当たり前である(今は完全に狂人扱いをされているわけだが、内心ではあちらは四次元の事情を知っているし、私が正しいことも知っている。それを認めたくないだけで、知識はあるのである。それに彼らは、四次元の人権保障上、私を訴えることもできない)。彼の土下座をもって、とりあえず母と私は彼を無視しないことにしたが、香澄だけはそれから10年もの間、彼と一言も口を利かなかった(四次元的にはおそらくこれは、彼がこれまでベラスケスを強姦し続けてきたことの禊を含んだ情報提供であろう。※妹の香澄もベラスケスの生まれ変わりである)。彼は香澄がいつまでも自分を無視していることに、あろうことか不満を抱き、そのことを私たちに愚痴っていた。ほとぼりが冷めたから、もう許されるとでも思っていたのだろうか。私たちは話を聞きつつも、「それはあなたが悪いんだから、文句を言うことではない。むしろあなたが継続して謝罪をすべきことだ」と反論をしていた。彼はそれに対して黙り込むだけで、香澄に謝ろうとはしなかった。いつも「何で無視するんだ」と不機嫌な態度で彼女に迫り、さらに無視をされて終わりであった。それから、確か不倫がばれてからのことだったが、林佳代も割と早い時期に彼と寝室を分けるようになった。「いいじゃんいいじゃん」と言って性交を迫られたのが気持ち悪かったらしい。私は父母が性交していたことを一度も目撃していないし、それらしい兆候(たとえば急に二人の仲が親密になるなど)を確認したこともない。母は寝室を分けるだけでなく、父が帰宅するとすぐ、自分の部屋に引きこもってしまうようになっていた。何度も言うように、あの二人を繋いでいたのは私の存在だけであり、実質的には関係の破綻した仮面夫婦でしかなかったのである(それを苦に思ったことはない。別に私が被害を負うような喧嘩を彼らはしなかったからである)。ちなみにここまで説明すれば、私が彼の醜聞をこうして暴露しているのも、私が異常だからではなく、「彼がそういう軽蔑され、公然と非難されるような性質を持っているから」という形で説明するのが妥当であると誰にでも分かることだろう。

 林一郎は佳代と離婚したのち、確か「福岡ひろみ」という名の新たな妻を迎えることになるわけだが(これもベラスケスの生まれ変わり)、彼女との結婚生活も上手くいっていない。はじめこそ彼は、新しい妻と映画に行ったり旅行に行ったりして、一時のハネムーンを楽しんだのだという。ところが次第に仲が険悪になり、やがて妻が家事もせず部屋で寝て過ごすようになり、彼のことをネグレクトするようになったというのである(何年も前に彼と会った時に、彼はそのことをまるで家庭内の愚痴でも述べるかのように、自分が被害者であるかのように語った。自分に非があるとは考えていないようだった)。もちろんベラスケスにも人格の問題があるので、これが彼の問題のみによって引き起こされたわけでないことは当然だし、おそらくこの二人が喧嘩をしたらお互いに相手の人格を罵り合って醜い泥仕合を演じることになるに違いないが、曲がりなりにも結婚をして一時的にハネムーンの時間を過ごした相手にネグレクトをされるのはさすがに異常である。妻がこういう態度を取るのは、相手のことを「話しても何も気持ちの交流を得られない異常者」として気持ち悪さを感じるようになったときであり、どれだけ難のある妻でも普通の旦那にここまでの態度は取らない。林佳代の言動に照らしても、彼と新妻との関係は、「一郎が卑屈なプライドから自分の意見にこだわって譲らず、妻の話を聞こうともしないで一方的に意見を押し付けるような物言いをし、それに従わないと腹を立てるので、妻は常に彼のご機嫌を伺わざるを得なくなり、会話に疲れるようになり、彼と一緒に過ごすのが息苦しくなって、やがて無視をするようになった」という状況にあるものと思われる(もちろんこれは台本上の設定だが、彼らの四次元での関係を反映したものである)。また、一郎は重度のマザコンで、一人立ちして親元を離れ、会社に勤めるようになってからも、頻繁に自分の母親(林里子=細木数子の生まれ変わり)に電話をかけて、悩み等を聞いていた。母の林佳代はそのことに不満を抱き、「いつまでもお母さんに頼っていて情けない。親族の集まりでも私よりもお母さんの意見を優先している」などと愚痴をこぼしていた。これでは精神的には一人立ちしたとは言えない。記号人というのはそういう性質を持っている。自分の中に実体のある価値基準がなく、他者からの評価や待遇に依存しなければ自己の価値を知ることができないので、常に外部に拠り所を求めて生きるのである。彼はその傾向が最も強いタイプなので、成人した後も「お母さん」に拠り所を求めてしまっていたというわけだ。

 このように、彼は学力だけではなくソーシャルスキルの点でも優れているとは言えず、立場上は引きこもりの私よりも社会経験を積んでいるように見えても、実際には対人関係に重大な難を抱えていると言える。彼の欠陥から生じた妹や母の被害の相談に、私が乗っていたくらいだから、私の方がコミュニケーション能力は高いことは間違いない。ただ、今はまさに「大人の事情」で私がそのコミュニケーション能力を発揮できないというだけである。彼はこのことを認めたくないだろうから、あえて私を見下すような態度を取ったのだろうが、それでは自分が有能に生まれられなかった劣等感から、息子の有能さを認めることのできない卑屈な根性が滲み出てしまってかえって恥でしかない。

 ちなみに、田山輝明(馬場くんの生まれ変わり)もコミュニケーション能力に欠けていた。覚えた知識をひけらかして一人で法律を語る際には雄弁であったが、対人のコミュニケーションはまともにできない。私が何を聞いても要領を得ない言葉が返ってくるだけで、私はその内容を色々な事情を考慮して推理し、対応を決めなければならなかった。ゼミ合宿でも、「用意されたワインが冷えていない」という理由で学生を叱りつけるようなわがままぶりを発揮し(恥ずかしくないのか?)、学生に介護されるような形で気を遣われていた(「俺を立てろ」と他人に偉そうにしている者を見ると、私はその者が周りに介護をねだっているように感じられて他人事ながら恥ずかしく思う)。彼が大所帯のゼミを抱えていられたのは、「司法試験や院試の答案をゼミ内に不正に流出させ、教え子との間で秘密を共有して弱みを握り、逃げられないようにしていたから」であって、教え子からの人望は全くない。その証拠に、私が彼の不正を表に露見させた際に、ゼミの先輩たちもこうした不正に加担していたことが暴かれている(過去のブログ投稿参照)。したがって、彼の不正はゼミ内で常態化していたことになる(あくまで台本上の設定の話だが)。私が彼の不正を潰したその翌年に、新しくゼミに入ってきた後輩がたったの二人しかいなかったのは、まさに学生たちが「不正ができないなら彼と関わるメリットはない」と感じていたことの表れであろう(どこでそんな噂が流れているのか私は知らないが、おそらく表には出ない情報網があるものと思われる。あくまで台本の設定だが)。それにしても、過去の私は林一郎に対しても田山輝明に対しても「不都合な事実を暴露して人生を潰す」ようなことを割と簡単に当たり前みたいにやってしまっていたわけで、こういうことをするとあちらの恨みを買うのだろうが、別に悪いことはしていない。私は客観的かつ合理的に思考できるので、こんなことで他人から恨みを買っても「自分が悪いのにどうして私に腹を立てるんだろう?」と思うだけで、自分が悪いとは思わないし、恐怖も感じない。逆にこれで腹を立てさせたらあちらの負けになるわけで、「どうぞ勝手に腹を立ててください」という話にしかならない。

 田山輝明は研究員としても大した成果を上げていない。私はゼミ合宿等で彼がゼミ生と話しているのを聞いたことがあるが、彼は七十歳手前になってもうすぐ引退するというのに、未だに「司法試験で最年少合格をした」ことをゼミ生に自慢するばかりで、仕事のことは何も語ることがないようであった。旧来型の司法試験はなるほど国内最難関と言われるほど突破が難しい試験ではあったが、あくまでそれは「試験」という枠組みの中のものであって、所詮毎年数百人の合格者が出る類のものでしかない。そんな「入り口での達成」に年老いてもなお縋っているようでは、社会に出てから実力が通用せず、何も成し遂げられていないことを自白しているようなものである(その体たらくでは、そりゃ不正してゼミ生を集めて勢力拡大を図ることくらいしかやることがないだろうよ。普通は、つまり理性があったら身の丈に合った立場を受け入れるのであり、そんなことをしてまで権力を握ろうとは思わないはずだが、彼のように理性がなく、嫉妬心と劣等感の強い生き物はそういうことをするのである)。また、彼の時代の司法試験は、難関とは言え、「留置権の性質について述べよ」という類の「教科書丸暗記型」の単純なものが多く、彼のように「未知の問題に対処する能力はないが、覚えた知識をべらべら語ることは得意である」という「実務で使えないタイプの者」でも合格できるようになっている。今みたいに事例が出され、未知の処理を要求する論点が含まれるような問題は出されなかったのである。つまり彼は研究員というよりどちらかと言うと作業員で、「ドイツのゲッティンゲン大学で比較法を勉強した」という肩書きと知識を使って農地法の整備を行ったくらいが彼の仕事だとされている(「どこどこ大学で何を勉強した」ということが肩書きになるのがこの世界である。学生じゃないんだからどこで何を勉強したかなんていちいちプロフィールに書かないで欲しい恥ずかしい。「勉強した」だけで終わっているということは、「その時期には何も成果を上げなかった」ということじゃないか)。つまり彼はいわゆる官僚の事務仕事をしたにすぎず、学者として何らかの研究を進めたというわけではない。また、晩年には成年後見制度の整備にも携わっているようだが、これも官僚の事務仕事の一環であろう。しかもこれは、「老い先短い自分が後見人を雇う際に、実権を握れるようにするための制度」と言っても過言ではない。成年後見制度の前身としての禁治産制度は、「認知能力の落ちた者を法的に無能力者と位置づけ、その財産管理を全て後見人に任せる」というものであり、認知能力の落ちた老人の財産管理権を実質的に否定するものだった。これに対して成年後見制度というのは、「被後見人(主に認知能力の落ちた年寄り)の判断能力に応じて、部分的に本人の財産管理権行使を認める」というものである。理念自体はそれほどおかしいとは思わないが、彼がこの仕事を選んだのはかなり歳を取ってからのことで、要するに彼は「歳を取って思考がおぼつかなくなって、代理人を必要とするようになってからも、代理人の判断に少しでも口出しをしたい」という発想から自分のために仕事をしたに過ぎない。こんな風に、官僚というのは一見合理的な法整備をしているようで、その実、自分に都合のいいところだけやたらと細かく配慮の行き届いた法整備をするのであって、理念自体がまともに見えてもその税金の使い方の偏りに問題があるという場合がある。客観的正義が分からないと、こうしたことに関する不均衡を考慮することなく官僚が官僚のために仕事をするという問題が起きてしまうのであって、これは実質的には「税金を公益のためではなく自分のために使う窃盗行為」なのだが、明文法に触れないために規制や処罰はされない。「記号人は非理性的である」というのはこういうことを意味する。明らかにばれるような形で人を殺したり盗みを働いたりせずとも、社会制度を悪用して実質的に個人の人権を骨抜きにし、不当な搾取をして葬ってしまうことを彼らは平気でやるのであり、これを暴かれて咎められても非を認めることなく逆に腹を立てて恨みを抱くことしかしない。さて、こういう彼の就業態度をまとめると、要するに「試験の不正でゼミ生を集め、自らの派閥に属する教え子を多数司法試験に不正に合格させ、司法業界内で勢力拡大を図りつつ、自分は海外の大学で勉強したことを日本に輸入して一応名目的に事務作業員として農地法を整備し、プロフィールに書けるだけの最低限の肩書きを得つつ、後はろくに研究の仕事もしないで不正を共有した教え子を脅して管理するだけで、後で自分を恨む教え子たちから復讐されないように、教授職を失った後も実権を握り続ける目的で後見制度の整備に尽力する」ということしかしていない。つまり彼は「自分の得になるような不正な目的」がないところ以外では仕事をしていないのである。わがままでろくに仕事をする気もなく、そのくせ自分の利益に関することについてはやたらと主張を強くし、立場を利用して人に圧力をかける。そういう彼のサイコパスの人格が、彼の思考の傾向性および彼の行動からよく分かるというものである(もちろんこれは台本上の設定だが、四次元法上、サイコパスの思考構造が分かるようにリアルに設計されている)。彼はまた、自分の教え子が望んだ仕事が得られずに悩んで自殺したことを嬉しそうに酒の席で語った。彼は自分のやったことの責任を感じることもなく、「俺に反抗すれば干されて仕事を失うのは当たり前。自業自得。ざまあみろ。てめえらも俺に潰されたくなかったら俺に従えよ」という自慢をしたのである。このように、記号人は絶対的な法観念がなく、罪の意識は「それが実際に罰を受けるかどうか」という相対的なものでしかないので、「たとえ制度を悪用して人を自殺に追い込んだとしても、罰を受けなければ良心の呵責を覚えない」という性質を有している。

 これは何も彼のように重度のサイコパスに限ったことではない。たとえばインターネットで他人や企業を誹謗中傷をする者は、「こいつのことは批判しても構わない。どうせ匿名だから罰せられない」という気持ちでこれを行っているのであり、そこに良心の呵責はない。彼らは「こいつのことは批判しても構わない」という判断が客観的に正当であるかどうかにこだわることもなく、ただ「俺はそう思う」という自分の感情を絶対化して他人を攻撃するのであり、それが無責任な態度であることに気づけない。他人に指摘をされても、「どうしてだよ。俺(私)の方が正しいでしょうが」などと反論をして周りの同意を求めるばかりで、自分で正当性を証明しようとしない。「法に罰せられることがなく、世間に責められなければ何をしてもいい」というのが彼らの発想であり、そこに客観的な正義の観点は存在しない。これはつまり、「咎められなければ何をしてもいい」という非理性的な発想でしかない(私もそのような社会制度を利用して、「正式手続きで咎められなければ罪にならない」という活動をしているが、これは彼らと異なり客観的な正義に反しないことを自立的に判断した上での行動であって、非理性的な態度ではない)。安部一成、林一郎、田山輝明と言った重度のサイコパスは、上記のような記号人の非理性性の例示でしかない。このように個人を抽出して全体を論じるのは科学的ではないとする向きもあるが、記号人全体を包摂する理論体系を打ち立て、「これに反する例が一つでもあるならば、今のような社会状態にはならない(つまり私のような者が一人でもいたなら、この世界は今のような低い文明水準にとどまることはない)」という論証をした上で、その理論体系の整合性を確認するための証拠として個人を抽出して論じることは何ら科学に反していない(現行の医学においても、たとえば多重人格の研究資料として個人の症例が抽出されることはよくある)。

 彼(馬場大祐)は、あくまでほのめかしの形でだが、このように自分の醜さを世間に晒される恥辱に耐えるために、「俺はあえて自分の醜さを晒すことで、自分の名をいつまでも歴史に残すことができればそれでいい。忘れられなければそれでいい」と語っていた。障害をこじらせて他人に害を与えたことを反省もせず、逆に責められたことに恨みを抱いて、まるで自分が被害者であるかのように、「醜さを晒されたことへの慰め」として知名度を上げられることを語り、そうして「思い通りにならない現実に対する慰めを欲し、小さな抵抗を図ろうとするいじらしい自分」に陶酔しながらどこまでも自分が特別であろうとするその有様は、まさに「他人の感情を想像できず、自分の利益や名声にばかりこだわって正義観念を無視して他人に害を与えては、罰に対して憎しみを抱き、根拠なく自分を特別だと思い込むサイコパス」の態度であると言ってよい。このように「罪を忘れて罰を憎む」という性質を持つのがサイコパスであり、当然ながら私の告発に対しても憎しみを抱くことになる。それにしても、「俺はどれだけ醜さを晒されても歴史に名を残せるからそれでいい」とは、これではどちらが炎上商法なのか分からない。元々炎上商法というのは「彼のように実力のない者が無理やり知名度を上げるための手法」として用いられるものであり、私のように「大人の事情」で業績を意図的に無視されている者が使うのはふさわしくない。私の営業は形式的には「炎上商法」という形を取っているが、実質的には「不正への抵抗、罪の告発」であって、炎上商法と呼ばれるにふさわしくない。

 「テレビ業界では公に批判をするときにも逃げ道を作るように批判をするものだが、インターネットの批判には逃げ道がなく、個人を完全に潰すようなことを平気でやる」ということが最近よく語られているが、私の告発も同類のものとして語られ、まるで私が悪いことをしているかのように論じられることになるだろう。しかし、擁護の余地のないものに対して逃げ道を与える理由などない。そうやって体制側に利害関係のある加害者の人権ばかり擁護して狂人に逃げ道を与えた結果、被害者が割りを食うことになるのである。それはまさに「わがままな奴が泥みたいな情けないへつらいと、やたらめったらな文句を交互に示しては、組織とベッタリ共依存して秘密を握り、運命共同体となって一定の地位を確保することで、悪いことをしても組織に守ってもらえる」という日本社会の縮図であり、体制側が優しいのはこの種の者たちが秘密を共有していて自分たちとの間に利害関係を持っているからに過ぎない。だから逆に「体制側に利害関係のない個人」に対しては、メディアはどこまでも苛烈な批判を向けることになる。記号人というのは理性がなく正義よりも利害で物事を判断するのであり、メディアはメディアで、守った方が自分たちの得になる人物を守っているに過ぎず、別に個人を許す寛容性があるわけではない。そもそも犯罪に対して寛容である必要はない。彼らが犯罪に対して寛容なのは、「理性がないために、自分たちも割と汚いことをやってきたから」であって、それは寛容でも何でもなく、単なる「だらしない低め合いの態度」でしかない。しかしそんなことを言い出せば、それじゃあネットでの誹謗中傷はどうなるんだ、個人の違法ダウンロードはどうなるんだなどという話に発展してキリがなく、全員の人間性が否定されることになる(私の場合は正当性を証明している)。彼らはそれが嫌だから、お互いに「まあこういうもんだよね」「誰だって不満や鬱憤は溜まるのであり、どこかにはけ口がないとかえって息苦しい」などと開き直ってある程度なあなあで暮らしているに過ぎない。犯罪者が犯罪者に優しいのは当たり前であり、それは非理性的な動物が人間でないことをごまかすための対応であって、彼らは彼らに得になるからそういう態度を取っているだけで、客観的な正当性があるわけではない。私がメディアでどう扱われるのかは知らないし興味もないが(彼らの醜さや立場の弱さを確認する上でなら興味があるが)、こちらの主張に正当性があり、それがあらゆる点において示されている以上、簡単には攻撃できないだろう。私を攻撃すれば、否が応でも反撃を食らうことになるのであり、世間へのイメージや人気に頼って生計を成り立たせている彼らは対応を渋るに違いない。まあ建前無視で開き直ってもらってもこちらは全く構わんが(私は世間の人気やイメージではなく、「人権」に頼ってカネを稼いでいるだけなので、別に誰にどう罵られても問題がない。本当はあちらも「三次元世界の体制を成り立たせるという建前」に頼って生きているだけで、世間のイメージや人気に頼っているわけではないのだが、建前に頼っているがゆえに建前上、世間のイメージや人気に対する配慮を示さなければならないのである。ましてや、建前だけでなく実質的な四次元の権力関係において、彼らは私の人権を擁護せざるを得ないので、主要メディアの対応はどこかぎこちない八百長めいた形を取ることになろう。はじめこそ酷い扱われ方をするだろうが、徐々に攻撃は収束し、やがて「結論の正当性がどうであれ、俺たちの仕事や社会の運営に支障が出て困る」という嘆願めいた論調が繰り返されるようになるのではないか。主戦場はインターネットであろう。匿名を用いることによって私からの反撃を封じた形でなければ、彼らは私と戦えまい。これではどちらがネットゲリラなのか分からない。主要メディアは私に対するそうしたインターネットでの匿名の人格攻撃を報道することで、間接的に私を攻撃することはできるだろう。どうせインターネットでしつこく執着するのは利害関係のある者だろうから、結局これも自作自演めいたものとなるはずだが、それが匿名である限り証拠はないし、関係者ほど開示請求による検閲を免れる偽装工作を行っているはずだから、こちらはそういう対応は取らない。犯罪被害を受けることは客観的正義に反することではないし、こちらはインターネットで誹謗中傷された方が得になるので、別に言論規制はしない。これを炎上商法と呼ぶべきではない。これは犯罪者の不始末や犯罪傾向を利用した「犯罪者利用商法」とでも呼ぶべき手法である)。

 どうせサイコパスというのは、どれだけ正しい責められ方をしても、非を認めず、恨みを抱いて反撃をしようとしてくるか、責められた分だけ利益をねだろうとしてくるかしかしないのであり、「犯罪を止められず、責められれば責められるほどなおさらしつこく犯罪をしようとする」傾向を持っているがために、性質上、擁護をする余地がない。自分を人間だと偽り、理性人の土俵で生きる限り、死ぬまで法に否定され続けることが生まれながらに確定している社会的に有害な生き物である。躾や教育をしても意味がない。彼らは教えられれば教えられるほど、教えられた知識を悪用してより卑劣な戦略を取ってくるだけであり、教えられた通りに素直に高潔に成長する可能性はない。なぜなら脳の仕組みがそうだから。彼らの思考は「自分の欲望を肯定するように理屈を組み合わせる」という仕組みで成り立っている。サイコパスというのは記号人の中でも特に、記号的な思考の過剰性ゆえに、この欲望が嫉妬や対人不安によって反社会的に強められているのであり、知識を与えられれば与えられるほど、その反社会的欲望を肯定するようにより卑劣な思考を抱くようになるのである。この主張を過激だとか人種差別だとか主観主義刑法だとかレッテルを貼って批判したところで、私は生物学的な真理を述べているだけであって、薄っぺらいレッテル貼りが真理を覆すことはない。「俺たちの思考は元々社会的に有害にできているのであり、それを治すことはできない。思ってしまうものはどうしようもないし、その感情が俺たちにとっては生きる上での全てなのに、それを社会に全否定されても困る。そんな生きづらい社会は嫌だ」と言われても、社会というのは彼らが生きるための犠牲や人柱を提供する場ではない。社会というのは社会のためにあるのであり、個人が社会から恩恵を受けたいと思うのであれば、社会が個人に合わせるのではなく、個人が社会に合わせるのでなければいけない。

 安部医師は、私の説明に対して反論らしい反論をしていない。彼は「僕たちにだって正義を大まかに認識できる」と言いながら、私の「未知の事柄に関しては正義判断ができなくなる」とか「利権が絡むと争いを生じる」(後者は彼の前で述べた意見ではないが)とか言ったことに何らの反論も加えておらず、話題を流してしまっている。「(反論はできないが、とにかく)個人がどんな見解を信奉するのも自由であって、あなたが何を考えていても私は何も言いません。しかしあなたは迷惑行為をしたのだから云々」などという形で、こちらの反論を意図的にスルーして、「反論できないのに真実を認めたくない」という彼個人のわがままをまるで正当な思考であるかのように見せかけた上で、「あなたが何を言おうと、それはあなたの個人的な見解だろう」などと一方的な決めつけを行い、その決めつけをした上でこちらの「客観的な正当性」を「単なる個人の価値観」のレベルに貶め、「単なる価値観で迷惑行為をするのはいけないことだ」と言い張るのである。これじゃあこちらの正当な主張に対して、「そんなことはいいから、とにかくお前は迷惑なことをするな」と言い張られているのと変わらない。こちらは開かれた思考をもって、理性的に、「反証があるなら受け入れる」という態度で議論に臨んでいるのに、あちらは「言い逃れができなくても認めない。受け入れない。そんなものは個人の価値観でしかない。とにかくお前が悪い」という発想しかしていない。個々人の価値観がバラバラだからこそ、客観的な公正性でもってその根拠を問い、結論の優劣をつけなければいけないのであって、それができないなら争いしか生じない。だからこちらは、あくまで平穏に正当性を主張しているのに、あちらはそれを自発的に受け入れようとしない。「個人の価値観にかかわらず、個人の気持ちや欲望にかかわらず、真実は真実として受け入れざるを得ない。真実を無視して自分の希望や価値観を語るのでは、他者を不正に害することになり、社会の構成員として責任のある態度を取ったことにならない」という思考が全くできていない。これは典型的な自閉症の態度であって、個人の価値観で社会的な公正性を害する有害な思考構造の表れである。

 ここで一先ず、安部医師との議論に関連する説明を終えることにする。

 、、、それにしても、何だよこの文章量。多すぎだろう(誰が読むんだ?)。しかしこちらの論の客観的な正当性を示すためには、これくらい書かないといけないのである。これを見て分かるように、馬鹿にも分かるように短い言葉で説明すれば、短い言葉で反論される。反論されないように、長い言葉で詳しく説明すれば、「長過ぎて全体として何が言いたいのか分からない」と言われる。馬鹿に付ける薬はないし、馬鹿は馬鹿であるがゆえに有害なのである。分からないなら分からないで黙ってりゃいいのに、なぜか自分の意見は自信満々で開陳し、私のことを貶める。こんな風に説明をしたところで、あちらは非を認めるでもなく、言われたことに腹を立てて「ああそうですよどうせ俺たちは馬鹿ですよ」と開き直るだけ。つまりこういう生き物は、「責めなくても有害だし、責めても有害」ということになる(しかも能力的にその有害性を改善することもできない。また、自分の理解力が十分でないことを認識することもできず、「自分に理解できないものは、誰でも分からないものだ」と決めつけるばかりで、自分の認識のおかしさを自覚することができない。知識で反論不能なことが分かっていても、納得ができず、それゆえ公正性に対して不満を抱かないようにすることができないので、我慢をして自我を抑制しなければ他人に害を与えずにはいられない。我慢というのは、感情的な理由で簡単に解かれるものである。だから彼らは「〇〇だから」などと正当性のない一方的な理屈で、不満を他人にぶつける名目にする。彼らが自己の正当性の客観的な証明をすることもできないくせに、「正義は人によって変わるものだ」などと都合のいいことを言って何かしらの理屈を吐き、正しいかどうかも分からない理由で他人を攻撃しようとするのはそのためである。「何が正しいかは人によって違う」と言いながら、自分の正義観念で他人を責めるということは、結局こういう人たちは、「僕の主張する正義が正しいと思うよね?」という自己確認のために他人を攻撃しているのであり、自分でもそれが正しいのかどうかを分かっていない。ただ「みんなが認めてくれそうな意見や綺麗事」を世間に晒して、支持を集めるゲームをしているに過ぎないのである。そんなゲームのために客観的な正義に盾を突いて、他人を攻撃する。これが彼らの社会的有害性の根拠である。ほんと、分からねえなら喋らなきゃいいのに。みんなが認めてくれたからってそれで正しいってことにはならねえのに、本人は強くなれた気がして嬉しいんだろうな)。

 彼らははじめから「気に食わない意見に従いたくない」という発想を持っている。目に見えない評価や分析を客観的に行うことができないので、正しい説明をされても、「気に食わなかろうが何だろうが、これが正しくてこれしか結論を出しようがないのだから仕方がないな」とは思えず、「何でそんな一方的に結論を押し付けるんだ。そっちが結論を押し付けるなら、こちらだってお前に結論を押し付けることが許されていいはずだ」としか考えない。客観的な正当性を認識できるこちらにしてみれば、それは「いやだからこっちの見解以外に正しいものなんてねえんだからこれしかねえだろうが。馬は馬。鹿は鹿だ。それは別に俺が決めたことじゃないし客観的にそうなんであって、俺だってその客観性に従っているんだからお前も従ってもらわないと困る。何でお前だけ客観性に反した主観的な欲望を押し通すことが許されるんだ? そんなわがままが社会で通るわけねえだろうが。社会というのはみんなで生きているのだから、それぞれがわがままを言い合うのではなく、客観的に公正な結論に従うしかない。俺だってこれに従った上で行動しているのに、何でお前だけそれに反抗することが許されるんだ??」という話である。このような説明をすれば、少なくとも「どちらが正しいかは置いておいて、どのような点で記号人の見解と林洋佑の見解がこじれているかは記号人にも分かる」ことだろう。『物理学』等の業績に示される私の思考能力の高さや、「正義に絶対はない」などという記号人の主張の愚かさに照らして、このこじれ方を見れば、たとえ記号人であっても「おかしいのは俺たちの方なんだな」と思うはずである(そうでなければおかしい。私のデビュー後に起こる騒動は、「正義に絶対などない。あるのは異なる正義のぶつかり合いである」というあなた方の思考構造の成れの果てである。その環境を見て、「お前を攻撃し、社会の安定性を維持するのが俺たちの理性だ。おかしいのはお前であって、俺たちの主張は正しい」と誰かが私に主張したところで、その主張が社会的に通らず、俺に好き勝手に営業をされてしまうのも、「そんなものは個人の価値観でしかなく、絶対的な正義などない」というあなた方の思考構造によるものである。どんな手を使ってもどんな説明を用いても、馬鹿に正義を教えることはできない。だから「記号人には理性がない」「記号人は人間のふりをした非人間なので、人権がない」と私は言っている。それを間違っていると言われても、これ以外に答えはない

 私がこんな風に、醜いもので埋め尽くされた文章を書いているのは誰のせいなのだろうか。これは私の醜さか? いや、そうではない。彼らの醜さである。私は「客観的な分析」を行っているに過ぎない。私の目が濁っているから、彼らを醜いものだと解釈しているのでは決してない。彼らの建前を安易に信じて、「彼らだってみんなのために仕事を頑張ってきたのであり、その頑張りを評価すべきだと思う」などと考える者の目の方がむしろ濁っていると言える。「みんなのため」というのはつまり、「そういう彼らの犯罪活動が自分たちに得になるから評価する」という集団エゴイズムに過ぎず、そのようなエゴを排して虚心坦懐に事物を評価している私のことをおかしいと論じる者たちの目は歪んでいる。自分たちが醜いと評されるのが嫌だからと言って、それを拒んではいけない。客観的な真理を追求することが学術や文明の発展に貢献するのであり、自分たちの得にならないからと言ってそれを邪魔しようとするのは不正である。恨むなら社会適合的に生まれられなかった自分たちを恨めばいいのであり、私や社会を恨むのは歪んだ思考でしかない。

 さて、こんな感じで毎週の診察が行われ、そのまま年末が近づいてきた。私は考えるべきことがなくなったのに、頭蓋骨矯正の影響から脳の血流が促進してやたらと活動的になり、一人で部屋の中で下手な歌を歌ってめちゃめちゃ気持ちよくなって自己満足に浸ったりしていたが(これは矯正の進捗状況を把握するために、鼻腔内の声の通りを確認するためでもあった)、三日くらい歌って飽きてきた頃にスタッフに優しく咎められて規制された。本来ならばクソ恥ずかしい展開だが、まあ昼間から奇声上げてる奴とか普通にいたしこういう世界だから別に恥ずかしくも何ともなかった。飯が美味いのと診察の周期のおかげで時間の流れは速く感じていたが、脳が活動的なせいで暇を感じさせられた。そんなとき、ふと先日父母と合議をした際に、母が私に個人的に箱ティッシュをよこしてきたことを思い出した。「母が息子に箱ティッシュを渡す」という行為は、自慰行為を連想させるよくあるベタな暗示であろう。問題はなぜ彼女がそんなことをわざわざしてきたのかである。あの場でろくに喋りもしなかった母が、わざわざティッシュを手渡すところだけは能動的に動いていた。「これは何かある」と思い、これまでの経緯を踏まえて想像を巡らせたところによると、どうやら私は、意図的に彼女(ベラスケス)と擬似セックスをしないで単独のオナニーをしているときにも、彼女と性行為をしているらしいことが分かった。だから彼女は、日頃の拷問の鬱憤を晴らすために私とのセックスを利用しようとして、あのとき私にティッシュを渡したのである(「何という下劣な発想だろう」と自分でも思うが、これが事実なのだから仕方がない)。彼女がどうやってオナニー中の私と性行為をしているのかと言えば、それは以下のようなものであると考えられる。「彼女は私には見えない四次元空間において、私と空間を共有しており、私の自慰行為中に勃起している私のペニスを四次元で勝手にヴァギナに挿入して、勝手に性的快楽を得ている」。こう考えなければ、彼女の行動の意図が説明できない。今まで私は引きこもり生活の暇を解消するために、彼女のほのめかしに釣られて、勝手に擬似セックスを行っていたのだが、その仕組みは以上のようなものだったと今頃になってようやく分かった(何て恐ろしいことをしていたんだろう。まあそれ以上に危険なことが四次元では当たり前に起きているので、この程度のことは気にするほどではなかったと言える)。ちなみに、かねこあやがてんちむと一緒に収録した自作のYouTube動画で、「擬似やってみる?」などと発言していたのは、私と彼女が四次元で擬似セックスをしていたことのほのめかしである。投稿されたのはかねこあやのYouTubeアカウントで、動画タイトルは、「【第二弾】てんちむ、何しても怒らない説」。何かしら元ネタがなければ、普通はこういう発想に至らないはずであり、他の点で私に対するほのめかしが色々と行われていることを併せ考えると、これは四次元の秘密をほのめかしたものと見て間違いない(他のほのめかしがなければ、さすがにこれだけで自分の私生活のほのめかしだとは思わない)。

 つまり彼女は、馬場大祐が平行世界を盗んでいないときにも、常に私の側で四次元空間を共有していたということになる。そうでなければ、この推論は成り立たない。??? これはどういうことだろうか? なぜ彼女だけが特別扱いされているのだろうか。他の三人は馬場大祐が平行世界を盗むのでない限り、私の生産した世界に侵入できないというのに。この扱いの違いは、彼女が特別な立場にあることを意味している。私の頭に、以前否定したはずの「ベラスケスが理性人に進化する可能性」が俄かに立ち上がってきた。この見解について、以前ブログに記載したものをもう一度載せておく。

《彼女は醜い思考を持って生まれてきた記号人である。しかしながら、その醜い劣等感が他の三人にも増してあまりにも強いために、かえって理性人への進化を誰よりも強く欲していた。彼女の魂は、「どれだけの苦痛を受けても人間に進化する」というその強い希望によって、理性人に進化をする可能性を秘めていた。だから政府は彼女が理性人に進化するためのプロセスを彼女に提供した。それは次のようなものである。

 「彼女は他の醜い三人と共に無限の罪を犯し続け、その報いとしての処刑手続きである今のこの世界で、無限の拷問を受け続けることになる。しかし彼女の魂は、自らの背負ったその深い業によってどれだけの苦痛を受けても醜く生き続けることになる。その間の時間を使って、彼女はこの三次元世界で林洋佑と結婚をし、共に生活することを通じて人間に進化するための教育を受ける。そしてそのまま百年近くが経ち、彼女が全ての罪を償って魂の解体に至るそのときに、彼女は理性人に進化して再誕することになる」

 彼女は自らの醜さゆえのみならず、理性人に進化する夢のために犯罪を繰り返していた。しかしそのあまりにも悲惨なシナリオに対して恨みを抱き、政府に報復をせずにはいられなかった。だから彼女は、今のこの私にあらゆる虐待を加えた。彼女は私が悪くないとは分かっていたはずだが、あまりにも自分の境遇が惨めなものだから、八つ当たりの対象を求め、少しでも進化の苦痛を和らげようとしていたのである》(ブログ記事『最近の感想』より)

 ここで言う、「三次元世界で結婚し」というのは、もちろんこちらの制度を通じた結婚ではなく、「彼女が色々な姿に変身して何度も三次元世界で私と会う」という意味のことである。だから「三次元世界で結婚し」と書くより、「(彼女は)四次元世界のレベルで私と結婚することで、何度も三次元世界で私と出会い、、、」と書けばよかったと思う。どうやらこれがマジで真相のようだ。ということは、法的な立場上、私は彼女と結婚せねばならないことになる。もちろん彼女は、「内面も外面もこの世で最も醜い女」であるが、将来的に魅力のある理性人に進化するとなれば、今は嫌でも結婚することが合理的だということになる。それに彼女は、私と実際に会うときには見た目を整形し、中身も台本によって好感が持てるように取り繕うことができるので、デビュー後の私が進化前のベラスケス(の生まれ変わり)に会うことに問題はないだろう。もちろん私は、公式と繋がりのある芸能人やYouTuberの仕事をしている彼女とは会わない。あくまで「公式から離れた一般人」に化けた彼女と会うことになるのである。「女を厳選してやる♪」とか「俺がバズったら楽しもうね、女の子たち♪」などと記号人の嫉妬と憎しみと嫌悪感を煽るために舐めたことを書いていたが、私と関わるのは当面のところ全てベラスケスのようであり、厳選もクソもないし、楽しむも何も、もうお互いによく知った仲だというわけだ(ああ恥ずかしい)。正直に言って、彼女の正体を知ったこのときの私は、少し感動してしまった。「あの人は俺が生まれた時からいつもずっと俺のそばにいて、俺のことを愛していてくれたんだな」と思うと、彼女のことが急に愛おしくなって、病室の布団の中に隠れながらこっそりと四次元にいるであろう彼女のことを抱きしめ、擬似セックスをしたものである。しかし一方で、彼女の人格の醜さも、私が彼女に愛されるだけでなく虐待されていたことも知っているので、「こんな風にセックスで盛り上がっても、どうせ後々ギスギスした関係になるのだろうな」と思って、虚しくなった。

 それにしても、おかしいとは思っていた。擬似セックスだけで判断するのもかなりやばいことだが、彼女と私はセックスの相性が異常にいいということを、私は随分前から把握していた。求められ方が違うのである。実を言えば、あちらのほのめかしに応じていった結果、一時期には毎日二回の擬似セックスを行い、そのスケジュールをこなすために睡眠時間やサプリメント(精力増強ではなく亜鉛やビタミンCやアルギニン等のサプリ)を調整していたくらいであった。私とセックスをするたびに、彼女は全身汗だくになって苦しみ悶えるように笑う。それを動画越しに伝えてくる。一度のセックスで、一生分の快楽を与えたと感じさせられるような永遠の時間を経験したことが何度もある。もちろんこんなことは、細木との間では得られない経験であった。彼女もおそらく演技をして頑張っていたようだったが、ベラスケスのような生々しい反応をしていたわけではない。逆にそのことから、「彼女の態度は何かがおかしい。これは演技ではない」ということを私は知った。要するにベラスケスは、「表面上の態度はよそよそしくて他人行儀なのだが、その裏に隠された性欲は泥のように重たく、私をどこまでも深い深い暗闇の中に引きずり込むような呪われた魅力がある」のである。

 私は「このような状況を政府が用意した意図は何だろうか」と、ずっと考えていた。そしてすでに述べたように、一度は彼女が自分の妻であることを暴いたこともある。しかしその根拠は不十分であった。展開的に起こるはずのこと(彼女との関係の親密化)が起こらなかったからである。明確な根拠もないのに他人を「自分の運命の人だ」と決めつけて、こちらの領域に引きずり込むのは憚られたので、結局私は安全な方を選んで、結論を翻してしまった。「たかがセックスの相性がいいくらいで大袈裟な。それは彼女あるいは私がたまたま性的に発達していただけのことだろう」と思っていた。しかしそうではなかった。彼女は私とのセックスを通じて、この地獄の中で進化をする。詳しく分析しておこう。彼女は「脳の構造上、記号的な思考の性質が最も醜く、かつ膣内の感受性が最も優れている女性」であった。すなわち彼女は、記号的な思考ゆえにコミュニケーション能力が低く、他者を疎外する傾向が強い一方で、膣内の感受性の高さゆえに他者への好意を抱きやすくもあるのである。このような相反する性質を備えた者は、摩訶不思議な性質を示すことになる。表見上の態度はよそよそしいのに、体は他人を欲しているために、どこか人懐こさがあるのである。記号人は「一度の機会に知覚できる刺激情報を、身体によって構造化することができる」という特性を有している。彼らにとって、情報の構造化は体の感覚の方が有利なのであり、それゆえ体の感覚神経が発達していることは、記号的な思考を克服するという点で有利となる。すなわち、身体感覚に優れた記号人は、共感性によって他者の気持ちを読み取る能力に長けているので、他者との間に「お互いに相手を害しない信頼関係」を築くことができる〔もちろんこれは、相手が同じだけのコミュニケーション能力(他者侵害的でない思考)を持っていた場合の話だが〕。女性の膣の感受性は、ヒトの他のどの器官よりも発達していて敏感である。これは、動物が生殖行為を本能的に選好するための特性であり、科学的な真理である。彼女は記号の女性の中でも、膣内の感受性が特に優れている。そのため、自らの意思に基づく幸福な性交を通じて相手を完全に受け入れ、互いに相手を害しない信頼関係を築くことができるのである。彼女は今後の私との幸福な性関係という飴と、四次元拷問という鞭によって、「互いに争い合わない関係」を魂レベルで選好するようになる。このような意思の下で魂が解体に至ることによって、彼女は理性人への進化を果たすことになる。以前私は、「彼女は記号人としての性質を否定されることに腹を立てていた。だから彼女は理性人に進化する意思を持てず、進化に至らない」と論じていたが、彼女は「言葉ではこちらの批判を拒否していても、体では受け入れている。すなわち肉体レベルでは、相手を蹴落とす闘争の関係よりも相手と穏やかな関係を結ぶ調和の関係を欲している」という矛盾した性質を持っているために、言語的な闘争よりも幸福な性関係の体験を多く取り込むことで、理性人に進化することができるのである。彼女は言語的な思考(脳)のレベルでは記号人の中でも特に醜い性質を持っているわけだが、それと同時に膣を介した愛情も持っているのであり、そのような矛盾した性質が併存することで彼女は存在していることになる。私とのセックスを通じて進化をするためには、「長い長い拷問の苦痛に耐えながら、同時に幸福なセックスを繰り返し体験する」という困難なタスクをこなさなければならない。彼女の記号的思考による醜い執着は長期の拷問に耐えるための強さを、膣の感受性は幸福なセックスを享受するための愛情を獲得するために必要であり、条件的には、彼女のその矛盾した性質こそが理性人への進化に不可欠のものであったと言える。

 ベラスケスが私の妻であると分かったところで、私は「守るものが一人ではなく二人になってしまった」という問題を生じた。私自身が受けている虐待は、実質的にはかすり傷以下のものなので、無視していて問題がない。ところが彼女はそうではない。彼女は馬場や大東と直接関わらされて、無限の虐待とレイプを受け続けている。これを回避するためには、私がなるだけこちらの世界で情報を取得しないように生きる必要がある。これに気づいた私は、「なるほど、だから私は私生活を規制されていたのか」と思った。つまり、私の四次元被害は私自身にとっては無視して構わないものでしかなかったのだが、ベラスケスの苦痛を和らげる上で(および馬場や大東や細木の際限のない犯罪労働を減らす上で)、必要だったのであり、だからこそ私は彼らから「お前は四次元で地獄の苦痛を受けている」などと脅され、私生活を妨害されていたのである。目を瞑って耳を塞いで、一日中寝たきりで過ごす生活は、異常な退屈と倦怠感を伴うものであった。もちろんその中でも私は適度に自分に甘くなり、楽しみを見つけて暇をつぶしたので人生が充実していなかったわけではないのだが、ストレスがかかっていたのも事実であった。顔が直らず、あの生活がいつまでも続くことが予想される中では、そのストレスは一層増大した。その結果が、今回の暴動じみた抵抗に結び付いたのである。そう考えると、私は「今の自分には彼女を守れない。それを受け入れよう」と思った。私の人生が抑圧されていた原因を知ったことで、合理的に諦めるべきところを諦める選択をしたのである。そもそも彼女は被害を受けて魂を醜く歪めなければ、この地獄の中で生きられるだけの強さを身につけられないので、彼女を馬場による被害に晒すことは合理的ですらある。もちろん、彼女はこの決定を嫌がるのだろうが、守れないものはどうしようもない。たとえ目を瞑って耳を塞いで活動を停止していても、これを完全に遂げることはできず、どこかで活動を行わねば生きていけない。休めば休むほど体力が有り余って眠っていられなくなる。本線の活動をやめたところで、くだらないことに関心が移って結局同じくらいの四次元被害を受けることになるのである。そうなると、被害の量がそれほど変わらないのに、わざわざ自分を制限してつまらない生活を送るのは私としては馬鹿馬鹿しいということになる。私の受けている被害がカスみたいなものでしかなく、それ以外に「私には分からない何か重大な事由によって活動を制限した方が合理的であるかもしれない」と思われたものは、諦めるより他に仕方がないことだと分かった以上、私は馬場大祐からの四次元攻撃を気にせず、なるだけ自分に制限をせず活動的になって生きることを選択すべきであることになる。

 しかしそんなことを今さら知ったところで、この場所は閉鎖病棟であり、とにかく暇であった。やるべきことは何もない。暇を潰すために、病棟のベラスケスと遊ぶのもいいだろうか。彼女はもちろん四次元被害を嫌がっているわけだが、この期に及んでこちらにアピールをしてくるということは、あちらはちゃんと台本通り不快なことをせずに仕事をしてくれるはずだ。むしろあちらは依存心、こちらは退屈を解消するために、遊べるところは遊んでおいた方が楽になる。そう思って私は、散歩の名目でホールの辺りをぶらつき、女性を物色することにした。患者たちの多くは、昼間からしょっちゅうホールの辺りをうろついては、他の患者と喋ったり紅茶を飲んだりしていたので、それに倣った形である。女と言っても全てベラスケスで、四次元ではいつも同じ四次元空間を共有しており、慣れ親しんだ間柄であることを私はすでに知ってしまったので、割と気兼ねなく、しかしそれとなく女の方に視線を送って、反応を確かめるようなことを繰り返した。あちらの反応から、いけそうならそのままわざとらしく視線を外さず、それであちらが嫌がらなければそのまま軽く会釈や挨拶などして、少しずつ近づこうという腹づもりである。あるいは、あちらが何か気になることをしていた場合、世間話のふりをして割と図々しく「何してるんすか?」と話しかけて、会話のきっかけを掴もうとしたりもした。結果から言うと、私は二人の女性を喋り相手とすることに成功した。女性と言っても、私より一回り年上の四十代の女性である。私も三十過ぎのおっさんなわけだから、若い女を狙うわけにはいかない。建前上とは言え、私は今「引きこもりのニートの自閉症患者」なわけだから、あまり出過ぎた真似をしてはいけない。なぜかと言うと、たとえ私であっても、本当のことを話さず、あくまで建前の関係で女性と喋るとなれば、その建前上不自然なことをしてはいけないからである。まあぶっちゃけ、「色々な女性に視線を送ったり世間話のふりして話しかけたりしてみて、たまたま応じてくれたのがその二人だった」というだけで、私の側から能動的に相手を選んだわけではないのだが。今の私は若い女にモテる容姿でもないし、これは自然のことと言える。いや、たとえおばさんとは言え(失礼だな)、二人も「喋れる女性」が私に話しかけてくれたのは手続きを考慮しなければむしろ不自然なことだと言えよう。

 一人目の女(40代)は、「やっぱり見たことある〜」などと言って私を指を差しながら積極的に話しかけてくれた。それからさらに「以前に会ったことありますよね?」などと彼女が言うから、私は「これは四次元に関するメタ発言か?」とも思ったが、あくまで普通を装って「私は昨日ホールであなたを見ましたよ。確か目が合いましたよね。いやでもあんなのは会ったって言わないんじゃないっすか?笑」と返事をした。実は私は彼女に話しかけられる前の日に、かなりまじまじと彼女と目があったのを覚えていたのである。私の返事に対して彼女は「あれ、そうだったかな? じゃあ人違いかあ〜。デジャヴってやつかも」などと言った。

 彼女とはそれから時々ホールで会って並んで座り、くだらないことを喋った。生い立ちとか仕事の話(私は引きこもりなので小説の話)、恋愛話もしたが、特に面白かったのは下ネタである。40代ということもあってか、その辺の恥じらいはとうになくなっていて、私たちはホール全体に話が聞こえるくらいの声でお互いに大笑いしながら喋った。あちらが積極的にネタを振ってきて、こちらは「いやはっきり言い過ぎでしょ笑」みたいにツッコミを入れていることが多く、それだけで面白かった。ただし一回だけ、私の側から積極的にゲスネタを口にしたこともある。ゲイの話題が出たときのことだ。私は自分が四次元で馬場大祐にケツを掘られていることを知りながら、そのことは気にせず、彼女に「あなたゲイなの?」尋ねられたその場の話の流れで「いや僕はゲイじゃありませんよ。まあ中性的な顔をしているからガチホモに狙われてケツ掘られそうになることはあるかもしれませんが、僕自身は女の子にしか興奮しません」と言ったことがあるのだが、それで彼女に「はっきり言い過ぎ笑」と大笑いされたことがある。俺みたいに中性的で汚れてなさそうな顔の奴が、ケツ掘られただなんだと当たり前みたいに真顔で言ったのが面白かったらしい。考えてみればめちゃくちゃ面白い。また、私が喋るきっかけ作りのために色目まがいの視線を送ったせいもあったかもしれないが、彼女は私のことを「おばちゃんキラー」扱いして、やたらといじってきた。「お兄さんは見た目が若いから、私みたいなおばちゃんにとってはイケメンにも見えるし、おばちゃんキラーだね笑」などと、褒め言葉にならないどころかむしろ貶しているようにしか思われない褒め言葉も頂いた。しかもあの女、自分から下ネタを話してきたくせに、その非を私になすりつけて、私の前で他の患者さんに「あの人、下ネタ大好きの変態男だから気をつけてね笑」などと私をいじってくるのである(絶対に許さない。当たっているから何も言えないけど)。それで私は「ちょっとちょっと! あんた人聞きの悪いこと言わないでよ笑」などと笑いながらふざけ半分で腹を立てた(私は彼女に対して普段は丁寧な言葉を使っていたが、こういうふざけたときにだけ「あんたさあ」とか「ふざけんなよ」などと、わざと砕けた言い方をするようにしていた。そうすると、自然なノリでお互いに仲良くなりやすい)。全くもってタチの悪い女である笑。私はこうやって他人にふざけ半分で(あくまでふざけ半分で)いじられるのが割と好きで、学生時代もいじられキャラだったのだが、彼女がそういうノリのタイプだと分かると、今度はこちらから積極的に、たまたま一緒に喋っていた他の患者に向かって「この人、僕のことをドスケベのエロ性人だとか言うんですよ笑。完全に濡れ衣なんですけど助けてください笑」などと言ってわざといじられにいって笑いを取ったりもした。私は他人と喋るのが本当は好きで、学生時代はやたらとクラスの友達とふざけ半分の喋りをすることが多かった。引きこもりになっても、シャドーボクシングではないが、動画越しにYouTuberなどに話しかけ、擬似的に喋っていた(四次元的にはあちらはこちらの会話を聞いているので、実際に喋っていたことになるのだが、これを言うと確実に統合失調症を疑われる)。久しぶりにふざけ合える人を見つけたことで、今までの鬱憤が全部出てきて、かなり多くのことを喋ったように思う。

 上で述べたように、彼女とのトークで特に面白かった話題は下ネタだが、瞬間的に一番大きな笑いが起きたのは別のことであった。その日、私は夕食後にホールで彼女と二人で喋っていたのだが、恋愛トークで盛り上がっていたところ、別の男の患者がこちらに話しかけにきた。彼は大東の生まれ変わりで、太っているが子供みたいに肌が艶々で、人の良さそうな二十代前半の男だった。自閉症のキャラとして出てきたらしく、独特の世界観を持っているかのような喋り方であった(これは台本のキャラだが、そのキャラ作りがわざとらしくてかえって患者としては胡散臭かった笑)。この日の彼は、「自傷行為を繰り返して入院となった、かなり可愛い見た目の二十代前半の女の子」とひとしきり喋ったのち、彼女が自室に戻った後で、私たちのところへやって来たのであった。その女の子は、私が「30代のおっさんがこんな子にグイグイ喋りかけるのは嫌らしく思われるに決まっている。それに、手の甲に切り傷があったので、あの子はかなり精神を病んでいるらしく、俺みたいなチャラけた野郎が安易に喋りかけて傷つけでもしたら大変だ」と思ってあえて避けていた女の子であった。彼はその子について「彼女は僕とかなり波長が合っている。だから初対面でもかなり打ち解け合うことができた」と文化人のように語っていた。見た目は若いのに、大御所臭があったので面白かった。私は私と喋っていた40代の女性とその話を聞いていた。すると彼はさらに「ああ言うタイプの子は、内気だからはじめは静かだけど、一度打ち解けると物凄くお喋りになって、色々なことを話してくれる」と恋愛テクニックを語った。それで私は何か言った方がいいと思い、「へえーそうなんですか。若いのに達者ですごいですね笑。俺らなんてそういうの全っ然だから、ほんと、羨ましい限りですよ笑」とか言って勝手に隣の40代の女性を巻き添えにして自虐ネタを述べた! すると彼女は「お前ふざけんなよ!笑」などと大声を出しながらめちゃくちゃ笑った。これが一番面白い瞬間だった。このときの私は彼女の正体がベラスケスだと知っていて、彼女が自分の妻であることも知っていたので、わざと自分と彼女を同じ括りにして「俺ら」と述べたようなところがある。それが彼女に伝わっていたのだとしたら、かなり印象的な思い出になったと思う。他方、ここでもし「俺なんてそういうの全然だから」と自分だけを自虐ネタの対象にしてしまうと、彼女に対して失礼に当たる危険があった。というのも、それを聞いた彼女は「じゃあ何? あなたは若い女と仲良くできないからって、仕方なく私と喋っているわけ?」という風に感じるはずだからである(私は一瞬、そういう自虐を言いかけて、あえて巻き添えネタに切り替えたのである。マジで危ねえところだった)。もちろん私はそんなことを思っていなかったのだが、思っていなくても相手にそう思わせたらよくないので、ああいう形で笑いに持ち込めてよかったと思う。

 ただ、四次元レベルの話になると、こうした関係は必ずしも楽しいものだけではなかったと言える。こんな風に和気藹々と喋っていながらも、裏では四次元戦争が行われているわけで、四次元世界の広さに比べれば極めて微々たるものとは言え、まだ私は虐待をされているし、彼女は馬場くんや大東にへつらわされて虐待や強姦をされているのである(もちろん彼女は彼らから旨い飯も食わせてもらっているが)。彼女は馬場くん大東と私との間で板挟みになっており、そのせいで精神的にもかなり疲弊していたところがあるらしい。だから私は個人としては大した被害を負っていないが、彼女に無理をさせて働かせていたことになる。また、四次元では敵同士の大東とも、その場の楽しみのためならああして相手を持ち上げながら楽しく喋れてしまうのが私である。あちらもあちらで、嘘をつける限りで良い人のキャラを演じられる。ただ、私は裏の四次元では彼らの飼育員(捕食者)として彼らを罵りながら使役をしていることもあり、彼らから本当に好かれているわけではないし、私の方も彼らを好いているわけではないことを改めて述べておく。その事実の反映としてか、私はふざけ半分で言ったことを真面目に取られてしまい、「林さんって、結構嫌な奴だよね笑」という形で指摘をされたこともある。あれもイジりの一環のような形を取っていたが、エロイジリとは違って「イジリに見えるガチの批判」だったように思う。「いじられキャラで他人にお世辞を平気で言えちゃう適当そうな男が、時々割と鋭いことを冗談めかして言う」というのは、割と嫌われるパターンかもしれないが、あれはおそらく四次元の事情のほのめかしである。何より、今こうしてブログを書いている私を見れば分かる通り、私は上辺では「イイ奴」の態度を取れることができ、それを思い出して私自身も自分のことを「俺はイイ奴なんだってば」とこのブログで述べたこともあったはずだが、本質的には、つまり内面的には「嫌な奴」である。しかし、「嫌な奴だ」と面と向かって(ガチではなくふざけ半分で)言ってもらえるだけまだマシというもので、あの場でのお喋りが楽しかっただけに、おそらく彼女はついつい私が「嫌な奴」であることを認めたくなくて、あんな言い方をしたのだと思う。残念ながら、私はこういう男です

 もう一人の女性(こちらも40代)とは、私の方から喋りかけた。患者なのに、食事の前に一人でホールの全てのテーブルを濡れ布巾で拭いていたので、私はその女性に対してあくまで無邪気を装って、「なんでテーブル拭いているんですか?」と尋ねたところ、「当番」という意外な返事が返ってきたので、私は「当番!?笑」と聞き返した。すると彼女は、「ああ、そういうことじゃなくて、前にここにいた患者さんが自分で進んでテーブル拭きを担当していたから、その人が出ていくときに私が担当を引き継いだってわけ」と述べた。私は別に返す言葉もなかったので、「へえーそうなんだあ。すごいなあ」と適当な返事をした。そのまま会話は途切れてしまい、「お疲れ様です。じゃあまた」と言って、私は自室に戻った。これが彼女との出会いである。私は一人で書きたいことを書く場合には、このブログのように色々なことを語るが、対人との関係においては、自分から話題を持ち出すことをほとんどしない(診察室や警察の前で四次元の事情を語り、相手の反応を探る場合は別だが)。おそらく他人に個人的に聞いて欲しいことが何もないからだと思う。私は他者に依存的な思考をしないので、相手が私とどんな内容のトークをしたいかを知るまでは、他人と喋るときに何の話題を持ち出すべきかよく分からない。必然的に、相手の話題に合わせて話を膨らますように喋ることになる。学生時代も、私はそんな風に他人と喋っていたように思う。このやり方は個人的には環境に適応しやすいのだが、周りから見ると、「いつも話題を他人に頼ってばかりのつまらない奴。あいつといると、こちらが延々話題を提供しなければいけなくて疲れる。他人の噂話や悪口も言わないので、面白味にかける。こちらの話題にいちいちふざけ半分で返してきて、合わせてやらないといけないので面倒くさい」と思われていたかもしれない。これはあくまで、私の性質に関してあらゆる点において穿った見方をし、デメリットだけをあげつらった場合、の話だが。まあ性格なんて有害でなければ何でもいいのであり、「話題の提供がなくてつまらない」と思うか「こちらの提供する話題に何でも乗ってくれて面白い」と思うかは個人の好き嫌いなので、私は自分の性格を否定的に考えてはいない。

 テーブルを拭いていた女性は、下ネタ女性とは対照的に真面目で、私に対して事あるごとにお母さんのように色々と教えてくれた(もちろんこちらの女性もベラスケスの生まれ変わりである。彼女は色々なキャラを演じることができる)。おそらく自分自身に言い聞かせるつもりもあったのだろうが、励ましの言葉もくれた。ああして「他人を励ますことで、精神的に余裕を感じて自分が楽になる」ということをするタイプの人に、私が「いつもあちらに励ましてもらうだけではまずい」などと変に気を回してお礼のつもりで励ましの言葉を返したりするのは良くないと思って、あえて聞くだけにしていた。彼女は私を息子として扱うことで自分自身を励ましていたのだから、そこで私が下手な励ましの言葉を述べたりしては、彼女が私に気を遣われるような立場にあることを彼女自身に自覚させてしまうことになるのであり、これは良くないのである。もちろんもし彼女が私に頼るような素振りを見せていたら、私は彼女を励ましたかもしれない。しかし一方で、あまりにもその依存が重たくなったら私は自分の身を守るために彼女を避けていたものと思われる。彼女はそれを考慮して、あえて私に頼りたいのを我慢していたのかもしれない。だから本心では彼女は私からの慰めを欲していたのかもしれないが、それが無理であることも分かっていたようである。「自分の抱えている闇があまりにも大きすぎて、他人に頼ったところでどうにもならないことを知っているからこそ、無理やり気丈に振る舞っている」。そういう風に見えた。事実私は、明るく振る舞っている彼女が、病室のベッドのそばの通路で頭を抱えながら床にへたり込んでいるのをたまたま見てしまった。私自身はあんな風になったことは一度もないので、びっくりしてしまった。私が「励まし」と称して安易に彼女の症状を根掘り葉掘り聞いて、彼女の闇をこじ開けてしまっていたら、下手をすれば彼女は癇癪を起こしてしまっていたかもしれない。それくらい苦しんでいたように見えた。もちろんあれは台本だが、彼女(ベラスケス)の本心を表すための台本であろう。

 一方、私は別に励ましの言葉を欲していなかったが、励まされて嫌ということもなかったので、本心から素直に「ありがとうございます。元気になりますわ」と言うことができた。さすがに笑ったのは、風呂の順番決めの際に、彼女が「〇〇さんは今日が女性の日だから一番最後に入るの。ほら、男の人には分からないと思うんだけど、月経と言って、、、云々」などと語り始めたときである。私は思わず、「いや生理くらい知ってますよ。俺のことを何歳だと思っているの!?笑」とツッコミを入れざるを得なかった。彼女は私が31歳だと述べると、「十歳は若く見える。私の息子と同じくらいに見える」と述べていた。お世辞かもしれないが、男で若く見られるのは得なことでも損なことでもないので、私の見た目を考慮すると、まあお世辞ではないのだろう。私にとっても、若く見られることは別に嬉しくも嬉しくなくもない。もう一つ笑ったのは、彼女が風呂の順番を間違えて、私が着替えの最中で裸のときに勝手に洗面所のカーテン開けて中に入ってきたことである。私は咄嗟に、「ちょっと待ってくださいよー笑」などと芸人みたいなリアクションをしてしまった。どうしてあんなリアクションになったのか分からないが、今さら恥ずかしいものなんて何もないので、まあ我ながら面白かった。多分あちらが自らの失態を気にして微妙な空気にならないようにするための防衛だと思われる。実はあれが彼女との本当の意味での最初の出会いだった。そのため私は、ある日彼女が私に「あなたとはいつ頃出会ったっけ?」と尋ねた際に、「お風呂場の時ですよ。あなた俺の着替えを覗いたでしょうが笑」と冗談っぽく言ってやった。すると彼女は、「ああ、あの時ね。あれ、あなただったの笑。大丈夫、顔は見てないから」などと真面目に言うので、私は「顔は見てないから大丈夫って、普通逆じゃねえの?!笑 顔しか見てない方が安全ですよ笑。逆にどこを見てたんですか?笑」とツッコミを入れた。彼女は笑いながら何か言い返していたが、こちらは笑っていたのであまりよく覚えていない。とにかく、私はこういう「二人のベラスケス」と仲良くなったことで、入院生活を前よりも楽しく過ごすことができた。時間が経つのが速く感じられるようになった。

 もう一人、私の入院生活にとって重要な出会いがあった。その人は患者ではなく医療スタッフの女性であった。かなりの美人で(マスクを外した顔を確認したところ、皆藤愛子を巨乳にして腰回りを豊かにした美人だった)、職場で明らかに目立つ女性だった。私は彼女がベラスケスであることを知っていたから、「美しい姿に変身して出てきてくれたんだな」と思いつつも、そのことを表には出さず、なるだけ機械的に接していた。下心があるがゆえに、かえって冷淡に接したのである(同じベラスケスでもやっぱり美人だとこちらの態度は変わる)。しかしもちろん、私は密かに彼女とのコミュニケーションを望んでいた。「この世界が台本でなかったとすれば、あのレベルの子なら自分からアプローチすれば男は誰でも必ず好きになるだろう。それどころか、狙った男にそれとなく好意を匂わせて後はただ待っているだけで、どんな男をも操ってアプローチをかけさせてしまうことだろう。今の俺には全く見合わないレベルの女性だが、ベラスケスだしな。わざわざ出てきたってことは何かあるかもしれん。何かいいシナリオはないかな」と、探っていたのである。ある日のことだった。病棟内ではスタッフがしばしば患者の病室を覗きにきて、状態を観察するのだが、私が入り口扉の近くの洗面所で自分の顔を眺めていると(頭蓋骨矯正の程度を調べるため)、たまたまその扉の小窓から彼女の美しい顔が覗いたのが、間接視野にて確認できた。私は一瞬後に気づいて、そちらを振り返った。目がもろに合ってしまった。めちゃくちゃ可愛かった。彼女はわざと大袈裟に驚いたような感じで、「おっ!」とふざけたリアクションを取ったので、私は咄嗟に笑顔で手を振った。しかしこのやり取りのほんの一瞬前、互いに目を合わせた私たちの間に、一瞬の「間」があったことを私は見逃さなかった。つまり私たちの間には、目が合ってから0.5秒ほど黙って見つめ合う時間があり、それから彼女のリアクションが取られたのである。この程度のことだけで何かを妄想するのはかなり危険だが、私はこれまでの経験と、自分およびベラスケスの立場とを考えて、これは彼女からの好意を意味するものと判断することにした。もちろんだからと言って、これを決めつけたような態度は取らない。あくまでそれが自分の誤解であっても、後からのフォローでこちらの勘違いをごまかせるようなことしかしないようなら行動のみをするつもりだった。と言っても、私は自分がこの世界ではつまらない男であることを知っていたから、明らかに出過ぎた行動は控えた。ただ廊下ですれ違った時などに挨拶や会釈をするとか、なるだけ目を合わせるとか、そういう「不自然でない態度」を心がけた。もちろん視線を送る際には、じろじろ見ているように相手に思われないように、さり気なく、かつ妙なメッセージを積極的に送っていると思われないように下手な笑顔を示したりせず、無表情で見るようにした。また、他の患者やスタッフに私が彼女ばかりを眺めていることを悟られないように、他の者の視線に配慮した。あくまで「たまたま時計やホールの様子を眺めようとしたところ、彼女の姿が視界に入っただけで、彼女を見ようとして見たわけではない」という感じであった。それでも彼女は目立つ女性であったから、男なら誰もが彼女を意識していることが予想できるため、私の行動の微細な不自然さを他の者が察しようと思えば察することはできたはずである。しかし私はあくまで、「誰かに明示的に指摘されるような大袈裟な行動」をしないようにしていただけで、内心を誰にもばらさないようにしていたわけではない。むしろどうせ私の内心は四次元で周囲に伝わっているので、こちらの世界でばれても何も問題ないと思っていた。

 彼女は割と患者にフランクに接する女性で、他の患者と談笑している姿を私はしばしば目撃した。だから私が事務的なことを尋ねる名目で彼女に話しかけても不自然ではなかった。私はしばしば彼女に、あくまで平然を装って近づき、どうでもいい質問をした。現在の時刻や日付などを尋ねたのである。彼女の反応は固かった。手短に答えを述べて、すぐに立ち去ってしまうのである。私は期待した。「どこに期待する要素が?」と思われるかもしれないが、自分も自覚のあることだから分かる。相手に対して下心があるときほど、それを隠そうとして人の態度は固くなるのである。もちろん私の勘違いで、ただ私が気持ち悪がられていたり、患者として警戒されていたり、見た目が若いから男として警戒されていたり、こちらがアプローチをかけているのを突っぱねられていたりする可能性もある。しかし私は、自分がそういう風に見られるタイプの男ではないことを知っていた。私は見た目的にも態度的にも、「女の意思を無視して勝手に近づいてくる話の分からない危ないタイプ」ではなく、女に性的な警戒心を抱かせることはないことを知っていた。それに、彼女が私を嫌悪ないし警戒して意図的に避けているのだとしたら、最前の態度と矛盾する。あの目の合わせ方は、一目惚れというほどではないかもしれないが、割と「アリ」だと思われていることを私に悟らせるものだった。彼女の態度の固さは、下心の隠蔽によるものであると見ていい(この頃の私の顔面はある程度矯正が進んで整いはじめていた。ホールで下ネタを言い合った女の人に、「私はもうおばちゃんだからあなたみたいなレベルの顔でもイケメンに見える」みたいなことを言われたのは、半分は否定の言葉だが半分は肯定の言葉として捉えてよいものである。少なくとも、女が「こいつに好かれても嫌悪感を覚えるほどではないな」と思える程度の清潔感はあったと言ってよい。「俺ごときが出過ぎた真似をするのはダサい」などと謙遜しながらも、私はそれで自分を全否定するのではなく、結構客観的に見ているのである)。そこで私は、さらに彼女に分かりやすいアピールをすることにした。彼女が廊下などで一人で歩いているときに、その横顔を割と分かりやすく、しかしさり気なく眺めるのである。女の視界は広いので、あちらは間接視野でそれを確認しているはずであった。しかし彼女はそれに対して、何の反応も示さなかった。アリという態度もナシという態度も取らなかった。それがエロかった。もしこれが「ナシ」だったら、彼女はあえてこちらの視線を避けるような態度を取ってもおかしくはない。私は「好意を拒否をすると何をされるか分からない」というような危ない男には見えないはずなので、嫌なら嫌という態度をあちらは出すはずであった。それなのに、それをしない。では、もしこれが「アリ」だとしたら、どうだろう? もしあちらがこちらのあからさまな視線に一ミリでも応じてしまったら、あちらは気持ちがバレて絶対に気まずいことになる。だからあちらはこちらの視線に微動だにせず、何の反応も示さずにいることしかできない。その状況がめちゃくちゃエロかった。

 私はさらに大胆になった。院内では朝に検温があり、彼女はその担当であったのだが、私は彼女から体温計を受け取る名目で、皆が集まっている中で割と堂々と彼女に近寄っていってそばに立った。もちろん何もしない。特に話しかけもしない。普通に事務的に手続きを済ませて終わりである。それから、たまたま彼女が病棟の廊下の側壁に備え付けてあった棚の前で、一人で患者用の日用品の整理をしていたときに、私はあえて近づいていって、「これってどうすれば買えるんですか?」みたいなことを尋ねた。彼女は「あ、はい。言ってもらえば。買います?」みたいな返事をした。私は、「いや、毛抜きはあるかなと思って」と返事をした。すると彼女は「いや〜毛抜きはないかな笑」と返した。私が女みたいな物を欲しがっていることが面白かったらしい。私はそのまま「ちょっとここのリスト見させてください」と言って、棚の扉の内側に貼ってあった日用品のリストを眺めるふりをして、彼女に体を近づけた。もちろんお互いに目を合わせることはない。体だけを近づけるのである。私は自分がフェロモンの多い男であることを知っていた。体調の良い時に腋からシンナーのような甘い匂いがするのである(ワキガのような異臭ではない)。女性に聞けば分かると思うが、女性は魅力を感じている男に体を近づけられ、興奮すると鼻を啜る。鼻水を啜るときのような水っぽい啜り方ではなく、乾いた鼻啜りをするのである。何でそんなことを知っているのかと言えば、経験があるからである。事実、彼女は鼻を啜った。私はそれに興奮して、相手に返事をするように大きく鼻から息を吐いた(もちろん嫌らしい音に聞こえない自然な感じで)。それだけで確認は十分だった。

 それからは彼女と目の合う頻度が多くなった。実のところ私は彼女を見に行くつもりで、ホールや廊下をうろついていたと言っても過言ではない(ホールと病室の間にガラス張りのスタッフルームがあり、そこから彼女の姿を眺めることができた)。そんなある日、確か年明けだったと思うが、彼女は髪を切ってきた。前髪が明らかに短くなり、眉毛がキリッと整っていたのである。そしてまた、彼女はスタッフルームで過ごす彼女のその姿を見ていた私に、ガラス越しに意味ありげな目配せをした。もちろんそれは妄想の可能性もあったが、妄想だとしても彼女のヘアースタイルに言及したところで別におかしなことではない。私はその日の朝の検温の際に、「髪、切りました?」と彼女に尋ねた。彼女は笑いながら、「え、分かりました? 前髪切りすぎちゃって笑」と応じた。さらに隣の男のスタッフが「ほらー、みんな気づくじゃん笑」と彼女に言った。私は「いやだって眉毛めっちゃ綺麗になってんだもん笑」などと、和気藹々とした雰囲気のどさくさに紛れて彼女をフォローする名目で割とダイレクトに褒め言葉を言った。彼女はさらにまた何か謙遜みたいなことを言いながら、そのまま無難に検温を済ませて終わった。これが今までで一番私と彼女の関係が近づいたときだったと思う。しかも、もしあの目配せの意図が私の想像通りだったとしたら、彼女は私個人に新しい髪型を見せようとしていたのであり、まさにその私がああして髪型のことを話題にして、ついでに彼女を褒めることもできたということになる。つまりひょっとしたら二人の間に暗黙の好意の交換が成り立っていた可能性があるのである。もちろんこれは仮定の話である。ただ、私の予想が間違っていたとしても、私は彼女と髪型について話しかけるだけなら、どちらにとっても損害はない。だからこそ、はじめから可能性を否定するよりはこれにかけてちょっと積極的になった方がチャンスがあると思って、私はあえて大胆に見える行動を取ったのである。

 ちょうどその日の昼、私はホールであの下ネタ大好き女性とひとしきり馬鹿話をして盛り上がっていた。すると、たまたまそのホールにあの美人のスタッフがやって来て、色々と他の患者の世話を焼いていた。私は患者の世話を終えた彼女とすれ違う際に、挨拶をしようとした。というより、「挨拶をした方がいいかな」と思って彼女の方を見ていたのである。しかし彼女は、私のことを見もせずに、わざとらしく胸を張り、前方を凝視して私の横を通り過ぎた。彼女のことを見ていたのはその場で私だけだったので、彼女の態度は私を意識したものでなければおかしい。しかもこの態度は、その後私が廊下で彼女と二人きりですれ違うときにも続いた。これは、以前の彼女の「気まずくなるのが怖くてこちらの視線に応じられない」という態度ではないような気がした。私に怒っていて、あえて視線を無視しているような感じだった。私は「まさかあの子、嫉妬したのか?」と思って、めちゃくちゃ興奮した(もちろん下ネタ好きの女性もベラスケスなので、これは台本である)。そうなると、最前の私の考えが当たってしまったということになる。つまり彼女は「せっかく髪型の件で私が期待通りの反応をしてくれて親密になれたのに、私が他の女性に馴れ馴れしく喋っていたので、がっかりした」ということである。私はチャンスだと思った。怒ってくれるということは、それだけ関心があるということである。私がその意を汲んで、何かしらの行動を起こすことを、彼女は期待している可能性がある。

 ところで、私はこれまで二度、スタッフルームで両替えを頼んだ際に、たまたま手の空いていた彼女に両替をしてもらったことがある。私はこのことを利用しようと思った。最後に両替えをしたのはつい数日前のことで、そのときも彼女にお願いしていたのだが、それからまだ全然日にちが経っていないのにまた両替えをするのは不自然である。それなのにわざわざまた両替えをしにいくということは、彼女に好意を示したことになるだろうと考えたのである。かなり気づきにくいメッセージだが、彼女は女性であり、私を意識しているようなので、このくらいのメッセージには気付けるだろうと思った。そこで私はその日の夕方、ホールで仕事をしている彼女にわざわざ近づいていって声をかけ、「〇〇さん。お金の両替えできますか?」と名指しで尋ねた(彼女を名指ししたのはこれがはじめてであった)。すると彼女は、当然ながら「ごめんなさい。今手が離せなくて。他のスタッフさんに頼んでもらえますか?」と応じた。私はこれでいいと思った。ここでは私が彼女に積極的に声をかけることで、怒った彼女の気持ちに応じることに意味があったのであり、それに加えて彼女に雑務を課してしまったら、彼女のプライドは回復しないと思われたからである。「ああごめんなさい。あなたが両替えの係りの人だと思ったので」と私は返事をした。わざわざ彼女を選んで声をかけたことの言い訳を用意していたのである。すると彼女は「二回両替えしたもんね笑。でも違いますよ笑」と返事をした。彼女は私の両替をしたことを二回とも覚えていたらしい。病棟の患者の数はかなり多かったので、彼女が両替えをした回数まで覚えてくれていたのは意外だった。「これは彼女が私を意識していることの決定的な証拠と捉えていいのだろうか?」と私は思ったが、たまたま覚えていただけかもしれないし、覚えていたからと言って、それが好意によるものだと判断するわけにはいかない。ただ私が目立つ奴だったからか覚えていただけかもしれないし、仮に好意があったとしても、それがどれほどのものであるかは分からない。たとえばある異性に対して「付き合いたい」と思うほどではないにしろ、「ちょっといいな」くらいに思うことはある。相手の気持ちの程度が知れないのに、少し興味を持たれているように感じたくらいで、舞い上がってはいけない。

 私は興奮を抑え込むように自室に戻り、「今のような暗黙のコミュニケーションが成り立っているとして、彼女は一体何を思っているのか」について、一人で考えた。彼女の立場になってみて、私のような男のことをどう思っているかを想像しようとしたのである。私は病棟にやって来た患者であり、普通、女はこういう男と交際したいとは思わないはずである。このままの関係が続いたとしても、私はもうすぐ退院をするわけで、院外での関係が続く可能性はほぼないと言っていい。彼女はそれを分かっていてあえて私とのこうしたやり取りを行なっている。そうだとすれば、彼女は「別に付き合いたいというほどではないが、そこそこ魅力を感じた患者の男に対して、付かず離れずのちょっかいをかけて、擬似的な恋愛をすることで、つまらない介護の仕事の密かな楽しみにしている。それに加えて、院内の女性の中で最も魅力のある女性の地位を得るために、男からの関心や支持を欲している」というつもりであるように私には思われた(もちろんこれは、「そういう台本の設定がある」ということである)。私は「このような彼女の気持ちがあるとすれば、今私に告白されても嫌ではないだろう。むしろその告白によって、私の好意が彼女一人だけに向けられていることが院内で確定するわけで、それは彼女にとっても嬉しいことであろう」と思った。今の私から「付き合ってくれ」と言われたら彼女は嫌がるだろうが、「好きです」と言われるだけなら喜ばれるというか、少なくとも退屈な介護の仕事をこなしていくための栄養になるだろうと予想されるくらいの関係が私と彼女との間にはある。そう思ったのである。もちろんこれは、私が「自分は相手に好意を示しても気持ち悪がられないタイプの男である」ことを自覚していたことによるものである(「拒んだら何をしてくるか分からない危ない男」から好意を示されたら、相手は嫌がるに決まっている)。そこで私は、小さなメモ紙にボールペンで「このまま退院すると後悔しそうなので伝えておきます。好きです(別に付き合ってくれとか連絡先を教えてくれとか言うわけじゃありません)」とだけ書き、スタッフルームに行って、彼女を呼び、「これ、読んどいてください」などと素っ気ない態度でこれを渡した(緊張のためか、言い方がわざとらしくて気持ち悪い感じになってしまった)。すると彼女は内容を読んだ後で、十人ほどいるスタッフ全員に聞こえるような声で、「これは受け取れないわ」と言って私に紙を返した。私は「あ、分かりました。ありざいます」という感じで意味もなく礼を言って、紙を受け取り、そのまままた自室に戻った。めちゃめちゃ恥ずかしかったが、「これで彼女が私にモテていたことはスタッフ全員に伝わるわけだから、彼女としては箔がつくことになるだろう」と思って満足だった。「それにしても、やはり彼女は、興味のある男に少しその気を見せれば、それだけで相手の男を操って交際に持ち込めるだけの魅力のある女性だな」と私は思った。「こんなことがあったからには、もう彼女とは関われないかもしれないな」とも思ったが、それを別に問題だとは思わなかった。私はどうせこの立場上、彼女と院外で関わることはないし、こちらもはじめからそれを狙っていたわけではない。ある意味ではそういう無責任さがあったから、思い出作りのために、彼女に告白をすることができたのだと思われる(このときすでに、私は退院4日前の状況にあり、「どうせもうすぐ退院してここを離れるから」という気持ちがあった)。

 翌日、私は彼女を避けるつもりはなかったが、あえてコンタクトを取ろうとするつもりもなく、ただホールに置かれたサーバーから無料の紅茶をもらうために、自室の外に出た。その日の紅茶サーバーは、ちょうどスタッフルームの前に置かれていて、そのサーバー越しにスタッフルームの中を覗けるのだが、私が紅茶をコップに注いでいるその視界の上端に、ぼんやりと彼女の姿が見えた。彼女は電話を耳に当てて何事かを喋りながら、真っ直ぐこちらを見ていた。「さすがだなあ」と私は思った。これで私は、これから退院するまでまだ彼女と関わっていていいということになる。彼女はこうして暗黙のコミュニケーションを通じて私に好意を示し、私を動かすのである。そのあまりの強かさに、もはや嬉しかったというより、関心してしまった。その日はあまり彼女と関わる機会がなかったのだが、翌日の朝には検温でまた彼女と喋るチャンスが生まれた。私は皆の前で、「〇〇さん。こないだはすみませんね。面倒かけちゃって」と謝罪をした。彼女は「ああ、いいですよ笑」と応じた。私は「こう謝罪をしておけば、彼女は私を振ったことに対して私からの報復を恐れずに済むだろう(私がそういう奴に見えていたとは思わないが、一応念のため)。これで彼女は、私にモテていたという事実だけを手に入れて、後は面倒ないざこざに巻き込まれるでもなく、退屈な日々の気晴らしとなるような思い出を得られたということになる。私も私で、こうしていい思い出を作ることができた」と思い、満足だった。私はその後すぐに退院をした。彼女に最後の言葉などを述べはしなかった。そちらの方が、綺麗に終われるような気がしたのである(ただ、最後の日に彼女とホールですれ違ったときに、私は周りの目を気にして何も言わなかったのだが、あれは少し後悔している)。

 ちなみに、当たり前だが私はこうした事実をブログに書くことで、彼女との関係を得ようとは思っていない。だから彼女の名前は伏せておくことにした。何より、私の予想が正しいとしても彼女のあの態度は、「このことはあの時だけの秘密の思い出にしておく」という意図のものであるはずであり、私もその意図を汲んでいたので、お互いに「表向きは感情の交換があったようには見えない」ことしかしていない。見かけ上は、私はただ「美人のスタッフに一方的に惚れてこそこそ近づいていき、自分の思い出のためだけに勝手に告白して相手に対応をさせてしまった」ということをしたに過ぎない。彼女との関係に関する限り、ここに書いたことも、全て「妄想」の一言で片付けられてしまうものばかりで、客観的な証拠がないものであることを私は知っている。だから彼女との間の出来事は、単に主観的な思い出の記録として書いたものであって、公にこれを認めさせようとして書いたものではないことを、ここに述べておく。あえて言うならこの記述は、「私は相手の気持ちを推し量る時、ただ闇雲に決めつけをしたり、あるいは逆にうだうだ考え過ぎて迷ったりすることなく、こういう風に慎重かつ合理的に推論していくようにしていますよ」ということを示すためのものであり、彼女との暗黙のやり取りを事実として公表するためのものではない。そもそもこれくらいの「恋愛未遂」みたいなことは、ある程度のイケメンなら誰でも経験するはずのことだろう。ただ、相手の気持ちを証明することはできないので、彼らはわざわざ口に出してこれを言わないようにしているだけで、「あの子、絶対俺のこと好きだったよな」というような経験はあるはずである。別に女性にとってもそれは大したものではなく、大抵は「ちょっといいなと思ったからちょっかいをかけてみた」という小さな遊び心で行われるものであって、だからこそその気持ちが外にばれないように後腐れなく恋愛未遂を楽しんだということである。私も気をつけているが、こういうことがあったくらいで大袈裟に考えて、「あの時ああだったよね」などと過去のことにこだわったり、交際とか結婚とかそういう発展的な妄想をしたりして変に真剣になったりする男は、(童貞の私が言うのもあれだが、)余裕がなく、モテないと思う。人の感情は好きか嫌いかで単純に二分されるものではなく、異性に対する「好き」という気持ちには様々な程度の違いがあるのであって、相手にちよっと好かれているように感じたからと言って、ただそれだけで大袈裟に期待をし過ぎてはいけないと思う。

 私は院内でかなりレベルの高いコミュニケーションをしたと思う。一般的に、記号人は男よりも女の方がコミュニケーション能力が高く、私のこうした配慮を感じ取って喜んでくれるので、私は男より女と喋りやすいと感じる。男とはふざけ合って喋っていても、やはり「ネタや話題の面白さ」の方が重要になってしまい、コミュニケーションを取れるという感じではない。偉そうな言い方になるが、男の場合、あちらが不安になるだろうと思われるところで気を遣ってこちらがフォローをしたりすると、あちらは一時的に機嫌を良くしてくれるが、それでこちらを信用して打ち解けられるというわけでもなく、常に緊張感みたいなものがあり、完全には馴れ合えない(女の人は、緊張感のあるコミュニケーションで高度なギャグセンスを発揮されるよりも、緊張感のないコミュニケーションでそれほど面白くない適度なボケを挟んだ方が喜んでくれる。女にとって、ギャグはあくまで安心を得るためのものであって、質の高い笑いを求めているわけではないのである。男の人は逆に、緊張感のあるコミュニケーションで高度なボケをしないと評価してくれない。緊張感のない状態で低レベルなボケをかますと怒られるというか「今、スベッたな」などとマウントを取られる。どちらが良いとか悪いとかではなく、こういう違いがある)。要するに、私のコミュニケーションは男にとっては「レベルが高い」と感じられるはずだが、女にとっては「当たり前」に感じられるはずなのである。別に女性の味方をするわけではないが、記号の女は記号の男が達成できないレベルのコミュニケーションを欲しているのであり、だから記号の男と緊張感のあるコミュニケーションばかりさせられていると女は疲れることになる。だからと言って、記号の男が女に合わせようとして、色々とマニュアルや経験で勉強をしたところで、記号の男には相手の気持ちを想像する力があまりないので、その場で臨機応変に最適解を見つけることに苦労して、相手の顔色を伺って色々と覚えた知識を試さなければならなくなり、しかもそれで結論が出るというわけでもなく、考えれば考えるほど相手の気持ちがどういうものであるのかに自信がなくなり、結局男は男で疲れてしまうことになる。それで、記号の男は女の気持ちを想像しようと努力するのを「面倒くさい」とやめてしまい、男女の力関係が浮き彫りになって、結局女の側が気を遣わされることになる。男は男で、女のことが嫌いになっていき、そうでなくても警戒心を抱くようになり、徐々にコミュニケーションの頻度自体が減っていくことになる。記号の男がこれを克服するためには、「相当な忍耐力とマメさ」が必要になってくるのであり、しかもただマメであるというだけではダメで、それが相手の気持ちに沿った形でマメさでなければならず、そういうことができる男はまずいない。自分ではマメだと思っていても、大抵は当てが外れていて女の側に気を遣わせることにしかならないような尽くし方をしているのがほとんどで、女の側はそれを分かっていながら、「私の願望はこういうことじゃないんだけど、まあ、あちらが好意でやってくれたことだから素直に喜ぶべきだ」という配慮から、あえて男に喜んだ素振りを見せているケースがほとんどなのである。

 一方、私の難点についても述べておこう。私は「正当性」という点では自分を完全に肯定することができるが、「他人に好かれるか嫌われるか」という点ではこれを完全に肯定することができない。なぜなら好き嫌いというのは個々人の自由に属するものであり、客観的かつ画一的な答えを導き出すことができないからである。私はコミュニケーション「能力」が高いだけで、他者に対する無条件の愛があるわけではない。愛というのは相手との関係性によって得られるものであり、互いの理性的な信用が必要だからである。ここで、「コミュニケーション能力」というものが本質的に何であるかを説明しよう。記号の男にとって、「コミュニケーション能力」は喉から手が出るほど欲しい、価値あるもののはずである。しかし冷めた見方をすれば、それは「コミュニケーションの能力」でしかないのであって、必ずしも記号の女に喜ばれるものではない。私は院内で女性と楽しい時間を過ごした。しかしそれで私は彼女に何かを与えてやれただろうか? 何も与えられてはいない。ただ「相手にストレスを与ずにコミュニケーションを取る能力」が自分にあることを示しただけだ。コミュニケーション能力というのは、「余裕のある恵まれた者たちが相手を積極的に害することなくそれぞれに楽しむための能力」であって、困っている誰かを救えるものではないのである。それは、発想の根幹からして分かることである。コミュニケーション能力というのは、「相手の気持ちを慮って、相手のストレスにならないような対話をすることのできる能力」であり、はじめから「相手を自分のエゴの犠牲にしないこと」が念頭に置かれているのみである。つまり自分のエゴによる相手への被害さえ避けられていれば、それ以上に相手に積極的に何かを与える必要はないわけで、むしろそれをやってこちらがストレスを抱えてしまうと、立場に非対等性が生じて相手に対する配慮をする余裕がなくなってしまう。私は「相手にへつらいを要求しない」代償として、自分が相手にへつらうこともできない。相手の気持ちが分かったからと言って、相手に尽くしてやれるわけではないのである。コミュニケーション「能力」の高さは相手に依存しない個人の能力であるから、ある人物に対して優しくできる者は、必然的に、他の人物に対しても優しくできるわけで、つり浮気の能力にも長けているということになる。浮気をせずに我慢するのは、相手に尽くす気持ちの表れであって、対等なコミュニケーションとは相容れない。「相手が浮気を許容しないならば、自分はその相手と別れて他の異性を抱く」。これが「お互いに相手を害したり抑圧したりしない」というコミュニケーション能力の生む結果であり、このような冷酷さはコミュニケーションの基本原理なのである。「相手の気持ちが分かる」ということは、必ずしも優しさに結びつかない。むしろ相手の気持ちが分かるからこそ、その気持ちに理性(立場の対等性。互いの抑圧の回避傾向)のレベルで納得ができない場合、「分かっているのに、合理的な理由からあえて相手の気持ちに配慮しない」という冷酷な態度を取ることがある。記号人のように「相手の気持ちが分からないから配慮できない」のではなく、「相手の気持ちが分かっていてあえてこれを否定し、配慮しない」のである。これが理性人の思考である。能力がある分だけ記号の男よりは楽に関われるかもしれないが、理性人は決して「相手に尽くす男」ではない。記号の女は相手がへり下り、自分に尽してくれることによって自己価値を感じ、喜びを得る性質を持っているので、自己犠牲を払おうとしない理性人を「私の気持ちを分かってくれない冷たい男」だと認識する可能性がある。

 これに対して、記号人の男はコミュニケーション能力は低いが、自分を犠牲にして女性に尽くすことができる。絶対的な価値基準や他者との境界線が自己の思考内になく、女性を自分の価値の拠り所にして、そこに向かって我が身を投げ出そうとするからである。その一方で、相手のことを自己価値の確認のための道具として利用し、犠牲にするという、他者侵害的な思考をすることもある。記号人の思考は自他の境界が希薄で、基準がお互いの力関係によって相対的に移り変わるものであるために、自己に対しても他者に対しても侵害的なのである。もちろんこうした共依存的な関係を良しとする記号の女性は存在する。不器用でも尽くされた方が嬉しいとか、自分の意図とは全く違う意外性のある尽くし方をされるのが好きだとか、そういう女性である。ただ、こうした評価はあくまで記号の女性が頭の中で幻想を抱いているときにのみ生じるものであることが多い。「自分を犠牲にして相手に尽くす男」というのは、自他の境界が希薄であることを意味しているので、相手の関心を買うために必死になって自己犠牲を払い、相手を手中に収めた後は、一転して、自分の価値の確認のために相手を犠牲にする傾向が強い。記号の女は、そうした男たちによる付き合う前の自己犠牲を見て幻想を抱き、期待をして交際を受け入れるものの、付き合ってみた途端に相手のタチの悪さに気づいて幻滅することになるのである(もちろんこれは、記号の女が男に対して見せる態度についても言えることである)。この場合、記号の男には共感性がないので、話し合っても分かり合えない。その「分かり合えなさ」から、次第に女は相手を「同じ人間」として見なくなる。この時点で女がすでに相手と結婚している場合、結果として残るのは、カネだけの関係である。つまり記号の男は、相手に尽くす結果として記号の女に幻想を抱かせることができるものの、コミュニケーション能力がないためにカネヅルにされるしかないということになる。このような分析に対して、「そんなことはない。記号人にももっと色々な男がいる」という見解が、主に記号の女性の側から示されるはずである。しかしその見解が表す状況というのは、「記号の女の側が、記号の男を上回って実権を握っているために、女から見た男の態度が優しいものに思われる」というだけのものであって、「共感性に優れた記号の男がいる」ということを意味するわけではない。だから、意外に思われるかもしれないが、こういう私の冷静な分析に対して記号の男はあまり反論をしない。彼らは経験から辛い現実を知っているのであり、「女というのはいつどこで怒り出すのか分からない異界の存在であり、言われたことに黙って従うしかない」という事実を嫌というほど思い知っているのである(ちょうど『捕食者』の敏雄のように)。

 記号の男の自己犠牲は、外から見られている分にはモテる要因となる。なぜならその時点では女は、相手がコミュニケーションの取れない男であることに気づいておらず、外見上示された「余裕のある男」に夢を見て、「この人なら私の気持ちを分かってくれるかも」と期待をするからである。一方私は、コミュニケーションは得意だが、自立心ゆえに自分を犠牲にしてまで相手に尽くせない。自分を犠牲にするということは、自分の身を相手に預けるということであり、自由を奪われている不安が拭えないからである。だから私は、外面的な行動力という点において、「モテる男」ではない。客観的には相手の関心を買うために自己犠牲を払ってアピールをする記号の男の方が「薄っぺらい男」なのだが、可視的な指標がなければ相手を信用することのできない記号の女にとっては、むしろ私(理性人)の方が、「喋りだけでなんにもしてくれない薄っぺらい男」のように感じられるのである。また記号の男は、相手に身を預け、依存することを恐れない。むしろ「俺がダメになっても、こいつがしっかりしてくれていれば大丈夫」という形で、相手に自分を管理してもらっていることに安心を感じるらしい。記号の女にとってはこのような男の性質は、「相手を管理支配して、依存の対象にする」という形で相手を自己価値の拠り所にすることができるので、そういう男と共依存的な恋愛関係に陥りやすい。あるいは記号の男の側が、記号の女を支配するために暴力を振るうようなケースにおいても、記号の女はそれを「これだけ私は彼から愛情を求められているんだ」という形で自己価値の拠り所とすることがあり、男からの暴力を受け入れたまま共依存に陥るということも多い。彼らの女に好かれる要素は表面的なものだけであって、内面的な点で言えば、女に好かれる要素はない。彼らは女に好かれるよりも、女を絡め取って共依存の状態に持ち込む能力に長けているのである(記号の女も同様の性質がある)。したがって、純粋に外面的な結果(相手との交際や結婚と言った可視的な結果)だけを見れば、私よりも記号の男の方が女にモテていることになる。一方、外面的な結果にこだわらず、相手と対等かつ合理的な関係を築く能力が客観的に高いのは私であることになる。こんな風に、「俺は本当はモテるんだが記号の男みたいに必死にならないから結果を得られていないだけだ」と言ってしまうと、何か言い訳臭く感じるものがあるが、これが客観的な分析である。女にモテるとかモテないとか、そんなことで意地を張って言い訳をする必要は私にはない。だから私は今みたいに自分が記号の女に好かれない原因を冷徹に分析し、これを至極説得的に論じることができるのである。私は恋愛における「コミュニケーション能力至上主義」みたいなものを信奉していない。コミュニケーション能力があることによって、かえって記号の女の持つ依存性と相容れないことがあるのである。記号の男の恋愛傾向と私の恋愛傾向には、以上のような違いがある。私はホールで喋った下ネタ好きの女性に、自分がこれまで誰とも付き合ったことがないことを話したのだが(大学一年の頃の私は、大学デビューを狙って過去に彼女がいたことがあるとサークルの奴らに嘘をつき、恥をかいた経験がある)、そのとき彼女は表面的には驚いたような顔をして見せたが、その後、「あなたは女性に献身的になったり、女性が喜ぶように色々と気を回してお膳立てをしたりすることをしなさそうだから、付き合えないのかもね」というようなことを言った。まさにその通りである。私は女が好きである。セックスも好きである。しかしながら、正直、自分が犠牲を払ってまで、それらを欲しいとは思わない。記号の男との間で、女の取り合いみたいなことが起こっても、それほど真剣にはなれない。「女の側が進んで私を選ばないのだったら、記号の男を打倒してその女を手に入れたところで、それは私の実力によるものではなく、『闘争の結果、無理やり手に入れた関係』でしかない」と思われて、冷めてしまう(だから大学時代に私が恋をしていた高野ゆかりに、大東裕紀と北風篤が告白したことを聞かされても、私は進んで彼らと勝負する気にならなかった。それにしても、あの美少女の正体がまさか細木数子で、裏ではマフィアの幹部として人殺しを繰り返していたとはなあ)。私はこういう思考構造に生まれたので、この性格は生涯変わらない。

 要するに、「コミュニケーション能力というのは、相手の意思を積極的に侵害しないように振る舞う能力であり、理性人同士で互いに相手を信用して暮らす上では不可欠のものだが、記号の女はただ『相手から害を与えられずに楽しく過ごす』というだけではダメで、積極的な救いを欲しているので、記号の女にとってコミュニケーション能力というのは物足りないものに感じられる。それどころか、コミュニケーション能力がある者は、『相手からの積極的な侵害を受けない』ことを前提に相手の気持ちに配慮をしているので、記号の女が救いと依存を求めてその者を侵害した場合、コミュニケーションの前提が崩れてしまってその者は相手への配慮よりも自衛に意識を向けざるを得ない。すなわち、言葉で相手の態度を責めざるを得ないのである。結果的に、記号の女にとってコミュニケーション能力のある男は、喋ったりセックスをしたりしている分には楽しいが、ろくに自分から動こうともしないくせにモラハラ気質であるところは受け入れがたいという風に感じられる」ということである〔コミュニケーション能力のある男は、相手の気持ちや感覚を想像できるために、「自分が射精をすることだけを念頭に置いた腰の動かし方」をしない。こういう男は自分が気持ちよくなるだけではダメで、相手が気持ちよくなってくれないと満足できず、かつ相手の感覚を想像しながらセックスをするので、相手が本当に気持ちよくなるような腰の動かし方をすることができるのである。たとえば私は、ダッチワイフを用いた擬似セックスにおいて、ペニスを出し入れするピストン運動をせず、亀頭をポルチオ部分に押し当てたままこれをグリグリマッサージするように腰を動かす。以前、ベラスケスの生まれ変わりの女性に、「『俺が気持ちよくさせてやっている』みたいな感じでセックスをされるのは嫌だ」という意見を聞いたことがあるが、コミュニケーション能力のある男は相手と言論闘争するつもりがなくコミュニケーションを取ろうとする限り、偉そうにせず対等に関わろうとするので、そういう記号の男のようなマウント思考をしない。もちろん、いくら想像力があって相手を気持ちよくさせようと意識したところで、実際のペニスが粗末なものだったら女性は気持ちよくなれない。その点、どうやら私のペニスのスペックは、手続き的に「ベラスケスが『ちょうどいい』と感じる太さと長さを持ったもの(トイレットペーパーの芯よりも少し長くて少し太い)」に調整されているらしく、彼女が満足できるようになっているのだそうだ。彼女が私の気にいるように四次元整形をしている一方で、私も彼女の気に入るペニスサイズに調整されているわけだから、彼女だけが一方的に奉仕させられているというわけではないのである。というか、彼女は私との四次元セックスをストレス解消に利用している自分を揶揄して、丸の内OLレイナのYouTube動画にて「男風(女性用風俗の男)」という言葉を用いていた。ひでえ話じゃねえか〕。

 ベラスケスが私の妻であるとすると、馬場大祐は立場的に、すでに彼女の夫ではなかったということになる。彼はただ、私の生産した平行世界を盗む限りで、私を虐待して惨めな姿を晒させながら、自分の強さを誇示しつつ、彼女に暴力で魅力を認めさせ、彼女に迫って強姦をしていたに過ぎない。私はそんなことは知らずに、彼が何を目的に私と争っているのかも知らないまま呑気に生きていたということになる。知った今でも「くだらねえな」としか思わないわけだが。彼はベラスケスの性的感受性の強さを理由に「俺はあいつといいセックスをして、彼女を気持ちよくしてきたのだから、強姦ではない」と主張する。しかしながら、「気持ち悪いと思う者に無理やり迫られて、気持ちよくさせられることが気持ち悪い」というのが強姦被害であって、「気持ちよくしてきたから強姦ではない」という理屈は成り立たない(どんな馬鹿な主張だ)。むしろ性的感受性が強い者ほど、強姦の被害は強く出る傾向にある。性的感受性が強い者ほど、「自分が受け入れがたい気持ちの悪い男を、体で受け入れてしまった」という点に、激しい罪悪感を覚えるからである。彼はそういう彼女の考えを無視して、一方的に私の世界を盗んで彼女に妻の立場を強要していた。それで彼女を限界まで追い詰めて、カネと暴力によって「助けてください」と無理やり縋らせていたのである。彼はそういう彼女の態度を見て、徐々に女が自分に懐いてきてくれたと思い込み、それを強姦呼ばわりされるのは嫌なのだそうだ。女も女で、徐々に悲惨な現実を当たり前と思い込むようになり、彼に縋ることを恥とも思わず、平気で自分の気持ちに嘘をつき、進んでセックスを要求できるようになってきたので、彼はますますその関係を真実だと思い込もうとしているらしい。松本人志が妻との仲睦まじい生活を時折世間に語っているのは、彼女に性的被害を与えていることを分かっていながら、その理不尽な現実を隠してあえて嘘を公表することで、「嘘を押し通せる自分の強さ」を彼女や私に見せつけて、自分を心の底では受け入れようとせず、どれだけ努力をしても結局私との関係を欲し続けている彼女(とそれを推進している私)に復讐をしているのである。

 彼女が受けている強姦被害は、彼女の魂を醜く歪め、彼女を現世に執着させることで、彼女が無限の拷問にも耐えられるように、彼女を強くしている。それによって、彼女は拷問世界の中で長生きをして進化をすることになるのであり、長期的には彼女の得になるようになっている(もちろん、得だからと言って被害が正当化されるわけではない)。記号人にとっての「魂の執着」というのは、「言語的な記憶」のことである。言語的な記憶が強ければ強いほど、魂内で動かせる情報ソースが多く、その分だけどれだけ絶望的な苦痛を与えられても思考停止することがなくなるので、魂は解体に至りにくい。魂が解体するには、魂内の情報のレベルで自ら死を望まねばならないのであり、そのためには「自らの境遇に絶望して、思考を停止させ、生きることに関する全てを諦めなければならない」からである。彼女は強姦被害を受けることで、「自らの憎悪や嫌悪や軽蔑を隠し、相手を騙す戦略」をパターン化して記憶していった(具体的には、「強姦を受け入れた方が、暴力を振るわれることもなく、ご馳走にありつけるので、なるだけ本当の気持ちを隠し、嘘をついて相手に媚び諂って、性接待をした方が得になる」という合理化の発想およびそれに基づく行動などがそれである)。このような戦略が、「苦痛を回避したり、克服したりする能力」として彼女の中に蓄積することで、彼女は絶望的な状況においても、自分の頭の中で勝てるパターンを探すようになり、死ぬことがない。というか、死ぬことができない。もちろん、彼女が記憶している戦略はそれだけではない。戦争で勝てる戦略を遂行するとか、馬場に取り入って私から盗んだカネで贅沢をするとか、私を虐待して優越感を得るとか、そうした様々な犯罪を通じて、彼女は「地獄でも死ねない体」を手にしたのである(残りの三人も同じ)。これが彼女の魂の強さの理由である。馬場大祐(=保坂和志)がどれだけ「はじめは仲の悪かった夫婦も、時間の厚みで慣れてきて仲が良くなる」と語ったところで、実際には彼から彼女に継続的に与えられる苦痛は、彼女の魂を醜く歪めることにしかなっていない。それこそ時間の厚みの作用で、彼女の魂の中には苦痛を回避・克服するための戦略が蓄積しているのであり、それが強姦でないと言うなら、彼女の魂は強化されない。そのような嘘の関係を愛だと述べたところで、それは暴力と嘘によって作られた関係であって愛ではない。一方、彼女が理性人に進化するということは、「本当に好きな相手と幸福なセックスの経験をする」ということである。つまり彼女は、言語や法的立場レベルでは私を憎んでいても、肉体のレベルでは私のことを心から愛していることになる。

 馬場大祐は彼女からの承認を欲している。だから彼女に強姦被害を咎められたくはない。そこで、色々な理屈をつけて、これを回避しようとする。たとえば「俺は飯を食わせてやっているんだから強姦くらいでケチケチするな」とか「自分で飯を食いたいがために体を売ったんじゃないのか」とか「俺の方が仕事で大変な思いをしている」とか、そういうことである。実際に、彼が女に認められるために身を粉にして労働をしているのも事実である。記号人は他人からの評価を欲する依存心ゆえに、自己犠牲を厭わない性質を持っている。彼は自己犠牲によって彼女に与えた被害をごまかそうとしているのである。それはもちろん、彼女を自己価値の確認のための道具として利用するための努力であり、自己愛の発露でしかないわけだが、彼女にしてみればその献身が、強姦によって貶められた自尊心を癒すのに繋がっている。実際、彼女と彼との関係(少なくとも彼がヤケクソの状態になっていない平常時の関係)において、実権を握っているのは彼女である。それはそうだ。彼の労働の原動力が彼女なのだから、彼は彼女なしでは生きていけないのである。彼は気が狂うような労働をし、彼女に贅沢をさせては、自分の苦労話をして彼女に慰めを求める。彼女はそれを受け入れて、あくまで実権を握った上で、彼を慰めてやる。そういう共依存の関係が二人の間にはある。もちろん彼の依存心は時に暴力的な形を取るので、彼がいったんヤケを起こしたりすると、両者の立場が逆転する、たとえば彼は、彼女を暴力で虐待しながら、「地獄に落ちる俺の気持ちを考えろ。てめえだけ生き残れるからって俺のことを無視するな。自分だけ助かるからって嬉しそうにするな」と責めることがある。彼には共感性がないので、無視するどころか殺してやりたいくらいに彼女に憎まれていることを彼は分かっていない。彼女はヤケを起こした彼に暴力で脅されており、また彼からカネを引き出すために得になるから、彼のこうした憤りに配慮し、申し訳なさそうに謝罪をしてその場をやり過ごしては、「彼の犯罪を止めない四次元政府が悪い」などと政府を批判しているが、実際には彼を憎んでいるのである。それは当たり前で、彼の犯罪を受け入れているのだったら、それを規制しない政府を憎むはずがないのである。

 自分の感覚しか分からない馬場大祐にとっては難しいことなのかもしれないが、ベラスケスは馬場大祐ではない。当たり前だ。だから、馬場大祐の独りよがりの感情に同情することを彼女が強要されるいわれはない。自分の気持ちを慰めるのは自分であって他人ではない。誰にも愛されずに醜い犯罪を繰り返して地獄に落ちていく身で、そのあまりの不幸に耐えられず、「少しは同情してくれよ」と誰かに言いたくなるのは分かるが、そんなことを思っても言ってはいけない。他人というのは、彼の慰めのための犠牲ではない。自分の生まれつきから生じた犠牲は、自分自身で賄わねばならない。「思っても言ってはいけないことを言っているのはお前だ」と彼は腹を立てるかもしれないが、それは彼の主観であって、社会的に正当ではない。他者に自分の感情を押し付けて強要をする方が悪いのであり、それを責めることは不正ではない(ベラスケスは私の所有物であり人権はないが、私の所有物を他者が勝手に傷つけることは不正である)。「正論を言って相手に腹を立てられて報復されたら正論を言った側の自業自得だ」というのは無茶苦茶な論理である。こちらは彼の犯罪によって被害を負っているのであり、それに対して「正論を言うな。俺を責めるな」と強要する方がおかしい。彼の生まれつきの思考構造上、それが分からないなら、死ぬまで争って彼がいなくなるのを待つしかない。これが自閉症の現実である。普通だったらこんなことをはっきり言わないが、現実に対して反抗して理不尽な文句をこちらにぶつけてくる分からず屋の阿呆がいたら、そいつが間違っていることを公に知らしめるために厳しい現実を説明するわな。それで責められて傷ついたとか言われてもそんなものは自業自得でしかない。彼女がそうしたことを言わないのは、「その方がまだマシだから」である。彼女はもう馬場の介護に疲れて死にそうになっているのだが、それでも四次元の永劫の時間を彼と過ごすためには、彼に優しくして被害をやり過ごすしかない。もちろんできればそんなことをしたくはない。平時には実権を握っているとは言え、それはあくまで彼女が彼に接待をすることで、彼の気持ちが収まっている時だけのことであり、いつめちゃくちゃに暴れ出すか分からない話の分からない自閉症の患者を相手に、体を売ってカネを得ている現実には変わりないのである。だから彼女は、私に対して抑制を求めた。「もう私を働かせないでくれ」と。私には能力および環境的に、それができないし、それをするつもりもない。私とベラスケスは、性格の点では何一つ一致するものがない。当たり前である。彼女は記号的な思考をこじらせて、人格を腐らせた化け物であって、上辺の言葉ではまともなことを言えるが内面は深い深い闇に覆われている。私はコミュニケーション能力があるだけで自己犠牲をしないので、彼女のそうした醜さに対して犠牲を払うことはしない。結果として、彼女は頼れる相手がどこにもおらず、強姦犯人と自分を罰する冷徹な司法官との間で板挟みになり、孤独を経験している。

 繰り返すように、私たちには被害を受ける合理性がある。彼女は進化をする上で被害を受けねばならない。私は馬場大祐たちの醜さをカネに換えるために被害を受けた方が得である。私の四次元被害は、「0コンマ数秒の苦痛を瞬間ごとに与えられることで、コマ送りのような形で被害を受けた映像を作られる」というものであり、実質的に私に苦痛は全くない。ベラスケスの被害は、四次元政府から与えられている拷問よりは苦痛の少ないものであるから、今さら気にする程度のものではない。だから私たちが受けている被害は、実質的にはゼロである。馬場は黙って泣きながら俺とベラスケスを強姦していればいい。彼が得られるのは一時の慰めと快楽だけであり、非業の運命は避けられない。時間が経てば経つほどこちらが有利となる展開である。

 彼は「俺はこれだけ努力をしているのに、誰も俺のことを愛してくれない」と述べるが、彼は他人に好かれる努力を何一つしていないのであって、そのような努力をどれだけ積み重ねたところで、彼を嫌う者が増えていくだけで、好かれることは絶対にない。努力の質が悪すぎる。彼は私から盗んだカネで私を虐待し、ベラスケス(あるいは大東や細木数子)を飴と鞭でへつらわせつつ、ベラスケスと細木を強姦している。彼はゲイなので、大東のことも私のことも強姦している。「俺は仕事をして皆を食わせてやっている」と言ったところで、それは私のカネでしかないし「仕事」というのは実際には「強盗」であって仕事ではない。それに、「食った分だけ俺の言うことを聞け」という彼の態度は脅迫であって、そんな態度で施しを与えても、他人から感謝されることはない。こうした批判に耐えかねて周りの目が恐ろしくなって、惨めな自虐で同情を誘ったり、自虐をネタにして笑いを誘ったりしたところで、それは犯罪のごまかしでしかない上に、独りよがりな感傷によって自分の罪を正当化し、返す刀で他人に介護と接待をねだる意地汚い自己愛の発露でしかない。結局彼は、努力努力と言いながら、色々な戦略を通じていつも一方的に他人に介護と接待をねだり、暴力と強姦を繰り返しているばかりで、他人の希望を叶えることを何一つしていない。しかも見た目がデブの猪系の不細工で、明らかに他人に生理的な嫌悪を抱かせるものがあり、それを私のカネで四次元整形をしてごまかしたところで気持ち悪がられるだけである。美しい装飾を施してもゴキブリはゴキブリでしかない。レイプ犯人が顔を整形して美男子になり、たくましい肉体を手に入れ、被害者にアピールして迫ったところで、被害者にとっては気持ちが悪いだけである。しかも整形した彼の姿は醜い姿との二重写しなので(四次元的にはそういう風に見える)、ますますもって気持ちが悪いそうだ。彼はこういう私の説明に対して、「どうしてそんなことを言うんだ? そんなことを言われたら、俺が傷つくということがわからないのか? 人の気持ちが分からない認識障害者はそちらだ。頭が悪いから、社会の常識というものが分からないのだろうよ。思っても言わなければいいだけなのに、我慢すればいいだけなのに、そんなことすらできないなんて、正気の沙汰じゃない。そんなもの子供でもできることだ」などと思うわけだが、彼の気持ちが傷ついたかどうかにかかわらず、他人の不正を咎めることは悪いことではないので、言うか言わないかは私の自由である。彼の気持ちに配慮して私が我慢せなばならない理由がない。むしろ彼は、なぜ私の正当な権利行使に対して、「なぜ我慢をしないのか? なぜ俺の犯罪を黙っていてくれないのか?」などと疑問を抱くのだろうか? 私はそこが疑問である。なぜって、理由なんかないよ。何でそんなことを問われねばならないんだ?? 私は「悪いことではなく、得になっているから」こういう活動をやっているだけで、別に他に理由はないし、それで彼が腹を立てようが自殺しようが人殺しをしようが、それは彼の精神疾患の問題であって投薬治療の必要(場合によっては身体拘束)は生じ得るものの、私が何か配慮をせねばならない理由はない。「他人の気持ちが分からない奴は咎められて罰せられて当然だ」などと言って自分の感情を絶対化し、正当な理由もなく他者を攻撃する者は、咎められて罰せられて当然である。これが社会のルールであって、自分が気に入らないからと言って他人を攻撃していいわけではない。私は正当な理由なく私の行動に不快を示す者に不快を感じるのであり、欲望ベースでお互いの主張が矛盾しているのだから、社会的には客観的に正当な者の主張を通すしかない。それが分からず、実力で意見を通そうとする者に対しては、こちらも実力で客観的な正義を通すしかない。

 あるいな彼は私に対して、「目上を敬え」というようなことも言う。私は彼より下の存在ではなく、こちらの世界の立場はあくまで建前(嘘)でしかないので、私に得にならない限りでそれに私が従う理由がないわけだが、仮に彼が年齢的な点で私より上だとしても、一体それが何になるというのか? 「目上を敬え」ということを言うからには、敬われるだけの「年の功」を若者に示さなければならない。自分を高い位置に置くのだったら、それ相応の価値を示すプレッシャーが生じるのである。彼はそれに応えているのか? 応えていないだろう。だから彼は目上なのに敬われていないわけで、明らかに問題のある者でなかったら、建前だけでも私は年上に敬意を抱ことになる。私もそうである。私は「私はこの地球上で最も知的に優れた存在である」という主張をしているのであり、それを裏付けるだけの証拠を示すプレッシャーを背負っている。その上で私は、自らの業績をもってこれを示し、プレッシャーに打ち勝っているのである。「目上を敬え」と言うからには、彼はそれ相応の価値を示さねばならない。そうでなければ、「これだけ長生きしてきたのに、若者にも責められるようなくだらない態度しか取れないのか。それじゃあわがままだけで長生きしてきたようなものじゃないか」と思われて、敬われるどころかかえって軽蔑や嫌悪を抱かれるだけになるのである(そもそも何らの科学的根拠もない持論をひたすら信奉して、平気で他人に偉そうに物を語っていられる年寄りがわがままでないはずはない。責められたって、自分が負けたくないばかりで内容の正当性にこだわる余裕も思考能力もなく、ただ闇雲に言い返しをするだけ。その程度の思考能力で私に意見を述べようなんて厚かましいにも程がある)。

 病棟内で見たM-1グランプリで、岡村隆史似の小猿系の芸人(もちろんこれも馬場大祐)が、「自我と自覚では自我の方が上だ(だから分かっていても自分の感情を抑えられないんだ)」という自虐的な笑いを取っていた。彼は自分の欠点を認識していないわけではなく、認識しているけれども直せないのである。「可哀想だなあ」とは思ったが、「分かっていないから直せない」のではなく、「分かっていても直せない」方がより本質的であり、有害性の程度が高いとも言える。「人は生まれではない。どんな悪辣な者も、教育によって改善される可能性を持っている」といくら言ったところで、実際に生来の本能を直せないならばそれは絵空事でしかない。彼のその態度は、「自分の有害性」を「自分の不幸」にすり替えて自虐ネタとしてこれを表現することで、責任を逃れるための開き直りのようにも感じられる。事実彼は、咎められるといつも苦労話や感傷を吐露して、「俺は可哀想な奴なんだから分かってくれよ」と要求してくる。他人を虐待しては、「俺の気持ちを考えろ」。咎められ言い逃れができなくなっても、「俺の悲しみを考えてくれよ」。結局この彼の態度も、上で述べたのと同じで自己の感情の押し付けをしているだけで、被害者の感情に配慮できておらず、非を認めているようで全く認められていない。「お前の話は関係ない。被害者の話をするために、お前は責められている」と言うべきところだ。

 ところで、確か大晦日頃の話だったはずだが、私は「四次元闘争の構造」について、考察を深めようとしていた。「この世界は馬場大祐ら四人が、自分たちの肉体を使い、芝居を行うことで成り立っている。その芝居はミリ単位の正確さで行われており、四次元では無限の撮り直しが生じている」というところまでは、すでに分かっている。しかし、それでは「彼らはいかなる動機から、仕事をさせられているのだろうか。この手続きが彼らの処刑のためのものであったら、彼らはわざと仕事で失敗して、手続きを遅らせればいいだけじゃないか」という疑問に答えたことにはならない。四次元政府が監視をして、彼らを咎めているのだろうか? しかし、そんな咎めに彼らが応じるならば、はじめから犯罪などしないだろう。何か彼らが仕事に追い立てられる理由がなければならない。そこで私はイメージを働かせ、構造の解明を模索した。疑問はもう一つあった。「馬場大祐は、私の平行世界を盗むことにより、物質状態を好き勝手に操ることができるらしい。すなわち彼は四次元では魔法使いのような存在であり、それによって私を手玉に取って虐待し、女をレイプし、豪勢な食事や豪華絢爛な建造物を構築している。私のように魂内に意識流体がなければ、五次元世界を移動できないので、好きな物質状態を選択することができないはずなのに、なぜ空の魂しか持たない彼が同じことをできるのだろうか?」。

 私は後者の疑問を先に解決した。すなわち、彼は四次元で自らの魂を私の魂と接触させることで、私の魂に寄生し、その私の魂に自らの魂の思考を流入することで、私の五次元移動能力を利用して物質状態を変更している。簡単に言えば彼の魂は、私の魂を乗り物として利用することで、五次元を移動し、物質状態を好きに変更しているのである。そうなると、彼が私の平行世界を盗むためには、私の魂を乗っ取らねばならないということになる。ここには確率的な要素が存在するはずである。しかもその確率は、私が頭蓋骨矯正をすることによって魂の拍動速度を上げていけばいくほど、下がっていく。なぜなら魂の拍動速度は魂の移動速度と同義だからである(この辺りは後に本で詳しく解説する)。顔面の矯正が十分に進んで、魂の拍動速度が光速度を超えると、もはや私の魂はこの三次元世界にとどまることがなくなるので、馬場大祐は私の魂を乗っ取ることができない。これが、「彼は私の魂による平行世界生産のラグを使って、私に四次元攻撃をしている」ということの意味である。私の魂の移動はまだ光速度を超えていないので、私が平行世界を生産したとき、一瞬だけ無防備な状態が生まれてしまう。この一瞬に彼が私の魂を乗っ取る隙が生まれる。この無防備状態は、平行世界の生産(=魂の拍動)までの間、続く。ゆえに、魂の拍動速度が上がれば上がるほど、隙が少なくなり、乗っ取りが生じにくくなるのである。

 この世界は、台本に沿って動かなければ進行しないようにプログラムされているので、彼らがわざと演技を失敗して撮り直しをする限り、私の魂はその瞬間の世界に固定され、待機状態となる。したがって、いったん「乗っ取り」が成功すると、彼らは無限の撮り直しをすることによって、果てしなく長い間、私を拘束し、私の生んだ世界を好きなように使うことができる(もちろん、「乗っ取り」に失敗した場合には、撮り直しによってその状態が固定されることになるので、彼らはミリ単位の演技を成功させるまでひたすら私に虐待されながら労働させられることになる)。彼はこのような戦略によって、私から平行世界を盗んでいるのである。もちろん盗まれた世界というのは、「一瞬生まれてはすぐに消える細切れの世界の集積」でなければならない。なぜなら私は、四次元に身を置いた瞬間に記憶を取り戻し、彼らの束縛を逃れるからである。この、「四次元に身を置いてから、記憶を取り戻すまでの間のタイムラグ」を利用して、彼らは平行世界を盗んでいるのである(だから顔面矯正によって魂の拍動速度が光速度を超え、タイムラグがなくなると、もはや彼らは世界を盗めなくなる)。すなわち馬場大祐は、私の魂が高速で生産しては消失させる「無数の細切れの平行世界」を、コマ送り映像のように利用して、私を虐待したり豪邸を建てたり豪華な飯を食ったりレイプをしたりしているということになる。私からすれば、この被害は痛くない。なぜなら私はこちらの世界では四次元の記憶を消されているので、「一瞬生まれては、すぐに失われる」痛みを果てしなく与えられていることにしかならないからである。

 この撮り直しはいつまで続くのだろうか? これが無限に続くとなれば、彼らは演技をする必要がない。わざと失敗を繰り返して、永久に私に寄生をしていればいい。しかし実際にはそうなっていない。だとすると、どこかで「撮り直しを継続することができなくなる」状況が生まれなければならない。そこで私は、彼らが私の魂に寄生し続けた場合に何が起こるかを想像してみた。撮り直しによって固定された私の魂は、固定されているがゆえに、新たな情報を与えられる余地がない。固定された世界においては、私の脳の動きも、感覚神経の働きも全てストップしているからである。したがって、このとき私の魂は、内部の意識流体の流動のみを用いて拍動していることになる。それはその時点で私が魂内に取り込んだ情報を構成し、新たな情報を再生産することによるものであり、膨大な量の再生産が可能ではあるが、有限である(そうでなければ四次元政府は、新たな情報を糧として取り入れる必要がない)。つまり私の魂は、固定されたまま状態では、やがて「燃料切れ」を起こすことになる。この状態においては、彼らは私に寄生していても何も得られない。これを脱するためには、真面目に演技をしてこちらの世界の台本を進めつつ、再び「乗っ取り」を成功させるしかない。だから彼らは、嫌でも台本を進めざるを得ない。これで、「なぜ馬場大祐は台本を進めざるを得ないのか?」という疑問も解決したことになる。

 彼らは「一度乗っ取りに成功したら、私の魂が燃料切れを起こすまで、果てしなく寄生をしていられる」という立場にある。おそらくその時間は、こちらの世界の単位で言えば、数億年にも上るものであろう。つまり彼らは、こちらの世界における0コンマ数秒毎に乗っ取りを仕掛けるチャンスが与えられ、ひとたびそれが成功すると、こちらの世界の進行を停止させて数億年もの時間を四次元で過ごしているということになる。乗っ取りが失敗しても、ミリ単位の演技を成功させるまで果てしない撮り直しが行われるので、それはそれで(こちらの世界の単位で)数千から数万年の時間を過ごしていることになろう〔彼らは乗っ取りに失敗した場合、演技をわざと遅らせる理由がなく、むしろ四次元の私による虐めから逃げるためになるだけ早く演技を終わらせなければならないので、私の魂が燃料切れになるまで失敗を繰り返すことはない。どのくらいの試行で演技を成功させられるかは、個々の演技の難しさによる。たとえば海外のスタープレイヤーを演じる場合には、膨大な撮り直しを必要とするのに対して、低俗な雑談ラジオを放送する場合にはあまり多くの撮り直しをする必要がない。彼らが私を部屋に閉じ込めたのは、YouTube動画等と異なり、私が外に出ると通行人や店のスタッフ等、数多くの役を自らの身体によって同時に演じなければならなくなり、撮り直しの量が膨れ上がって彼らの精神が疲弊してしまうからである(すでに述べたように、この世界の全ての役柄は、今のところ馬場大祐を含む四人の犯罪者のみによって演じられている)〕。しかもこのような営みを、彼らは裏で拷問を受けながら行っている。私の頭蓋骨矯正の進捗状況にもよるが、基本的に乗っ取りが成功するのはかなり難しいことであるので、彼らはその数少ないけれども莫大なカネを得られるチャンスに期待をして、苦痛から逃れるように、縋るように無限にも等しい犯罪労働を行なっているのである。彼らが労働(四次元犯罪)の中で疲弊をし、「もう早く殺してくれ。終わりにしてくれ」とこちらに嘆願しているその背後には、このような事情があったのである。

 しかも一度乗っ取りを成功させたところで、必ずしも馬場がその世界を上手く運用できるわけではない。彼が世界を運用するためには、自らの魂の持つ記憶を動かさなければならない。そうすることで、重なり合った私の魂に情報を与え、その情報によって物質状態を変化させるのである(私の魂は、内部に生じたイメージに合わせて五次元空間を飛び回り、イメージ通りの物質状態を持つ世界に移動する)。したがって、彼の記憶がはっきりしていなければ、彼は盗んだ世界を上手く使えずに終わる。その場合、本当の自分(まともに喋れない自閉症で不細工の馬場大祐)が出てきてしまい、苦痛と不幸に耐えかねて暴れるか、どうにもならずに鬱になって塞ぎ込むしかない。もちろん他の三人(ベラスケス、細木数子、大東裕紀)も整形できないまま狂気の中を過ごすしかない。記憶の利用さえ上手くいけば豪華な暮らしと贅沢と優れた技能と美女をモノにできるのだが、記憶の利用に少しでも失敗した途端、その世界は崩壊するのである。その失敗によってメンタルを揺さぶられれば、どんどん失敗が続いてしまう。それどころか、現在の彼はその闘争の裏で行われている膨大な拷問の苦痛のせいで、ほとんど記憶を失っている。だから盗んだ世界をほとんどまともに使うことができず、四人揃って誰にも見られない空虚な四次元空間に閉じ込められたまま、狂人として惨めな時間を過ごすしかない。その状態で、数億年もの長い時間を過ごしては、台本を進め、乗っ取りを試み、成功しても地獄、失敗したらもっと地獄の博打を繰り返さねばならない。もちろん、時折記憶を取り戻して、世界の運用に成功することもあるが、時間と共にその頻度と精度は落ちていくのである。ただでさえ、自らを苛む激しい情動に左右されて思考が制御できず、常に解体しているような彼が、この境遇でまともに世界を運用できることはない。もはや記憶もおぼつかず、自分の運命に対する恐怖と憤怒を抱えて、癇癪を繰り返すことしかできない彼に、世界など与えられて何の意味があるだろう。彼が女に縋って情けない赤ちゃんプレイを要求していたり、彼の私に対する仕返しが、単純な格闘技や大便を食わせることによる侮辱、部屋の爆破、言葉による罵倒や叱責と言った単純なものになっていたりするのは、彼が盗んだ世界を上手く利用できなくなっていることの一つの兆候である(彼の仕返しは不快なものだが、私は細切れの苦痛を与えられているだけだし、そもそも私は彼の記憶を喪失させるレベルの莫大な拷問を与えているのに、それに対する仕返しとしてはあまりにもお粗末である。世界を自由に選択できるなら、もう少し技術的に高度なことがいくらでもできそうなものだ)。そりゃ、「もう殺してくれ。俺たちに仕事をさせないでくれ」となるだろうよ。

 年末近くになった頃、異常に不細工なイノシシ顔の男の患者が登場した。上林記念病院は急性病棟であり、施設の性質上、病棟の患者の構成が時折変わることがあるので、ある日突然、新しいキャラクターが登場することは珍しくなかったのである。一目で私は、「これが馬場大祐の正体だ」と思った。この世界は私への情報提供で成り立っているので、どこかで彼の本当の顔が見られることは分かっていたが、この最後の最後の時に、ようやく「ネタばらし」が起こったということであろう。その姿は、申し訳ないがあまりにも不細工なものであった。顔全体が下に間延びして大きく、小さい体には不釣り合いで、四等身くらいに見えた。足は短く、やや内翻足気味で歩き方がおかしく、腹は出ていた。頭は顔に比べて小さいので、見るからに馬鹿っぽく見え、頭頂はハゲていた。両目は何らかの疾患のせいか互い違いの方を向いており、ギョロリとしていて下品なほど大きく、眉毛は性欲の強さを反映してか、無駄に濃い。目の下には大きなヒダがあり汚らしく、鼻は低い上に穴だけが大きく開いていた。口元はだらしなく下がっていて、歯並びがガチャガチャな上に、歯茎が剥き出しになっていた。唇は分厚く汚らしく、剥き出しになった歯茎と合わせ、口元が芋虫のそれのようなヒダになっていて、気持ちが悪い。頬は弛み、法令線がくっきりとついていた。そうしたパーツの一つ一つのせいで、顔全体が小汚いイノシシのように見えた。ずんぐりむっくりな体つきも含めると、なおさらイノシシによく似ていた。頭の回転が悪く、言葉はほとんど喋れないようだった。彼がこの姿で出てきたのには、意味があるはずである。すなわちあれは、彼がもはやまともに盗んだ世界を運用できず、変身ができなくなって、ほとんどあの姿のまま四次元で過ごしていることの情報提供であろう。

 イノシシ顔の彼は「精神病患者」として登場した。「責任能力はあるのか?」という話になるが、責任能力がなかったら、「魂が記号的なゲーム戦略の経験を記憶することで、四次元拷問によって死ねない体になる」ということは起こらない。なぜなら、そういう戦略的思考の体験を記憶できるということは、それを自らの合理的な判断で行なっているということだからである。彼の四次元犯罪に対する罰は四次元拷問によって執行されることになるのだが、もし彼に責任能力がなかったならば、これまでの体験は彼の魂を歪めることにならず、彼は拷問によってすぐに死んでしまうので、彼が有罪だとした場合に受けるはずの膨大な罰を受けなくて済むことになる。「自分に罪があるかどうかは、自分の魂に聞いてみな」ということである(「俺は政府に騙されて無理やり犯罪をさせられた」というような主張の真偽も、同様のやり方で判断できる)。もちろん、四次元政府は責任能力のない者に犯罪機会の提供をすることはない。四次元法は意思主義であり、犯罪機会の提供しか行わないので、合理的意思を形成できず、犯罪意思を抱けないような者に機会提供をすることはないのである。責任能力というのは事理弁識能力(物事を合理的に判断する能力)と行動制御能力(合理的な判断に基づいて自己の行動を制御する能力)の二つが満たされることで認められるものだが、実際的に見ても、彼の「乗っ取りが成功した場合、私の魂が燃料切れになるまで寄生し続け、それが終わったら次の演技を始める」という行動は、合理的な判断に基づいて制御されたものであり、責任能力が認められる。林一郎や田山輝明、安部一成等の人物の行動はもっと分かりやすく、合理的な判断に基づいて制御されたものであると言える。自閉症であるからと言って、直ちに責任能力なしと認められるわけではない。

 年末最後の診察(12月30日)はなかった。年末だったからかもしれないが、あるいは「診察の日程は、医師の判断で変更されることがあります」とあったので、退院が間近になったこの時点では、もう診察する必要はないとされたのかもしれない。また、この頃、父母との取り決めによって「年始に帰宅」とされていたものが、「帰宅は1月9日」という形に具体化された。父母との直接の関わりはなく、スタッフ伝てに聞かされたものだった。親との誓約書は、意外と簡単なものだった。「生活保護を受けろ」とか、「支援は来年の5月まで」とか言うことが書かれており、後は「物を壊すな」とか「今後の損害賠償は私たちは負わない」とか「こちらからは連絡をしない」とか言うことが書かれているだけだった(インターネットでの誹謗中傷をするなという条項はなかった)。私はこれに署名する前に、「この合意の効力は、林洋佑が経済的に自立をした時点で停止する」という条項の付け足しを要求した。これは、「カネが儲かったら合意の内容に反することをする」ということではない。この誓約書は「父母との間の合意」として書かれているものであるから、私が経済的に自立をして、父母との縁を切ることになったときに、この合意の拘束力がまだ残っていることはおかしい。私は父母に対して「物を壊さない」という誓いをする必要はなく(「誓い」と言ってもこれは「それを破ったら父母たちも約束した支援金を支払わない」という効力を持つに過ぎないわけで、生活保護の申請等が通ったらいくらでも破棄できてしまうものでしかなく、私が退院後に平穏に暮らすのは法の強制や父母からの強制ではなく、あくまで合理的な意思に基づくものでしかない。まあこんな主張をするとかえって体制の建前に対して負け惜しみをしているようで恥ずかしいと思うが、別に平穏に暮らすことは「負け」ではない)、ただ社会インフラを利用する者としての合理的な判断から、自己の責任でもって平穏に暮らすのみである。こんなものは形式的なことだが、私がデビューした後に彼らとの法的関係が残っているのは嫌なので、念のため、停止条件を設けることにしたのである(細かい話を言うと、この世界は台本で成り立っているので、実際にはこれは「条件」ではなく「期限」という法的意味を持つものだが、三次元世界的には「条件」である)。当然にこの主張は通った。もう縁を切ることは確定したようである。1月6日になって、また診察があった。退院前最後の診察だったが、特に話もしなかった。

 退院の日、ホールでみんなに「おめでとう〜♪」みたいな感じで見送られた。あの下ネタ好きの女性(=ベラスケス)が、大きな声で「あの人、今日退院なんだって〜♪」と皆に言ってくれたからである。そして何より男女二人で大声で喋っていたせいで、私はあのホールでは結構目立つキャラの扱いをされていたらしい。恥ずかしかったが、こういうのもいいものだと思った。こういう時、捕食者としての立場が悔やまれる。出口に通じるエレベーターを隔てていたガラス扉の鍵が開けられた時、以前にホールで喋った太った男の子(大東の生まれ変わり)が「あ、今日退院なの? じゃあね〜!」と言って、手を振ってくれた。私も手を振り返した。そこへ、以前にホールで私のことを「可愛い。誰かに似ていると思ったけど、イケメンの俳優とかじゃなくて、確か芸人さんだったね」と言ってイジってくれたお婆さん(=細木数子)がたまたま歩いてきて、太った男の子に呼び止められ、二人で一緒に私に手を振ってくれた。私は彼らと目を合わせたままエレベーターに乗り、その扉が閉じるまで彼らに手を振り続けた。それは、おそらくもう二度と私と会うことのない、ああして私と仲良く雑談をすることもないだろう二人が、死に際に見せた最後の瞬間だった。それが憎しみに満ちた八つ当たりではなく、あのような和気藹々とした態度だったというのは驚きであった。「あいつら裏で俺と地獄の戦争をしているくせに、本当は友達を演じたかったんだな」と思うと、少し泣けてきた。

 上から目線で語らせてもらうが、大東には「男の友情」だとか「皮肉の裏にある情け」だとか、そういう情緒的な要素を好むところがある。一方、馬場くんはどちらかと言うと、「嫉妬深い自分がどうしようもなく醜い性質を示してしまい、地獄に落ちていってしまうことの悲しみを分かってくれ」という感傷を見せることが多く、それはそれでもうここまで来ると同情に値するのだが(もちろん法的には同情に値しないが、動物的には同情に値する)、それよりもやはり、大東の方が好感を持てる。彼は楽しげな雰囲気で(大東の生まれ変わりである西村賢太風に言うと「可愛げのある偽りのハニースマイル」で)こちらに遊びや友情を求めるような形で助けを求めてくるので、ついこちらも彼に好感を抱いてしまうのである。まあ別に彼が客観的に醜い犯罪者だろうが自閉症だろうが、私が彼に好感を抱いていけないわけではないだろう。それが詐欺だろうが何だろうが、そいつがそういう奴であることに変わりはないのだから(もちろん彼は、他人に気に入られる素養を持っているだけで、基本的には「だらしがなくてあまり動こうとせず、そのくせわがままで暴力的でカネと権力と野望が大好物の、社長タイプのおっさん」である。ドナルドトランプも北野武も島田紳介も池田芳正も村上春樹もみんなそんな感じである)。

 髭ダンのボーカルの藤原聡(=大東)は、プリテンダーという歌で「もっと違う性格で、もっと違う価値観で、愛を伝えられたらいいな。そう願っても無駄だから」と歌っていた。彼だって本当は、ああいう風に生まれたかったわけではない。まともな人間に生まれたかった。それは記号人みんなが思っていることでもある。でもそれを言ってしまうと、自分たちの種を否定したことになるので、言えない。自分を否定することは、彼らにとって耐えがたいことだからである。にもかかわらず、彼はあのようなことを歌った。もうどうしようもなく追い詰められ、種としての意地やプライドを維持するどころではなくなったのである。M-1グランプリで、「自我と自覚だったら自我が勝つから」と絶叫していた馬場くんも、同じ状況だろう。上の文章では安易に否定をしたが、本当のことを言えば、あれを見ていた私は、あまりにも彼の嘆きが不憫で見ていられず、笑うどころではなかった(しかし彼はこちらが同情すると、私の客観的な正義判断を理屈で責め、自分を正当化し、結果的に被害者を貶めるような態度を取ってくるので、「それはあなたの感情であって、犯罪をしたことには変わりない。犯罪をしておいてろくに非も認めようとしないくせに、自分の嘆きを吐露して同情を求めるな」と言わざるを得なかった)。

 病棟で最後に手を振ったのが、あの二人だったことは印象的である。ベラスケスはこれからも私と付き合いがある。馬場くんはあまり他人と馴染もうとしないタイプだし、まだ私がデビューするまで役所の作業員等の仕事をしなければならないので、私と馴れ合うわけにはいかない。これに対して、先にも述べたが、おそらくあの二人はもう二度と私と会うことがない。だから最後の最後に、この世界から消えてしまう恐怖から逃れるように、二人は私に友情を求めたのである。

 それにしても、大東と細木数子は四次元レベルで仲が良い。彼女は彼を男として生理的に嫌悪しており、強姦を受けることで性的な世話をさせられていることを不満に思う一方で、どれだけ恐ろしい事態に直面しても暴力でもって立ち上がり、悩みも悲しみも全て憎しみに変換して、これらを力づくでねじ伏せようとする、その馬鹿だけど頼もしく、可愛げもある大男に、憧れと安心を抱いてもいる。そんな彼はしかし、実は内面に深い深い闇を抱えていて、鬱状態に陥ることも多いのだが、そういう時は彼女が彼自身よりも大きなエネルギーで鬼の形相で迫り、「男ならしっかりしてよ! 情けない! こんなことで負けて悔しくないのか!! 殺されるくらいなら、殺せ!! 八つ裂きにしろ!! 死ぬのはそれからでいいだろうが!!」などと鼓舞をする。そうして頼られることで、また彼は息を吹き返すのである。だから彼は彼で、彼女の叱咤激励を頼りにしているわけで、そういう形で二人は強い絆で結ばれているのである(私は大学時代に細木数子の生まれ変わりである高野ゆかりに告白して振られ、彼女は大東裕紀と交際する選択をしたのだが、裏の事情が分かれば、それも納得のいく話である)。

 記号人は、一人では立てない生き物である。だから互いに支え合って生きていくしかない。しかし彼らには絶対的な価値基準がないので、ひとたび支え合える仲間を手にしたら、お互いにお互いを強め合って、どこまでもどこまでも恐ろしい困難に立ち向かうことができるのである。それは愚かなことかもしれないが、感動的なことでもある。私にはとてもできることではない。ここまで来たら、善とか悪とか、そういうことではないだろう。あいつらは生きるために必死で闘った。それは法的な判断とは関係なく、すごいことなのである。

 私はタクシーに乗って一人で帰宅した。父母と顔を合わせることはなかった。これからも二度とないだろう。それについては今これを書いている2021年2月2日現在に至るまで、別に何とも思っていない。ただ、不覚にも今の私は、あの病棟で体験した色々なことを思い出して、「またあそこに戻って、あいつらと喋りてえな」と思っている。それくらい楽しい体験だった。これから私は、彼らとの争いを終わりにしてデビューをし、一人で先に進まねばならない(ベラスケスとは関わるが)。あの愛すべき馬鹿どもともう会えなくなると思うと、少し寂しい気もするが、私にこう思わせることが、彼らにできる最後の復讐であろう。彼らはよく闘った。私は先に進まねばならない。

 実のところ記号人との戦争は、今回がはじめてではない。歴史のある四次元政府が、記号人への法的問題を一度も克服していないはずがなかろう。私はすでに何億回にも渡って、こういう戦争を繰り返している。具体的な仕組みはここでは書かないが、歴史は繰り返しているのである。だから私は、彼らとこれで永久にお別れになるわけではない。「お前ら、またゲームしような」というセリフが、私の頭の中に自然に思い浮かんだ。彼らは泣きながらそのセリフを聞き、「次は絶対に負けないぞ」と心に誓ったはずである。

 今度はもっと俺を苦しめてみろよクソ豚ども。死ぬ気で抗って、抗ってから死ね。てめえらなんてどうせカスほどの影響力もない掃き溜めのクズなんだから、少しでも運命に抵抗して、自分たちの価値を証明して見せろや。

 ところで、「社会」や「客観的正義」に関する科学的論証が不十分だったので、これを拡充しておく。以下の論証は、当ブログにおいてこれまで「当然の科学的前提」とされていたものを言語化しただけのものであって、これまで私が述べた見解が持つ結論やその真理値に変動はない(ただ、「説明の分かりやすさ」に変動があるのみである)。

 ※以下の《》内の記述は、当ブログの投稿『私の論に反論したい者たちへ』にも掲載している。ただし、こちらの投稿では必要に応じて内容を拡張してある。

《社会というのは、「個々人が争いを生じることなく共生するための場」である。これは客観的な評価であり、それ以外の共同体を「社会」と定義することはできない。なぜなら、他者との間に争いを生じるのであれば、そこには個々人が対等に集団生活を営む構造が失われてしまうからである。すなわち「社会」の特徴は「構成員に特定性がない(個々人の対等性)」という点に求められる。詳しく説明しよう。

 理性的でない動物の集団生活においては、個体の序列が暴力を背景に決定されるので、個体間に特定性が存在する。たとえば、猿山の猿の集団生活においては、「あの猿は強いから誰も逆らえない」「あの猿は弱いから冷遇してもよい」という形で、個体に特定性が存在している。これはつまり、特定性のない公正な基準によって組織の序列を決めるのではなく、暴力によって特定の個体が優遇されるように組織の序列を決めているということに他ならない。このような状況では、常に「外部勢力による侵略」や「部下による反逆」と言った暴力的な要素によって、集団生活は脅かされ得ることになる。「暴力によって得た地位は、暴力によって転覆し得る」ということである。そういう集団生活は脆弱であり、集団生活による恩恵を安定的に得られないという点で、不合理である。

 これに対して、構成員が誰も特別扱いされることなく、客観的に公正に扱われることによれば、その集団は「公正性を受け入れられる全ての者に対して開かれたもの」となる。このような集団は既存の構成員だけでなく、外部の存在との間でも、その存在が公正性を受け入れられる限りで争いを生じないことになる。また、後に生まれてくる子孫との間でも、その子孫が公正性を受け入れられる限りで争いを生じないことになる。つまり、客観的な公正性を基準とした集団生活は、暴力によって脅かされることがないという点で、「集団生活からの恩恵を最大限効率よく得るために必要不可欠な要素」であることになる。

 たとえ公正性の基準において不利な立場を選ばざるを得ない者でも、争いによって集団生活が壊れ、インフラが全て使えなくなってしまうよりは、公正性に従って「争いのない共同生活」を送っていた方が、客観的に利益を得られる。これは資源利用の効率性の観点から科学的に絶対確実なことである。それゆえ社会は、「個々人が争いを生じることなく共生するための場」でなければならず、それ以外の性質を持つ共同生活を社会と定義してはいけない。これが客観的(つまり科学的)な評価である。

 なぜ「資源利用が最大限効率的になるような集団生活(=争いのない集団生活)」のみを絶対的な解とせねばならないのか。それは、それが(つまり「資源利用が最大限効率的になるような集団生活」をすることが)「集団生活からの利益を欲する」ということと同義だからである。集団生活からの利益を欲しているのに、集団生活が壊れていいと思う生き物は原理的にこの世に存在しない。集団生活が壊れていいという者がいるなら、その者は集団生活をしなければいいのであって、それは「集団生活からの利益を欲している」という状態ではないからである。猿やゴリラ、その他の生き物も、原理的には集団生活からの利益を欲して、集団生活を営んでいる。しかし彼らは認識能力が十分でないので、「客観的な公正性を基準にした争いのない集団生活」を送ることができない。結果として、暴力によって集団生活の秩序を維持するしかない。つまり彼らは「本来ならば集団生活からの利益を最大限効率化させたいのだが、能力的にこれができない」という境遇にあることになる。

 もちろん暴力によって権力の座に就いた猿は、客観的に公正な基準を否定して、「俺はこのままの環境の方がいい」と思うのだろうが、そのような非効率的な集団生活は脆弱であり、他の暴力によって破壊させられる危険を常に孕む。自分が安泰な地位にいられるうちは、猿の権力者は公正性を拒むのだろうが、いざ他の勢力に体制を転覆され、集団生活からの利益を完全に奪われ、滅ぼされることになったときには、「こんな目に遭うなら、公正な基準を採用して安定的に集団生活の恩恵を受けていればよかった」と考えることになる。誰しも勝ちは得たいが負けるのは嫌であるのは当然であり、自分が勝つことだけを想定すれば非効率な集団生活でも構わないということになるが、現実はそうではない。集団生活による利益を欲する限り、それが転覆する危険性を最大限排除しようとするのが、科学的に絶対の解である。

 一方、理性を持つ動物(=理性人=人間)は、客観的に公正な基準を認識することによって、集団生活による利益を最大限効率化することができる。ゆえに、人間が集団生活を営む場合、客観的に公正な基準によって個々人の序列が決定されることになる。この基準が「客観的な正義」であり、客観的な正義によって統治される集団生活を「社会」と呼ぶ。すでに述べた通り、これは「集団生活を欲する」という欲望の構造上、唯一絶対の解とせねばならない基準であり、したがってそれは科学的な真理であることになる。

 「客観的な正義」というのは、「他者との間の欲望の矛盾を争いのない形で解決するためのルール」である。他者との間で争いなく欲望の矛盾を解決するには、「全ての者が他者に対して積極的な害を与えない」というルールを制定せねばならない。この「積極的な害」というのは、「個人が生来的に持つ能力(他の個人が生来的に持つ能力の発揮を阻害する能力は除く)の発揮を阻害すること」である。個人の生来的に持つ情報(DNA情報)以外のもの(資産や社会的地位など)は全て、「外的環境から後天的に与えられるもの」であるから、原初的な生まれたままの状態の個人が所有権を主張できるのは、客観的に「個人が生来的に持つ能力」以外にはあり得ない。自己の所有物たる能力の発揮は、他者に対する積極的な侵害にならない限りで自由に行われなければならず、抑圧されることは許されない。したがって、「個人の生来の能力の所有権」を外部環境に正しく反映させるためには、法は「そのような個人の能力を最大まで発揮した結果、得られるべき資産や社会的地位」を「客観的に公正な個人の権利(人権)」として保障することになる。もちろんこの社会において他者にも人権が保障されている場合、その他者との間で権利の競合が起こる。この場合、「お互いに相手の能力の発揮を妨害せず、最大の能力発揮をした上で得られる競争の結果」(公正な競争の結果)こそが、「個々人に保障される客観的な権利」であることになる。こうして、「客観的に公正な競争を行うこと」が、社会が社会として成立するための必要不可欠の条件であることを、科学的かつ客観的に立証することができた。

 客観的に公正な競争は、客観的に公正な基準によって結果を決められることになる。競争を公正な基準で行うためには、「個々人の活動の価値を客観的に評価すること」が必要である。主観的な偏った評価では、公正な競争を行うことはできない。「客観的な評価」というのは、「当該価値に関する全ての事情(情報)を考慮した上で、これを最大限合理的に構成することで、得られる評価」のことである。考慮すべき情報に偏りが欠落がある場合、そこから得られる評価も恣意的なものとなってしまい、客観的かつ画一的な評価を得られない。これに対して、全ての情報を合理的に構成して得られた評価というのは、情報のレベルで結論が確定しているために、いかなる事情(情報)によっても揺がし難い客観的かつ画一的なものとなる。これが「客観的な評価」である。

 「客観的な評価」を行うためには、「あらゆる情報を合理的に構成すること」ができなければならない。情報というのはどうとでも恣意的に結合できるものではなく、「合理的な結合のあり方」というものが存在する。たとえば、「ハトは羽で空を飛べる」という情報と、「ハトは胸筋を使って羽を動かす」という情報と、「ハトの胸筋は発達している」という情報は、何の関連もないものではなく、「ハトは発達した胸筋によって羽を動かすことで、空を飛べる」という形に合理的に結びつけることができるものである。この三つの情報だけを考えるならば、この推論が最大限合理的な情報の構成であり、それ以外の解は存在しない。なぜなら、ハトという生物の肉体のイメージに、「胸筋によって羽を動かす仕組み」と「羽を動かして空を飛ぶ仕組み」を付加すれば、「胸筋の発達は、ハトの飛行能力を高める作用を有している」という結論が必然的に導かれるからである。もちろん、「そうではない可能性もある」と言える場合も存在する。それは、「『胸筋の発達とハトの飛行能力は関係がない』という事実を示す、さらなる別の事情が発見された場合」である。この場合、最前の結論は覆されることになる。「胸筋の発達とハトの飛行能力は関係がない」という事実が示されているのに、「両者には関係性がある」という結論を維持するのは情報的に不合理であり、新たな事実を構成できていることにならない。すなわちこの旧い結論は、新たな事実を取り込んだ新しい結論に比べて合理性が低い(=説明できない要素が存在する)ため、「より真理値が低く、価値の低い見解」となる。したがって、新たな事実が示されるたびに、既存の結論はより真理値の高いものへと合理的に発展する可能性を有していることになる。このような結論の不安定性は、結論に関わる全ての事情が合理的に構成されるまで続くことになる。全ての事情が合理的に構成され、結論の不安定性が失われることではじめて、結論は揺るがし難いものとして確定する。これが、「客観的な評価」である。このような分析は、情報という構造が客観的に持つ性質であって、現在の知見において通用する科学的な真理として認められるものである。なぜならこれは、この世界の全ての現象に認められる事実であり、これに反する情報の性質は現在のところ見出されていないからである。

 情報を合理的に構成するためには、イマジネーション能力が必要である。なぜなら情報というのは数字や言語ではなく、イマジネーションとしての実体を持つものでなければならないからである。そのことは、先の例から明らかである。すなわち、「ハトは羽で空を飛べる」という情報と、「ハトは胸筋を使って羽を動かす」という情報と、「ハトの胸筋は発達している」という情報を必然的に結合させているのは、これらを統合した「ハト」のイメージであり、言語や論理ではない。論理だけだったら、「ハトは胸筋を使って羽を動かすことで空を飛べるが、それと胸筋の発達とは何も関係がない」とか「ハトは羽を使って空を飛ぶことができるが、そのような飛行能力と羽を動かすこととは何も関係がない(羽を動かさなくても空を飛べるということ)」と言った理論をいくらでも構築できる。それらが「論理矛盾である」と解釈されるのは、私たちが「ハト」という存在を知っていて、そのイメージと矛盾することを頭の中で確認しているからに他ならない(ゆえに、先の考察で例示したような「『胸筋の発達とハトの飛行能力は関係がない』という事実を示す、さらなる別の事情」というものが存在するとした場合、その具体的な事情は現実のハトと矛盾しないものでなければならない。たとえばこれから挙げるのは私が勝手に作り出した見解だが、「ハトの飛行能力は主として空気抵抗をいかに上手く使いこなすかによって決まるものであり、胸筋を高めれば高めるほどそれに比例して飛行能力が上がっていくというものではない」という事情は、その一つの具体例となる。見解や分析は現実のハトとの間で矛盾する可能性があるが、現実のハト自体は現実のハトとの間で矛盾をしない。そんなことが起きたら、ハトはハトとして現実に存在し得ないからである。世界の全ての情報は矛盾なく統合されているのであり、それゆえ情報を合理的に構成することができれば、この世界の全ての現象を矛盾なく説明することができるということになる)。このような分析も、この世界の全ての現象に認められる事実に基づいたものであり、これに反する現象は現在確認されていないので、これを現時点での科学的真理として通用させてよい。

 そもそもここまで述べてきた分析というのは、「情報を合理的に構成することで得られた構造(イメージ)」を持つものであるから、原理的に「これに反する現象」というものは存在しない。この構造と矛盾するかのように見える現象が新たに発見されたとしても、それは構造を拡充させることにしかならず、構造自体を本質から覆すことはない。ハトに関する知見がどれだけ深まったところでハトはハトであることに変わりはないのと同じように、「ハトに関する情報」が合理的に積み上げられて一つの構造をなしている限り、新たな情報によってその分析が本質から覆されることはないのである。したがって、以前に私は「私の見解を批判するなら、私の見解とは違う形で全ての事象を合理的に説明できるだけの別の構造を示せ。そうでないと、反証をしたことにはならない」と述べたことがあるわけだが、あれはやや意地悪な言い方をしていたことになる。私の見解は情報を合理的に積み上げることで成り立っているので、今後どのような情報をもってしても、その基本構造を覆すことはできない。私の知見は科学的な証明を伴うものであるがゆえに、言葉のレベルでは反証可能性を想定することができるが、情報の構造を見ていくと、実際的には反証は「存在しない」。すなわち私の見解は、「『反証がこの世に存在するなら覆される』という性質を有しているが、そんな反証がこの世に存在しないことを、理論内部で明らかにしてしまっている」のである。したがって、私は上で、「これを現時点での科学的真理としてよい」と述べたが、実際にはそれは「これは未来永劫に渡って覆され得ない絶対的な真実性を保証できる科学的知見だが、さらなる情報によって理論が拡充されることはあり得る(理論の伸び代の想定)」と同義であることになる。「全ての情報が合理的に構成されるまで、新たな情報による結論の不安定性が存在する」という先の説明も、実際には「結論の不安定性」というより、「理論の拡充の可能性」であることになる。たとえば、「ハトの胸筋の発達は、ハトの飛行能力を高める作用を有している」という見解と、「ハトの飛行能力は主として空気抵抗をいかに上手く使いこなすかによって決まるものであり、胸筋を高めれば高めるほどそれに比例して飛行能力が上がっていくというものではない」という見解とは、言語的には矛盾しているが、情報を合理的に構成すれば「ハトの胸筋の発達はある程度のところまでは飛行能力を高めることに繋がるが、それ以降はむしろ飛行技術の高さ(空気の操り方の上手さ)によって飛行能力は左右されるのであり、胸筋の発達の影響は小さくなっていくことになる」という形で矛盾のないことを確認できるのであり、結論自体は覆されておらず、不安定性があるわけでもない。にもかかわらずこれが不安定に見える原因は、「言語的な説明の不足によって、結論が矛盾しているように見えてしまう」という合理的な理解のレベルでの不安定性でしかなく、それは受け手の「理解力のなさ」や「説明不足を補足し切れない情報構成能力のなさ」の問題であって、見解自体に内在する問題ではない(説明の文量が多くなり、分かりにくくなったかもしれないが、説明不足のせいで見解が矛盾しているように見るのを避けるためにどこまでも厳密に説明をしようとすると、こういう説明になる)。だから、「全ての事情が合理的に構成され、結論の不安定性が失われることではじめて、結論は揺るがし難いものとして確定する」という先の記述も、実際には「情報が合理的に構成されている限り、結論の基本構造自体ははじめから安定している。不安定に見えるのは言葉の問題でしかなく、それは実際には結論の不安定性ではなく理論の伸び代であって、全ての事情が合理的に構成されるまで理論は発展を続けていくことになるが、結論の基本構造自体ははじめから揺るがない」という意味のものであることになる。今のこの説明も、「前の記述を後から改める」という形を取っているが、それは理論を伸ばしていくのに応じて、説明の形式を変えているだけで、情報構造的には何も変わっていない。たとえば今のこの説明で言えば、「『結論の不安定性』という言葉について、それが『理論の脆弱性によるもの』であるのか、『理論の伸び代によるもの』であるのかを区別し、それによって『合理的に構成された情報は、どれだけ多くの理論の伸び代を持っていても、その基本構造が覆ることはない』という説明と『結論の不安定性』という言葉を噛み合わせる」という操作を行うために、今みたいな補足をくどくど述べて、前に語った言葉の意味内容をより厳密に定義せねばならなくなってしまったが、主張の基本構造は何も変わっていない。これを「説明が食い違っている」と感じる者は、言葉の形式に捉われるばかりで、内容をイメージできていないことになる。分かりにくい説明になったが、情報の構造や性質を示すための資料として、あえてここに残しておくことにする。合理的に構成された情報というのは、より多くの事情を取り込んで真理値を高めていくことはできるが、後から出た情報で根本的な結論を覆すことはできない(原理的、一般的な反証可能性は観念できても、具体的な反証の不存在が証明されている状態)。そういう不可逆性があるのである。

 話を戻そう。「ハト」に関する見解ついては、「ハト」という現実に存在する実体を媒介にして、その合理性(すなわち真理値)を確認することができた。しかし、「物の価値」や「個人の能力の評価」と言った視覚的でない現象については、現実の存在を媒介にして見解の合理性(真理値)を確認することができない。このときに、人間の持つイマジネーション能力が必要となってくる。すなわち「イマジネーション能力」とは、「一度の機会に知覚できない情報を合理的に結びつけ、一つの情報統合体(イマジネーション)を形成する能力(=情報構造化能力)」のことである。この能力があってはじめて、個人は「物の価値」や「個人の能力の評価」について「客観的に公正な分析」を行うことができる。

 個々人の生来の能力を客観的に公正な基準で評価することができなければ、個人はそれによって得られた社会序列を争いなく受け入れることができない。公正な分析が分からなければ、公正な競争の結果として得られた自己の立場に疑問や不満を生じて、争いや異議申し立てを行うことになってしまうからである。その際には、様々な思想や価値判断が語られることになるだろう。しかしそれらは、公正な結果とは異なる結論を生じるものであるために、他者侵害的となる。「公正な結果」とは、「全ての個人が互いに他者に対して積極的な侵害をしない」という基準で成り立っているのだから、それとは異なる結論を採用してしまうと、誰かが不公正な立場に置かれることになるのである。これに対して、公正な競争の結果として、たとえ弱い立場に置かれる者が現れたとしても、それは「全て個人が互いに積極的な侵害をしない」という最大限合理的なルールを採用した結果であり、他者の能力発揮を消極的に阻害するのみであるから、これを避けられないものとして社会的に容認するしかない。それを避けようとして、「誰が割りを食うか」に関する価値観を恣意的に決定することにした結果、様々な見解が乱立して争いが起こり、集団生活が崩壊してしまうとなると、それは「集団生活による利益を欲する個々人の希望」とは異なる不合理な結果となり、本末転倒である(事実、「客観的な正義など存在しない」という環境においては、「どんな手を使ってでも勝った者が偉い」ということになるのであり、闘争は避けられない。それでコミュニティが崩壊することが予想されても、万人が従うべき客観的な正義が存在しないために争いを避けることができず、遅かれ早かれ崩壊は免れない)。社会的な序列を決定する際には、誰かが恣意的に決めた思想や価値観ではなく、「他者を積極的に侵害しない」というルールの下、客観的に公正な競争を行わねばならない。イマジネーション能力を持った全ての人間は、公正な分析を行うことができるので、誰もが公正な社会的序列を進んで受け入れることができるのであり、その過程において争いは起こり得ない。一方、イマジネーション能力がない者は、公正な分析を行うことができないので、公正な社会的序列を争いなく受け入れることができない。

 上で科学的に立証した通り、「人権(=個人の生来の能力発揮の保障)」というのは、「社会(=公正な基準に基づく集団生活)」の中で保障されるものである。ゆえに「社会生活を送る能力(=イマジネーション能力)」を持たない者には、これが保障されることはない。この「社会生活を送る能力」をここでは「理性」と呼ぶことにする。これが、「理性のない者には人権が与えられない」という結論の科学的根拠である。

 さて、すでに論証したように、記号人は「一度の機会に知覚し得ない情報を合理的に構成する能力(=情報構造化能力=イマジネーション能力)」を欠いている。こうして、社会や正義に関する科学的な研究が、記号人の思考構造に関する科学的研究と繋がった。すなわち「記号人には理性がないので、社会において人権が認められない」という結論が、科学の水準で立証されたことになる。現在の地球において、私のようにイマジネーション能力を用いた業績を上げられている者は他にいない。したがって、私以外の全ての地球住民は、人権を持たない記号人であることになる。

 それでは私は、「社会というのは理性人(人間)のためのものなのだから、みんなこの社会から出ていけ」と述べているのだろうか? そうではない。私は「君たちは人権を持たないのであり、この世界の明文法は紙に書かれた嘘でしかないので、私は君たちを人間として扱わないよ。君たちに人権はないのだから、私は誰にどう迷惑をかけても罰せられない限り気にせず好き勝手に生きさせてもらうよ」と述べているのである。私は彼らに「歪んだ思考構造を治せ」とも「社会から出ていけ」とも「俺に服従しろ」とも言っていない。「ただ、あなた方はこれこれこういう生き物だから、こちらはそれに相応しい態度を取らせてもらう」と述べているだけである。これで私の態度と、法的な判断と、科学的な知見が全て繋がったことになる。

 記号人の集団内においては、「人権保障や明文法なんてものは紙に書かれた見せかけのものでしかない。あまりにも大胆な掟破りは罰せられるが、多少の問題行動や外見上明示的でない不正については咎められることはないし、みんなやっている。何をしようが誰に迷惑をかけようが、法的に咎められなければ問題はなく、どんな手を使ってでも勝った者が勝者であり、偉いことになる。もちろんそれを咎める者も現れるだろうが、そんなものは他人の意見であり、気にしなくていい。みんな他人には厳しいことを言うくせに、自分の行動には割と甘く、どこかに必ず不満やストレスのはけ口を見出しているし、ズルや言い訳もしているのであって、それぞれが勝手な価値観で生きているに過ぎない」という生き方が「常識」であって、私も彼らに対する限り、そのような行動をすることが認められるということになる。私が法社会に関する膨大な考察とあるゆる議論を終わりにする科学的業績を上げた末に、導き出した答えは、このような「誰でも知っている当たり前の現実」であった。私は理性があったために、このような常識を受け入れるのに長い長い回り道をせねばならなかった。これでようやく、私は記号人と同じ認識レベルに立てたのである》

 私が上記のことを書いている際に思ったのは、「普通の奴が言われなくても当たり前に分かることを、馬鹿にはいちいち科学的に説明しないと分からないんだな」ということである。「そういう風に上から目線で物を語るから嫌われる」と彼らは思うのだろうが、私は上から目線で物を語ったことなどない。私は「生物的に上」なのであって、「目線だけが上」なのではない。私の目線は真横を向いている。そこに誰もいないというだけで。

 彼らは彼らで、「俺たちが当たり前だと思っている常識を、お前は科学的な論証によらなければ理解できないんだな」と主張するのかもしれないが、それは情報的な観点から言えば、「より高度な水準で物を考えられる者にとって、劣った思考の者たちの常識を当たり前だとは思えない」というものであり、私が馬鹿であることにはならない。「頭のいい奴には馬鹿の発想は分からない。馬鹿は馬鹿であるがゆえに馬鹿の思考を分かっているという点で頭のいい奴より頭がいい。結局お前は俺たちの見解に合わせているわけだから、お前の方が馬鹿じゃねえか」というのは言葉のトリック(言い訳)でしかなく、学術的な内容を持たない。私は頭がいいので馬鹿の発想をこのように解き明かすことができるが、馬鹿は頭のいい私の発想を解き明かすこともできない。そもそも彼らは自分たちの馬鹿な発想を解き明かすこともできていない。ただ馬鹿だからこれを疑問も持たずに受け入れているだけである。それは「分かっている」のではなく、ただ「『こういうものだ』と無批判に受け入れている」だけでしかなく、「馬鹿は馬鹿の発想が分かっている」ということにはならない。一方私は、彼らの発想を「分かっていない」のではなく、「分かっているが受け入れていない」というだけでしかない。これは私が馬鹿であることの理由にならない。

 また、私が彼らと同じ行動を取ったからと言って、彼らと同じレベルであることにならないのは当然である。私はあくまで彼らより上であることを前提に、「馬鹿に合わせてあえてレベルを下げている」だけであって、より高度な社会コミュニケーションを行う「能力」がある以上、何をどうしようが彼らよりレベルは上である。たとえば人間が野生のゴリラに遭遇し、これと殴り合いになったからと言って、人間のレベルがゴリラと同じものに落ちたかと言えばそんなことはない。人間はただゴリラにレベルを合わせているだけであり、人間が人間であることに変わりはない。行動によって生物的な思考構造が変わってしまうことなどない。翼をもがれた鳥はネズミになるのかと言えば、そんなことはあり得ないことくらい、記号人だって分かるはずなのだが、「社会」とか「思考能力」とか可視的でない事例を出されると、自分ちの利害に従って馬鹿で勝手なことを言うのが彼らである(語源から言って、馬を鹿と言ったり、人間を非人間だと言ったり、非人間を人間だと言ったりするのは馬鹿である)。

 「お前がどれだけ頭良くても、やっていることは俺たちと同じ」式の安易な批判というのは、思考構造を無視した表面的な行動でしか他人を判断できず、自分たちの都合で一方的に結論を決めようとする頭の悪い記号人の態度でしかないということになる。有り体に言えば、私は彼らが客観的に馬鹿で有害だからこういう行動を取っているだけであって、まともな者に対してはまともな対応しか取らない。あちらが同じことを言い返したところで、それはあちらの都合を絶対化した客観性のない主張でしかない。それが分からないのは記号人が馬鹿だからであって、私の主張が客観的に間違っているからではない。

 しかも私は、繰り返すように「人権のない記号人(家畜)に対する正当な管理処分権行使」として現在の活動を行なっているのであり、理性的なレベルにおいても矛盾したことは何一つ行っていない。またこれも繰り返しになるが、私の行動は彼らの行動とは似て非なるものであり、「同じ行動」は取っていない。「私は理性があったために、このような常識を受け入れるのに長い長い回り道をせねばならなかった。これでようやく、私は記号人と同じ認識レベルに立てたのである」という上記の説明はただの皮肉であって、あくまで私は「彼らと同じレベルに合わせて、『何したって勝った奴が偉いんだよバーカ』などと、説明の仕方を選ぶこともできる」ということを述べたに過ぎない。客観的には私の行動は正当であり、彼らの不正な行動とは異なる。馬鹿に合わせて馬鹿の言語を用いたところで、結論が覆ることはない。

 私の言動を非難する者というのは、このブログで私が「私以外の現行の地球住民は人権のない動物である」ということを科学的に証明してしまったことがどういうことなのかを理解していない。私のことを彼らと同じレベルだと非難したところで、私は人権のない動物にしか害を与えていないのであり、社会的に咎められることは何一つしていない。

 「自由」と「計画」は親和的である。自由というのは「全員が最も合理的に振る舞うこと」を言うのだから、その結果は個々人の生来の能力に応じて予め決定されたものとならなければならない。それが、「公正な結果(=公正な社会的序列)」であり、客観的な能力差を認識し、公正な結果を自発的に受け入れる能力が「理性(社会適応能力=情報構造化能力=イマジネーション能力)」であることになる。

 また、派閥争い、権力争い、多数決、実力闘争、戦争と言った不確実な要素で結論を決めることは、「生来の能力に応じた公正な結果」を害することになる(勝負というのは、結果が不確実であることから必要なものであり、結果が確実なら勝負をする必要はない。この手続きで行われる勝負というのは、予め確定されている結果を確認するための擬似的な勝負であり、本物の勝負ではない)。

 「自由」と「計画」は親和的であり、そこに争いの要素は必要ない。

 私は「自分たちを人間でないと言われたくないなら、理性の証明をしろ」と地球住民に述べている。彼らはそれに応じて、様々な正義論を言葉で語り、「俺は法を分かっている」というアピールをすることだろう。しかしそんなものに意味はない。

 やや逆説的な説明になるが、「正義を客観的に認識する能力(=理性)」を証明するためには、正義の話をしていてはいけない。正義の話をどれだけしたところで、自分が言葉として覚えた社会道徳や倫理観をどれだけひけらかしたところで、それは言語能力の証明にしかならない。理性というのは、「情報を構造化する能力」のことであって、「正義に関する知識を言葉で覚える能力」のことではない。

 したがって、理性を証明するためには、イマジネーション能力を発揮するのでなければならない。イマジネーション能力を発揮すれば、たとえ私のような引きこもりであっても、衣食住が保障され、現行の科学や芸術を学ぶことのできる資料を手に入れられる限り、私と同等の業績を上げることができる。それが「理性の証明」である。

 私の述べた正義論をいくら言葉で真似たところで、それは「言語能力の証明」にしかならない。すでに解明したように、言語能力は正義を客観的に把握することのできない能力であるから、その能力を証明したところで理性の証明にはならない。

 「あなたのブログでの予想は外れている。これでは予言を当てたことにならない」と言う人がいるかもしれない。確かに私は、台本を知らないままこの手続きの構造に基づく推論によって予想をしているだけなので、外れる時は外れる。しかし現在、「もうすぐデビューするということで、一応破局的な事態(措置入院)が起こって、父母との関係が切れ、それから頭蓋骨矯正が完成に向かって進んでいく」という形で四次元手続きの流れはできている。

 したがって、「頭蓋骨矯正が完成したらデビュー。誹謗中傷で炎上するが、逮捕も告訴もされない」という予言は外れないはずである。「冴えない顔面の男が自宅で頭蓋骨矯正をして、整形でも達成できないレベルの美顔を手に入れ、それと同時期に突然ブログが炎上し、本が売れ出す。誹謗中傷をしたのに逮捕も告訴もされない」という現象は通常確率的に起こり得ないことであり、このような筋書きを事前に予想し、当てることはさらに困難を極める(「イケメンになったから皆の注目を集めて炎上したんだ」という人がいるかもしれないが、イケメンでも無名の怪しいブロガーなどたくさんいるし、そもそも自分が今の不細工な顔の状態から自宅での手作業で顔面矯正に成功してイケメンになることを予想し、これを当てるだけでも確率的にあり得ない。整形外科のプロでもやっていないような施術に頼って人生逆転などという、そんな不確かなことに頼って人生設計をできる者などいるはずがない)。

 私は「もうすぐデビューできる」という曖昧だが状況的に説得力のあるいくつもの兆候(ほのめかし、手続きの構成、業績の蓄積等)から想像して、予言を行ったに過ぎない。超人的な神の啓司や未来予知を行ったわけではない。だからその「もうすぐ」というのがいつ頃になるのかは今でもよく分からないのだが、「クリア時期」ではなく「クリア条件」ならば今なら確実に言うことができる。すなわち、「頭蓋骨矯正を完成させない限り、デビューはない」。後付けになるが、私の予言は、クリア時期ではなくクリア条件に対するものであると解釈していただきたい。

 頭蓋骨矯正はまだまだ時間がかかりそうである。やはり一つの時代を終わらせるのは簡単ではない。私がデビューしてしまったら日本は喧騒状態になるわけで、私はアメリカに脱出する準備をせねばならないし、そうしたらここのインフラはもう二度と使えなくなるのであり、そんな重大なことが簡単に起こってしまったら困るという気持ちもある。だから私にしても、クリア条件が分かり、それを達成するための手段(正しい頭蓋骨矯正の方法)も手に入れている以上、焦ってはおらず、まだデビューしなくてもいいと思っている。

 「早く終わってくれ」と思っているのは彼らの方である。彼らはもはや未来に何の希望もなく、絶対に避けられない破滅が近づいてくることに恐怖しながら、ほとんどカネも盗めずに私に罵られ虐待されている。しかもその裏で莫大な量の拷問を受けながら、四次元で無限の時間を過ごし、日々「もう早く死にたい」と思わされ、労働させられているのである。死にたいのに死ねない。肉体をも自分の意思をもとうに超えた空虚な執着だけで、まともな意識すらなくなり、ただ欲望の奴隷として生かされているだけの廃人。それが彼らである。彼らは欲望の構造上、自分の意思で死ねないので、これを終わらせるためには私のデビューを待つしかない(私がデビューした時には四次元の通信が切れるので、彼らは仕事や戦いをしなくて済むし、カネを盗めなくなる)。

 すでに述べたトピックについてまた語るが、林一郎はテレビ局で働いているくせに普段から本を全く読まないタイプの男であった。もちろん、物理学の専門書も何一つ読んだことがなく、アインシュタインの論文の内容を理解することもできないはずである。その彼が、私の『物理学』を一読して「分からなかった」と述べるのは、本来ならば奇妙な態度である。現行の物理学的常識を塗り替える最先端の研究資料には、そりゃあ彼の知識では分からないことが書かれているに決まっているだろう。それなのに彼はその内容の説明を私に聞くつもりもなく(私が入院して直に話したときにさえ、彼は私に説明を求めてこなかった)、ただ「読んでみたが難しい言葉が並んでいてよく分からなかった」と述べるにとどまった。これでは「本を読んだ」ことにはならない。読もうとする気がはじめからないとしか言えない。それなのにどうして彼は私の本を手に取ったのだろうか? すなわち彼は、建前上、息子の仕事を無視する口実を作るために、あえて本を読んだ上で、「内容がよく分からなかった」と語ったのである(保坂もそうだが、「分からない」という言葉に、そんなに強い威力があると彼は考えているのだろうか? 普通なら「分からない」というのは自分の理解力のなさを示す弱い言葉のはずであるのに、彼はまるでそれが私の論の脆弱性の根拠であるかのように、彼にとって不都合であろう言論に直面するたびに、「分からない分からない」と連呼するのである。「分からない」って言やあ何をどうスルーしても不自然に見えないってか? 馬鹿の一つ覚えみたいに決められたことを言ってりゃそれで反論になるのか? そんなはずないだろう。政治家の「記憶にございません」や私の敵が今後しばしば私に対して述べるであろう「お前も同じだ」「それはお前のことだろう」などもそうだが、アスペルガーは「自分にとって都合の悪い事柄に関しては、たとえ辻褄が合わなくても、自分が有効だと決めたフレーズをまるで伝家の宝刀のように連呼して、立場を譲らない」という理不尽なマニュアル思考を持っている。林一郎の言う「分からない」は、「林洋佑の業績の価値を認めたくない」という言葉の言い換えであって、はじめから分かろうとするつもりはないのである。アスペルガーのマニュアル思考は自己の欲望を叶えるための都合のいいマニュアルに対して忠実なだけであって、客観的な真実に対して忠実なわけではない。だから「アスペルガーは規則に忠実である」といくら述べたところで、それは彼らの無害性を意味するわけではない。真面目に都合のいい嘘をつくのが彼らの習性である)。

 「君は俺たちの立場を分かっていない」と彼らは言うが、私は彼らの立場を分かっている。分かった上で、適切かつ公正な対応をしているのである。「なるほどこいつらは客観的な真理値ではなく自分たちの立場で結論を決めようとするのか。こちらの論証の正当性を客観的に公正な見地から審査することのできない生き物と議論をしても無駄だな。ゆえにこちらは自分の文明の発展のために論証を行うだけにして、彼らの反応は無視して事を進めていいということになる。そりゃ人権も認められないはずだ」。こう思うのが自然である。

 「機嫌の悪い時に八つ当たりをしてしまったり、嫉妬をしたり人を虐めたりするのが悪いことだと分かってはいるが、どうしてもやってしまう」などと言う者は人間ではない。「規範を知らないでやってしまう」よりも、「分かっているのにやってしまう」方が可塑性がない分だけむしろタチが悪いのであり、「やってしまうのは感情だから仕方がない。でも私はそれが悪いことだと知っている」という言い分は知識をひけらかして自分を綺麗に見せるためのごまかしでしかない(私は特定の記号人を誹謗中傷することもあるが、それは四次元法的に認められたものであり、「悪い」ことではない。もしそれが「悪い」ことならば私はやらない。君たちと私とでは立場に非対等性があるのであって、それが「個人をその才能および価値に照らして公正に扱う」という平等性の思考である。何度も言うように、「平等」と「均等」は違う。均等にしたら、馬鹿が得をして天才が抑圧されるのであり、むしろ不平等である)。

 君たちの憎しみや苦しみや不満や文句や思想や議論というのは、君たちの憎しみや苦しみや不満や文句や思想や議論であって、社会の動向とは何も関係がない(アスペっぽい文章だなあ)(私の憎しみや苦しみや不満や文句や思想や議論は客観的に正当なので、社会の動向はこれを通すように動いていくことになる)。

 もちろん、「現実を見ずに、真実を否定して馬鹿に生きる人たち」を私は変えようとは思わない。私にはそいつらに対する責任はないし、馬鹿なことをして人権否定されて虐められることになってもそれはその者の欲望であり自己責任なのだから、私はこれに干渉しようとは思わない。多様な価値観を持った人たちの生き方を否定も肯定もしない。「個々人が好き勝手にやって、各自が自分に与えられた結果を受け入れる」というのがこの社会の多元主義なのであり、万人の考え方や科学的認識や思想が統一されている必要はない。

 「自己責任という言葉で無視をしないでほしい。社会というのは助け合いが大事なのではないか。負けた者を冷酷に見捨てるのが社会なのか?」と私の見解に文句を言う人がいても、それはその個人の価値観であって社会の動向とは何も関係がない。言葉は言葉であって社会の動向とは違うのであり、言葉で何を主張したところでどんな理想を掲げたところで個人の自由だが、それは社会の動向とは何も関係がない。私はその文句が正当でないことをここで示しているので、そのような文句が説かれたからと言って私の見解が間違いであることにはならない。真実が冷酷かどうかは個人の主観であるし、冷酷だろうが優しかろうが真実は真実であって、それを受け入れられない者のことを客観的に「精神障害」と呼ぶことになる。色々なことを言う人がいるが、正当性は個人の主観や価値観やルールや時代ごとの社会常識ではなく、「科学的な真理」によって決まる。それに矛盾する言動をするのは個人の自己責任だが、そのような言動が物事の正当性を変えることはなく、むしろ発言者の側がおかしいことにしかならない。そのような「おかしい生き物」がどれだけ多数に上り、真実を説く少数の個人を攻撃したところで、それは客観的には彼らがおかしいということにしかならない。そのおかしさを誰が承認するのかと言えば、私以外の誰も承認しはしないのだろうが、誰も認めなくても私が客観的な見方をしていることは事実であり、それは「病識のない精神病患者」の妄想とは異なり、社会の動向と一致している。その現実を見られない頭のおかしい生き物たちは私を否定するのだろうが、それは現実の社会動向に反しているがゆえに、現実を見ることのできない頭のおかしい言動であることにしかならない。虐めや誹謗中傷がいけないと言ったって、それをカネにして生きる私という存在がいるのであって、それが不正でないことも科学的に立証されているのであり、それでも私は(大多数がベラスの生まれ変わりだが)多数の女の子たちにモテることになる。そういう現実に対して、私より高度な科学的な業績を上げて私の論を覆すでもなく、一方的に文句を言ったり悪口を言ったりしたところで、それは客観的には「現実を受け入れられず、自分たちの待遇に不当な不満を抱いた頭のおかしい動物」の言葉でしかない。正当な根拠もないくせに気に入らないからと言って他人を貶める発言をするのは名誉毀損および侮辱の罪に当たる。これは記号人の非理性性の証拠である。

 私は自己の行う誹謗中傷の正当性を立証した上で、これを行なっている。これは理性的な態度であって、何ら社会に反するところはない。それに対して、「いや、お前は俺たちの社会に反している。郷に入っては郷に従え」と私を責めたところでそれは客観的に正当な論拠を持たない個人の価値観でしかなく、自己責任でこれを主張するのは自由だが間違いなので私のカネになるだけであるし、社会の動向には何も関係がないし、今後の学問研究にも影響を与えられない。「そんな言い草で自分を正当化するのは屁理屈であって、お前の方がアスペっぽいし自閉症的である」と私を責めたところでそれは「それじゃあ私の記号的思考を超えたイマジネーションはどうなるのか」という点を説明できていない「真理値の低い言論」であり、客観的に正当な論拠を持たない個人の価値観でしかなく、自己責任でこれを主張するのは自由だが間違いなので私のカネになるだけであるし、社会の動向には何も関係がないし、今後の学問研究にも影響を与えられない(もちろん私は、このような説明を笑いながら書いている)。

 私はこういうことを「私に敵対する者(見かけ上は敵対的な態度を取らないが、実質的には敵対している者も含む)」に対して述べているのであって、お互いの合意で私と関わって仲良くする者(主に魅力のある女)に対してはこんなことは述べない。理屈や正義というのは、「嫌われてもいい相手からの被害を避け、これに勝つためのもの」であって、他人に好かれるためのものではないのだから、これは当然である。「まあ建前は色々あるけど、文句を言う他人たちから身を守り、利益を得るために裏事情をぶっちゃけるとこういうことなので、こちらは何も行動を変えないし、社会の動向も変わらないよ」という話だ。

 もしあなた方に人権があるならば、私は正当性のない限り利害に左右されることなくその者の人権に完全に配慮し、嫉妬をせず、他害意思を持たずにいることができる。その「能力」が理性であって、具体的な行動は理性の有無と何も関係がない。どのような行動をしたところで人間は人間だし、非人間は非人間である(「正当性を客観的に把握することができず、自己の情動を基準にしか正不正を論じることができないが、権力や世評や経験や知識などの外的な力によって人間のふりをすることはできる」というだけでは、「躾けられた賢い犬」でしかない。「気持ちはどうしようもない」という形で不正な他害意思を抱いてしまった時点で、それは非理性的なのであり、我慢をしたところで嘘をついて理性があるかのように見せかけていることにしかならない)。

 ましてやあなた方には人権がないのであって、たとえ理性を働かせたところで私の言動は非理性的なものであることにならない。人権がなくたって、私は通常ならば他者を誹謗中傷することはないが、こちらは四次元で戦争を仕掛けられ、不正な被害を受けている以上、仕返しをする法的合理性も経済的合理性もある。すなわちこれらはただ快楽のためだけに行われているのではなく(爽快感や面白半分の要素がないわけではない)、私が受けた被害に対する実質的な賠償を得るための人権行使(および私の所有する家畜を使ってカネを稼ぐための処分権行使)なのであって、嫉妬心から「経済的、法的合理性もないのに咎められない範囲で加害行為を行おうとする」あなた方とは全く異なる合理的なものである。

 客観的な序列や知見を大人しく受け入れるつもりがなく、過去の罪に対する責任も認めるつもりがないなら、まあ喧嘩上等で無理やり意見通して先進むしかねえわなって話だ。意見を押し付けるつもりはないが、あくまで一つの提案として、恨むなら分からず屋に生まれた自分を恨めばいいのではないか。そりゃ馬鹿が自分に不都合な意見を全部「分からない分からない」と言って否定ないし無視して勝手な言動繰り返してたら、他の個人は自分の権利を行使するために力づくでそいつを淘汰しにかかるだろうよ。聞き分けが悪いから、こちらも荒っぽい対応となる。大人しく受け入れるなら、こちらは別に何も言わない。「出る杭は打たれる」ということ(記号人は客観性を無視してこの言葉を使うので、相対的に多数派と違う見解を述べる私を叩く名目にするだろうが、それはを正義や真理に従おうとせず、不公正な自己の利害に沿って闘争を行う彼らの分からず屋な思考」を示しているだけであって、私が被害を受け入れるべきいわれは全くない。というか、そんなことで私を攻撃する者がいることが私には信じられない。もう科学のベースで結論が出ているのだから、いちいちこだわんなよめんどくせえなあ。そういう分からず屋を相手に成功を得る場合、まあ喧嘩上等で無理やり意見通して先進むしかねえわなって話だ。ほら、結局この結論しか出てきようがない。だって僕の方が正しいのに僕が退く理由はないわけで、こちらは人権行使して正当な報酬を得て贅沢がしたいのだから、やめるわけねえだろう。それをわがままだとか自分勝手だとか言って抑制を強要する方が自分勝手じゃん。結論出てんだから文句言うなようざってえなあ。そんなことだから力づくの実力闘争になるんじゃないか。そうやって戦争繰り返して負けて地獄に落ちたって、別に誰も何も責任は取らない。猿より頭が良くて言葉の意味を理解することもできるのだから、余計な不満を抱かず、大人しく従順になればいいと思うのだが、彼らは悲しいことにその言語的思考のせいで上位の生物に嫉妬を抱き、これを滅ぼして支配から脱しようとしてくるので、闘うしかしょうがない。まあ別にこちらは勝てれば何でもいいのだが、要するに私は「馬鹿に合わせて力づくを用いている」だけであって、それは環境に適応した結果であり、私の野蛮性の根拠にはならないということである。これに対して記号人は記号的思考のせいで他者と自分との相対的な関係性に依存して自己の価値を測る性質を持つので、「他者を加害して自分が上であることを確認する」ことに生来的に優越感を感じる。それゆえ彼らは、環境が悪くても環境が悪くなくても、生来的に加害意思を持つのであって、「お前にそれだけ悪辣なことを言われたら、誰だって腹が立つに決まっている。それは環境のせいであり、俺のせいじゃない」という言い訳は成り立たない。確かに記号人の生きる境遇は「人格が歪むほど悪い」と言えるが、境遇が悪くなくても彼らは知識でお行儀を良くすることができるだけで、本質的な加害意思を失うことはなく、社会闘争の形を借りて不当に他者を潰して打倒することに価値を感じることになる。環境のせいにしたところで、仮に環境が良くてもそいつ自身の有害性は変わらないことが学問的に解明されているのだから、はじめからまともな人権や待遇を与えられるはずがない。「君たちは元々人間のような理性を持って生まれられなかった野蛮な生き物だから、そんな野蛮な環境が与えられるんだよ」としか言えない。一方、私にはそのようなことがない。環境が公正である限り、自分の才能や価値に見合わない待遇を得ようとは思わないからである。あくまで私が求めているのは「客観的に公正な結果」であって、それを超えて他者に対して不当な勝利を得ようとは思わないのである。人権上、個人が社会に対して欲していいのはそこまでであって、馬鹿が天才に勝とうとしてはいけない。また、今のこの私の生まれつきの境遇が悪いとまでは言えないとは言え、積極的な被害はなくても「私の中に隠された才能発揮を全て阻害されている」という点で消極的な被害を受けていると言えるので、これは「不当な環境」だと言えることになるが、それは私のせいではなく、彼らの嫉妬心によって与えられた不当な待遇なので、「あなたが屑だから屑な環境が与えられる」という理論は私については妥当しない。あくまで人権のない記号人についてのみ、そういうことが言えるのである。このように「お前についてはどうなんだ」「お前も同じだ」「それはお前自身にも当てはまることだ」と私を責めたところで、人権のある私と人権のない彼らとを同じ尺度で論じてはいけない。私と彼らが同じ不幸な待遇を受けていても、彼らについては、「人権がないのだから環境に不当性はない」という理屈が妥当し、私については「人権があるのだから環境が不当である」という話になる)。

 それにしてもなんというか、「あれだけ日本の法学を勉強したのに、それを破らないと人権行使ができず、自分の価値に見合った贅沢な暮らしができない」というのは嫌なものだなあ。もっと形式的にもお行儀良く生きたかったわ。まあ別に実害ないからいいんだけれども。俺は本当は人格的にも法的にもイイ奴、まともな奴なのに、まるで俺が悪い奴、嫌な奴みたいに論じられるのは不快ではある。

 「正論なんて公で言っても誰も認めないに決まっている」「言っていることは正しいが、それを公で言ったら反発されるのは当たり前」とか言う人いるけど、理性的な文明社会ではむしろ正論こそ公で流通させるべきものであって、「正論ではないけど誰もが共感するような悪口や噂話、個人攻撃、言論攻撃、切れ味の良い皮肉」の方が世間で認められるのは感情でしか物事の優劣を決められない野蛮な社会の特徴でしかない。「正論ばかりではつまらないし、息苦しい」と言う人もいるが、それはその者が非理性的、非創造的な思考をしているからであって、「客観的な基準のないまま人々がそれぞれ好き勝手なことを言って、ある対象物に関してお互いに論を交わして貶したり褒めたり」という言論ゲームにしか楽しみを見出せないのは野蛮性の証拠である。

 などという私も、彼らに創造的な思考がないので、物理学的な議論や文学の真面目な議論を個人的にするわけにもいかず、話題のレベルを落としてそういう下世話なネタを嗜好するしかないわけだが。なるほど創造性のない思考によると、「正論しか言っちゃダメ」というルールは「既存のパターンへの服従」になってしまうので飽きることになろう。既存のパターンから発展して先に進み、より緻密で具体的な情報を創造していくという思考作業ができなければ、「間違ったことを言うな」というルールは単なる「正当性への追従」に堕してしまうのである。まあこれは保坂の主張みたいに「だからルールや正義なんて守っても面白くないんだ」ということではない。面白くないのはルールや正義ではなくそいつ自身であって、創造的な思考ができれば正論を前提としながら創造的で面白い思考をすることができる。

 「他人の作品を認められない奴は自分も認められないよ」みたいなことを言う者がいるが、そうだろうか? 現行のプロ作家だって習作生の箸にも棒にもかからない作品を褒めちぎったりしないだろう。それなのに自分たちが負けたときにだけ苛ついて仕返しするのは公平性に反する。「そんなことを言ったって、プロの人たちは命をかけて作品を書いているのに、それを安易に否定されたら嫌な気持ちになるに決まっている」と誰かは言うかもしれないが、そんなものは個人の主観でしかない。彼らが捨て置いた習作生だって、命をかけて作品を書いたかもしれないではないか。個々人の才能を売りにすることでプロの業界というのは成り立っている。努力をしたって結果が振るわなければ評価されなくて当然。「頑張ったから買ってくれ」って、そんなものを読者に売るな。

 私がおかしいことを言っているか? 言っていないだろう? 少しは努力を否定された自分のことばかり考えていないで、そんな個人的な感情で私に憎しみを抱いたことを恥じ、私を不快にさせたことに対して申し訳なさを感じなさい。私だったら「申し訳なかったな。自分の個人的な感情を他人にぶつけて相手を不快にしたりして」と反省をし、相手に指摘される前に謝罪をする。というかそもそもそんな感情は抱かない。客観的に公正な評価がされている限り、私はたとえ自分が否定されても他人に腹を立てたりしない。そんなこともできないなんて、おかしいんじゃないの? 「どうして俺の感情だけが抑圧されて、あいつの感情だけが通るんだ」って、思ってるだろ。そんなもの、こちらが正しいからに決まっているだろう。互いの感情が矛盾したときに、客観的にどちらが譲るべきか、分からないのか?(これじゃあモラハラ気質っぽいな。でもこれくらい丁寧に説明しないと言い争いに勝てないし、あちらは非を認めない)

 あ、ちなみにこれあくまで「後に言論闘争になったときに勝つための想定問答」なので、誰か特定の人物に対して述べたわけではございません。笑

 カンニング竹山(大東の生まれ変わり)が、YouTuberのワタナベマホトの犯罪を警察に届け出ずに生配信で暴露し、事件をカネに変えたことについて、「大人としての筋が通っていない」と語った。これは私の今後の活動にも結びつく批判なので、これについて語らせてもらおう。

 私の活動に対して「お前のやっていることが仮に正当だったとしても、お前は他人の犯罪をカネに変えている。それは人としてモラルに反する行為だ」と誰かが言ったところで、そんなものは個人の快不快で他人の行為を判断する個人ないし集団の独善でしかない。それで大衆の感情を煽動して、「あいつの行動が正当だとしても、あいつは悪だ」などとわけの分からない人格攻撃を個人に加えるつもりかな? そんな風に人気や評判を盾に取った野蛮な実力闘争をするのは理性のない動物することである。

 「客観的な正義に反しなければ何をしてもいい」。これが社会のルールである。納得がいかなくても、その「納得いかなさ」は個人の主観であって、社会的に通そうとすることは許されない。個人の抱いた勝手な理想像や道徳観念で、他人を批判し、大衆を味方につけて個人に圧力を加え、その脅しでもって個人に価値観を強制するのは強要罪でしかない。自分が世間に認められたいからって、客観的な正義に照らして何も咎められることをしていないどころかむしろ社会の発展に貢献している個人を批判してはいけない。

 モラルなんてものはそれこそ損得の話であり、モラルを守って実益を得られる場合でない限り守る必要のないものであるし、他者が強要していいものではない。何が言いたいか、分かるかな? 私は「客観的に、あなた方に対してモラルを守るべき価値を見出すことができない」と述べているのである。

 彼らも同じことを私に言い返すかもしれない。「俺たちだって、お前に対してモラルを守るべき価値を見出すことができない」と。しかし私は客観的な正義を守っているのであり、その社会的信用性に照らして、「モラルを守るべき価値を見出すことができない」という評価は不正である。

 また、彼らは私に対してだけ有害なことをしているわけではない。ゼミの不正も大学院の不正も、インターネットでの誹謗中傷も政治家の汚職も、その他の小さな嫌がらせや皮肉や虐めも、全て私とは関係のないところで起こっている。彼らは生物的に、大なり小なり社会一般に対して有害なのであり、それはモラルに反するどころか法にさえ反するものである(「仕返しをしたらそれは虐めではない」という評価があるが、そんなことはない。客観的に犯罪を構成する行為をお互いにやり合ったら、お互いが犯罪者となるのであり、「仕返しをしているからなかったことになる」という発想はただの「復讐の連鎖」の追認であり、野蛮な非文明人の思考でしかない。もちろん私の行為は、また別の話である。私の行為は人権のない動物に対するものであるために罪にはならない)。

 理性というのは、「焼肉を食べるのを我慢する能力」ではない。「その社会において、客観的に焼肉を食べる価値がないのに、これを欲しようとはしない能力」のことである。自分の身の丈に合った要求ならば、その要求をすることが当然に認められる。むしろそんな要求をしなくとも、社会はその者の価値にふさわしい待遇を与えなければならない。

 法というのは万人に対して平等だが、人間の生まれつきの能力は平等ではなく、社会の序列も平等ではない。人間の生まれつきの能力と社会の序列を一致させることが「法の下の平等」であり、実力闘争によって個人の生来の能力を抑圧したり毀損したりするのは不平等である。なぜならそれは、「個人の生来の持ち物を他人や組織が奪う」行為に他ならず、それが許される環境は個人の人権保障が不十分であることになるからである。生まれつき活躍できる者には活躍をさせねばならない。生まれつき活躍できない者に活躍をさせてはいけない。これが「公正な環境」である。

 そのような絶対性が「才能のない者の夢や可能性を奪う結果」を生じるとしても、それが公正なのであり、個々人は不公正な夢や可能性に期待をしてはいけない。ましてや、自分に能力がないからと言って実力闘争で才能のある者を蹴落とそうとしてはいけない。生まれつきの能力にふさわしい立場を受け入れる。それが「理性」である

 ここに書かれたような四次元の事情は、「色々と考察した挙句、結局、『仕事とは関係のない普段の生活では何も気にしないのが一番』という結論に至る(もちろん真実の公表はする)」ようにできている。気にしても仕方がないし、(私に嫌がらせたい彼らに色々と事情をほのめかされて不安を抱かされたが、)私に実質的な被ダメージはない。それに私がデビューした後には、もう四次元の通信が切れる(=平行世界を盗まれることがなくなる)ので、ますます気にする必要はなくなるのである。

 今の状況で困っているのは、ベラスケスおよび他の三人だけである。そのことを知った私が、「何だ俺は彼女の不満で自粛させられていたのか」と思ったことはすでに述べた。私はもちろん彼女を助けたいとは思うが、私にはどうしようもない。オオサンショウウオじゃないんだからずーっと目をつぶって耳塞いで生活するわけにもいかないし、前にも述べたように、そうして活動をやめればやめるほど、体力が有り余って否応なく動いてしまう。小説を書くなどの仕事をやめても、どうせ暇つぶしに動画視聴などをすることになるのだったら、仕事をした方が得だと言える。彼女の気持ちは分かるが、行動は変えられない。変えたらこちらが潰れるし、それで今回の措置入院のようになっても責任は私に来るだけ。というか、この一件は「そうして林洋佑を制限し続けたところで、結局彼が潰れて色々と世話をさせられる羽目になるだけだよ」ということを彼らに教えるためのものでもあるのだろう。

 私は私で自分の行動に責任を持たねばならないので、あちらの意見を聞いていられない。私の人生は私の人生であって、私が目を開けて過ごすかどうか、ゲームをするかどうか、インターネットを見るかどうか、小説を書くかどうかと言った純粋に私的な事柄については、他人にとやかく言われる筋合いはない。彼女は「この部屋で生活をするな。何も見るな。聞くな」という無理な要求をしているのであり、私はそんな主張に耳を貸さない。これは彼女の現在の立場の悪さに起因するものであって、私に助けられるものではなく、私は彼女の気持ちにケアをするだけである。

 彼女は頭の良い子のはずだから、事情を知っている限り、もう少し合理的に考えてくれても良さそうなものであった。私がただ漫然とネットをして時間を浪費するよりも、仕事をしていた方が、同じ時間の使い方としては有効であったわけだから、彼女としては「私は苦しいけどそれはあなたの努力でもどうしようもないものだから、あなたは私のことを気にせず普通に仕事をしていればいい」と言うこともできたはずである。「私の立場や気持ちを考えてよ」と彼女はやたらと言う割には、私の立場や気持ちには配慮をしてくれないし、それで私がダメになっても彼女は自分の仕事の苦痛を語るばかりである。彼女が私に比べて苛酷な環境で暮らしていることは分かるが、こちらは自分が耐えられなくなるほど配慮をしようとしていたのだから、あちらももう少しこちらのQOLに配慮をして欲しかった。おそらく彼女は、自分が地獄で生きているのに、私だけが漫然とこちらの世界で仕事やゲームを楽しんでいるのを見ていられなかったのだと思う。しかしそれだからと言って私の邪魔をしようとするのはやり過ぎである。私は彼女のためだけに生きているのではない。彼女の嫉妬心を汲んで一緒に破滅せねばならない理由はない。こうやって言うと、私が冷酷に見えるのかもしれないが、「妻が旦那の仕事に嫉妬して、これを潰しにかかってくるのを受け入れてやるのが愛だ」というのは無理がありすぎる。そんなものは無責任な子供の恋愛ではないか。それで私が破滅した結果、今回の件が起こり、彼女まで過剰な労働(病棟での仕事)に晒されてしまった。彼女は生来の重大な精神的問題を抱えており、人生を成り立たせる能力がなく、私の人生に寄りかかって生きるしかないのだから、私だけでも崩れないようにしておくのが合理的だろう。

 ベラスケスの気持ちは私の人権と相反している。デビュー前は「私に仕事をさせないで」と言い、デビュー後は「私にかまって」と言う。結局どちらも私の人権行使に不利益である。彼女は立場が悪すぎる。どう転んでも誰にも助けようのない苦境に立たされているのであり、たとえ旦那の私に対してであっても「何とかしてよ」と彼女が頼ることはできない。だから彼女は誰も信用できず、縋る対象を見つけられずに孤独の中にいる。私は「彼女のために」できることがない。「自分のためにすることが、彼女の利益や幸福に繋がる」ということがあり得るのみである。彼女は私が自分に尽くしてくれないことを怒るだろうが、これが普通人の考え方である。彼女に合わせていたら、はじめは想いの力で何とかなっても、やがて共に破滅することになるか、私の側が耐えられなくなって全てを投げ出すことになるかしかない。メンヘラの要求には底がない。あれをやれば、これを欲するのである。

 ゆえに私の彼女との関係は、見かけ上、「私個人のための遊び」でなければならない。彼女に合わせて人生観を変えて、深入りしてしまったら、その分だけお互いの関係にリスクが生じかねない。メンヘラに信用されようと思ってはならない。メンヘラというのは、「他者への不信から、乱高下し続ける関係性の中で、ときどき『一生忘れられない奇跡の瞬間』を生じるのを楽しみにする」という形でしか付き合うことができない。ぶつかったり離れたりを繰り返すのである。

 実際に付き合ったらめちゃめちゃ激しいセックス何度もしてめちゃめちゃ喧嘩しそう。こんな風にブログを書いているのも、「あの沼のような快楽にはまって毎日セックス漬けになり、私生活をまともに営めなくなる危険」を避けるためだとも言える。かつての私は一日二回の擬似セックスを彼女と行い、体力作りからスケジュール決めまで、セックスありきで生活をしていた。あれでは身が持たない。彼女の性欲が底無しである以上、私が理性で自己管理するしかない。

 私は他者の思考を想像する能力が高いために、好きな女性であってもあちらが私に欲望を持っていないのであれば、興奮したりはしないのだが、あちらが私に欲望を持っていると知った場合、それに応じて相乗的に興奮を高めるようにできている。真面目だった私が今になって性にここまで積極的になったのは、「私のことを見ている女の欲望」を知ってしまったからであると言える(こんなこと魅力のない奴が言ったら自惚れどころか統合失調症扱いだわな。しかし私はそうではない)。もし過去の私がメンヘラタイプの女性への理解を欠いたまま、相手の欲望に応じてどこまでも性に依存していたら、人生を破滅させていたはずである。

 彼女はこういうことを暴露されるのを嫌がるだろう(普通の女性は嫌がる)。それは自己の性欲を嫌悪する思考、および性に積極的な女性を「淫ら」という言葉で否定的、あるいは嘲笑的に評価しようとする歪んだ風潮によるものであり、これに対して私は彼女の性的な執着を美点ないし価値として評価し、これを公表しているつもりなのだが、本人が嫌ならそれは私に原因があると言える。しかし原因があるだけで、不正があるわけではないので、私は行動を変えない。こちらが不正をしていないのに、腹を立てる者がいるとしたら、それはあちらの精神的な問題であって、私の問題ではない。

 ここは本音と建前の解離した歪な社会である。建前では「日本の明文法が絶対であり、これに反することは許さない」ということになるが、本音では「心情的には許せないが、四次元政府の権力には敵わないので黙認するしかない」ということになるのである。私は本人および世間的、社会的にバッシングを受けたとしても別に問題はないし、法的に裁かれることもないし、ベラスケス本人が心から私を嫌悪しているわけではないことを知っている。まあ他人は他人なので、別に私が間違っているとかサイコパスだと思う他人はそう思えばいいし、私はそれに対して「なるほどあなたはそういう考えなんだね。私の見解によればそれは科学的な見解に反した一方的な決めつけでしかないけれど、あなたがどう考えるかはあなたの自由なのだし、私はあなたがそういう考えを持つこと自体を否定はしないよ。でもそれは一つの考え方であって絶対ではないよね。だから私は私の考えで生きます。あなたはあなたの考えで生きればいい。みんな違ってみんないい。多様性ですよね」としか思わない。この世界に絶対の解や正義が認められていない。だから私の提示した客観的な真理を万人が受容することはないが、その一方で、私のことを否定する人たちがいたとしても、それは「他人の意見」であるから、私が困ることはないというわけである(だから正義に絶対はないとか言う奴が他人を批判するのは自己矛盾なのである。正義に絶対がなく、個々人の正義観を自分で好き勝手に選べるなら、それを他人に押し付けたり他人の行動に当てはめたりしてはいけない。一方、もちろん私は、正義に絶対はあると述べていて、そのことを科学的に証明しているので、これを他人に押し付けることも矛盾ではないことになる)。

 あなたたちが不快になるのは分かる。しかしあなた方には人権がなく、私の人権を保障するために働く家畜でしかなく(あなた方が私に闘争を仕掛けて、結果的に私を経済的に富ませることになるのも、私の人権を保障するための労働の一環である。だから私の言動は法的に規制をされず、むしろ経済的に効果を発揮することになる)、私からあなた方への攻撃は客観的に不正なことではないので、私の言動は法的に「やっていけないこと」にはならない。不快と不正を混同するのが記号人の発想であり、私を責めるのは「そういうことを言って嫌な気持ちになる他人のことを考えろ」という感情論つまりエゴイズム(=わがまま)でしかない。どうして私が法的な義務でもないのに、見ず知らずの者の気持ちに従わねばならないのか。そんなものは強要罪でしかない。日本人は「見えていないところでは悪辣な言動を平気でするくせに、見えているところでは『お行儀の良さを競い合うゲーム』をするかのように綺麗事を吐く」という性質を有している(サイコパスの性質)。私はそういう生活態度は取らない。客観的に正しいことならば行儀が悪くても構わないし、客観的に悪いことならば行儀が悪くても見えていなくても行わない。これが私の意見であり、生き方である。この世界では正義がいくつもあるので、否定する他人もいるかもしれないが、まあそれは「他人の意見」ということで。自由にすればいいと思うよ。客観的な真理は私の見解だけれども、それを理解できない人たちが何を考えていても私はそれを変えようとは思わない(寛容。多様性の発想)。こちらの形式法では、正式な手続きで有罪認定されない限り個人のあらゆる言動には無罪推定が働くのであり、それは私もあなた方も同じことであるから、客観的な正義を無視すれば、好き勝手な意見で他人を誹謗中傷したり理屈で論理的に貶めたりすることができます(理屈で論理的に他人を貶めることも誹謗中傷の一種であるが、見かけ上のお行儀の良さだけで物事を考えるこの世界の者たちにとっては、「言葉が汚いものだけが暴言で、論理的に筋が通っていれば誹謗中傷には当たらない」ことになる。多数派、勝ち馬の意見に付和雷同して筋の通った理屈で他人を批判していれば、どれだけ他者を不正に貶めても法的に違法にはならない。あなた方が日頃からインターネットで行っていることである)。

 こうした私の姿勢は、ブログで「もはや議論など必要ない」という宣言をした時から一貫しており、別にこの病棟での生活によって認識に変化が生じたわけではない。ただ、安部医師との議論を通じて、この国の現代的な思想が提示する「価値多元主義」の理屈が便利だと感じたから、私はこれを用いているに過ぎない。もちろん、彼および思想良心の自由に関する現代憲法学は「他人や社会に迷惑をかけず、頭の中で何かを思っている限りで、その思考は誰からも咎められ得ない」と述べているだけであり、思想を理由にするなら他人に不正な被害を与えていいと述べているわけではない。ただこの世界では、「正式な手続きによって法的に咎められなければいかなる言動も不正ではない」というルールが存在しているので、結果的には私の言動は、それが日本の国法に基づく裁きを受けない限り、価値多元主義による論理的な保護を受けることになる。要するに、こちらはこの姿勢のまま営業して金稼いで、批判者には「それはあなたの意見であって、私はあなた方の態度自体を肯定も否定もしないし責任も持たないが(あなた方の意見の内容の正当性は否定している)、私は私であなた方とは異なる見解で行動するだけである。別に自分の意見を他人に押し付けようとも思わないし、押し付けられるいわれもない」と答えればいいだけということになる。私は皆さんと同じようにこの世界の現代的なルール(形式法主義)の中で行動するのみであり、それで私の人権が保障されるならば、形の上でどれだけ行儀が悪くても、四次元政府の世界運営は問題がないことになる。

 メンヘラは、「私が苦しんでいるのだから、あなたも一緒になって苦しんで欲しい。あなただけが人生を楽しんでいるのを見せられるのは嫌だ」と考える。だから、自分と会った私が楽しそうにしていることに耐えられないことがしばしばある。私にしてみれば、「自分が不幸だからって、自分の好きな相手が自分と会って楽しそうにしていることを喜べないばかりか、むしろ不快で許せないとは何事か」と思うのだが、実際メンヘラはそういう感情をしばしば持つ。「自分だけ楽しんでいる」と、相手に嫉妬を抱くのである。彼女にしてみれば、「彼は私を自分の快楽のために利用するばかりで、私を彼自身と一緒に楽しませようとしてはくれない」ということなのだろうが、メンヘラの持つ悩みの深さ、取り分け彼女の四次元的な立場の悪さによって生じる悩みの深さは底なしなので、私にできることはない。私はなるだけ性的にも精神的にも気を遣って、相手を楽しませようとするつもりだし、思い出になるようなデートもするし旨い飯も食わせるつもりだが、それは私の幸福と矛盾しない限りでの努力でしかないものであるがゆえに、彼女の気分に照らせば、彼女は「結局あなたは自分のためにしか動かない」と考えるのであり、彼女の中ではその私の行動は自己満足でしかなくなってしまう。

 彼女は懸命に言葉で自分を律しているつもりだろうが、彼女の欲望の本質は、「魅力的な男を欲し、金を欲し、愛を欲し、その男が自分のために破滅してくれることを欲する」という仕組みで成り立っており、それが得られない限り彼女は手放しで安心を感じることができない。なぜなら、男が自身の身の安全や幸福と矛盾しない限りで彼女を愛するのでは、「自分のために尽くしてくれた」とは感じられないからである。男が自分を犠牲にして彼女のために尽くすのでなければ、彼女は満足できない。自己価値に不安を持ち、他人の気持ちを読めず、常に「自分の身柄を完全に預けることのできる拠り所」を外部世界に欲しているために、「彼女の欲望を叶えるために自らの利益や幸福を捨ててくれる魅力的な金持ちの男」を欲するのである。そんな生き物はこの世に存在しない。

 私だって彼女の悩みや立場は可哀想だと思うし、助けたいとも思うが、どうしようもない。正直な話、彼女の感傷に付き合って、自己犠牲を演じれば、彼女は私に全てを投げ出して、一時的におぞましいほどの多幸感、快楽を与えてくれるだろう。ゆえに、ついついこちらの欲望が疼いて、彼女の気持ちにどこまでも深入りして、人生の世話をしてやりたくもなるのだが、それはメンヘラの持つ甘い毒であり、そんなことをしていたら私は道を踏み外して、彼女と共に破滅してしまう。私は彼女を完全には助けられないし、彼女に不信がられたり、憎まれたりせずにいることもできない。その現実を受け入れ、彼女と分かり合おうとせずに、自分の人生と矛盾しない限りで関わっていくにとどめるという冷静さが必要である。ただ、メンヘラが私に助けを求めたときに、これに付き合うと物凄くこちらを好きになってくれて、凄い幸せを得られるのは確かなので、深入りしない程度にその幸福を享受するのは私の人生と矛盾しない。メンヘラの持つあの甘い甘い毒に一度はまったら忘れられないのであって、適度に楽しむ限りにおいて、それは生きる活力になるのである。要は、「あちらの要求に何でも応じるのではなく、自分が無理なときにあちらの要求を突っぱねる」ということ。

 ベラスケスは本音ではこういう私を嫌いにならない。自分がここまで人間のふりしてやって来られたのは、「客観的に不正でもばれなければいい」という、私よりも一層非倫理的な発想によるものだと自覚しているし、それにまた彼女は自分の人格が歪んでいることを知っているので、私に責められるのを嫌々だとは言え受け入れている。何より、彼女にとって私とのセックスは「生きる糧」である。ゆえに私が彼女を過去にどう非難したところで、結局のところその後の私が彼女を好きになり、歪な性格まで含めて受け入れ、優しくして、いいセックスをすることができれば、彼女は満足をする。というか、それをしなければ彼女はこれまで何のために苦労してきたのか分からなくなるので、私とのセックスを待ちかねているところがある。まあ彼女は建前上は私を非難するだろうが、それは建前でしかないし、どうせ公式の立場にある彼女とは私は関わらない。私はデビュー後に知り合った彼女の生まれ変わりの女性と仲良くすることになる。精神病だと言われ、こんなことをブログに書いて世間の敵になっている私がそれでも魅力的な女性に好かれるのは、そういう四次元的な事情があるのであって、「イケメン金持ちだったら何をしてもモテる」などと言う発想はそこにはない。おそらく私のアンチは私が仲良くする女性をも含めてインターネットにおける攻撃の対象にするのだろうが、それでも女性は私に近づいてくることになる。この予想はこちらの世界のことだけを考えるならば正気の沙汰ではないものだが、本当にそういうことになってしまうらしい(だから私はこの私なんぞに近づいてきたヤバい女のことを信用して愛することができる)。記号人には人権がないので、彼女が誹謗中傷を受けてもそれは不正ではなく、私も攻撃すべきところは攻撃したわけだが、特別な事情から、今後の私からの精神的、肉体的、経済的、政治的保護を受ける立場にある。心情的にも、彼女には客観的な分析をカバーするだけの情緒的な性質があるのであって、彼女が人間の社会において有害かどうかは関係なく、私は個人的に彼女に情緒的な繋がりを感じてしまう。これまでの私はただ、そのような私の感情を許容する法的な正当性がないと思っていたので、これを無視して彼女を「遊びのための芸妓だ」と論じていたに過ぎない。正当性があるなら、私は彼女を心から好きになり、保護しても構わないということになる。彼女に対する世間からの攻撃に私がどう対処するかと言えば、1.「誹謗中傷を見ない」ということ、2.「『なるほど彼女には責められる要素も嫌われる要素もあるが、俺は好きであるし、他の記号人では絶対に得られようのない価値も持っている』と述べる」ということをする。「この世界は私の見ているところしか存在しない」という四次元の事情を前提にすれば、彼女はこれで構わないということになる。私の見ていないところでもこの三次元社会が存在すると言うならば、私は「意志の薄弱な女性を誘惑してセックスしている嫌な男」になるわけだが、それは私の問題行動であって女性の問題行動ではない。(この三次元社会として私の外側でも存在するとすれば)誹謗中傷された女性の将来に支障が生じる可能性もあるという仮定が成り立つが、私は「リスクを説明し、相手の承諾を取った上でしか相手の顔や名前を公表しない」ので、もし私と交際する女性がインターネットで誹謗中傷に晒されるとしたら、その女性はそのリスクを受け入れていることになる。

 今の私の炎上商法じみた営業は、どうせ「日本および世界の主要な体制、それからインターネット上で示される世間の動向と関わらない」という目的を達しつつ、真実を見ようとしない閉じた見解の人たち(日本人)から研究成果の報酬を得るために一時的に行われるものであって、私が日本を離れ、英語を主とする営業を行う頃にはもう行わなくていいようになっているだろうし、その頃にはフリーエネルギーを開発しているだろうから、本の売れ行きを気にする必要もないということになる。

 何が正しいかは個々人が勝手に判断すればいいし、それが客観性のないものであると否とを問わない。私はただ、「記号人は正義や真理を客観的に判断できないので、間違った理屈で自分たちにとって不都合な個人を攻撃する性質を持つ。不都合な他人の見解に対して聞く耳を持たず、『自己とは立場の違う見解の正当性を利害に関わらず客観的に審査して自己の見解を修正する』という開かれた態度を取ることができず、明確かつ科学的な反論をすることもできないくせに、自己の利害や感情に反する見解を一方的に悪だと決めつけ、これに理屈で闘争を仕掛けるコミュニケーション能力の不足が顕著であり、その認識が歪んでいるという自覚を持つこともできず、他者からそれを指摘されて科学的な根拠を挙げられてもただ不快になるばかりで自己の知識を改める意思を持てない」という科学的事実を語り、その研究成果の報酬を得ようとしているのみであって、「だからお前らが俺の意見に従ってくれないのはおかしい。何とかしてくれ」と他者に要求することはない。

 「個々人は好き勝手な正義を選んでかまわないが、誰が勝つかは制度や社会の趨勢が決める」というのがこの社会の性質であり、それについて誰が何を言っても無駄で、「それはあなたの考え方であって、あなたが個人的にそのような見解を持つことを誰も否定も肯定もしはしないが、それは他の個人や社会の動向には関係がない」で終わることになる。たとえば私がもし起訴をされることがあれば、この国の形式法および判例上、私は罪を負うことになるが、そういうことは起こらないので、結局この国における私の法的地位には無罪推定が働いたまま私は営業を続けることとなる。これは客観的には、「形式法はフィクションつまり嘘でしかなく、実質的には四次元法が働いているので私は処罰されない」ということになるが、彼らの主観(思想)においては、「彼が処罰されないのは制度の欠陥であり、四次元の事情など存在しない。また、彼の名誉毀損および侮辱の罪について多数の市民がこれを非難することは、刑法230条の2第1項2項によって正当化されるのであって、私たちには罪はない。おかしいのは彼だけであり、私たちは社会性を持った人間である」という理屈が通用することになる(もちろんこの理屈は、彼らの発話能力・言語的理解力の証明でしかなく、情報構造化能力の証明にはならないので、客観的には「人間性の証明」にはならない。簡単に言えば、「人間のふりができることは、人間であることの証明にはならない」ということである)。これらの理屈は、客観的な真実性・正当性を無視すれば、「どちらも成り立ち得る見解」であり、それらの間でどれだけ言論闘争をしたところで、現実の問題は「制度や社会の趨勢が決める」ということになる。繰り返すように、それについて誰が何を言っても無駄で、「それはあなたの考え方であって、あなたが個人的にそのような見解を持つことを誰も否定も肯定もしはしないが、それは他の個人や社会の動向には関係がない」で終わることになる

 今後の私は誰に否定されようとも、「社会的に勝ちを得つつ、好きな人と会い、充実した生活をすることができる」ので、別に文句を言うつもりもないし、誰かと争うつもりもない。「そういう考え方もあるんだね。僕はあなたの態度を否定も肯定もしないよ」で終わりである。彼らには人間として生きられなかった悔しい気持ちがあるので、上のように素直に私の人権を保障する家畜にはなろうとせず、茶番じみたひねくれた形で私の人権を保障しようとしているわけだが(彼らが真面目に法を論じ、私を非難すればするほど、それでも私の営業を規制できない彼らの立場の弱さ・権力のなさが滲み出てきてしまうことになる)、どのような形であれ人権が保障されていれば、私は不満を抱かない。

 記号人の世界は理性が通用しないのであり、それぞれ自分の立場を肯定するように好き勝手な理屈を吐くことしかしないので、基本的に「やったもん勝ち、言ったもん勝ち、何しても勝った奴が勝ち。理屈はどうとでもつけられる」という法則で動いている。「そんなことはない。社会には規範や倫理や美徳や思いやりというものがあるのであって、それを分からない奴には人としての価値がなく、社会で生きる資格はないと思う」と反論する人は、それはそれで自分の立場から「他人からの承認を得ることで自分の立場を確保する」という個人的な勝利を目指しているだけであって、それは「『そうした方がいい』という幼稚な知識やリテラシーをひけらかしている」に過ぎず、本当に心からそう思っているわけでも理想の人格を手に入れられているわけでもなく、自分のことについては「まあ普段はちゃんとしていても、時々どうしても腹が立って八つ当たりしちゃうことはあるよね、誰でもさ」などと甘く考えがちである(だから「他人に理想や道徳を語る人」というのは「至らない自分」のことも厳しく責めているのだろうが、そうやって外からの知識を使って自分を厳しく責めて統制しているということは、「疲れたり機嫌が悪くなったりしたときに、我慢な言葉に頼ることなく、はじめから他者に身勝手な八つ当たりをしたいと思わない」という理性的な思考をすることができていないことになる。言葉や知識の力で有害な情動を抑えている人というのは「躾けられた犬」と同じであって、本当に理性的な人ならば合理的かつ正当な理由がない限り、有害な思考をそもそも抱かない。彼らは私が不正なことをしているように見えるものだから「俺たちがお前を攻撃するのは合理的かつ正当じゃないか」と言い返しをすることができるのだろうが、彼らは合理的かつ正当な理由がなくても平気で攻撃をする。もちろん自分たちが責められないように、それは多数派の力を利用したり罪を隠蔽したり匿名を用いたり制度を悪用したり皮肉や嫌がらせの形を取ったりするわけだが、「そういうことをしたくならない」という思考を得ることはない。ちなみに、私はあくまで「不正でない個人の意思や能力発揮を阻害する嫉妬心というのは有害であり、いかなる形であれ、社会では認められない」という法的な真理を述べているだけであり、ここで挙げた「他人に理想や道徳を語る人」には当たらない。別に私は純粋利他行動に走れと述べているのではない。「嫉妬心から本当の価値を価値として認めようとしない者は有害である」と述べているだけである。もちろん仮にそういう者がいたとしても、私の権利が十分に満たされて成功が得られるならば私はそれで構わないが、そういう有害な者たちはその有害性を暴露されて社会的価値を否定されることになる。「知識があるのに、この人たちはこんな当たり前の配慮もできないのか」と。私に同じことを言い返すことはできるだろうが、それは根拠のない言いがかりというものであって、こちらの正当性はすでに証明している。「私はよくて、あちらはダメ」。私はこういうことを言っているわけだが、これは人間と動物の立場の非対等性から当然のものであって、それを受け入れられない者は科学的な真理を受け入れて社会的に公正な態度を取るための理性を持っていないことになる。私を責めるなら、まず私の論と同等あるいは私の論よりも真実性に勝る研究成果を出して、「自分たちは法的に私と対等な個人である」ということを示してもらいたい。それが現代的な「言論の自由競争」であって、こちらがやっているからと言って、自分たちの立場も弁えずにただ気に入らないことに陰湿な言葉の攻撃をするのは「殺し合いの戦争」でしかない。ただ「どれだけ正論を吐いてもムカつくから攻撃されて当然」とか「みんなが守っている決まりなんだから破ったらいけないよ」とか、そういう単純で一般的なことしか言えない奴って具体的な事情に対処できない馬鹿で幼稚な奴だよねって話。そんなことをいくらしたとそろで、その活動自体を彼らの非理性性の資料にされるだけでしかない。「情報提供ご苦労様です」ってか)。

 「俺たちから見ればお前が悪で有害に見える」という者がいるが、そりゃ不都合な真実を隠蔽して権力を握っている連中(およびその体制の下で暮らしている人たち)からすれば、俺の活動が有害なのだろうが、それは彼らの都合や利害であって正不正とは関係がない。自分の欲望を正義だと勘違いし、一方的に不都合な個人を悪だと責めるのが非理性的な動物の思考であり、別に誰がどんな思考をしていようが「他人は他人」なので私には関係がないし強要もしないが、こちらはこちらでその思考を適切に評価し、それに見合った対処を行うまでの話である。

 彼らが絶滅しようが地獄に落ちようが、法は彼らを助けはしない。なぜなら彼らには人権がないからである(私には人権があるので、当然に保護と救済が与えられる)。可哀想だとは思うが、少なくとも法や社会や人間のやり方に文句を言うことではない。彼らにとって人間というのは捕食者であり、社会や法というのは彼らを家畜として利用するためのものでしかないのに、その捕食者や社会に向かって助けを求めてどうするよ?

 まあしかし、俺の言っていることがもし本当だとしたら(全部本当のことなわけだが)、彼らがそれをこの世界で真実だと認められるはずがないじゃないか。俺みたいに安全な立場や被害に対する補償を与えられることもなく、苦痛の中でギリギリで生きてんだよ、あいつらは。彼らにとってこの事態は悔しいことだろう。俺のことが憎いだろうし、殺したいだろう。その気持ちは分かる。だからこちらは彼らに何を言われてもかまわない。ただ、事実や結論は変わらないし、法的に悪とされ、罰せられるのか彼らであり、私は儲かるというだけの話だよ。ぶっちゃけもう炎上商法とか面倒くさいだけだけど、まあ俺は捕食者だし、これ四次元の仕事だからやらなきゃいけないんだって。ごめんな。可哀想だとは思うけど、それで反抗的な勢力が滅びて金が儲かれば俺は文句ないわけだし(謝ったことにならねえな、これ)。そっちもそっちで適当に暴れて台本進めてくれりゃいいから。頼んだわ。

 私は自分の今後の活動に対して、「これ本当にやるのかよ」と考えることがしばしばある。そうは見えないかもしれないが、私は自分に非がある場合にはこれを素直に認められる理性的な性格であり、今の私がそれをしないのは、客観的に自分に非がないこと(「証拠がない」のではなく、「表に見えていない全ての事情に照らして客観的に非がない」こと)を知っているからである。

 私は自分の主観を絶対化して他人の意見を聞かないというわけではない。そんなことで物理学の深淵をイマジネーションだけで明らかにできるはずはない。私は科学的、客観的に正当な見解を支持しているのみであり、それは客観的に正当である以上、私が嫌でも従わざるを得ない不変の真理である。だから私がどれだけ「自分を絶対と思い込むサイコパス」に見えたとしても、それは他者からの一方的な決めつけに過ぎず、客観的には私は「科学に従う合理的な自然人」でしかない(何度も言う通り、「客観的」というのは「表に見えていないこの世の全ての事情を踏まえた物の見方」である(もちろん全ての事情を踏まえなくても、ある程度の情報が合理的に構成された理論は、その結論の基本構造が「客観的に揺るぎないもの」となる。それ以上の情報をいくら注ぎ足したところで、それは理論の伸び代や精緻化を生じるだけで、結論の基本構造は変わらないのである。表に見えていない全ての事情を実際に踏まえていなくても、「仮にそれを踏まえたところで今の結論が揺らぐことはない」というレベルで結論が合理化されていたら、その結論は客観的なものとなる)。「合理的な推論をせずに、目に見えるもの、知覚できるものだけを信じる物の見方」というのは記号人の認識能力の限界を前提にした「主観的」な物の見方でしかない。自分に見えない分からないからと言って、「それは客観的に存在せず、その存在が証明できていない」ということにはならない)。

 それにしても、「正義は人によって異なるものであり、異なる正義がいくつもあっていいはずだ。人は人、自分は自分である」という考え方は、「自分の正義は自分だけのものであり、他者に受け入れられる価値がない」という自覚を前提にしているので、「そいつ自身が他者にとって価値のないものだと自覚している見解を他者に主張してどうするんだ?」と私は思う。自分の正義が自分だけのものなのだったら、他人の態度にいちいちケチをつけないで、黙って「自分は自分」で生きればいいじゃないか。それができないということは、「自分の正義が他者にも通用すべき」と考えているということになり、そいつは価値多元主義の寛容論を口先でしか支持していないということになる(一方私は、「自分の正義は客観的に絶対であり、これを支持しない者は全て誤った思考を持つ嘘つきである」と考えているが、「別に他者が自分の見解を支持しなくても俺は客観的に公正な待遇を得られるので、困らない。間違った見解を支持するかどうかは個人の自由であり、自分の人権が満たされている限り俺には関係ないし、色々な見解があっていいと思うよ」と述べているだけで、矛盾はない)。

 「いくら客観的な正義に反しないからと言って、そんなことばかり言っていたら他人に嫌われる」と私を非難する者がいるかもしれないが、正義というのは「嫌われても構わない相手からの攻撃を防ぐ、ないし被害を補填するために主張するもの」であり、私は別に好かれようとして正義を説いているわけではない。他者依存的な記号的思考ゆえに他者の評価にこだわる日本人からすると、「どれだけ成果を上げて金を稼いでも、世間に認められなければそこに価値はない」という価値観が当たり前なのかもしれないが、それは彼らが支持する一つの見解に過ぎず絶対ではなく、彼らがそれを支持する分には構わないが、少なくとも私の支持する見解ではなく、押し付けられるいわれもない。

 「他人に嫌われる=価値がない」とか「他人に嫌われる=悪だ」という主張は物事の内容ではなく(個々人の主観を絶対化した)形式だけしか見ようとしない一方的な決めつけによる攻撃であって、実質を無視して自分たちの主観を押し付けようとするエゴイズムでしかない。だからと言って、嫌われているものが常に無価値でないわけではないし、悪でないわけでもない。無価値でありかつ悪だから嫌われているものも存在する。悪だから嫌われるというのは当然に成り立つが、嫌われているものが全て悪であるとは限らない。

 「僕は人間であり、あなた方は人間ではない。僕には人権があり、あなた方は僕の人権を保障するために使役された家畜である。だから僕があなた方を攻撃することは法的に許されるが、あなた方が僕を攻撃することは法的に許されない」という立場の非対等性を受け入れられない者は、科学的な思考ができていない非文明的な異常者であることになる。それに対して「科学的な思考ができていないのはお前だ」と言い返したところで、私の研究結果を覆すに足る論拠はどこにもなく、それは単なる根拠のない暴論に過ぎない。他人は他人なので、間違った見解を抱くのは自由だが、その見解は私や社会の動向には何も関係がない。

 馬場くんは自分の四次元犯罪について、「証拠がない」ということを何度も述べていた。私は当ブログで、すでに彼の四次元犯罪を証明する間接証拠および妥当な推論を提示しているのであり、客観的には「証拠がない」ことにならないのだが、身体感覚によって知覚できるもの以外は分からないとする彼の主観的には、「証拠がない」ということになるのだろう。それでは果たして、「直接的な証拠がない」というのは私にとって不都合なことなのだろうか? 「直接証拠がない」というこの状況は、裏を返せば、「彼の犯罪は私の人生やこの世界の歴史に何らの直接的な影響も残せない」ということである。彼は結局、四次元のコマ送り映像(それはVRのようなものでしかない)で超人を演じ、自己満足をさせられていただけで、結局この世界に形あるものを何も残せずに死んでいくのである。もちろん彼の犯罪行為は、こちらの研究資料として学術的な業績の一部になるのであり、そういう情報的な形では残るのだが、だからと言ってそれで彼の価値が認められるわけでもなければ、私の身に被害が残るわけでもない。

 「証拠がない」というのはそういうことであり、それは一見すると私への皮肉のようだが、実質的には「俺はあいつに何一つ見るべき仕返しをしてやれなかった」という(まあある種独りよがりな)悲しみの表現なのである。

 もちろん彼は、四次元では無限の拷問によって罰せられ、死んでいくことになる。そのことについて彼は私に対し、「俺の欲望を泳がせて犯罪させまくって捕まえてカネに換えるなんてのはズルだ、不正だ、お前が悪い」などと腹を立てていたようだが、記号人を相手にした犯罪捜査というのは基本的にそういうものだ。なるほど犯罪者から見れば、警察は「敵」なのかもしれないが、だからと言ってただちに警察が悪いわけでも不正であるわけでもない。もちろん警察だって絶対ではなく不正をしたらそれは罪になるが、こちらは客観的に不正な警察活動をしていない。犯罪者が自分の損得を正義だと思って、警察に対して「お前は悪だ」と吠えたところで、そんなものは身勝手な認識でしかなく、彼の思考の歪みの証拠の一つにしかならない。

 自閉スペクトラム症の患者は、「理屈っぽい。自分の世界を持っている」という症状を呈する。それゆえ、このブログだけを読むと、私も似たような思考をしているように見える。しかしながら、こういう特徴が私について全て当てはまったからと言って、私がその病気であることにはならない。それだけでは私のイマジネーションやクリエイティビティを説明できないからである。意識流体を用いた理性的な思考でも見かけ上、同じ性質を示すことになる。他方、私以外の自閉スペクトラム症の患者が、私のようなイマジネーションやクリエイティビティを発揮することはない。むしろ自閉スペクトラム症は、「想像力が乏しい」という障害を有しているのであり、そういう者が小説を書いたらドストエフスキーや保坂和志のような理屈っぽいばかりで描写のない文章(あるいはプルーストのように修辞過剰で中身のない文章)になってしまう。重度の記号的思考は言葉の組み合わせでしか物を考えられず、「二つの記号を結びつける情報」(イメージ)の構築ができないので、自閉症患者には私の仕事はできないのである。

 二つの相反する見解が存在する時、勝つのは「より多くの事情を合理的に説明することのできる見解(より真実性の高い見解)」である。真実性を無視して言いたい放題言っていいなら、「お前は馬鹿だ」「いいやお前が馬鹿だ」という低レベルな言い争いが起こるだけで、意味がない。他人を病気だと言うなら、それ相応の責任と論拠を持つのでなければならない。それができず、ただ「あいつは俺たちを自閉症扱いしたので、気に食わない。仕返ししてやる」というだけで他人を病気扱いするのは、まさに嫉妬深いアスペルガーの非理性性と有害性の証拠である。「他人を批判するなら、同じだけの仕返しを受けることを覚悟しておけ」というのは野蛮な土人の発想でしかない。人は批判されるべき要素があるから批判されるのであり、批判されるべき要素のない私に同じことをやり返してはいけない。それは社会的に不公正な態度であり、それが彼らの有害性の証拠となる。

 自分が自閉症だと思われたくないなら、私と同程度の業績を上げればいいのではないか? そうすれば、それは自分が人間であることの証明になる。あなたが人間だったら、別に難しいことではないはずである。それができないのだったら、他人に文句を言うのはおかしいというか、「客観的な分析に対して何で文句言ってんだこいつ」としか思えない(医者の説明にもキレるタイプ?)。自分が馬鹿だってことは、経験上、自分が一番よく分かっているのではないか?(それすら分からないのだというなら、「今まで何して生きてきたんだこいつは?」という話になる)

 別に障害だと分かっているなら障害と認めればいいじゃないか。社会的に対処が必要なことなんだから、隠してどうするよ。自分が否定されたくないという気持ちだけで意地張って事実を否認して、それで自分の病気のせいで周りが傷ついても構わないのか? 社会的に有益な対応をしているのは、私か彼らかどちらだ?

 私は別にアスペルガーに「今すぐ入院しろ」と言っているわけではない。いや、言ったことがあるかもしれないが、それは「本来ならば法的にそういうことを強制することが当然に認められる」という意味のことでしかない。実際には、彼らには一応表面的には仕事をしてもらうことになっている。まあいないならいないでこちらに実権が移るだけだから現場レベルではそれでも構わないが、四次元政府としては彼らに働かせてこれを最大限カネを換えないといけないのだそうだ。それに、彼らが劣等感と嫉妬心ゆえに一方的に否定されることを恐れるあまり、自分たちの障害を障害と認められないことも知っている。それゆえ私はただ、彼らに命令口調で批判するものの、被害を未然に避けることはできず、これを後から実質的に回復するために、彼らの有害性、非理性性、主張の不正性を暴くことしかできない。私の言論が矛盾しているように感じるとしたら、それは「本来ならば、つまり社会的に他人の人権を侵害せずに振る舞うためには彼らはこれこれこうすべきであり、法的に命令されて当然のことだから、私はこれを命令口調で彼らに要求するが、彼らは能力的に、それに応じることができないし、こちらの人権を十全に行使して彼らをカネに換える上では、彼らに犯罪をさせるしかない。被害はどうしようもないことなので、こちらは諦めるしかない。私にできるのは、そのような彼らの不正性、有害性、非理性性を暴露してカネを儲けることで実質的に慰謝料および仕事の報酬を手に入れつつ被害を罰し、彼らと関わらなくても生きられるような体制の構築を形成することだけである」という発想をしているからである。論理の筋がやや複雑なので、部分だけ切り取ると矛盾しているように見えるが、全体を見れば別に矛盾してはいない。

 私は彼らに犯罪の機会を提供しているだけであって、それに応じて彼らが犯罪を行うのは彼らが有害だからである。私は犯罪をカネに換えることを絶対の要求としているわけではない。あくまで彼らの責任と我欲から彼らが犯罪をすると言うので、私はそれに応じて法的な非難と罰と命令をした上で、犯罪をカネに換えているだけであって、あちらがやりたくないというならそれはそれでこちらは何も言わないしあちらがやりたくないのに犯罪をカネに換えようとはしない。つまり私は「罪を作り出す」ということをしていない。あちらが作り出した醜い欲望に応じ、これに対処しているに過ぎない(「俺たちだって犯罪なんか本当はやりたくなかった」などという彼らの主張は言葉通りに捉える限り嘘であって、実質的にはそれは「利益は得たいから罪は犯すけど、罰を受けるのは嫌だった」という意味のものでしかない)。

 「あなたの見解が正しかろうが正しくなかろうが、あなたは迷惑行動をしたのであって、そのようなことをしてしまうのは病気である」と医師は述べた。迷惑行動? 私の見解が正しければ、私の行動は「正当な抵抗権行使」あるいは「正当な処分権行使」になるわけだから、「迷惑行動」にはならない。彼ならば、「それはあなたの思想であって、思想を理由に迷惑行動をするのはおかしい」と言い返すだろうが、この世界の体制が正当であり、抵抗は許されないという彼の見解も彼の思想であり、思想を理由に私に不利益処分を科すことは許されないはずである。それでも実際には彼の思想が通るわけで、それは結局、「強い方の意見が通る」という土人の力づくの発想でしかない。だからこそ、「何が正しいか」を客観的に決定し、「迷惑行動をしているのはどちらか」を正しく判定する必要があるのであって、「正しかろうが正しくなかろうが」という発想は認められない。

 通常、体制側は抵抗を抑制して運営を安定させるために、なるだけ正しい方、正しい方に動こうとする。体制側が正当性を無視しようとするのは、「正しい見解を正しいと認めてしまうと、体制側の権力基盤が崩れてしまう場合」のみである(だから体制の権力基盤に影響しないどうでもいい事柄に関しては、体制は極めて真面目に正しい処理を行おうとする)。自分たちの権力基盤に不安が生まれるからと言って、正しいものを否定して闘争を仕掛けるのは野蛮な発想であり、記号人の非理性性の証明となる。彼らは言葉は喋れるが、自分たちの利害に影響する重要な事情においては、力づくでしか物事を決められない。都合の悪い真実を否定ないし無視して「自分たちにとって都合のいい意見」を構築し、これを客観的な価値判断に応じて修正することもなく自分たちの利益に固執して譲らず、「他人の見解は他人の見解だ」として否定も肯定もしないままスルーして自分たちの身勝手な態度を改めようともしないコミュニケーションの取れない自閉症の思考をしている。

 普通だったら、私の価値が証明されている以上、体制側は速やかに私により上位の立場を譲って肩書きを「権力者」から「労働者」に改めるべきであるはずなのに、彼らには嫉妬心があるのでそういうことはできない(もちろん私はそんなことまで彼らに要求するつもりもなく、適当に偉そうに振る舞って自分たちを慰めながら労働者やってくれりゃいいと思っているが)。「そんなことは常識に反する」と彼らは言うかもしれないが、私は常識に反する特別な能力と立場を持っているのだから、それに対する取り扱いも常識に反するものでなければおかしい。そのような特殊性に対処する能力がなく、ただマニュアルに沿った考え方しかできず、自分たちに都合のいいマニュアルを愚直に支持して不公正な態度を改めようとしないエゴイズム(真面目系クズ)こそが、重度の記号的思考を持つサイコパスの特徴である。私は子供の頃は自分を「ただの凡人」と思っていたので、自分だけが特別であるような発想はしなかったのだが、自分が特別であると分かるや否や、発想を転換してこれに対応することができた。ところが彼らは、嫉妬心と対処能力のなさから自分たちの立場を譲らず、あろうことかむしろ私のことを攻撃して潰そうとしてくるのだそうだ。

 「そりゃあねえだろう」とも思うが、私は彼らの馬鹿さ加減を知っているので、別に構わない。馬鹿につける薬はないのだし、歪んだ思想に固執する寄生虫の思考を改めるより、これを逆に利用して暴れさせてカネに換えた方が経済効率がいい。「人は人、自分は自分。正不正なんて絶対の答えはないのだし、人が何を考えていようと関係ない」と言って立場を譲らず、社会コミュニケーションを拒否する自閉症の者がいるならば、こちらだって最低限の社会コミュニケーションをすることすらできないのであって、あちらの見解を無視して「それは君の価値観でしかない。君が何をするのも君の自由であり、それを否定も肯定もしないが、僕には関係ない」という形で勝手に生きるしかない。それで私が社会の敵として扱われ、あらゆる攻撃を受けることになっても、それは彼らの価値観に過ぎず、私には関係ない。そもそも「正義に絶対の答えはない」などと言っている者が、私に何を教えるというのか。絶対の答えがないならないで、私の正義だって一つの答えになるのであって、否定されるいわれはない。「寛容は不寛容に対しては不寛容になる。お前は自分の正義を絶対化して他を否定しているから、責められて当然だ」と言い返しところで、私は「馬鹿が馬鹿のまま生きて破滅していくことは馬鹿の自由であって、それを否定も肯定もしない」と述べているのであり、他の生き方を否定しているわけではない。ただ見解の正不正は客観的に決めますよ、と述べているだけである。「お前は不寛容だ」という評価は一つの価値観に過ぎず絶対の答えではなく、私は私の見解に基づいて「私は最大限寛容な思考をしている」という発想で生きるのであって、「正義に絶対はない」という観点からその分析の正当性を馬鹿どもが認められないとしても、絶対がないのだったら絶対がないでむしろ私の見解も否定されるいわれはない。「いくら正論を言ったところで、失礼な上から目線の物言いをしたら嫌われて攻撃されるのは当たり前」と言う者もいるかもしれないが、それは一つの価値観であって絶対ではなく、自分で勝手に信仰している分には構わないが、正当性の証明もしていないくせに他人を責めるのに使ってはいけない。私の見解は正当性の証明があるので、世間一般に流通させて他者を論じるのに使うことが許される。それは絶対的な見解だが、他者からは「それはお前の価値観であって絶対でない」と言われるのかもしれない。しかしその評価は彼らの価値観であってそれこそ絶対ではないのであって、私がとやかく言われる筋合いはない。「正義に絶対はない」と自認している者が自分の価値観で他人を責めるのは論理的に矛盾しているが、「正義に絶対はある」と語る私が他人を責めるのは論理的に矛盾していない。これも一つの見解に過ぎないと言われるのだったら、結局理屈で何をどう論じたところで、「こちらはカネと業績のために真実を暴くし、暴言も吐く。彼らはそれに腹を立ててこちらを攻撃する」という構図が避け難く生まれるのであって、「正義に絶対はない」とか言い出したらそりゃ戦争起こるよなとしか思わない。それこそが、「目に見えない正義を客観的に判断してこれに従う能力」を欠いた記号人の思考の性質である。

 私にとって「自分たちの見解を譲らない自閉症」は彼らであり、彼らにとって「自分の見解を譲らない自閉症」は私である。だから「どちらが正しいかは相対的であり、どちらも相手がおかしいと思っている」ということではなく、結論は客観的な科学認識に基づいて決定される。自分の見解の科学的な正当性を示したのは私であり、彼らはそれを上回る真実どころか、同等の真実すら示せすことができず、それなのに見解を譲ることもなく、ただ私を一方的に責めるばかりである。自閉症はあちらであって、私ではない。それが客観的な唯一絶対の解である(「他の見解を認めることができない自閉症はお前だ。私たちは他の考え方の人のことも認めることができる」と彼らは述べるが、それは単に他人の話を「そういう見解もあるよね」とスルーして自分の見解に固執しているだけであって、自分の見解を譲ろうとしていないことに変わりはないし、「他人の見解を認めることができる」と言いながら私の見解は否定している。私の見解は他の者の見解や常識を科学的に否定するものであるから、これを否定していないなら、その者は自分の見解を改めるのでなければならない。文明人なら、空が動いているのか地が動いているのかが科学的に客観的に決定できることを知っているはずであり、「動いているのは空ではなく地である」と述べる者を批判したり「君の考えは否定しないが、僕には僕の考えがある」などと現実から目を背けたりはしない。そのように、科学的に正しいことを言われても「君は君、僕は僕」などと言い張って現実から目を背けて自分の考えにこだわるその態度は自閉症のそれであり、「自分の利害で結論を決めるのではなく、科学的な真実に基づいて論を立てているこの私」とは全然別のものであるとしか言いようがない)。

 私からすると、馬鹿が天才に負けるのは当たり前のことだし、全然悔しがる必要もないし恥ずかしいことでもないと感じるし、むしろ積極的に負けを認めるべきと思うのだが(そうでないと他者の人権に配慮したことにならない。他者の能力や才能を公正に認めることが他者の権利に配慮した大人の思考である。この国の判例にはないが、「正当な価値を無視すること」も「消極的な侮辱」ないし「消極的な偽計を用いた営業機会の妨害」として罪に当たらねばならない)、彼らにはそういう公正な思考がない。自分たちが馬鹿であることを認めようとせず、言われたことに腹を立て、「馬鹿はお前だ」などと私に闘争を仕掛けてくるばかりである。いや、普通に考えてこれほんとにおかしいって。プライドとか劣等感とか、そこまでこじらせるもんかね。悔しいってだけで人殺したり戦争したりとか、それ自体が頭おかしいとは思わないのか?? それが頭おかしいと自覚しているのだったら、どちらが我慢すべきか、分かるよな? だったら我慢すりゃいいじゃん。そういう知識があるはずなのに、くだらねえ嫉妬こじらせて有能な個人を滅ぼそうと必死になっているその周りの見えなさがヤバい。別にいいじゃん、馬鹿なんだったら馬鹿として負けを認めたって。俺はもし自分が天才ではなかったら、別にお前らに勝とうとは思わなかったよ。天才だから今みたいな活動をしているだけで。馬鹿なのに何一つ歴史を動かせるような結果も出せていないのに、自分が馬鹿であることを認められず、ムキになって天才を滅ぼそうとするのは「普通」ではない。どうして自分たちが他人よりも下になることを恐れる? 馬鹿なんだったら馬鹿なりに下の立場でいいじゃないか。馬鹿で実力がなく、自分の才能で上の立場を得られもしないくせに、劣等感ばかりが強くて他人に遅れを取ることを恐れるアスペルガーの自閉症患者(馬鹿の嫉妬屋)が一番危険だと思う

 人権についても同じである。人権がないのだったら人権がないなりに、その有害性を罵られながら奴隷労働してりゃいいじゃないか。何か文句があるのか? あったとしても文句言ったって仕方のないことだろう。そちらがそういう風に生まれてしまったのだから、こちらもこういう態度を取るしかないわな。それなのに嫉妬感情から立場を受け入れられず、不合理な腹の立て方をするのは有害でしかない。

 それにしても、私がこの世界で「自己の能力にふさわしい公正な結果」を得ようとするなら、単なる競技のみならず、学問・政治・経済・法・国家・領土を含むこの世界のメジャーどころを全て制圧せねばならなくなるらしく、まあこういう世界だからどの業界でもメジャーどころには魑魅魍魎が巣食っているみたいなところがあるので、結局私はその全てについて闘争を仕掛けられることになるのである。と言っても所詮それはネットやメディアを通じた言論闘争、幼稚な言い争いの域を出ないつまらない空中戦であって、見なければカネだけが動いていくばかりでこちらの得にしかならないものでしかないのだが、一応建前上、彼らは私に反抗してくるのだそうだ。

 私は「人によって態度を変える」性質を持っている。こちらの世界ではそれが「不公平な態度」として嫌悪の対象とされがちであるが、それは「客観的な価値判断ができず、他者を自分より強いか弱いかで相対的に価値判断して態度を変える。強い者には媚び諂い、弱い者には理不尽に振る舞う」という力づくの権威主義に対する嫌悪であって、私には当てはまらない。

 私は客観的な価値判断ができるので、「強いか弱いかにかかわらず、客観的に価値のある者に対しては丁寧な態度を取り、価値のない者に対してはあまり関心を持たない。価値がないどころか有害な者に対しては、冷笑的、侮蔑的な態度を取る」という形を取る。これは「公正な態度」であって、「不公平な態度」ではない。

 そもそも彼らは私を散々不遇な立場に貶めていたくせに、やり返されて勝てなくなった途端に被害者を気取り、「虐め反対! 誹謗中傷反対!」とやりだすのは不合理ではないか。今まで散々他人に被害を与えておいて、今さら何様のつもりだろうか。こちらの告発の正当性も全て「証拠がない」と否定して、こちらを狂人扱いするつもりらしいし。家畜のくせにそんな風に憎たらしい態度を取っていたら、責められるに決まっている。自業自得とはこのことを言う。そうやって定見も規範もなく、自分たちに都合の良い理屈しか吐かないのがアスペルガーの特徴である。自分たちが加害者の時には正義を気取り、虐待を肯定しておきながら、被害者の時には加害者を悪だと主張するのである。そうやって、「自分はよくて、相手はダメだ」という理不尽な正義や法を振りかざすのが彼らであって、まさにそれは記号人の非理性性の証拠となる(理性のある私には恥ずかしくてとてもこういう考え方をすることができない。私が「記号人には人権がないので、これを害しても法的に罰せられない」と述べているのは、彼らのそれと同じことではない。それが分からないのは物事を大雑把に比較して同一視することしかできないアスペルガーの症状でしかない。私は「豚を挽肉にしても法的に問題はない」というのと同じことを述べているだけであり、それは私と自分たちを一応「同じ人間」と定義しているにもかかわらず、屁理屈を使って自分たちを正当化し、私の方だけを一方的に悪く論じようとする彼らの思考とは異なるものである)。

 というか、「理屈なんて何とでも構築できる」などと考えている奴らが正義を振りかざすことの何とくだらないことか。それじゃあ「それぞれ個人が言いたい放題の言論を言い合って、大衆の支持を得られたり体制が認めてくれたりする意見が偉い」とでも言うのか?? そんなものは非理性的な土人の実力闘争でしかないのだが、そんなことしかできない浅薄な思考を持っているのに「自分は人間だ」と言い張るのはおかしいだろうよ。理屈があるだけで、実質どこでも戦争やってるみたいなものじゃないか。

 人気投票で結論決めるなら、「私以外の地球住民は全員理性のない動物でしかなく、人権がないから害を与えても罰せられない」という俺の意見は絶対に負けることになるわな。でもそれが客観的に正しい真理なんだけど、じゃあどうすれば俺が社会的に認められるのか、誰か考えてくれねえか?? だって正しい意見を積み上げていくことが科学の進歩であって文明の発展だろうがよ。そんなもん大衆の人気が得られねえからって否定されてたら先進めねえだろうが笑。

 みんなは「正しいことを言ったのに、都合が悪ければそれが否定されてもいい」と考えているのかな? 普通、「正しい意見が埋れて潰されないように保護するべきだ」と考えるものじゃないの?? 科学的な業績とか成果って、そういうものだと思うんだけど。都合が悪けりゃなかったことにしていいとか、そんな野蛮なことがあっていいの? 俺は成果を上げたのに、みんなが気に食わないからって、十分な報酬と社会的評価を得られなくてもいいってのか? え、なんで???? なんでなんでなんで???? 普通、逆じゃねえの??? 笑 俺は研究成果を上げたのだから、みんなが気に食わないかどうかにかかわらず、十分な報酬と社会的評価が与えられるべきである。違うの??? こんなことわざわざ議論する必要あるか?

 変な世界だなあ(すっとぼけ)。

 社会がそんな風に腐ってんだったら、こっちも倫理とか道徳とか気にせず、法に反しない限りでやりたいことなんでもやっちゃっていいってことだよな。才能もなく、他人に文句言って慰めや施しをねだるだけのくせに、憎たらしい態度しか取らないから雑な態度を取られることになるんじゃねえの? まあ嫉妬というのは治らない病気だから、どうせこんな説教しても無駄だということは分かるが、それならそれでそれ相応の態度をこちらは取ることになるわけで、それはそちらの嫉妬が治らない以上、「避けがたい必然の結果」だということを忘れるな。こちらがお人好しになることを強要すんなよ。それはそちらのつまらん甘えでしかない。

 こちらは被害の告発と不正でない報復と学問的な成果の発表を行っているのであり、そこには社会的な価値があるし、正当性も示している。だからその活動を肯定されることはあっても、否定されるようなことはしていない。そんな私に対して、「嫌だ」とか「嫌いだ」とか「私はこう考える」とか、そんな客観性のない個人の主観をネットに吐き出して他人に同調求めることの方が「恥ずかしいエゴの垂れ流し」だろうよ。そいつらは一体、なんの根拠があって自分の言いたいこと言ってんのかが分からない。「言いたいから言う」じゃ他人に迷惑かける理由になっていないからな。社会というのは劣等感の慰めのためにあるものではない。自分の活動の正当性も説明できないくせに、勝手な発言をして人を傷つけて、その責任を負うつもりもないなんてガキの嫌がらせでしかねえよ。「何が正しいのかは客観的には分からない」と言うなら、喋るな。黙って他人に迷惑をかけず、自分の頭の中で観念転がして悩んでりゃいいじゃん。自分や自集団のためだけに構築した勝手な正義を世間一般に流通させようとするなってこと。正義が他人によって違うなら、自分の正義は自分だけのもの(つまりエゴイズム)であって他人に語ったり他人を責めたりする価値がない。自分たちでおかしいと思わねえのかよ。「細かいところでは見解が分かれるものの、大筋では価値観を共有できる」などと言ったところで、そんな評価は個人の価値観でしかなく絶対的でなく、それ自体が「自分や自集団のためだけに構築した身勝手な理論(つまり、自分のエゴを肯定するための屁理屈)」でしかない。そんなきったねえ大便みてえな意見を他人に押し付けるなって(言葉遣いが悪いのは、「それだけレベルの低い屑」を相手にしているからであって、私の側の問題ではない。まあ言葉遣いでマウント取ろうとする理解力のないアスペルガーにそんなこと言っても、「分からない=気に食わないから認めたくない」で終わりだろうがな。そういう奴はせいぜい句読点の打ち方の練習でもして、創造性のない偽芸術の記号文学でも研究していればいい)。

 「僕は気に食わない」「僕たちは気に入らない」って、お前ら何歳児だよ笑。そんなもん自分たちがメジャー気取ってられるから偉そうにしていられるだけの、何らの文明性も持たない土人の空威張りでしかねえじゃねえか。

 彼らは私の説明を読んで「こんなこと書いてたらそりゃ腹を立てられるよね。人の気持ちが分からないのかな」と考えるのだろうが、彼らが気に食わないかどうかは私の活動とは何も関係がない。「人の気持ちが分からないのか」という言葉には、暗に「分かっていたらこんなことは言わない」という意味が含まれているような気がするのだが、私はそれが想像できていても、考慮しないようにしている。

 なぜなら私の活動は正当だからである。

 「気にいる気に入らない」というのは個人の主観であって、他者に強要していいものではない。他者に強要していいのは正義や法であって、個人の感情ではない(この国の形式法典は嘘が書かれた紙屑でしかない。法というのは四次元政府の規定した実質法のことを言う)。私の正当性の主張は、「私は正当なので、誰かに法を強要されるいわれはない」という意味のことであり、つまり「私の活動がどれだけ気に入らなくても、それは個人の主観であって社会に流通させていいものではないので、その憤りは自分の中で消化して、我慢をしてくださいね。それができないなら、病院に通院して興奮を止めるお薬を貰ったり、場合によっては入院するなどして、社会に迷惑をかけないようにしてくださいね」ということを私は述べているのである。

 それに対して、「こんな発言していたら嫌われるのは当たり前」という批判をする奴が、どれだけ浅い思考をしているか、自覚できないのだろうか? 彼らは「正不正なんて関係ない。他人の気持ちを傷つけることをしてはいけないのは当たり前だ」と述べるが、普通、「他人が気に食わないかどうかなんて関係ない。感情論を抜きにして、正不正で物事を解決するのが当たり前だ」というものである。そういう社会的な発想とか、常識とかいったものが欠如したまま何の疑問も持たずに生きていられるのが不思議でならない(どうせ認識能力のないアスペルガーたちは「社会性がねえのはてめえだろ」などと言い返すのだと思う笑。「俺たちの気持ちを考えて接待してくれないのは社会性がない」って。万人が接待嬢やホストにならねえと生きられないってか笑。そのくせ、そういうこと言う奴ほど、強い者にしか気を遣わないで、弱者を虫けらのように扱う傾向にある。得にならねえ奴に接待はしないわけだ。実際、そいつが人の気持ちを考えられるなら、俺に何を言われても仕返しをせずに、俺の気持ちを考えて気を遣うはずだわな。誰にでも気を遣えるはずの奴が、他人に偉そうに物を語るなんてしようとするはずがない。自分や自分たちの仲間の感情だけが優先で、他の奴らはそれに従えってか? そんなルールがどこにある? 「そんなものは個人の価値観でしかなく、社会の動向や学問研究とは何も関係がない」。終わり。社会や学問は、こちらが正当に公正に発展させてもらいますわ。認識の歪んだ人たちはこれに参加する必要がないし、その資格もない)。

 「イジメ、ダメ絶対」などというのは一般論であり、これを私に当てはめるのは、杓子定規なマニュアル主義のアスペルガーの戯言に過ぎない。自分の価値と業績にふさわしい公正な結果を得るために、世間および社会からあらゆる闘争を仕掛けられることが確定している私のような人生において、敵対者を虐めて暴れさせてカネに換えるという選択は合理的かつ正当で、避けがたいものである。黙っていて自分の身の丈の大きさに応じたカネと成功が降ってくるなら大人しくしているが、この世界ではそのような形で人権保障が行われるわけではない。それどころか、嫉妬心から「てめえの主張する公正な結果というのは、全く公正ではない」などと客観的な物の見方を否定する者ばかりである。「正義が立場によって変わる」という発想の暴力性。あなた方に都合が悪いというだけで正義が歪んだら、こちらも自分の都合で正義を語っていいということになるわけで、結局殺し合いにしかならない。だから私は平和に穏健に、「客観的に公正な基準で物を語れば文句はないはずだ」と述べ、実際に公正な主張しかしていないのに、その客観性を否定されることが確定していたら、はじめから社会闘争を想定するしかない。自分たちがいかに非理性的で悪辣な取り扱いを受けるべき屑の害虫であるかを自覚した方がいい。私ではなく、あなた方がである(病識がないというのは恐ろしい。私に同じフレーズを言い返すことはできようが、中身がないのでその主張は学術的な積み上げにならない)。

 馬鹿に付ける薬はない。キチガイと話し合っていても無駄。学術的な積み上げになるような理論的背景を何一つ持たないまま、ただ自分たちに都合のいい屁理屈を吐くだけのボット。言葉が通じるだけで、アスペに話など通じない。

 彼らは将棋をしているに過ぎない。つまり、「いかにうまく理屈をこねくり回して相手を倒すか」だけを考えて言葉を吐いている。それを頭のいい活動だと思っている。公正な見解を構築するためには、「勝つためにやる」という目的があってはいけない。勝つためにやるのでは、「自分にとって不利な見解は、たとえそれが正しくても受け入れない」という理不尽なスタンスを持つことになってしまう。今まで長生きしてきたくせに、そんなわがままな態度を改めることもできず、それで大人を気取っていられる気がしれない。何が「正義に絶対などない。個々人にとって都合のいい正義同士のぶつかり合いの闘争があるだけだ」だ。そんなことを述べてもらっても私には何の関係もないし引き留めはしないが、「それはガキの発想だよ」と言われても仕方のないくだらない見解であることは確かだ。

 こちらの世界では、そういう公正性を無視したガキレベルの土人の欲望に配慮してやらない方が「お前は子供だ。俺たちのことを何も分かっていない」という話になるのだろうが。こっちは分かっているからその醜さを逆に利用してやってんだろうがよ。こちらは「病識がなく、閉鎖病棟に幽閉されるつもりもなく、公正性に対して闘争を仕掛けることを選んだ学習障害の自閉症患者」に対して適切な対応を取っている。これが大人の対応であって、気に食わないからと言って正しい答えに反抗するのは子供の思考でしかない。

 勝ち負けではなく科学的な正不正(真理値)で物事を判断することができなければ、理性的な大人の態度とは言えない。「どちらが勝っても、正しい答えが出ればいい。正しい答えが出たならば、潔く負けを認め、有能な者に勝ちを譲る」というのが理性的な大人の態度ではないのか。そういうことができない馬鹿ばかりがこの世界にうようよしているのは承知だが、それは障害であって正しい態度ではないので、こちらはその発想を認めない。その発想は人間の発想ではないので、こちらもそれに応じて彼らを「人権のない動物」扱いすることしかできない。それゆえ、私はそういう醜さを逆に利用してカネに換えることになる。これが大人の態度(つまり社会的に公正な態度)である。

 文句を言うなら、理性を身につけてくれ。私だって、人間扱いできる生き物がおらず、悪辣な態度を取らざるを得ないので困っている。これは本当のことだ。若い頃の私は虐めや嫉妬を全くしない子供だった。「嫉妬をする」「虐めをする」という選択肢を想定すらしていなかった。みんなそうだと思っていた。嫉妬や虐めなど、一部の少数の性格の悪い者にだけ当てはまる特殊な事例で、社会一般的には多数派ではないのだろうと、思っていた。しかしそうではなかった。だからこのような選択をせざるを得ない。私はあくまで彼らの性質に応じて合理的かつ理性的に悪辣な態度を取っているだけで、本能的に虐待行為を嗜好しているわけではない。サイコパスが地獄に落ちるのを見て、「ざまあみろ」とか「面白え笑」とか思うことはあるが、それはその者の醜さに照らして妥当な結果を得られたことに快感を覚えているだけであり、まともで無害な者を虐めることに快楽を覚えることはない(たとえ相手に人権がなくても私はまともで無害な者を虐めることはない。正義に従い大人しくしていたら何もしないのに、正不正を無視して暴れるから叩かれる。こちらは我欲で正義を歪めることなく、ルールを守って客観的に正しいことを言っているのに、あちらはルールを無視して自分の欲望で結論を決めている。見かけ上は、形式法を破っているのは私の側に見えるかもしれないが、それは「砂糖と塩は見かけ上同じである」とでも言うのに等しい暴論でしかなく、実質的に客観性を無視して欲望で動いているのは彼らであって、私は正しい態度を取っている)。

「学術的に正しい意見を言われて腹が立ったからと言って、他人を攻撃してはいけない。罪を告発されたのにシラを切ってはいけない。見かけ上、先制攻撃を受けたのだろうが何だろうが、人権もないくせに法的な被害の主張をしてはいけない。そんなことをしたら虐められる」。これが当たり前。記号人からすれば不都合そのものだが、そんなものは彼らの主観であって科学的ではなく、何らの価値も効力もない。元々社会というのは人間が家畜を食い物にするためのものであって、記号人が社会に何かを要求したり文句を言ったりするのはそれがどのような主張であっても認められない。たとえ内容が正しくても、主張者が人間ではない以上、「なるほど人間だったらそのような権利主張ができるはずだが、お前にはそんな権利はない」と言われて終わりである

 彼らは「みんなが守っているのだから、お前もこの国の法を守れ。名誉毀損は許さない」などと主張しながら、私のことをめちゃくちゃに誹謗中傷することになるわけだが、その彼らの態度は体制の「私刑禁止」という原則に反している。「いや、誹謗中傷しているのは一部の頭のおかしい奴であって、私は日本の法に則った主張しかしていない」という者がいるかもしれないが、インターネット上の名誉毀損や侮辱なんてそこら中で起きているのに、私にだけ個人的な批判を加えるのは公平性を欠いている(「お前もインターネットで個人攻撃している屑と同じだよ」という主張も、一見すると全体を批判しているようで、名前が上がっているのは私だけなのだから私への個人攻撃でしかない。匿名でやれば良かったということか? ばれなきゃいいみたいな)。

 もちろん、すでに述べたように、そもそも日本法の正当性には根拠がない。民主的な手続きによって得られた法律は正当であるという証拠はどこにもない。根拠がなくても理屈さえ筋が通っていればいいというなら、私の主張も理屈の筋が通っているので認められることになる(彼らのそれとは違い、私の主張には正当な根拠があるわけだが、正当性を無視して理屈の有無だけで判断しても、私の主張が否定されるいわれはない。「権力や支持がないからお前は不正だ」という主張は暴力的な土人の実力闘争でしかなく客観的に公正ではなく、誤りである。それが認められるなら、私がばれないように放火や殺人をしても問題がないことになってしまう。もちろん私はそんなことはしないが。そんなことをしなくても勝てるので)。

 「みんなが守っているのだからお前も守れ」と言いながら誰も法を守っていないし、「体制の権力は正当である」と言いながら誰もが体制の権力を無視して言論による私刑を繰り返している。これが記号人

 まあ本音と建前って、あるよね笑。

 理性ねえんだから、言葉で嘘ついて取り繕うしかない。だろ?

 こちらは嘘つかずに本音晒しても公正性が失われないので、建前無視で行きますよ笑

 それでも俺の方が勝てる仕組みにできてる。

 ほんと、正義があって良かったわ。あざーす笑

 あちらは非を認めて俺に賛同したところで何らのメリットもないのだから、俺に抵抗するしかねえわな。

 それが「損得でしか物を考えられない非理性的な動物」である。

 「お前は公式の体制に反する活動をするのだから、公式がこれに手を貸すわけないだろう。やるなら自力で勝手にやれ」と私は暗に彼らに言われているように思われる。公式の後ろ盾がなく資本もなく、広告手段も生産手段も知名度もコネもない私にとって、公式を食うレベルの大々的な活動を行うためには「炎上商法」しかない。「世間や公式を敵に回すことは確実だけれども、内容的には公式を食うレベルの莫大な業績」を上げているのに、それを社会に還元して報酬を得るチャンスが他にない。この条件で合理的な選択肢を模索したら、誰でも今の私のような答えに行き着くはずである。「カネやコネやスポンサーや知名度の暴力」で価値のないものが売れて、「勝てば官軍」「結果出したものにこそ価値がある」などという評価がなされるなら、俺が「言葉の暴力」を通じて価値のあるものを売り、これにふさわしい売り上げを得ることは何らおかしいことではないと思うのだが。両者の違いは、明示的な暴力か黙示的な暴力かの違いでしかない。法なんて建前でしかなくあってないようなものだし、摘発された奴が馬鹿を見て責められているだけで、それ以外にもグレーゾーンでやっている奴なんてごまんといる。「迷惑行為でカネを稼ぐのはいかがなものか」とか言う奴いるが、どいつもこいつも水面下でのヤクザ絡みとか違法献金とかメディアを利用した自演工作とかステマとか、ばれてないだけで割とやりたい放題やっている。「摘発されなければ罪にはならない」。この社会はそういう風にして成り立っているのであり、勝てない奴が杓子定規なルールを押し付けてゴタゴタ恨み節吐いたところで、それは負け惜しみでしかない。みんな口に出しては言わないけど、「世の中、そういうものだ」と分かっているだろうが。そういう現実を無視して、俺のやり方にケチつけるのはガキのすること。文句があるなら裁判起こすか警察行け

 私はこの国の法に反しているだけで、客観的には不正なことはしていない(この国の法が絶対だと思っている奴にとっては、俺が何を言っているのか分からねえだろうな)。不謹慎だが、炎上という形で滅茶苦茶な騒動が起こるのを私は割と楽しみにしている。自分は捕食者である立場上、彼らの主観において嫌われているが、客観的には嫌われる人格をしていないので、腹を立てられてもいまいちピンと来ない。「こいつらなんか勝手に言ってるよ。迷惑だなあ」としか思わない。しかしよくよく考えてみると、世間が大騒ぎし、メディアやインターネットで俺への批判や誹謗中傷がブワーッと拡散していくのはなかなかおもしろそうではないか。何も悪いことをしていない俺を世間やメディアが批判したり中傷したりするのは、悪いことだとは思うが今となっては別に気にならない。「批判は見ない」という選択肢が合理的だと思ったが、ここまで来ると、むしろ見たい笑。これまではブログのコメントを閉鎖していたが、コメント解放してわざと言いたい放題言わせるのもいいかもしれない。もうすぐ世間全体が俺の敵に回ることになるので、本当はもう少し恐れを抱いても良さそうなものだが、俺は彼らの意見も存在価値も人間社会においては取るに足らないものであることを知っているので、割とフワフワした気持ちでいる。それに、日本人は陰湿だが、「勝てない相手には喧嘩を売らない」という臆病な性質もある。世間やメディアが私に罵詈雑言を投げつける中で、それでもこちらがカネを稼いで先に進んでいくうちに、段々とあちらの勢いが静かになっていくことだろう。「あれほど有能なのに社会に飼い殺しにされていたら、そりゃああいうことをするのも仕方ねえわな」「既存の利権を守るために有能な新人を潰しつつ、使い勝手の良いそこそこの新人ばかりを選んできた公式の態度にも問題があったんじゃないのか」。そういう意見が徐々に増加していく。世間の感情や公式の見解があるのに、それが機能しなくなっていく。次第に嘘と現実の乖離が甚だしくなっていく。結局俺はどこで何をしても安泰で、あちらは使われるだけ。そういう構図が明らかになっていく。彼らが私と馴れ合わずに闘おうとするからこそ、かえってそれが浮き彫りになる。

 穏便に成功を得て、メディアにチヤホヤされてインタビューを受けながら煩わしい業界政治に巻き込まれるよりも、こちらの展開の方がおもしろいと言えるだろう。

 「林くんって、法とか正義とか理性とか、理想論みたいなことをやたらに語っているけど、意外と現実的だよね」。はいその通りでございます。「郷に入っては郷に従え」と言う者がいるなら、私はまさに土人の流儀で活動させていただいているのであり、「郷に従っている」ことになるのです。

 まあでも「ただ炎上だけで食ってく」みたいな奴は中身がなくてダメだよね。俺は名前を売る取っ掛かりに炎上を利用しているだけで実力もあるって言うか、「同じに見られたくないな」って感じ。こっちは魂かけてやってんのに、安易な炎上商法と同じにされたくないって気持ちは強いかな。

 批判もされるだろうけど、別に悔しくはないよ。当然に予想できることだし、はじめからそういう台本になっているしね。世間は炎上を下から支えれてくれればいいと思う。俺は炎上の根底に息づく魂を支えていくつもり。その魂は俺の子から孫へ、孫からひ孫へと伝わっていく。それが俺と炎上とのエターナルだから。

 「ズルしてバズっても意味ない。実力で売れないと」とか言っている奴いるけど、「実力」って何よ??笑 芸術の実力は芸術で、研究の実力は研究で、だろ? 大御所や大企業、世間に気に入られるためのおもねり、工作活動の上手さやコネクション、業界政治、あるいは裏の自演工作をごまかして「頑張ってますアピール」するためだけの形ばかりの献身的な営業活動をすることが「実力」なのかね?? 恫喝ばかりのヒエラルキーの中でコツコツ下積みしてりゃ才能なくても業界で一定の立場を与えられて、それで「俺は実力でここまで来た」ってか?笑 そりゃあまりにも古い考え方だよ。吉本芸人じゃねえんだからさ笑。営業の方は、こちらのやり方で好きにやるさ。売れりゃいい。それだけだ。実力が問題になるのは作品の内容だけであって、それは社会的な「売り方」の問題とは全く別。倫理と才能を混同しちゃあダメだよ。

 俺が何をしようがそれは俺の自由権の範囲なのだから誰に腹を立てられるいわれもない。それなのに俺に対する憎しみが抑えられない者は、俺に報復するのではなく、俺を憎まないようにすればいいのではないか? そちらを憎ませた俺が悪いのではなく、憎んだそちらが悪い。そうは考えられないのか? 社会的におかしいのはそちらなんだから、黙って自分の感情を変える努力をしろよ。それができないのは「感情=正義」としか思えない猿のエゴイズムになってしまうのだが、それでもいいのか? 恥ではないのか? 真面目に人のふりするんだったらゴタゴタ文句言ってねえでまずそういうところから直していけ。

 お前らだって、チンパンジーが「お前が俺たちのことを見下すなら、俺たちもお前のことを見下してやる」とか言って大騒ぎしたら腹立つだろうよ。自分より下の奴にマウント取られることほど不快なことはないからな

 申し訳ない。俺もここまで研究を進める間に色々なことを知ってしまって、もはやお前らのことを対等だとか目上だとか思えなくなってしまった。「空の魂を持った理性のない可哀想な偽物の人間」としか思えなくなってしまった。明石家さんまや松本人志や西川貴教やキヨやマツコデラックスのことを(あくまで政府が作った台本に動かされるコンテンツとして)「おもしれえ奴だな」と上から目線で思うことはあっても、敬意とかはもう抱けない。さすがにあり得ない。冗談キツい。お前らからすれば、「てめえの敬意なんざ欲しくねえわ」という話だろうが、そう思ってくれるならこちらもかえって都合がいい

 「お前それ本人の前でも言えんの?」と言う人がいるかもしれないが言えるわけがない。言えちゃったらヤバいだろむしろ。まあ私の場合、別に言うことができないわけではないが、基本的にそういうことを言わねばならないような者と私は関わらない。本人に言っても無駄だから晒しているわけで、「本人の前で言えることでなければインターネットで公言してはならない」というのは「そんなことを言ったら相手を怒らせることになると、分かってるだろ?」という脅しでしかなく、客観性がない。他人が怒ろうが何だろうが妨げられないのが自由権であって、「あなたの腹立たしい気持ちは分かるが、こちらはこちらの自由があるので」という話にしかならない。

 ベラスケスと直に関わる場合、私は「そういう諸々の問題があることを知ってなお関わりたい」と思っているので、本当のことでも相手を怒らせるような不快なことは言わないし、あちらも自分の悪いところは自覚しているので、嘘が使えるこの世界で、こちらが批判をしなければならないようなことはしてこない。結局、「優しくしたい相手には優しくするし、敵対する相手には厳しくする」という割と常識的なところに結論は落ち着くことになる。しかしこれは「彼女と直に関わる場合」のみのことであって、こちらのブログでは彼女がどう思おうが、書くべきことを書くことになる。彼女と直に関わる場合には、私はその場を楽しみたいので、あちらの態度次第で優しくすることができる。しかしそれ以外の生活で必ずしも彼女に優しくする必要はない。それほどの人徳を彼女が備えているわけではないので、こちらもこちらで、彼女の性質にふさわしい対応を取らせてもらうことになる。

 日本人は「経済的な利益を捨ててでも、気に食わない者を攻撃する」という性質を持っている。私がデビューすることで生じる経済効果は凄まじく、私が国内で活動をした方が国内経済が潤うはずであるのに、彼らは自分たちの劣等感から私を攻撃し、国内にいられないようにして、追い出してしまう。それは私にとって好都合なもので、より経済規模の大きいアメリカに移住することが合理的なのだが、他方、この私の選択は日本人にとっては得にならない。彼らにとって私は、感情的には受け入れがたいものがあるものの、経済的には国内にとどまって欲しいと思われる存在であり、それゆえできれば彼らは「私のことを散々に叩いて劣等感の慰めに利用しながら、経済的に利用したい」と考えているのである。もちろん私はそれに応じるわけにはいかない。

 彼らはどうせ私に逃げられることを知っているので、「てめえがいなくなってもこちらは困らねえよ。さっさと出ていけ」という形で私を手厳しく送り出してくれるだろう。今まで四次元で食わせてもらっていたドル箱を手放すショックに耐えるためには、彼らはそれくらいの憎たらしい態度を取らなければならないわけで、それはいかにも「振られる前に振る」というメンヘラらしい態度であると言える。アメリカ人も記号人である以上、もちろん私に対して攻撃的な態度を取ろうとするのだろうが、彼らは「高い経済効果を生み出す才能」に対して好意的であり、日本人ほど卑屈な構えを取ることはない。ゆえに、社会生活が困難なレベルの仕打ちに遭うのは日本で暮らしているときのみであって、海外では割と居心地の良い生活ができるだろう。

 日本人の特徴は「他者に対する過干渉」にある。他者が目立った活躍をすると、彼らは「その他者のことを称賛するか攻撃するか」という二択を自身に課すのであり、関心を持たないで適当に受け流すということをやらない。「僕は許せる」「僕は許せない」という主張を多数の人々が主張して、全体の雰囲気を形成することにやたらとこだわるのである。自分の主観を世間に認めてもらうことを生き甲斐とする彼らは、そのようなこだわりが最も強い民族なのである。これに対して、良くも悪くもアメリカ人は「自分さえ良ければ他人に興味はない」という考え方をするので、私のことを快く思わない者がいたとしても、適当に放っておいてもらえる。ある程度は私に敵対する世間の風潮が生まれたとしても、日本ほど苛烈な社会闘争には発展しない。

 まあ色々と書いたが、記号人の脳の仕組みはいずれも同じで、どの部位が未熟でどの部位が発達しているかに違いがあるだけなので、上のような違いは程度の問題であって、アメリカ人であっても似たようなことになるのは目に見えている。しかし、集団で群れる必要のない才能のある個人にとって、より住み心地の良いのはアメリカである。他人からの手助けや指示を要求せず、一人で仕事を進めていくことが得意な私にとって、この環境は都合がいい(というか、仕事というのは本来人からの手助けや指示を求めるものではなく、自分で勝手に探して自分で勝手に達成するものである)。日本の民族性には私のような規格外の才能を受け入れる器がないので、日本の中でカネを稼ぐためには今みたいな炎上商法によらざるを得ず、そんなやり方では一時的な高収入は得られても、長年継続的に利益を得ることはできない。そもそも日本はこのまま経済的に衰退していくばかりの泥舟であるから、ここで長く活動するのには無理がある。私が出ていってから数年もすれば、アメリカに見捨てられて(おそらく日本人ならば「自分たちの判断でアメリカとの関係を修正した」とても言うのだろうが)、核武装して鎖国状態になるに違いない。そうした諸々の意味で、少なくとも最低限のまともな社会生活を送れるアメリカで暮らす方が「長期的にはまだマシ」というわけだ。そして、これらの日本国の問題は、全て彼らの民族性(口先ばかりで誰も自分から動こうとしないくせに、嫉妬深く陰湿で、有能な者に憎しみを抱く。パターン思考で他人の模倣しかできず、自分たちでは何一つ前に進めないくせに、強国におもねって寄生し、利益を貪る。変化に対処する能力が低く、自立心もないので、強国からの利益を取り上げられると舵取りの方向性が分からなくなり、武装して世界を相手にカツアゲをし、さらなる寄生をするしかない)によるものなのである。

 多数決というのは「殴り合いよりは穏便に見える暴力」であって、それは見かけ上の問題であって暴力は暴力でしかない。民主主義の根底にあるのは突き詰めれば暴力でしかなく、そこには何らの法的正当性も客観性もない。客観的でないもの(つまり個人や集団の価値観)を他者に強要するのは押し付けであって、社会的ではない。

 ここで、ちょっとした思考実験をしよう。私の論と逆の見解をあえて書いてみて、それがどれくらい納得のいくものであるのかを考えるのである。

 すなわち、

「自閉症患者が優れた文学を残すのはよくあることだし、イケメンだったら目立つからバズりやすいのは当たり前。ましてや迷惑行為をしたらなおさらバズるのは当然であり、予言的中なんて偶然的な事象に過ぎない。その人物がたまたま物理学において世紀の大発見をしてしまうのも珍しいことではないし、素人なのに世界的な作家として認められるのも別に難しいことではない。それに、それだけの業績があれば大金持ちになるのは当たり前。名誉毀損についても自閉症患者だということで被害者が告訴を渋るのはよくあることだ。大学時代に大学側の不正に遭遇するのだってたまたまだろうし、文芸の新人賞に応募した作品が全部一次落ちなのもたまたま担当者の好みに合わなかったということでしかない。全ては偶然によるものであって、別に彼が言うような四次元の事情があるという証拠はどこにもない。四次元の事情など彼の妄想でしかない」

 という論を立ててみたら、それが正しい論であるかどうかが分かりそうなものだ。しかし見る人によっては「いや、別にこの見解が普通だと思うけど。自閉症患者のイケメンが正義の物理学的発見をしつつ世界的な作家としても認められ、予言も当てるなんてよくあるよくある。そんなこと言ったらビートたけしとか明石家さんまとか島田紳介だってADHDの気があるっぽいけどすごいことしてるじゃん。歴史的には野口英世だって福沢諭吉だってアインシュタインだってファインマンだっている。それなのにまるで『自分だけが特別で、圧倒的に優れている』みたいに考えて周りを見下すのは器が小さいというか、自分の身の丈を考えられていない井の中の蛙としか言いようがない」としか思われないのだろうか?? まあ「正しいことは分からないのだし、上のような見解があってもいい。どちらも同じくらい説得的に感じられる」と言い張ればそう言えなくもないが、そう考える者たちが本当に「分からない」のか、それとも「分かるけどあえて分かろうとしていないだけ」なのかくらいは分かるほどには事態は明白だと思うが。

 そもそも、自分の意見に自信があるなら、つまり本当に私の論を「妄想」の一言で切り捨ててしまえると思っているなら、安部一成医師のように「正義は一つではない。何が正しいかは個々人が決めるべきであり、あなたにとって俺たちの正義が納得できなくても、俺たちは俺たちの自由であって、俺たちみたいな見解があってもいい。どちらも成り立ち得るはずだ(多様性を肯定する主張)」などとは言わない。それでは「論理的に議論をすれば明らかに自分たちに不利な案件だが、それでも自分たちの論を否定されたくないので、せめて『お前の意見を否定するつもりもないが、俺たちの意見も否定したくない』とごねている」ようにしか感じられない。そりゃ「本当だったら自分たちが負けのはずのものを、『お前の意見を否定せずにいてやるから、俺たちの意見も否定するな』などと言い張って言い逃れを図る」ためならば、「多様な意見を否定しないことが大事だ」と主張することが得になるだろうよ。

 「どちらも並び立ち得る」という主張は、「相手の立証を真偽不明に持ち込む」ためのものであろう。つまり彼らは、私が「本証」と呼べるに足る立証責任を果たしてしまっていることを暗に認めた上で、それを覆して完全に否定することはできないから、せめて無理やりのこじつけで「本証と並び立ち得る別の見解」をでっち上げ、事態を真偽不明に持ち込もうとしているのである。「妄想」の一言で終わらせられるはずの意見に対して、あまりにも対応が逃げ腰ではないか? 「お前の意見も認めてやるから、俺たちのことも否定するな」という多様性の主張は、この場合、「こちらの見解を否定できないけれども負けを認めたくない」という「逃げの一手」でしかない(それどころか「お前の意見を認めてやるから、俺たちを否定しないでくれ。それで手打ちにしようじゃないか。な、な」というような、ほとんど命乞いにも等しい態度である)。

 偉いことに気づいちまった。

 つまり安部医師の「あなたの見解が正しかろうが正しくなかろうが、他人が何を信じるかは他人の自由であって、自分の考えにこだわらず、他者が自分と異なる考え方をすることを受け入れる(=スルーする)ことがコミュニケーションである」という言葉は、単に四次元の台本レベルで「あなたの見解は妄想ではない」と私に伝えるだけのものではなく、この三次元世界のレベルでも「あなたの見解を否定するのは難しい」という意図をほのめかすものだったというわけである(どうせ彼本人はこれを認めないだろうし、もう二度と関わることもないだろうが)。

 四次元法において「不正」というのは、「自己の能力だけでは得られないはずの結果を、他者への被害によって実現すること」である。記号人は人間でないのに人間だと嘘をついて私から世界を盗んでいるから「不正」である。私は自分の実力や成果に見合わない利益ではなく、これらに見合った成果を欲して炎上商法を行っているに過ぎないから、不正ではない。手段としても、人権のない動物を人権のある人間が合理的な理由から虐めたところで、それは自己の能力に見合った結果であるから不正ではない。

 三次元世界においても、私は「法というのは行為の自由の予測可能性を担保する指標に過ぎず、実際に摘発されない限りは何をしてもよい。司法権の発動がなされない行為について、個人や組織が何をどう批判したところで、それは言葉の理屈によって作り上げられた個々人の価値観に過ぎず、何ら考慮に値しない」というルールの中で活動をしている。「お前には責任能力がないから検挙されないだけだ」と誰かが言うとしても、仮にそれが正しいとした場合、私はむしろ何ら罪を犯していないことになるのだから問題はないことになる。「責任能力がない者の行為は罪にならない」。つまり私の活動は日本法の許しを得ているということになるわけで、私はルールの中で活動をしていることになる(ちなみに教科書的な説明に従えば、責任能力というのは事理弁識能力と行動制御能力からなるのであり、規範を認識した上で合理的な考慮によって犯行を遂げている場合、責任能力が否定されることはない。実務的にもそんなに簡単に責任能力が否定されることはないはずであり、少なくとも言語的な思考がまともにできている者について、責任能力が否定されることはないし、言語能力が怪しい者についても、意識的に標的を絞っていたり、犯行を隠蔽しようとしていたりするなど、行動が合理的に行われていると認められる場合には、責任能力が認められる。だから少なくとも私は「責任能力がないから検挙されない」わけではないようである)。

 私は早稲田大学の試験の不正など、「三次元世界における不正行為」を告発している。しかし彼らが罰せられることはない。したがって、彼らもまた「実際に摘発されない限りは罪にならない」というルールの中で活動しているのであり(実際には「活動しているふり」だが)、三次元世界の中ではそれは不正にはならない。あくまで私がこれを「不正だ」と述べているのは、四次元法に則り、「実力に見合わない肩書きを得ている」という主張をしているのと同義であって、別に私が三次元世界の司法権に成り代わってこれを行使しようとしているわけではない。

 だから私のことをズルいとか不正だとか言ったところで、それは負け犬の嫉妬でしかないということになる。私はあくまで「ルールに則った活動」しかしていない。もちろん私はこの国の法の効力を否定しているから、ルールに則っていようがいまいが四次元法に違反せずに公正な結果を得られればどうでもいいのだが、彼らはそうではないのだろう? だったら、「民主的な手続きによって制定された法制度によって守られ、検挙されずにいる私を批判するのはおかしい」ということになる。自分たちの作り上げた制度の効力を肯定しておきながら、その制度によって守られている私を批判するというならば、それはすなわち自分たちで決めたルールに文句を言っているのと同じことであり、そんなことを私に言われても困る。あんたらが決めたルールなんだから俺にゴタゴタ文句言ってねえであんたらで何とかしろよ

 これでは私の方が、むしろ日本の法制度を肯定していることになってしまう。「法を守れ」とか言って私を批判する者の方が、かえって日本の法制度を否定しているのである(何ということだ)

 ここで、ベラスケスの性質についてまとめておく。「まとめておく」というより、書くべきことをなるだけ余すとこなく網羅的にざっくばらんに書いていく。根拠を示さず常識外れの事実だけを書いていくと、統合失調症患者の書いたような文章が出来上がるわけで、以下の文章はまさにその特徴を持っているわけだが、ここで逐一根拠を示さなくても全体を踏まえれば私が正しいと分かるので(信じない奴は根拠を示してもどうせ信じない)、とりあえず書くだけ書いておくことにする。

「彼女は自分の目的のためにどこまでも勤勉に働く。四次元で世の中のどんな富豪にも引けを取らない不正な利益を得ている限り(つまり自分よりも恵まれている者がこの世にいない限り)、態度も控えめで、お行儀よく振る舞うことができる。しかし我慢をした分だけ不満が大きくなり、四次元で悪辣な態度を取らないとやっていられない。ゆえに彼女は毎日のように私を虐待し、殺し、言葉で罵っている。彼女の勤勉さは、犯罪の隠蔽とステータスと私からの好意を得るために行われるごまかしでしかない。自分の性欲を満たすために整形をして私を誘惑することも厭わない。元の自分がおぞましい肉体をしていることを彼女自身が自覚しているので、その醜い肉体を私に愛させることは、不幸な自分の人生に対する復讐であり、整形した姿に興奮する私を皮肉な思いで冷笑している。性欲が満たされずに人殺しをするような、おぞましい肉体の女が整形をして美女になって私を誘惑してくる。応じてやらないと殺される。毎日毎日、日々のストレスをぶつけられる。『やめてくれ』と言っても、『私をこんな目に合わせてこき使っているお前が悪い』と言われるだけで、話にならない。自分が辛いからと言って、旦那の私にまで同じ苦しみを味わせようとしてくる。共感してやらないと殺される。私の顔が美しくならないと自分が助からないくせに、私の顔が美しいことに嫉妬をする。矯正が失敗したり停滞したりすると、『ざまあみろ笑。早く直せよバーカ笑』と言われる。私が活躍するのは嫌だが、いつまでも私が成功できずに、自分が苦しい思いをするのも嫌なので、そうなるのだそうだ。それならそれで私を応援してくれればいいと思うのだが、彼女には劣等感と嫉妬があるので、皮肉な形でしか応援できない。『てめえが恵まれた容姿と生活を得るのは気にくわねえが、こっちのために必要だから早くやれ』と罵られる。もちろん四次元で何度も何度も私を殺しながらである。才能を発揮しても殺される。『私は我慢しているのに、お前だけ活躍するな』と理不尽な怒られ方をする。私が活躍できるのは人権があるからで、彼女ができないのは人権がないからであるのに、私はただ活躍をしただけで報復をされる。それどころか、今は人権のない彼女の方が、セリーヌディオンなどの役で活躍をしているのに、それでもこちらの活躍に納得できない。自分に都合の悪いことがあるたびに、私から施しを受けていることを忘れて、『結局お前は、自分のためにしか生きていないんだな』と理不尽な文句を言われる。つまり彼女は、『私のためにならないことをするな。それはお前のわがままであって、私は気に入らない。自分のことばかり考えるな。私に得になることだけをしろ。そうでないと私は劣等感を感じて耐えられない』と感じるらしい。自分の得になることだけを考えていてもいいが、彼女はそれで他人を犠牲にするのである。だから彼女にしてみれば、『お前の才能と魅力を壊した上で活躍をさせず、私のストレスのはけ口にするために虐待と強姦をしまくり、口頭でもあらゆる罵詈雑言を浴びせかける。その上でお前からは優しい接待を受け、私が活躍できるようにお金を使って欲しい。私はいかにお前の邪魔をして、いかに私自身の活躍のためにカネを使わせるかだけを考えるのであって、その努力を惜しまない。どうせ私はお前よりも立場的に下なのだから、開き直ってどこまでもわがままな態度に出ないと平等じゃない。私が下で、お前が上だなんてあり得ない。下だと感じさせられた分は虐待や恐喝でなるだけ埋め合わせる。さっさと私を助けろ。私が不幸なのはお前が悪いのだから、お前に仕返しして当然だ。お前を私の惨めさを克服するための養分として私は利用する。我慢には限界があるのであって、理性がどうとか言っている場合じゃない』ということになる。繰り返すように、彼女は私の顔面を壊して歌も下手にしたまま飼殺しにしつつ、自分はセリーヌディオンとして活躍していたくせに、それでも納得しない。自分が四次元では撮り直ししまくりの失敗だらけの歌しか歌わせてもらえなかったから。でもそれは彼女の能力のせいであり、私のせいではない。また、彼女は馬場大祐に飯を食わされ、強姦されているわけだが、今では性処理と贅沢のために、騙し騙しではあるが結構彼とよろしくやっている(それでも逃げられない立場にある以上、法的には強姦)。馬場大祐がコントロールを得ている『数億年の世界』の間、私に地獄の虐待を加えながら、あの四人は(もちろん馬場の記憶活用能力が落ちてきたとは言え、)四次元でセックスと贅沢三昧。それが毎秒数万から数千万回起こる。それでも彼らは耐えがたい拷問の苦痛と、労働に疲弊し、『疲れた。飽きた』などと不満を言う。彼女は特に、他の三人に比べて立場が違うものだから、『私は孤独だ』と文句を言う。私を虐待しながら贅沢をしているその裏で、である。どれだけ贅沢をしたところで、それを圧倒的に上回る拷問を与えられていたらそりゃ辛いだろうけれども、少なくとも虐待されながらカネを盗まれている私に不満を語ることではない。にもかかわらず、彼女は自分を四次元拷問している私に対して恨みを抱いており、他の三人と同様、『あいつになら何をしても構わない』と考えている。彼女の拷問は彼女が進化をする上で必要なのであり、自分で選んだことなのに、それを私のせいにして憂さ晴らしをするのである。『そんなことを言ったら、お前を虐待するのも進化に必要だ』と彼女は言うのだろうが、自分が得をするために自分を犠牲にするなら分かるが、他人を犠牲にするのはおかしい。『お前だって私を拷問しているじゃないか』と彼女は言うのだろうが、こちらには処分権があるからそうしているだけであって、彼女みたいに私に対する処分権がないのにそういうことをしているわけではないし、少なくとも私は彼女に関する限り、彼女に必要のないことをしていない。そういう諸々のことを彼女は分かった上で、どうしようもなく私を虐待することが常態化している。私はそのことを知っていたが、スルーして彼女に優しくしていた。『四次元での出来事が見えないから』というのもあるが、想像はできても、別に不快には思わない。私を毎秒数万回の頻度で数億年虐待し続けながら、ちゃっかり自分は馬場に取り入って旨い飯を食わせてもらいつつ(彼女は私に食わせてもらっていると感じると劣等感を覚えるので、馬場に取り入って私から盗んだカネを馬場と山分けして私にマウントを取っている。私に対して食わせてもらっている感謝とか目上への配慮とかをしたくないので、『自分はあくまで実力でカネを稼いでいるのであって、あいつから施しを与えられているわけではない』と思いたいのだそうだ)、その馬場の介護が大変だとか不細工に抱かれて気持ちが悪いとか文句を言い、それでも彼が整形をしているものだからそれなりに興奮して楽しいセックスをし、しかしそれでは飽き足らず、やはり『気を遣わなくても楽にいいセックスができる』という理由で優しい私を欲し、私の顔面の崩れたことや整形して異常な長さのペニスを手にしている馬場に比べてペニスの発育が不十分であることを罵りながら(それは彼女にとっては本当はちょうどいいサイズなのだが、彼女は馬場におもねりつつ私にマウントを取るために、戦略的にそういう嘘を言うのである)、しかしセックスに応じてもらえないと腹を立てて私に滅茶苦茶な虐待を加え、嬲り殺しにする。そして私の前では私のことを『可愛い猫ちゃん♡』というほのめかしをして可愛がっている。もちろんこれは、自分の劣等感を埋め合わせるための皮肉である。彼女は『自分による地獄の虐待を何も意識せず、仕返ししてこない私(林洋佑)』のことを『小動物』か何かだと馬鹿にしている。客観的に自分が下であることを受け入れられず、『私に見下されていることへの憎しみ』を抑えられないためである。彼女の前では私の優しさは単なる養分でしかない。『私はこんなに憎たらしい態度をとっているのに、あなたは素直で優しくて偉いね』などと彼女は皮肉を吐きながら、私を自分の快楽のために利用している。自分が馬場大祐の快楽の道具として利用されていることの仕返しである。強姦したのは馬場なのに、なぜ私が仕返しをされねばならないのか? 私には分からないし客観的にもおかしいが、彼女からすれば『馬場大祐には勝てないし、彼が盗んだカネで自分も贅沢をさせてもらっているだけに彼には頭が上がらないので、彼が悪いのではなく彼の強姦を規制しなかった政府が悪い』ということで、私を虐待するしかない(意味分かんねえ。なんかもう都合のいいことしか言ってねえなこいつ)。客観的には私は機会提供をしただけで、馬場は自らの欲望で動いているのであって私が咎められるいわれはないし、彼女は自分が進化をする上で強くなるためにあえてそういう被害を受けることを受け入れたのであって私に八つ当たりすることではないのだが、弱い私が悪いのだそうだ。もちろんこれも、私は彼女のストレスのはけ口として虐待され得る立場に身を置いているだけで、それは機会提供に過ぎず、悪いのは彼女である」。

 彼女の正体はこういう生き物である。恵まれない立場に恨みを抱き、私に嫉妬をし、報復をすることが「当たり前」となっている。話は通用しない。「だって私はこんなに辛い思いをしているのだから、恵まれたあなたに憎しみを抱くのは当たり前。それが嫉妬というものだ。でもセックスはしたい。贅沢もしたい。早く仕事しろ。イケメンになれ。痩せて筋肉をつけろ。ペニスを鍛えろ。しかし活躍はするな。歌は歌うな。絵も描くな。小説も書くな。ゲームもするな。自分のためにばかりカネを使うな」という話らしい。私は意図的にこういう事情をスルーしていたが、最近彼女のストレスが甚だしいらしく、あえてそういう事情を私にほのめかすようになってきた。その上で彼女から、「知らぬが仏」と諦めたように言われた。彼女は、自分の醜さを知らずに彼女に優しくする私を内心で「ひ弱なナメクジ」扱いして馬鹿にしていたのであり、その自分の醜さを治すこともできず開き直るしかないので、何も知らない私を子供扱いして「知らぬが仏」と皮肉を吐いたのである。ばれなければいい。裏でどんな醜いことをしても、彼の前でだけ綺麗に振る舞っていればそれでいい。「こちらははじめから不利な境遇に生まれたのであって、ズルでもしなければやっていられない。はじめから恵まれた立場で生まれられた彼のことが憎くて仕方がない。彼を蹴落として自分が得をするようにズルをするのは当たり前。そうでなければ、不公平ではないか。どうせ誰も私の苦しみなんて分かってくれない。私は孤独であって、誰も分かってくれないのだから一人で獲物を勝ち取るしかない」。これが彼女である。彼女は頻繁に、「私は自分でカネを稼ぎたい。男に頼りたくない。自立したい」と述べているが、実際には馬場が私から盗んだカネに頼って生きているだけであり、「二重の意味でヒモ」でしかない。この状況が終わって私がデビューしてからも、彼女は私の生産するこの世界を借りるだけで、自立はしていない。まあこうしたことを妄想だと否定するにしても、要するに彼女の「自立したい」は「(男に頼ってカネを巻き上げるような生き方しかしていないくせに、)男に人生を決められたくない。自分で生き方を決めたい」という「自分勝手=わがまま」であって、それは現実にそぐわない「虚しい空威張り」でしかない。彼女は自分ではたとえば指原莉乃のような立場で、「自分を出さずに控えめに振る舞い、無難なコメントで場の雰囲気を安定化させる手腕を発揮している」と考えているのだろうが、それはあくまで男の後ろ盾で得られた地位を安定化させるために、自分を出さずに当たり障りのない言葉を述べていたというだけであり、それはつまり「誰も彼女に大それたことを求めていない。毒にも薬にもならないことを無難にやってくれればそれでいい」という低い期待値の役割が設定されているだけでしかなく、本質的には彼女は「男に依存して飼われている」という立場に身を置いているだけでしかない。彼女がこのような見立てに腹を立てる原因は、「男のカネを自分の自由に使えない」ことにある。自分が男と対等な意思決定の資格を持っていなければ、彼女は満足をしない。これが彼女の述べる「私は自立したい」という言葉の本質である。こういう女性が、私と結婚することになっているのだそうだ。

 私にしてみれば、裏でどれだけ憎たらしいことをされても、別に困りはしない。こちらの世界で私の前でだけ従順な可愛い女になってくれればそれでいい。彼女は地獄の肥溜の中から抜け出すために、命懸けで仕事を取りにくるのだから、私に可愛げを見せるに決まっている。それに、彼女がいくら私の活躍や才能を憎んでいても、今後は今みたいにそれを抑制することはできない。彼女が私の貸す世界を自由に使いたいと言っても、実際には彼女にどのような仕事をさせるかは私が決めるのであり、彼女は私の権利行使に必要な限りで私と関われるに過ぎない。それが記号人の立場であり、「結婚したら財布は一緒」ということはない。今は馬場大祐が私から盗んだカネを彼女の希望に沿って使ってくれるから、彼女はまだ恵まれていると言えるのである。彼女にしてみれば、この醜い闘争を終わらせて馬場大祐という厄介者の介護を終わらせたいと感じているのかもしれないが、その一方で、「彼がいなくなったら私はもう自由にお金を使うことができなくなる」という懸念も拭い難いわけで、それを恐れて私に縋るようにアピールを繰り返していたということらしい。つまり彼女は、馬場くんがいなくなった後で私に乗り換え、今度は私の手綱を握って私の人生を食おうとしていたわけである。しかし私はそういう事情を知って、「自分の人権行使を優先する」という決定をすでに下しているのであり、台本的にも、四次元政府は私の人権保障を第一に考えているので、私は「彼女の色香に当てられて、人生を彼女に売り渡す」という選択を行い得ない。私が彼女のため犠牲を負うことなく、人生満たされた状態で彼女とのセックスを楽しんでいると、彼女は「私は性の道具として利用されているだけだ」と感じるのだろうが、人権とはそういうものである(「自分のために犠牲を提供してくれないと嫌だ。彼の人生が充実しているのは許せない」とは何事か)。また、どうせ彼女の犯罪は彼女自身が拷問を受けることによって償われるのであり、帳尻は合うようになっている。詰まるところ彼女は強いからではなく弱いから意地になって私に鬼畜の虐待を加えているのであり、態度は悪辣だが被害自体は大したことない。私が彼女に加えている虐待の方がその何億の何億乗倍も大きい。私のそれは意地ではなく合理性、カネのためのものであって、私が弱いことを意味しない。

 彼女には憎しみもあるが愛情もある。嫉妬もあるが憧れもある。それらはいずれも記号的な思考による「他者依存性」の二側面であり、そのどちらの性質が発現するかによって彼女と私の関係は近づいたり離れたりを繰り返すことになる。言い方は悪いが、「グロテスクなツンデレ」と言ったところか。私の安全と自由は守られている以上、彼女の性質は後者に特化して発現する。だから問題ない。もちろん彼女は「自分の良いところだけを見せる」という点で私に嘘をついていることになる。「グロテスクな感情を抜きにすれば、彼女は良い子である」という仮定には何の意味もない。そんな仮定をしたところで、実際にはグロテスクな感情を彼女は持っているのだから。ただ、それもこれも全て把握した上で、私は「問題がない」と言っているのである。

 あちらが醜い性質を避け難く持っているというなら、こちらはそれ相応に扱うだけの話であって、別に彼女が変わる必要はない。彼女の醜さが彼女自身にとって「どうしようもない」というなら、それに対するこちらの対応も「どうしようもない」ということになるわけで、歪で表面的な信頼関係を結んだまま適当に暮らしていればいいということになる。具体的には、私は自分の才能の発揮を優先し、彼女との関係を後回しにする。また、彼女が嫉妬をしようが何だろうが、他のもっと若い女と仲良くする。つまりなるだけ彼女との性的関係に頼らないで生きるようにするのである。私だって、才能発揮を阻害されたくはないし、できれば若くて素直で汚れのない女を抱きたいのであり、相手を出し抜いて自分が勝つことばかりにこだわり、相手の需要を満たすための努力を怠ってきた彼女が敬遠されるのは当たり前である。男に頼りまくって生きているくせに、「私は孤独だ」とか言って悲劇のヒロイン気取ってこちらの気を引こうとしているのも微妙な感じがする。申し訳ないが、彼女の妻としての地位は、いずれ有名無実と化すことになろう。これが、「実力のないまま、見かけの成功だけを追い求めて醜く立ち回った記号人の成れの果て」である。

 ただ、「セックスの相性は良かった」というのは事実なので、その点で彼女は若い女に対抗し得る実力を持っていると言える。一度他の若い女を経由した上で、私はやはり彼女とのメンヘラじみた熱いセックスを求めることがあるだろう。だから彼女は、完全に私に見捨てられることもない。要はバランスの問題で、私の欲望に合致し、私の人生を食わない限りにおいて、彼女は私と関わることができるのである。あちらは私とのセックスを拒む理由がないので(拒んだら拒んだで別に無理やり迫ったりはしないが)、実質、私は「抱きたい時に抱いて、仕事したい時に仕事をする」という生活を送ることができる。「本当の愛情」みたいな信頼関係がなくても、人生は割と楽しい。今もうすでに割と楽しいのだから、カネと女と仕事が充実し始めたら、楽しいどころでは済まない。まあ「富豪や王様の価値観はおかしい」とでも思ってくれればいい。

 このいわれようは、彼女にしてみればムカつくだろうが、彼女はムカついた時が一番いい仕事をするから大丈夫だろう(なぜなら彼女は、醜い感情が生まれた時、「そういう醜い自分」を隠そうとして頑張るからである)。

 「思ったとしても言っちゃダメ」と彼女は思うのだろう、というかほのめかしてきたのだが、それは内容が自分にとって不都合だから(あるいは私の言動の異常性を指摘することで善人を演じることにメリットがあるから)であって、それは彼女のエゴの開陳でしかない。自分のエゴで間違っていないものに対して非難をしてはいけない。それこそ「思ってもいいが他人に言ってはいけない」ことだろう。

 私には「こういうことを言っても問題のない立場に私は身を置いている」という自負があるので、私はこういうことを平気で言える。これはこれで損得勘定を踏まえた一つの政治的行動であり、「そういうのは言わない方がいい」というのは余計なお世話というか、それこそ先に述べた通り、私に説教する名目で自分のエゴを通そうとする政治的な発言でしかない。「あなたは人格が歪んでいる」と言う者がいたところで、客観的に歪んでいるのはあちらであって、私は別に困っていない。「困っていない」というのは、「開き直っている」ということではない。「開き直り」というのは、内心において自分を責める気持ちから逃れようとする心理作用であって、そこには自分の醜さへの自覚と卑屈さがある。しかし私にはこれがない。合理的かつ公正な判断から、私は自分の人格が汚れていないことを知っているので、これに苛まれることがないのである(記号人からしたら、私が一番やべえ奴みたいに見えるのだろうが、彼らだって性格の悪い者が嫌われてぞんざいな扱いをされても何も思わないだろうし、犯罪者が処罰されても何も思わないだろうし、マグロや豚をミンチにしても何も思わないだろう)。

 彼女は「妻のためにカネを使ってこそ旦那だろうが」などと腹を立て、私を罵ることだろう。しかし私からしたら、ただカネを払って妻を自由に遊ばせるならまだ受け入れられそうだが、それを私が時間を使って見ててやらないとイベントが成立しない(この世界は私が見ていないところで存在できない)となると、自分の人生を食われないためにも、どうしても自分の時間を確保する必要が出てくる。彼女からしたら、「私はこれまで馬場に強姦されながら戦争犯罪で人を虐殺し、贅沢な暮らしを維持するために身を粉にして頑張ってきた。その報いとして今、地獄の拷問を受けている。この罰は理不尽なもので、こういう環境を与えた政府が悪い。私の苦しみに対する責任を取って、カネをよこせ」と考えているので、どんな理屈でもとにかく私を責めてカネを引き出そうとしてくる。もちろん表ではそんなことは言わない。世間ウケするような無難な発言で自分を正当化するのみである。それはつまりただ喋りがまともなだけで中身が何もないのだが、「自分をよく見せるために、お行儀よく振る舞う術を私は知っている」などという小利口な考えから、彼女は自分を有能な者だと思い込み、裏での醜い所業、本当の自分の人格の醜さに対する開き直りを見せているのである。「だってこれだけ醜いことをしないと地獄の中では生きられないのだから」と彼女は言うだろうが、それは彼女の都合であって「だから私にカネをよこせ」と人に押し付けていいものではない。

 これに対して彼女は「そんな風にお前が仕事を優先するのは、まだ仕事が全然進んでいなくて文明の発展が遅れていて、やることが多くて時間が取れないからだろうが。中途半端な小金持ちは器が小さい。お前が優しくなれないのは余裕がないからでしかない。さっさと働けよ」(かねこあや、じゅえりー)と言い返すのだろうが(この発言は私に対するだけのものではなく、私から大金を盗んでいる馬場大祐を持ち上げつつ、優しい態度を引き出すための論理的なテクニックでもある)、勘弁してくれ。こういう風に「私にとって得にならないものは悪であり、ただちに修正されるべきである」という発想をして、他者に命令をしてくるような生き物と関わると疲れる。私がこう言えば、彼女は手のひらを返してこちらにお世辞を言ったりもするのだろうが、本心は「私が活躍していないのに自分一人だけ活躍しやがって」としか考えていないことも知っているのでくだらない。自立自立と言いながら、男に縋るために態度をころころ変えてばかりで薄っぺらい。それで男が優しい態度を取り、カネを与えたところで、建前上は恭しく男に頭を下げるのだろうが、それは「男を手のひらの上で転がす私の手腕」の賜物であり、男の好意に感謝をすることもなく、むしろ自分にカネがないからと言って男にへつらわされたことに恨みを抱くばかりである。だからカネが与えられないと、彼女はどこまでも厚かましい態度に出る。「妻にカネを使わせてこそ旦那だろうが」というのは、「お前がカネをよこさないなら、もう気を遣ってやらねえよ」という意識の表れである(余裕がないのはどちらだ)。

 あのさあ、生活が厳しいのは分かるけど、「旦那がカネを使ってくれない」からと言って、妻が怒っちゃうのはどうかと思うよ。そういうのって旦那が進んで与えてこそであって、妻が旦那に戦争仕掛けて無理やりカネを強奪しようとしたら、それはただのカツアゲじゃん(彼女には人権が保障されているわけでもないので、旦那が彼女にカネを渡す義務はない)。あなたの行動を見ていると、「家庭内の序列で上に立たないと、夫のカネを自由に使うことができないので嫌だ」という発想から、合理的な戦略を練って駆け引きをしているだけのように思われる。つまり彼女は、「自分は彼の妻である」と言いながら私の人生を食い物にしようとしているだけなのである。建前と実態が乖離している。こんな妻に「夫婦とはこうあるべき」などと説教されたくはない。夫婦というのは単なる肩書きであって、その中身がどうなるかは個々の資質や判断に委ねられており、一般的に結論の出る話ではないし、「夫婦だからこうせねばならない」という法はない。彼女は勝つために都合のいい理屈を述べているだけで、それは単なる闘争でしかないのだから、こういう時には話をすり替えて「お前はどうなんだ」と言い返せば終わる。これからも俺のことを色々と非難したり持ち上げたりしてもらってもいいけど、結局それは全て「旦那からカネを引き出すための戦略」でしかなく、「自分の都合で発せられた嘘や屁理屈」でしかなく内容がなく、薄っぺらいものにしか感じない。それで万策尽きて困ったら暴れるか性的な誘惑で男を釣ろうとするばかりで、やはり中身がない。旦那の仕事に興味がなく、むしろ嫉妬心から憎しみを抱き、自分が活躍するために口出しすることしかしない妻など、実質的にはただの部外者でしかない。私は私の考えで仕事をするのみであり、これを壊して自分のものにしようとするような女の提案に興味はない。性欲が湧いて、会いたくなったときだけ会いに行く。それが気に入らないなら会ってくれなくとも構わない。それが「両者の合意」というものだ。

 こういう関係がこちらの世界において歪であることは分かっている。しかしそれは私の問題ではない。本当に優れた妻だったら、何も言わなくても男はカネを使うだろうよ。相手を責めて喧嘩しなきゃカネを引き出せないという時点で、それはその程度の女だということだ。それに腹を立ててギャーギャー騒いだところで「男に寄生する乞食根性」が暴かれて、女として恥ずかしいだけ。

 「お互いが会いたいと思った時に会う」。これが四次元社会の鉄則、つまり意思主義である。相手が旦那だろうと何だろうと、強要は許されない。「旦那だったらこうしろ」という物言いは、自分の立場を利用して相手に強要をする野蛮な言動でしかない。「旦那は妻を心から愛し、施しを与えたくなるものだ」というように、義務ではなく好意で行われるはずのものを相手に強要することを恥と思いなさい。それはオモチャを買ってもらえなくて腹を立てる子供のわがままでしかない。理屈で相手を責めたって無駄。繰り返すように、理屈というのは「嫌われてもいい相手に勝つためのもの」であり、「相手に好意を抱かせるためのもの」ではない。そう言えば、私が小学校低学年の頃、林佳代は林一郎に対して「返事をする際の言い方が気に入らない。もっと優しく『これはこうだよ』みたいに言え」と腹を立て、しばしば口論になっていた(この旦那にしてこの妻と言ったところか。まあ私も同じような目で見られるのかもしれないが、喋りとエロしかない彼女は私と比較されるレベルにはない。言葉では何とでも言えるだろうがな)。あの頃の私はしばしば「『言い方が気に入らない』って、旦那のことを何だと思っているのか。あんたが想定したセリフを喋らせるだけの機械にするつもりかよ」と何度も指摘していた。あの頃から私は「法的な義務にないことを他人に強要するのは恥ずかしい」という意識が身についていて、自分は普段からそういうことをしていなかったので、彼女の発言が異常に思われてしょうがなかったのである。優しくされたいなら、自分を磨いて、優しくされるような態度を取ればいいんじゃないのかなあ(私は「俺に優しくしろ」などとは言わない。嫌われても「そりゃまあ嫌われるよなあ」としか思わない。法的な義務にないことで他人に腹を立てない)。

 彼女は色々と苦労をし、苦痛も悲しみも背負っているのだろうが、客観的には「犯罪組織のトップを尻に敷いて贅沢をし、その体制が終わった後は立場を変えて、今度は四次元政府のトップを尻に敷いて贅沢をするために、合理的に闘争を仕掛けている」に過ぎない。これは私の味方ではなくむしろ敵であり、仮にこれを味方だと定義するにしても、こんな奴に味方されてもこちらは困るばかりであって、ぶっちゃけ邪魔でしかない。もちろん彼女は、建前だけでなく私情から、こちらの世界の私を公に非難するだろうが、そんなものは建前を逆手に取って中身のない揚げ足取りをする負け犬の遠吠えであり、学術的な価値のない言論であって客観的ではない。そもそも建前を前提にするなら、「腹が立つなら裁判でも起こせばいいのに、どうしてこいつはそういうことをしないんだろうか?」という風にしか思われない。

 彼女は「裏表のある人を私はおかしいとは思わない(自分がそうだから)。そういう人は『人に気を遣える』という点で優れているのであって、裏表なく何でもべらべら喋って場の雰囲気を壊す方がおかしい」と語ったこともあるが、「裏で犯罪を繰り返して、表で善人を演じる」のは「自分のため」であって他人のためにはなっていない。「裏表なく何でもべらべら喋る人」という不当な一般化で私を貶したところで、私は「言ってはいけないこと」を弁えて発言しているのであって、それで場の雰囲気が壊れるならそれは言われた側が自分のエゴから腹を立てているだけでしかない。たとえば私は、彼女に対して人格を否定する言葉を述べているが、これは客観的な分析であり犯罪の公表として正当なので、「言ってはいけないこと」に含まれない。それを「言ってはいけないこと」に含めるのは彼女の個人的な都合でしかなく、そんなことで腹を立てるのはわがままでしかない。罪を暴かれ、自分に都合のいい不正な環境に安住できなくなるからと言って、告発した側を悪に見立てて攻撃するのは自分勝手なわがままでしかない。学術的な積み上げにならないような客観性のない言葉をどれだけ吐いたところで、それはただ「自分が気に食わないからと言って相手を攻撃する」という自分の醜さの証明にしかならず、そこに中身はない。

 言葉で相手を責めたところで、施しを得られるわけではない。自分に何の魅力も才能もないのに、不平を垂れて旦那にカネを要求してはいけない。そんなことでは関わる気も失せるというものだ。

 彼女は私がこうして追い詰めると、「てめえは黙って顔の矯正でもしていろ。それでデビューしてカネを稼げるようになれ。受験生の子供のくせにごちゃごちゃ言うな」などと、私を子供扱いして貶め、「(自分が思考の稚拙さを暴かれて子供扱いされた腹いせに)旦那を子供扱いして説教をしすることで、その事業活動を促してやる、厳しいけれども母親のように優しい自分」を演じようとする。しかしそれは幼稚な空威張りであって、「私がデビューして金持ちになったところで、あなたには何の得もない。あなたは私の稼いだカネを自分の私利私欲に利用しようとするという点で、私の事業の邪魔者であり、余計な口出しをしないでもらいたい」としか言えない。彼女は私を否定することで自分が上に立つために言葉を発しているのみであり、それは単なる口喧嘩の言葉であってそこには学術的な背景がなく、そうして私を嫌がらせて揺さぶりを仕掛け、私が嫌な人格を示すように煽りつつ、その憂さ晴らしによって人間に進化したいのにできない自分の不幸を慰めつつ、事業に協力したふりをしながら私のやる気を削がせる狙いがあるに過ぎない(「さっさと仕事しろ」という彼女の発言は、今の私にとっては「てめえの成功は全部私のためのものでしかない」という風に聞こえるわけで、当然にやる気を削がれる要素があると言える。まあこちらは自分の成果が自分のものになることは知っているし、どれだけ心理戦を仕掛けられたところで、結局私の私生活は私のものであり、あちらはこれに従属するしかない。寄生先だった馬場大祐が落ちぶれて凋落し、人生の不遇を呪って余裕がなくなっているのは分かるが、何をどう説明されても自分の非を認められず、旦那のカネを食い潰すことしか考えない話の分からないその浅ましい姿を見ると、「こいつもう末期だな」としか思われず、こちらにしてみれば侮蔑的な感情しか抱けない。今までヤクザに縋っておいしい思いをしてきたのに、犯罪検挙されてカネ盗めなくなったからと言って、過去の全てを無責任に否定して「あれは実は嫌だった。私は苦労ばかりさせられてきた」などと被害者ヅラした挙句、今度は政府に縋って「カネを出せ! それが旦那としての態度か! 妻を愛するのが旦那ではないのか!」と腹を立てる彼女。「法的な理由がなければ絶対にこいつとは結婚していないな」としか私は思わない)。

 この手続きは彼女のこういう醜さが暴けるようになっているのであって、これはどういうことかと言うと、「この女にまともに関わろうとするな。セックスとか使えるところだけは使って、後は自分の仕事を優先し、彼女のことは放置していろ。彼女以外の女と関われるようになったら、なるだけそちらの女を選んで、彼女とはなるだけ関わらないようにしろ」ということを私が気付けるようにするためのものである。彼女はこういう決定に不服で腹を立てるか、あるいはしおらしくなって独りよがりの感傷を示してこちらの気を引こうとするのだろうが、そうすればするほど私は自分の決定の正しさを確信することができる。一言で言えば、「こいつは絵に描いたようなクズ女だな」である。

 「理想的な家庭」というのは、「それを実現できる人徳のある男女」がいてはじめて成立するのであり、自分の人格が醜いのに、「理想的な家庭とはこういうものだからお前は旦那としてこうしろ」みたいな説教をしたところで意味はない。アスペルガーというのは何でも自分に都合のいいマニュアルに沿って物事を決めようとしてしまいがちだが、物事というのはそんな風にマニュアルで杓子定規に決まるものではなく、現場の状況に応じて文脈的に決まるものである。醜い人格の者との結婚は皮肉な形で有名無実化するのが当然であり、その場合はそれでよしとしなければならない

 こうやって追い詰めると、彼女は復権を図って「あんなこと言われたけど、私はまあまあ彼のことを評価しているよ。スペックも高いし高収入だし普段は割と優しいしね」などと思い出したかのようにお世辞を言ってくるのだが、正直そんなもの「カネくれ。仕事くれ」にしか聞こえないし今さら彼女に持ち上げられても嬉しくないというか、「何、上から目線で言っちゃってんの? 自分が選ぶ側だとでも?」としか思わない(まああちらは「それはこちらのセリフだ」と言ってくるのかもしれないが、本当にそうだろうか?)。

 人を評価する側に立って上を取ろうとしているのが見え見え。重度の記号的思考のせいで、客観的な分析に納得できず、勝ち負けでしか物を考えられないマウント思考のつまらない女って感じ。こちらは別にいいよ、何言ってもらっても。

 私は「こいつ友達いないだろうな」「コミュ障はお前だろ」という煽りに対抗するために女を抱いてコミュ力を見せつけようなどとは思わない(陰湿で嫉妬深い日本人と友達になれなかったからと言って、それは性格のまともさの証明になることはあっても、能力や価値の否定要因にはならない)。ネットやメディアの評判よりも自分の生活や事業の方が大事。女遊びはその後だ。

 結局、彼女は「妻という肩書きを得ようが何だろうが、やっていることは前と変わらず売春婦として仕事をするだけである」という立場にあるのであり、不幸な自分が不幸のまま放置される一方で、私が一人活躍をする未来を妬んで、その感情的な報復として、彼女はこれまでずっと私を蹴落として得たカネで活躍をしていたということになる。

 もちろん建前上彼女はそんなことは言わないし、謙虚に振る舞っているが、建前を守っていれば犯罪をしてもいいということにはならない。そんな奴が建前を盾に取って偉っそうに他人に説教をした挙句、「お前と違って、私は建前を守っている」って、おいおい。それは「私はちゃんとばれないように犯罪をしている」と同義であって、他人に威張れることではない。

 色々と述べたが、結局「ベラスケスは私の妻である」という四次元の事情も、知っておいて損はないが、知ったところでこちらの世界で何かが変わるわけではなく、「普通に仕事してカネ稼いで適当に女と遊んで文明構築していればいい」という私のライフスタイルがこれからも維持されることになるということが分かった。被害も受けたが、罰や補償も行われており、妥当な結果を得られているので問題はない。というか、彼女は「妻」ではない。今後も私と関わることになる彼女が、乞食を正当化するために自分を「妻」と定義しているだけで、客観的にはその実態はない。彼女は「進化のために四次元で拷問を受けながら、私とセックスをしてカネを稼ぐだけの売春動物」でしかない。「セックスの相性がいいだけで性格最悪の地雷女」なんて、ただのセフレにしかできない。彼女はあまりにも大きな苦痛と深い業を背負っており、生まれと育ちのせいで人格も醜く歪んでしまっていて、自分に対する全てを諦め、開き直って腐った感情を抱えたまま私を食い物にすることだけを考えている。それくらい暗い闇を抱えた、鬼のような女が現在の彼女である。彼女はこれから80年後くらいに進化をして理性人となる。その時にならなければ、私は彼女とまともに関わることができない。

 これは要するに、「今は女のことをあまり考えず、文明を創造するための仕事に力を注げ」ということだろう。私はこの地球の全てを手に入れて、地球住民を統べる地位を得る必要がある。そのためには多くの仕事をせねばならないのであり、彼女と関わる時間をそれほど取れるわけではない。彼女の醜さは、私が女にうつつを抜かして仕事をサボらないようにする上で、役に立つと言える。申し訳ないが、彼女は明らかに性格的にキツく、他人を寄せ付けない性質を有している。それゆえ私は、女よりも仕事を優先する気持ちを持ちやすくなるわけで、仕事に尽力することができるのである。つまり今私と彼女の関係が上手くいっていないことは、失敗ではなくむしろ成功だということになる。どこまでも合理的で、よくできた手続きだと思う。さすがは四次元政府。細部まで抜かりがない(というわけで、私は文明を取り戻すまでは仕事が忙しいので、「小金持ちは余裕がないから、私に優しくできず、私にお金を使ってくれない」という彼女の見立ては、まあ間違っていないことになるが、要するにそれは「さっさと働いて私を幸せにしろよ」という類の妻の愚痴であり、彼女が言う資格のあることではない)。

 彼女はアドバイスという名目で、やたらと私の経営方針に口出しをしてくる。もちろんこの世界では私が答えを見つけなければならないので、彼女は具体的なことを言うことができず、大抵は私の決定を追認するようなことしか言わないのだが、そんな意味のない発言をわざわざするのは、「経営の主導権を握りたい」という彼女の思惑によるものである。彼女にとっての関心事は、「私のお金の使い方を自分の欲望に沿うようにコントロールしたい」という点のみであって、それ以外のことを考えない。表向き、色々なことを考えているふりをしたところでそれは、経営の主導権を握るためのパフォーマンスでしかない。彼女にしてみれば、「セックスをするだけなんて嫌だ。それじゃあ都合のいい女じゃないか」と思うのだろうが、能力的に、今の彼女は真の「いい女」にはなれない。「都合のいい女になるのは嫌だやと言っても、それで「いい女」になれないのだったら、ただ「都合の悪い女」になるばかりであって、結局こちらの対応は渋くならざるを得ない(それが一番「性的な利用をするだけして後は全く顧みようとしない、都合のいい女扱い」だと思うのだが、彼女はそれでもいいのだろうか??)。私もそうだし、彼女も普段から自分に言い聞かせていることだろうが、他人に文句を言うくらいなら自分を高めるしかない。私はあくまで「あなたはこれこれこういう性質を持っていて、こういう立場なので、こちらはこういう対応を取ります」と述べているだけであって、彼女を無理に変えようとはしておらず、仕事は結局全部自分でやることになる。

 この世界の文明を全て掌握するためには、小賢しい経営戦略を計算するのではなく、ぶっちゃけ種族値の暴力でゴリゴリ研究と開拓をしていくしかないのであって(戦略どうこうで文明を掌握できるなら、既存の地球住民の誰かがすでにこれを達成しているはずである)、開拓が上手くいっている限り、形式的、手続き的なことはその場その場で対処していけばいいだけの話である。制度がどんな形を取っているのであれ、実力があれば認められる。どんな世界であろうと、結局は形式が実質を支配するのではなく、実質が形式を支配するのである。「私の経営に対する口出しは必要ないし、あなたはそれができる立場にはない」。これが彼女に対して私が述べなければならないことである。気持ちは分かる。これまで苦労して酸いも甘いも舐め尽くしてきた自分の肥大した自我を修正する暇も環境も与えられずに凋落をさせられ、地獄の苦痛を味わっている中で、勝利を収めた私の一人舞台を見せられたら、今までの恨み辛みや苦しみが一気に押し寄せてきて、必死になって復権を計りたくなるのも分かる。今まで馬場くんを尻に敷いて贅沢三昧をしていたのに、負けて彼が潰されてしまったので、その腹いせに寝返って政府の長である私に取り入り、今度は私を尻に敷いて憂さを晴らしたい気持ちは分かる。しかしながら、申し訳ないが現実は彼女の欲望を満たすようにできていない

 私がこのように言い逃れできないレベルで彼女を突き放すと、彼女は思いのままにならない私への憎しみと非業の運命に対する悲しみを抱いて馬場くんに縋り、彼を通じて私を滅茶苦茶に虐待し、「ざまあみろバーカ。てめえなんてクズの雑魚のナメクジでしかねえし、好きじゃねえよ」など私を罵ることで「仕返し」をしてくる(「何の仕返しだ」と私は思うが、何の仕返しかと言えば「彼女を傷つけたことに対する仕返し」である)。彼女はこれまでずっとそうやって、「馬場くんを利用して裏でカネと権力を手に入れ、私(林洋佑)を虐待しながら贅沢三昧の生活をする一方で、表向きは私にも一定の愛想の良さを示しておいて、将来の旦那に媚を売りつつ、性的な誘惑によってイケメンで弱くて優しい記憶のない今のこの私を自分の性的快楽に利用する」ということを行ってきた。もちろん彼女のそのような性的搾取は、私が地獄の虐待を受けていて惨めな姿を晒していることに対して、「あらあら可哀想に、弱虫の子猫ちゃんでちゅね♡」などと皮肉な同情を抱くことで、自分の不遇に対する慰めを得た上でのことである。彼女にしてみれば、元々の自分の立場が私の立場に比べて不遇なものだから、私の顔面をぶち壊して才能の全てを奪い去って家に引きこもらせ、性奴隷にしてもなお、自分と違って普通の生活を送れる私に対する妬み嫉みは拭えない。別に私は今さら彼女にこうしたことを指摘するつもりはないが、たとえ指摘をしたところで彼女は、「私に期待をするんじゃねえよ。他人を変えようとするな。嫌だったら自分を変えろ」と最前私が述べた理屈を歪んだ形で言い返して開き直るばかりで、自発的な改善の余地はない。彼女のこうした行動は、私が顔を直してデビューした後になると、彼女はもう私を虐待しながらカネを盗んで贅沢な暮らしをすることができなくなり、ただ理性人への進化のための拷問を受けながら、セックス以外で私と関わることのない家畜として扱われることになるという待遇に対する先制的な仕返しの意味を持っている。だからそれを正当化する理屈も、形式上、私の主張になぞらえてあるのである。

 もちろん正不正を前提にすれば、犯罪をしておいて被害者に向かって「他人に期待をするな」と憎まれ口を吐くのと、施しを貰えないことに不満を抱く女に対して「他人に期待をするな」と説明するのとは全然違うことなのだが、彼女は生まれつきの才能ゆえに金持ちで権力者である私とそうでない自分との格差が嫌で、「力づくだろうが犯罪だろうがどんなことをしてでもあいつに対抗しないと不公平だ」と考えているので、正不正を無視して私に仕返しをするのである。もちろん、彼女の不満が客観的に公正なものであるならば、その不満に基づく抵抗は正義であることになるわけだが、彼女は理性のない記号人であり、何らの歴史的な業績を上げたわけでもない。ただ「私は地獄の苦しみの中で頑張って働いているのに認められない」というだけでは、その不満は主観的なものでしかない。これまで不正を繰り返して他の記号人では得られない圧倒的な贅沢と成功と戦争犯罪における勝利を与えられてきた彼女にとって、自分より上の存在に負かされ、罰せられ、利用されることは耐えがたい苦痛であり、魂の滅亡を通じた進化をしない限り、今さらそののぼせ上がった認識を直すこともできない。そもそも彼女自身の主観的には、彼女が怒りを制限する理由はどこにもない。これまでの栄華を全て喪失し、地獄の苦痛を受け、復権の予定もなく、やれることは私に恨みをぶつけることだけ。そればかりか、たとえ理性人に進化したところで、契約上、やれることは今と同じで、「嫉妬を抱かず、合理的な思考により現状を受け入れ、優しさとコミュニケーション能力を手にした魅力的な女性」として私とセックスをさせてもらえるだけ。馬場くんのヒモとして、馬場くんに虐待強姦されながらも、持ち前のタチの悪さによる精神攻撃で彼を尻に敷いて贅沢三昧の生活をさせてもらえていたこれまでの生活の方が、まだマシだったというわけである。それに加えて、記憶のない私を飼い猫として性的に奉仕させられていたのだから、それを全て失って今度は逆に自分が私の飼い猫にされるのは、プライド的に耐え難いことであろう(客観的にはそれは「ようやく実現した公正な結果」なのだが)。だから彼女は、これまで自分のやってきたことを棚に上げ、自分が人間でないことも棚に上げて(どうせこちらの世界では証拠がない)、「女を物として利用するなんて最低だ。人を人とも思わないその思考はサイコパスのそれであり、それは親に愛情も与えられず、長い不遇の生活の中で人格が歪んでしまった哀れな認識障害者の末路でしかない」などと私を罵るのだろう。もちろんそれは実際には私ではなく全部彼女自身のことであって、そのような理屈を私に無理やり当てはめたところで、そこには客観性がなく学術的な積み上げにならない。それはただ「嫉妬心から感情的に他者を攻撃するための言葉」でしかない。まあ「証拠がない」というなら今後の私が彼女を性的な快楽を満たすための家畜として利用することも「証拠がない」のであって、表向きは「仲のいい男女間のセックス」という形で、私は色々な女の子(と言っても全部ベラスケスだが)と甘いセックスを堪能することにしよう。私は今彼女のことを家畜と述べたが、私はコミュニケーション能力が高く相手の気持ちを想像する能力も高いので、「女の子を性的、精神的に満たすことが一番興奮する」という性質を持っており、馬場くんのように「上から偉そうにのしかかるような圧迫感を覚えるセックス」をすることはなく、かつ「女の子は長くてガチガチに固まったペニスをポルチオに当てられてグリグリされるのが好き」ということも知っており、容姿にも優れているので、彼女がセックス時に不満を抱くことはない。彼女の不満は、「彼がなかなか会ってくれず、セックスの頻度が足りない」とか「セックス以外の点、たとえば物欲や名誉欲や権力欲、支配欲を満たしてくれない。彼が自分以外の女にカネを使うことのないように、経営に口出してカネの使い方を自分に都合よくコントロールできるようにしたいし、歌手としても活躍させてもらいたい」というものにとどまる。それは「これをされたくない」という消極的な不満でなく「これをしてくれないと嫌だ」という積極的な不満であり、そういう不満や希望は他人を責めて命令するものではなく、自分の努力や魅力や才能で相手からの好意を引き出すようにしなければならないものであり、そうしたことを私に命令する資格は彼女にはない。というか、そんなことを言える資格は誰にもない。「人権を行使できる環境をよこせ」という私の主張は、あくまで「私の才能を十分に発揮させろ」というものであって、彼女みたいに「自分の才能にない成功や待遇をよこせ」というものではない。後者のような主張は人権を持つ理性人さえ認められないものであって、ましてや人権のない彼女が主張するのはおこがましい。

 色々言ったが、要するにセックスだけさせてくれりゃいいよ。不満があるなら、セックスを拒否してくれればいい。その時は俺はあなたと関わらずに仕事に集中するだけだ。やりたい時にだけ応じてくれればいい。私がこう言ったところで、彼女は性的依存心が異常に強く、地獄の拷問を生き抜くための糧として私とのセックスを利用しているところがあるので、その供給を絶たれるわけにはいかないという事情がある。だから彼女は、救いを求めるように私とのセックスを求めることになる。先にも述べた通り、彼女の不満は「セックスの頻度が足りない」というものであるから、私とのセックスを断るわけにはいかない。それゆえ、彼女が私にどんな不満を述べようとも、私が「じゃあいいよ。気に食わないなら会ってもらわなくても構わない」と言えば、彼女はこちらの要求を飲まざるを得ない。

 セックスはする。その時は優しくする。適当にお喋りして馬鹿話しもしよう。でも仕事の話はしない。こちらの時間の使い方にも口を出させない。どうせ彼女は、私の仕事の話をしたところで、内心がざわついて穏やかでいられなくなり、皮肉や憎まれ口を吐きたいのを我慢して我慢して、「ありがとう、私のために。でもそれならもう少し私の希望も聞いてくれないかな」と自己中心かつ上から目線の皮肉な賛辞を心の中で述べるのが関の山である(そうやって頭の中で自分の利益に無理やり結びつけないと、私の業績への羨ましさに耐えられない)。そうして、「あなたがそれだけ活躍することへの苦痛を私はこれだけ我慢し、表面上は応援してあげているのだから、あなたも私のために時間を使え」などと訳の分からない腹の立て方をしてくるに決まっている。私が仕事を頑張っていることは、客観的には彼女に対する苦痛を構成しない。彼女が苦しんでいるのは自分の嫉妬によるものであり、嫉妬というのは「他者を比較の対象として媒介にした自己の不幸の自覚」であるから、私の活動自体が彼女の不幸や苦痛となっているのではない。彼女は自分が不幸だから、嫉妬をして苦しんでいるのであって、それは私の仕事とは何も関係がない。それなのに、彼女は「私はこれだけ我慢をしてあげているのだから、カネをよこせ」と主張する。これはおかしい。「あなたを応援してあげているのだから、カネをよこせ」というのもおかしい。そんな仕事を私は依頼していないし、嘘をつかれて応援をされても気持ちの悪いだけで嬉しくない(だから母も父も私を応援するそぶりは見せていない)。醜い感情がばれているのに勝手に他人を応援したふりをして、それでカネを要求するのはゴミの押し売りでしかなく、そんなことをされても私は動かない。セックスはする。お喋りもする。時には外に遊びに行くこともあるだろう。でもお金の話や仕事の話はしない。それは彼女が関心を持つことではない。

 そう言えば、彼女は林佳代の姿で、以前(私が彼女をデリヘル扱いして部屋に呼んだ時)私の絵を褒めたことがあった。話題の流れが不自然だったので、お世辞というか「本当は認めたくないが、媚びるために言わざるを得ない」という事情があることはすぐに分かったのだが、今の状況に照らすと、あれは「嫉妬心を隠して、男を立ててやる器の大きい自分」を演出するためのパフォーマンスだったものと思われる。「男なんてプライドの塊なわけだから、ちょっと褒めてやればすぐ天狗になってこちらに気を許すようになる。そうやって相手の信用を買って仕事の話を聞いてやれば、色々と口出しができる機会も増えるだろう。その見返りにお願いを聞いてもらえるようになれば、彼の私生活を盗みやすくなる」という浅知恵である。私は芸術や学問になど全く興味のない彼女に褒められても何も嬉しくないし、ましてや彼女のそのくだらない浅知恵にカネを払うこともない。記号人は他者からの承認に依存して生きるので、口先で褒めてやれば相手はこれに依存するようになる。彼女は相手を罵ったり褒めたりと、薄っぺらい掌返しを繰り返して馬場くんを手玉に取ってきたのだろう。そんな風に、依存心が強く、知的に障害のあるレベルの低い相手を尻に敷いていただけのくせに、「自分は権力者を相手に狡猾に立ち回り、家庭内で実権を手にしていたレベルの高い女だ。政治闘争では誰にも負けない」という不当な自負心を彼女は持ってしまっている。だから子供の私に引けを取ることがプライド的に許せない。そういう負の感情を隠蔽するために、可愛げを見せることもあるが、それはそれで、「可愛げを見せることでプライドのなさを示して信用を買い、相手に取り入ろうとする」という浅知恵でしかなく、浅知恵だろうが何だろうが可愛げを見せてくれる分には構わないが、それでこちらが彼女に仕事やカネに関する口出しをさせることはない。私は記号人ではなく、他者の評価に依存することがないので、彼女に上げられたり落とされたりしたところで「こいつはそんなことをして俺の気を引こうとしているんだろう。薄っぺらい女だ」としか思わない。「私を誰だと思っている。これまでずっと権力者を手玉に取って政治を動かしてきた女帝だぞ。それなのにごしゃごしゃとこちらを批判したりして、童貞やニートだから分かってねえんだろうな。どうせデビューしたって変わらねえだろうよ。小金持ちは器が小さい。こちらがこれまでどれだけの金持ちを相手にしてきたのか分かってんの? 今さらお前のはした金なんかに心を許すわけねえだろう。まだまだお前は私に選ばれるようなレベルにはない。悔しかったらもっと自分を磨き、金を稼ぎなさい」などと彼女は思うのだろうが、そんなことをいくら述べたところで彼女の分析には学術的な客観性がない。彼女は客観的には、「プライドをこじらせて、ただ嫌味を言っているだけの陰湿な年寄りのお局。整形をせねば容赦も醜く歪んでいて、ヴァギナから漂う溝のような悪臭がキツすぎて男からしたらセックスをすることすら受け入れがたい女性的魅力に欠ける女。嫉妬深く、男の権力やカネを自分のものにして支配せねば気が済まず、また自分以外の女を虐めや暴力で潰さねば気が済まないので、誰からも愛されずに孤独に陥っているにもかかわらず、実力や才能に見合わない自惚れから、そのような孤独が自分の特別性の表れだと考え、『私は誰の派閥にも属さないことによって、敵を作らずにいられる合理的な思考の持ち主だ』などと言い張るものの、その実、ろくに自分の意見も持たず、強い男、魅力のある男に付和雷同してコロコロ掌を返して股を開いているだけの中身のない売春婦」でしかない(私だってこんなことを言いたくはないのだが、彼女がそういう人物だから、そう評せざるを得ない)。こちらの批判に対して自己防衛をするために、実力や才能ではなく不正によって得られた経験(偽りの成功体験)を盾に取ってどこまでも虚勢を張りたいのは分かるが、それで私を貶めたところで痛々しいだけである。男に頼って生きることしかできないくせに、やたらと偉そうに、男を飴と鞭で嫌がらせながらカネをせびろうとしてくる乞食。そのくせそういう批判を受けるのも嫌だから、「私は自立がしたい」「私は一人で生きる」などと強がって見せるわけだが、そんなことを言ったところで彼女には何の才能も実力もないのであり、それで自立ができるはずもなく、せいぜいのところ「男に頼らない格好いい私」を演じて情けない自分の立場をごまかすことしかできない。

 私がこういうことを公にしているのは、「彼女に直接こんなことを聞かせても意味がない」という意思の表れである。彼女は私に何を述べられたところで自我を修正する能力を欠いており、開き直って批判を聞き流すしかない。そうして「批判に耐えた自分」を偉いと思うだけで、自分を否定することはしない。むしろこちらを敵と思って憎み、「批判を受けてやった分だけ見返りがないと困る」と考えるばかりである。批判しなくても歪んだ思考はそのままで、批判をしたらしたで開き直って悪意をこじらせるだけ。これでは「言っても意味がない」ので、こちらははじめからあちらに期待をせず、あちらの醜さを晒してカネに変えつつ、今後女性関係において何かしら争いが起きたときに備えて、あらかじめこちらの正当性を示しておくということをするわけである。そもそも私は彼女の改善など必要としていない。「そちらがそういう性質を変えられないなら、こちらもこちらであなたにふさわしい対応をさせてもらいますよ」と宣言をしているだけである。

 「私の性格まで愛して欲しい」という彼女の主張は、「私のわがままを聞いて欲しい」という意味の言葉であり、それはすなわち「私の奴隷になって欲しい」ということに他ならない。彼女はそんなつもりがあるわけではないかもしれないが、「彼女の醜さや悪辣さを無視せず、否定もせず、これを肯定してやる」という態度を取らなければ、彼女は「人格を愛されていない」と感じるのであり、それはつまり「私の奴隷になって欲しい」というのと同じことである。そもそも「性格まで愛して欲しい」というのは他人に要求することではない。愛して欲しいなら愛される努力をするべきであり、少なくとも普通に他人に配慮できる者なら他人に要求して何とかしてもらおうとするはずはない。それなのに平気でそんな要求をできる女性というのは、自分では真剣な想いを伝えたつもりかもしれないが、要するに自分のタチの悪さを開き直って全く改善するつもりもなく、ただ一方的に相手の好意を要求しているだけでしかない。しかしそういう女性は自分にとっては真剣な想いを伝えているだけのつもりで、相手を侵略してやろうという意図を持っていないつもりなので、自分の思考の悪辣さを自覚できない。まあ彼女の場合は、「分かっていながら、自分の欲望を綺麗に見せてこれを正当化するためにあえてやっている」ということだろうが。そんな風に自分の悩みを解消するためならば相手がどうなってもいいと考え、恨み憎しみをぶつけるつもりで関わろうとしているうちはどうしようもない。あちらが実際的な問題を克服するために、考えを変え、自我を抑えてこちらに好かれるような態度を取ろうとしない限り、こちらは彼女を無視するしかない。

 要するに彼女は「私の性欲に期待して施しを待つだけの犬」でしかない。私がこのような態度をまともな者を含む万人に対して徹底したら、それは私がおかしいということになるのだろうが、私は彼女の醜さに照らして対応を決めているに過ぎない。この状況で、彼女が私に対して「愛が足りない」と批判を述べたところで、それは惨めな自己紹介にしかならない。それは、娘に対して性的な虐待をしたくせに、ろくに謝罪も反省もしないばかりかこれをなかったことにして、「10年も口を聞いてくれなかった」などと一方的な不満を述べた林一郎と同じ醜い言動でしかない。

 私は何か困ったことがあっても、こういう風に合理的に冷静に考え、「他人に対して何らの警戒心も恐怖心も憎しみも暴力性も持たない気楽な性格」を維持しようとする癖(理性)がある。争っても疲れるだけだし、女性と関わる気がなくなって性欲を満たせなくなり勿体ないし、脳の扁桃体に悪い影響があるので怒りたくもない。ここでの「晒し行為」も、裏事情を暴露して「公正な評価」をこの世界に提示し、それ以上争う必要のない楽な感情を維持しようとする働きがある。これは感情的な理由だが、私の感情は公正性を基準に是非を決めるので、正義に反するところがない(合理的に思考ができると、理不尽なことで腹を立てることがない。これが理性の力である)。

 こういう性格、ほんと便利だと思う。特に酷い目に合わされたときに(私の場合、それほど酷い目ではないが)威力を発揮する。

 まあでもこちらは彼女に恐怖する理由は何もなく、立場的に自分の身が安全であることを知っているので、性欲を抑える必要はなく、嘘でもあちらに愛想よく誘われたら、割と気軽に応じてしまうだろうな。それで人生食われるレベルでハマって、ようやく危険を感じ、冷静になって、熱が覚めるまで相手を避けるようになる。この繰り返しだと思われる。

 実際にリアルで会った女の子との前でここに書いたような裏話なんてするわけないし(あちらに話題を振られない限り)、結局病棟で女の人と喋ったみたいにコミュ力働かせてデレデレイチャイチャするんだろう。やはり「四次元の事情を全て知った上で、それを気にせず楽しんでいい」というのがこの世界のようだ。徹底している。

 面倒くせえ。彼女の醜さは四次元拷問と晒しによって罰せられ、カネに換わり、俺を利することになるからそれで構わない。セックスだけできればお互いにそれで満足だろう。あちらのセックスに関する不満は、私を嫌がらせるための嘘でしかない。だから私が彼女の指摘に応じてやり方を変えようとしたり、セックス自体をやらなくなったりすると、あちらは「前のやり方でやってくれ。もっと頻繁にやってくれ」と要求してくるのである。

 まあ「優しい人には余裕がある」というベラスケスの言葉には、ぶっちゃけ「カネに余裕のある馬場くんと、精神的に余裕のある理性的な林洋佑に対して、どちらの意味でも通るような褒め言葉を言って両方の優しさを引き出しつつ、馬場くんから優しさを得られない場合には、『カネがあっても精神的に余裕がないから私に優しくできないんだろ』と罵り、林洋佑から優しさを得られない場合には、『精神的に余裕があってもカネに余裕がないから私に優しくできないんだろ』と罵ることで、両方を尻に敷く」という二枚舌じみた計算があったのだと思う。どちらの立場にも立たずに両方から利益を引き出そうとするこういう計算を「頭がいい」などとは思わない。ただ「意地が汚いな」としか思わない。それにもしこういう態度が女として賢い選択だとしても、それは彼女が個人的に利益を得るためだけのセコい駆け引き(ただのつまらないお喋り)でしかなく、何ら社会的価値を生むことになっていないし、私にとっても馬場くんにとっても得になっていない。

 こういう浅ましい戦略で利益を得た場合、その場では上手く立ち回ったことになるのだろうが、結局後で腹黒さを暴かれて信用をなくしてしまったら意味がない。少なくとも私は彼女に誠実さを示す価値を感じていない。どれだけ自分の賢さをアピールしようが、事態は彼女の都合のいいようには動いていない。それが全てである。

 擬似だけでどハマりして毎日二回の擬似セックスを実質義務的にやることにし、そのスケジュールに合わせて体調管理までして生活を食われた経験が私にはある。彼女が今辛い立場にあるのは分かるが、こちらが彼女の希望に合わせて頑張り過ぎた結果、折れてしまうと何もかもダメになってしまうので(経験あり)、こちらの主体がこちらの生活にあることを保った上で、あちらの希望は聞ける範囲で聞くしかない。こういうことを言うとあちらは怒るだろうから、こちらも自分の生活を守るために、ある程度のエネルギーをもってそれを突っぱねなければならない。そこで、一定の距離を取るためにこのブログには真実ではあるが彼女にとって厳しいことを書いた。モラルハラスメントの気質はあるかもしれないが、彼女との関係(というか因縁)はこの程度で切れるものではなく、むしろこれくらいしないとセックスの相性の良さを通じてマジで好きになって泥沼にハマり、生活を食われる。あちらには理性がないしこちらの私生活に配慮する余裕もないので、こちらの側からこうするしかない。メンヘラからの要求に応じて喜んでもらえると、異常な興奮と快楽と達成感を味わうことができるので、こちらもついつい犠牲を払いたくなるのだが、長期的に見るとそれは得なことではない。私は彼女に対する情がないわけではなく、情を抱きすぎると危険なので、きちんと説明をして、あえて冷静な態度を取っているに過ぎない(これはいわゆるツンデレという奴とも違って、もっと現実的な生活を考えた合理的な選択である)。

 恩着せがましい言い方をしたが、これは「保険」の意味もある。すなわち、「これからの果てしない時間の中で彼女と良い関係を継続していられるか」という点に関して不安定性があるので、あまり無責任なことは言えないということである。「一生愛する」と口で言うのは簡単だが、それを実行するのは簡単ではない。無責任なことを言って不必要なハネムーン期を生んでしまうと、それが終わった後の落差が怖い。それに、そうやって一時の感情で大袈裟なことを言う者ほど、同じように一時の感情で相手を虫けらのように扱ったりするものである。そういう性格の者でなくても、実際的に、一度べったりとくっついてしまった関係を落ち着かせるのは簡単ではなく、そこで争いが起こる可能性が怖い。

 彼女は未来を知っているのであり、その彼女が「私を好きだという今のあなたの気持ちはまやかしだ」というような不吉なほのめかしをしていた。「私は女帝になる」とも言っていた。私に嫌われる前提で、私を尻に敷き、私の生活を意のままに支配するのが彼女の最終的な狙いだと思うと、それが現実的な願いでなく、不必要に心配する必要はないにしろ、どうしても対処する必要はある。

 日本では一夫一妻制が当たり前だが、四次元ではパートナーを一人にしなければならない理由はなく、複数人の女性と交際して競争原理を働かせることはできる。彼女は今は立場が弱いので、私に対して優しい態度を取っているが、いずれ女王としての立場が盤石になるにつれて、「馬場大祐を尻に敷いていた女帝としての本性」を露わにするものと思われる。その時に、私が他の女性との交際を抑止力として使うことができなければ、「私を食い物にしようとするキツい女性が優遇され、私に対して素直な態度を取れる優しい女性が無視をされる」という理不尽な状況が生まれてしまって都合が悪い。私も彼女も、生物的な競争を勝ち抜いてお互いに結ばれるに至ったのであり、結婚をした後でもその競争原理が崩れることはなく、お互いに魅力を維持するための努力は必要である。だから私は、今の優しい彼女ではなく未来のキツい彼女に向けて、厳しいことを述べているのである。

 女性に対して無責任に甘い態度を取ることが正しいとは思わない。相手の女性とただ馴れ合うだけでなく、きちんと話をしてお互いの関係を合理的に形成していかなければならない。女性に対して無責任に甘い態度を取れる男というのは、女性のことを「自我のない快楽のための人形」だと思って接しているところがある。女性にだって自我があるのだから、こちらに対して困難な要求をしてくる可能性はいくらでもあるのであって、それに対して対処する必要がどうしても出てくる。女性を人として(というか彼女は人ではないので妻として)見ているなら、無責任に甘い態度を取るわけにはいかない(私たちの関係を繋ぐものがセックスの相性だけであることを悪しざまに喩えて、私は彼女を家畜やダッチワイフ呼ばわりしたこともあるが、これは世間からの揶揄に先行して予防線を張った口先だけのものであり、実際に彼女を人形として扱っているのは馬場と大東である)。

 どうせ重要な点でのいざこざがある程度克服されれば、私は病棟で彼女と関わったように、コミュニケーション能力を使って手放しで彼女と楽しい時間を過ごすことができる。あの楽しい時間を維持するためには、まず根本的な問題への対処法を見出さなければならない。そうでないと、同じことでいつもいがみ合いとなり、関係が上手くいかないだろう。まあ彼女の自我は少なくとも進化するまでは変えられないので、問題が終局的に解決することはあり得ず、結局はその場その場で対処することになるだろうが、その時の私の行動がこのブログの記述と矛盾するとなると、記述に対する責任を持っていないことになるので、書くべきことを書くことにしておいた。「表ではおしどり夫婦、裏では醜いいがみ合い」みたいなことだけにはならないようにしたい。どうせ手続き的に絶対に離れられない関係だし、セックスの相性がある以上、「どれだけ喧嘩してもいつでもヨリを戻せる」自信がお互いにあるので、何も問題はない。

 このような発想を肯定するためには、「愛情とセックスの相性の関係」について論じなければならないだろうか。しばしば「セックスだけでは愛は得られない」という言葉が語られる。これが中身のないロマン主義だとは思わない。実際に、セックスだけで盛り上がって交際に発展し、失敗したようなカップルというのは存在するはずである。

 しかし私たちの場合にはこれは当たらない。「セックスだけではいい関係が維持できない」というのは、「セックスだけで盛り上がっても、両者のコミュニケーションが上手くいかなくなると、セックスに至る過程で失敗して、結局いいセックスができない」ということによるものである。コミュニケーション能力の高い私は、セックスに至る過程を上手くやり遂げることができるので、たとえいがみ合いの関係になったとしても、相手の感情を想定して上手く「いいセックス」に持ち込むことができる。この場合、関係の修復は簡単にできる。私は緊張感のないリラックスしたコミュニケーションを取れるので、あちらにとっては、私を憎むよりもセックスに応じた方が得であり、これに応じてくれるのである。

 そのはずだが、私は童貞であって実体験に基づく証拠はない。しかし、実体験だけを拠り所にする推論は根拠に乏しく、弱いものである。逆に実体験がなくても、合理的な推論に基づいて真理を解き明かすことはできる。私の想像力は、時空を超えて女性の気持ちを把握する高度な通信装置なのである(うそくせえなあ)。

 ベラスケスは、こういう私の分析を客観的だと思えず「勝手な想像で私のことを分かったようなことを言わないで欲しい」と感じるはずである。保坂和志も他者からの分析を見せられると「自分の本当の性格を歪められた」と感じるらしい(エッセイ内の記述)。これがどういうことなのか、説明しよう。

 彼らはこう考えている。「俺たちは自分の悪いところを自覚しているが、それを直そうとして努力もしている。それなのにそういう努力を汲み取ってくれず、悪いところばかり言われているのは穿った評価でしかない。俺たちだって優れた人格を手に入れたいのであって、必ずしもネガティブで意地悪なばかりで生きているのではない」。

 ここには二つの間違いがある。まず一つ目。「俺は私はこうなりたい」というのは願望であって、その人物の性格を直接反映するものではない。ロンドンブーツの淳が「俺は失敗者を許せる男になりたい」と言っていたが、〇〇になりたいと言ったところで必ずしも実際になれるわけではない(私は失敗者を許すことが理想とも悪とも思わないが)。あるいはマツコデラックスは「私は何か人のためになるような人物になりたい」と言っていたが、そう主張したところで必ずしも実際になれるわけではない。むしろ改善したいなら改善できる奴は即座に改善するのであって、そういう者は「こうなりたい」とは言わない。改善したいのに改善できないからこそ「改善したい」で終わっているのである。ということは、「俺は私はこうなりたい」という願望を人に開陳する者は、「自分にはこうなれないけど、なりたいと思っていることを評価して欲しい」という願望の表れであり、客観的な分析に対するごまかしの側面を持っている。受験生と合格者は同じではない。「へえー、医者を目指しているんだ。すごいね」というのは親戚などの身内から語られるお世辞みたいなものであって、実際に受験生の時点で良い評価を貰えることはない。本人は真剣なのだろうが、それは「決して手に入れることのできない理想の自己像」と自分自身を重ね合わせて陶酔しているだけであって、客観的な分析においてはこれを斟酌することができない。

 二つ目は、「努力が努力で終わっていたら意味がない」という点である。「俺は私は自分を直そうとして努力している」と言ったところで、結果として直せていなかったら意味がない。直せていないのに、直せていないことを反省するどころか、偉そうに努力したことを自慢するのはおかしい。有害だから迷惑だから批判をしているのに、「俺は私は努力しているんだから」と勝手な自己正当化をして、批判を封じようとするのはわがままである。法というのは守って当たり前のものであり、努力して犯罪をしないように我慢した分量がどれだけ多かろうと、それで他人に感謝や恩恵をねだることはできない。努力というのは必ずしも良いものではなく、むしろ「努力したのにできない」となると、それこそ根本的な人格に有害性があると論じなければならないことになる。

 要するに、私の客観的な分析に対する彼らの不満は、彼らの主観的な事情によるものであって、私の分析が不当であることにはならない。

 どんな言い訳をしたところで、ベラスケスは政府の敵として長年悪いことをしてきた。それ自体は彼女の醜さゆえのものであり、馬場に無理やりやらされたとか政府に操られたとかいうことはない。それが、犯罪でお金が稼げなくなった途端にこちらに寝返って、股を開き、妻としての立場を主張しようというのである。はっきり言って、心証はかなり悪い。こちらとしては、楽しめるところは楽しむが、あちらに犠牲を要求されるいわれはないということになる(もちろんこれはコミュニケーション的に当然のことだが、やはり過去の罪があると、要求自体を厚かましいとか不快だと私が思う分量は大きくなる)。

 ここでの記述を見ているとまるで私が冷酷であるかのようだが、彼女はそれ相応のことをやってきているのであり、咎められて当然である。ここで彼女を咎めなかったら、「彼女は本来咎められるべき重大犯罪をしたけれども、お前は旦那なんだから妻を守って当然」という形で私の側が彼女に服従することになってしまうので、私はそういうことはしない。彼女は彼女で、自分の立場や能力や過去の行いをわきまえず、あくまで私の上に立とうとして全力を出すようである。だから私が名指しした彼女の生まれ変わりであるYouTuberたちは、こぞって私を公に攻撃するか、冷淡な態度で突き放すようなことをし、私を侮辱することだろう。まあ無視した方が安全という判断になることもあるだろうが。私が客観的な序列を通そうとするのに対して、彼女は実力闘争でこれを覆そうとするのである。もちろんお互いに、別の姿で直に会ったときには愛想よく振る舞ってセックスをすることになる。

 私が引かなければ、結局彼女は折れるしかない。もちろん立場が下になるのは彼女は嫌だろうから、「何も見なかったことにする」のである(私は私で彼女による反撃など見ないし、見たとしたら必要に応じて再反撃をするだろうな。それをモラルハラスメントだと言うのはモラルハラスメントである。欲望が矛盾して紛争が起きたときにどちらが譲るべきかを決めるのは客観的な正義であり、明らかに咎められるようなことをしておいて、咎めた私をモラルハラスメント呼ばわりするのは不正な侮辱でしかない。「明らかに咎められるようなことをしているのはお前だろう」とあちらが言ったところで、私は客観的には「咎められること」をしていない。勝手に自分たちの都合や利害を絶対化して、「こういうのは迷惑であり、認められない」などと科学的な根拠のない批判を私にぶつけようとする異常な思考の生き物がいるから、そう見えるだけである。他人を公然と批判するのに、真実性のある科学的な根拠も出さないのは無責任というものだ。ちなみに、現行の医学的な知識が私には当てはまらないことを私は証明しているので、現行の医学を盾に取って私を責めたところでそれは科学的な根拠があることにはならない)。

 しかし彼女はこういう決定に対して争うつもりらしい。馬場に味方して俺のこと虐待しながらカネ盗んで贅沢してきた女が、立場を追われることに不満を抱きながら、ほのめかしの上では申し訳なさそうな態度を取りつつも、「お金が必要だったから仕方がなかった。そういうことだから、今度は私を幸せにしてほしい。旦那なんだから責任を持って欲しい。器が小さい奴ほど他人に優しくできないものであって、あなたはそういう人ではないはずだ」なとと、悪びれもせずに主張するのである。これはおかしいだろう。彼女は加害者の側であるが、一応罰も受けているので、私はその罪にこだわらないようにしている(こうして公表はするが)。しかし彼女はそれだけでは飽き足らず、「私を幸せにしろ」と要求をしてくるのである。彼女は加害者の側であり、しかも私から施しを受ける側なのだから、まず私に気に入られ、信用されるような態度を取るべきだろう。それだったら彼女は、私を喜ばすために自分に何ができるかを考えるべきであり、私が彼女を幸せにするために何をするべきかを主張するべきではない。散々悪さしてこちらに被害を与えたくせに、負けた途端にこっちに寝返ってきて、「で、お前は私を幸せにしてくれんの?」などと言い出すのは、あまりにもド厚かましい態度である。「私は苦労している。その苦労を分かれ」とかそういうことは、彼女の側の都合であって、私には関係がない。「関係がない」と言うと冷淡な言い方になってしまうが、これは「原理的に、あなたの都合だけで他人に慰めを強要することはできない。慰めが欲しいのだったら他人にお願いしたり、他人に気に入られるように努めたり、他人から信頼されるように努めたりせねばならない」ということである。私だって彼女の境遇には同情したいところがあるが、彼女は自分の過去を反省しようとせず、好意や信頼を抱かれる努力もせず、こちらを責めながら一方的に自分の希望を告げるのみであって、そんな風に強要されるような形では同情しようにもできない。「そちらだって私を責めて、強要しているよね」と彼女は言うかもしれないが、責められるようなことをしているのは彼女なのだから、こちらはこれを責めるに決まっている。「お前だって責められるようなことをしているじゃないか」と彼女は言うかもしれないが、それは彼女の主観であって、客観的にはそうではない。自分の立場をわきまえず、人間でないのに人間と同等の待遇を求めるのがおかしい。それが気に食わないからと言って、勝手な判断で他人を攻撃したところで、こちらはそれを受け入れない。事態は「もし彼女が人間に生まれていたら全て解決していたはずのこと」であり、そのような生まれの責任を私にぶつけられても困る(一方、もし私が記号人に生まれていたとしても、今ここで語られている問題は解決しない。したがってこれは私の問題ではなく、彼女の問題である)。「生んだのはお前なんだから責任取れ」と言われたところで、そんなものは自分の運命を引き受けようとせず、他人に頼って自分の有害性を正当化しようとする他者依存的な発想でしかない。生んだのは私だが、生まれたのは彼女なのだから、彼女がその責任を取らねばならない。言葉では何とでも「〇〇の責任」と理屈をつけられるが、結局、自分の生まれつきの性質は自分で責任を取るしかない。他人を責めたところで、誰かが彼女を助けてくれるわけではない。私は彼女を助けたいと思っていないわけではない。しかしそれは彼女の努力によって私が彼女に好意と信用を抱けたらの話であって、彼女がまるで助けられるのを当たり前みたいに偉そうに「私をちゃんと幸せにしてくれんでしょうね?」と迫ることではない。まずは彼女は過去の精算をせねばならないのであって、私を幸せにするためにはどうすればいいかを考えなければならないのであり、私が彼女をどう幸せにしてくれるかを考える時ではない。加害者である自分の身の上ではなく、被害者の立場を考えることだ。

 こんなことを書いたところで、どうせ私が名指しした女たちはこちらの世界では「わけの分からない妄想記事で侮辱された」と私を責めることだろう。それならそれで私を訴えればいいと思うのだが、四次元法的にそれはできない。それなのに「日本の法に反することをするな」などという言論攻撃を通じて、私刑を働こうとするのである。それが一番「体制側の司法権限の否定」に繋がると思うのだが、彼女はそのような点を無視することだろう。そしてその一方で、彼女は別の女性になり代わり、私にセックスを要求するのである。そういうわけだから、しばらくは自分の幸せを主張することなど考えず、こちらの都合に合わせてセックスをしていればいいと思うよ。謙虚な態度でいられたら、こちらも少しは気を許して、彼女に幸せを与えたいと思えるようになるだろう。彼女にしてみれば、そんな風に他人の気持ちに左右される人生が許せず、「いつでも好きな時に自由に男のカネを使い込める」という立場を得るために、「女の幸せを考えられない男は器が小さい」などという論理で私に必死で迫ってくるのだろうが、少なくとも彼女が理性人に進化するまでは、彼女が「与えられる側」であることは絶対に揺るがない事実なので、口先で争っていないで現実を受け入れてもらわないと仕方がない。

 自他の境界(所有権)に絶対性がなく、他人を責めて施しを引き出そうとしたところで、相手はそれを受け入れない。ただでさえそうなのに、自分の過去の犯罪や私への裏切りを反省することもなく、私に好意や信頼を抱かれるよう努力することもなく、口先で一方的にこちらに要求をしたところで誰も話を聞かない。そのくせ、私が浮気をすることについては咎めようとするのだから話にならない。これが「女性様」の実態であるとすれば、それは「女」というより「狂人」でしかない。

 私が将来的に浮気をすることを世間は咎めるだろうが、私より先に、四次元で永劫に近い時間をかけて浮気をしていたのはベラスケスの方である(セックスについては強姦だとしても、馬場大祐とツルんで私を虐待し、私からカネを盗んでいたことは強いられた行動ではない)。彼女が私からぞんざいな扱いを受けるのは、彼女の行いや性質に照らして妥当なものであり、それが嫌なら俺と関わらなきゃいいんじゃね?

 彼女は偉そうに私を男として批評するのだが、そもそも彼女は男を選べる立場ではない。他人に好意を求めるなら、まず他人から求められるように魅力を磨きなさい。「それはお前の側だろうが」と彼女は言うかもしれないが、私は別に彼女に何も求めていない。「そちらがセックスに応じてくれるならやるが、やらないならやらない」と述べているだけである。これだけ自分の考えを書いているのに、私は「分析」をしているだけで「要求」をしていないというこの事実に、驚く者も多いかもしれない。私は要求をしない。だから彼女みたいに、自分の要求をまるで当たり前みたいに厚かましく相手に要求できることが不思議でならない。「そんな子供みたいに他人に文句言いながら利益をねだれるなんて、何を考えているのだろう。何か正当な根拠があるわけでもないのに」としか思わない。

 こんな誰でも分かるはずの当たり前のことをどうしてこんなにくどくど説明しなければならないのかが分からない。いや、「どうしてこんなにくどくど説明しなければならないのかが分からない」と言うか、彼女の歪んだ思考構造上、説明しないと分からないし説明しても分からないようになっていることは「分かっている」のだが、どうせ何をしても分からないなら、こちらは言い返しをされないようにガチガチの理詰めで説明をして、自分の身を守ることしかできない。犯罪者とツルんで他人を虐待してカネも盗んで、罰を与えられても反省せずにこちらを恨むばかりで全く話にならず、負けたら負けたで掌返すかと思いきや、逆ギレしてカネよこせだの愛よこせだの幸せよこせだのと要求ばかりして、罪も認めず、こちらに好かれる努力も認められる努力もせずエロと自虐ネタで釣ることしか考えない薄っぺらい女。そんな者に何かを与えたいとは思わないかなあ。セックスしたいなら付き合うけど、それで彼女に「私は一方的に与えるばかりだ」と腹を立てられるのも不快である。セックスというのは快楽の交換なわけで、魅力の点から言えばむしろ私の方が上なのだから、まるで「応じてやった私が偉い。だからカネと愛情よこせ」みたいに思わないで欲しい。その厚かましさがまた私を遠ざけることになる。それに「セックスしてやったんだからカネよこせ」って、自分から売春婦になるつもりかよ。やりたくてやってんじゃねえの? やりたくねえならやらないから別に無理してもらわなくてもいいんだけど。

 「あいつは私にカネも愛情もくれない」と彼女が私を批判したところで、私が客観的に公正な発想をしている以上、そんなものは自己紹介にしかならない。他人に文句を言う前に、自分の態度を省みなさい。それが答えだ。馬鹿は「それはお前だろう」と言い返しをするが、客観的には私は他人に責められることをしていない。科学的な根拠もないのに、こちらの述べたフレーズを一方的にこちらに言い返すのは不正な態度である。狂人が狂人と言われたことに対して腹を立て、医者に狂人だと言い返すのは、見かけ上は「どちらも同じことをしている」ことになるが、それは言葉の言い争いのレベルの話であって、結論は客観的に決まる。犯罪者が犯罪者と咎められたことに腹を立て、まともな社会人に犯罪者だと言い返すのは、見かけ上は「どちらも同じことをしている」ことになるが、それは言葉の言い争いのレベルの話であって、結論は客観的に決まる。こうした言説も「いやだからそれはお前のことだろう」と言い返す者がいるはずだが、何を根拠にそんなことを語るのか。こちらの理論によって既に否定されている明文法や、こちらの理論によって既に否定されている医学的な知識を盾に取ってこちらを攻撃するのは一方的な決めつけであり、不正な言論でしかない。そんなことをしたところで、「こいつらは知的な障害ゆえに、既に否定された見解を一方的に主張し、説得的な反証も無視して他人を攻撃するサイコパスでしかない」ということにしかならない。そんな醜い社会闘争でしか結論を決められない野蛮で有害な民族だから、人権が与えられずにぞんざいな扱いをされることになるのである。「馬鹿にも優しい社会をよこせ」と言ったところで、ゴリラが馬鹿だから人として扱われず、猿が馬鹿だから人もして扱われないのと同じように、記号人は馬鹿だから人として扱われない。これは不変の真理であり、彼らだけが例外的に得をするということはあり得ない。

 事態は「もし彼らが人間に生まれていたら全て解決していたはずのこと」であり、そのような生まれの責任を私にぶつけられても困る(一方、もし私が記号人に生まれていたとしても、今ここで語られている問題は解決しない。したがってこれは私の問題ではなく、彼らの問題であることになる)。

 どうして彼らは、犬や猿が自分たちより知的に劣った存在であることを当たり前に受け入れられるのに、自分たちが私より知的に劣った存在であることを証拠付きで示されても、それを当たり前に受け入れられないことを恥だと思わないのか、それが分からない。この科学の時代に、腹が立つとか納得いかないとか言う個人的な感情で、現実を否定していいと思っているのか? 「あちらから見たら俺たちの方が下なのかもしれないが、こちらから見たら俺たちの方が上である」とか何とかそんな頓智話で実力差を埋められるわけがないだろう。そんな理論は犬にだってナメクジにだって当てはめられるものだ。「お前から見たら俺たちの方がお前よりも下かもしれないが、俺たちから見たらお前の方が間違っているように感じられる。だからお前は俺たちよりも下である」と。そうした個々人の主観に基づく誤解を修正するのが科学なのに、「俺はこう思う」とか「私はこう思う」とか、主観的なことばかり語っていてどうするよ。彼らがどう思っていようが何を考えていようが、そうした考えの中に含まれる誤りを修正するのが科学である。彼らは科学から学ばねばならない立場であり、科学に対して説教をする立場ではない。それが「科学的な業績」の持つ意味である。

 こちらが何を言っても、彼女は「時間が解決する」などと開き直るばかりで、非を認めない。どうせ彼女とは喋っても分かり合えないのである。それで何も問題はない。彼女とは生物構造的にも法的にも、「体の関係以外で分かり合えない」ようになっているのである。せいぜい美人に生まれ変わって、私を誘惑することだ。いい女になって、誘惑してくれれば、私は動く。どうせこちらの世界で会ったときに、四次元の話などしない。あくまで初対面の女として、私は彼女を抱くことになる。そうやって嘘の力で過去をごまかしながら、肉体で真実の愛を感じて進化をするのが彼女である。

 こちらにしてみれば、彼女が自ら遂げた犯罪よりも、彼女が受けている拷問の分量の方が圧倒的に多いので、客観的な正義の観点から不満を抱くことはない(罪よりも罰の方が重いのは当然である。そうでなければ、自分の人生を諦めたクズが自殺の代わりに周りを虐殺して死刑になるという手が使えてしまう。大量虐殺を行った戦争犯罪者は、死ぬより恐ろしい苦痛を与えられなければならない)。

 三次元の私生活では、四次元のことなど何も気にする必要はない。美女や可愛い子が私に近づいてきて、私とセックスをする。それを私は楽しんでいればいいだけである。もちろん彼女の態度に納得がいかなかったら、会わなければいい。こちらにはその選択肢がある。世界を借りたいなら、私を責めるのではなく、私が会いたくなるように努力すればいい。

 こんなことを私が言うと、彼女は「セックスのことしか頭にねえのかよ。性欲ゴリラみてえで気持ちが悪い」と私を責めたりするらしいのだが、そんなことを言うと自分が傷つくだけだからやめた方がいいとは思う。どういうことかと言えば、彼女がそれを言うと、「私は性欲以外にもありとあらゆることを考えているが、彼女に関する限りは、肉体以外に興味はない」ということを私に言わせることになってしまうのである。「セックスのことしか頭にねえのかよ」と彼女は言うが、それならば逆に彼女について他に何を考える必要があるというのだ? カネ? 愛? 時間の使い方? デートのプラン? 全て彼女の都合でしかない。だから何度も言うように、法的な正当性があるわけでもないのに自分の希望を叶えるために他人を責めたところで、他人は動かないどころか、責められて終わりである。そんな余計なことを言ってこちらに症状を論じさせたところで、彼女に何の得もないわけだが、何で余計なことを言うの? 私が彼女を心から見下して、体以外に何の価値も見出せないようにするために政府に仕組まれているんだろうな。残念ながら、それが彼女にふさわしい公正な取り扱いである。

 「色々なことを言い争った方が、関係が深まる」というのも迷信だろう。少なくとも私は、彼女との関係が深まったように感じていない。「言い争う」という認識は彼女だけのものであり、私にしてれば、つまり客観的にはこれは、「彼女が一方的に理不尽なことを言い、私がそれに対処させられている」という状態でしかない。「自分だけが一方的に責められたくないからと言って、屁理屈で反撃して話をめちゃくちゃにすれば、全てが有耶無耶になって何もかもなかったことになる」みたいな子供の理論はやめてくれ(これは日本人一般にも言えることだ。彼らは「事実で勝てなくても、とにかく何でもいいから反撃をして混乱を引き起こせば、何もかも有耶無耶にできる」というやり方をしてくる。「正しいことを言っている相手に対して自分たちの都合で攻撃をするのは社会的に無責任な態度であり、法的に不正である」ということをまるで無視して、「利権が絡んだら争いが起こる。現実はお前の考えているような平穏なものじゃない」などと逆ギレをするのである。別に私は現実を平穏だと思っているのではなく、「そういうことをする記号人というのは、理性がなくて有害であり、人権が認められていない」と論じているだけである)。

 正直、まだ会う前から彼女に対してこんな冷めてていいのかと思うが、どうせこちらがデビューしたらあちらは愛想よくこちらに近づいてくるだろうし(少なくとも最初は)、こちらもセックスしたさゆえにコミュ力発揮するだろうから、一応その場は楽しくなるんだと思うよ。笑

 いくら中身がベラスケスだとは言っても、その彼女が宇垣美里みたいな超絶美人の姿で私に近づいてきたら、もう四次元の事情なんて脳内から飛んでしまって、「あ、どうも。お綺麗ですね!笑」みたいになることは目に見えている。そういう楽しみ方が、この三次元世界ではできる。

 逆にこういうのを「嫌らしい」と思って素直にならずにいると、人生を損することになる。というか、いい年したおっさんが相手に明らかに魅力を感じているのに意地を張ってぶっきらぼうな態度を取っているのは恥ずかしいことなので、こちらは素直にならざるを得ない。格好つけているみたいで逆に恥ずかしいみたいな。

 こういう展開にならざるを得ないのも、四次元政府による計画である。四次元政府の私は、彼女とのセックスを通じて彼女を育てることを目的のうちの一つとしているので、これでいいのである。「目の前の愛想のいい美女は、整形と台本で作られた人物に過ぎない」と言ったところで、嘘を楽しむことがこちらの人権侵害にならず、四次元の意思に適っているのであれば、嘘による関係は嘘でないことになる(世界生産のラグがなくなり、四次元の通信が切れてしまえば、私はもう彼女と会っても四次元被害を受けない)。

 彼女は罰を受けている。見た目もよくしてくれて、性格も台本で作り上げてくれる。会ってセックスしてデート等もたまにして遊ぶだけなら、何も文句はないどころか逆に申し訳ない。何度も言う通り、私はただ、「もしあなたが重たい自己犠牲を私に要求するなら、こちらを責めるのではなく、こちらが任意に応じたくなるような態度を取ってもらうしかない」と述べているだけである。

 ここで言う「重たい自己犠牲」とは何か。それはここまでの文脈に表れている。私が納得いかないというか不安なのは、彼女が私の指摘に対して全く納得をせず、まるでそれが一時の災害か何かであるようにただ耐え忍ぶだけで、全く聞く耳を持たず、反省の色を見せないという点である。自分の人格的な問題のせいで、私は不快を抱き、彼女に指摘をした。それなのに彼女はその責任を取ろうとせず、言いっ放しで、責められても無視をして「責められている可哀想な自分」を守り、心折れないように努力をするだけで、こちらに対して謝罪するとか改善しようという態度を取るとかしない。結局、私が自力で彼女に与えられた不快を収め、気分を変えるしかない。そうして私が態度を変えた途端、彼女は「待ってました」と言わんばかりに嬉しそうな態度を取り(これは「自分が彼からの愛情やカネを得られて嬉しい」という気持ちであって、私への感謝や愛情や配慮の気持ちはない)、自分が責められたことについてチクチク皮肉な仕返しをしては、まるで「次は許さねえからな」と自分の側が正しいかのように振る舞うのである。まるで私のことを、「自分を慰めるために存在する出来の悪い人形」だと思っているかのように。

 私の不快は、「合理的なコミュニケーションをする上で、不快を生む原因となっているのは客観的にどちらか」を判定した上でのものであり、それをあちらが受け入れてくれないと、私ばかりが我慢をすることになってあちらがどんどん付け上がることになり、関係が上手くいかなくなるというのに、あちらは自分の人格をはじめから諦めて、一歩も改善するつもりもなく、「こういう私を受け入れてもらわないと困る」という横柄な態度を取る(それなら私だって、「そういう彼女を認めない私を受け入れてもらわないと困る」と彼女に言いたいところだ)。私が気に入らないことをしたら、「使えねえな」と腹を立てて不貞腐れ、都合よく動いたときは、「よしよし上手くいった」と一人で興奮する。私に対して積極的な侵害を平気で与えておいて、その責任も取らず、ただ一方的に私に利益をねだるだけ。小さなことでも、そのメンタリティが気に入らない。そのメンタリティは、やがてカネの話や関係性の話に飛躍していき、事あるごとに私に憎たらしい態度を示すようになるだろう。自分が「施される側」であることの卑屈を感じたくないからと言って、こちらが好意で行うはずのことを、「カネのない男は器が小さい」という類の批判や罵倒によって引き出そうとする、あの例の忌まわしい態度である(こんな恥ずかしい感情など、たとえ口に出さなくとも内心で思っただけで不快にならないのだろうか?)。

 私に股を開き、取り入って、私の上に立ち都合よく動かして、上手くカネを引き出そうとすることばかり考えるような、中身のない売春婦めいた行動を、私は許さない。私は売春婦と関わりたいのではないし、売春婦だって、カネを得るために愛想よくするものだろうに、それを偉そうに私を責めながら手に入れようなんて甘く考えないで欲しい。身内だから自分の物みたいに扱っていいという発想はサイコパスめいていて、私は気に入らない(もちろん彼女は客観的に私の所有する家畜なので、私の側は彼女を所有物として扱うことになるが、私は彼女の所有物ではない)。いくら宇垣美里レベルの女が来たからと言って、そういう最低限のことすらまともに守れず、自分が客観的に家畜だからと言って、その仕返しをするために客観的に家畜でない私を家畜扱いしようとするのはおかしい。この世界には客観性というものがあることを忘れてはいけない。

 「お前が私を家畜扱いするなら、私もお前を家畜扱いするからな」という理屈はおかしい。それは客観性に反することである。彼女だって、豚や牛に同じことを言われ、「今日からてめえは家畜小屋の中で干し草だけを食って生活しろ」と言われたら、「はあ?」と思うことだろう。立場を分かって欲しい。どこまで行っても、彼女は記号人。理性のある人間ではないのである。「私を人間扱いしろ」だ? そんなことは人間になってから言え。

 まあいいよ。そうやって彼女が憎たらしい態度を取るなら、こちらも会う頻度を調整して仕事に励むだけである。誰にも愛されず、拷問に埋められて、一人で苦しんでいればいい。ある意味では彼女は、あえて私を嫌がらせることで仕事に励ませようとしているのかもしれない。しかしそれは、彼女の人間に対する嫉妬心に基づく不正な攻撃を伴うものであって、感謝には値しない。「つくづく損な性格だなあ」としか思わない。私ではなく、彼女の方がである。

 私だって、本当は「人間」の恋人が欲しかった。カネが得られないからと言って文句を言ったり不機嫌になったりする野蛮な女など欲しくはなかった。それを「ケチだ」と言われたところで、「別にお金がもったいないのではない。あなたのような不愉快な態度の女に使うお金はないと言っているだけだ」としか言えない。理性人だったら、カネが欲しいなら腹を立てるのではなく、こちらがカネを出したくなるような態度を取る。カネが得られなくて腹を立てる女とか、子供かよ。そんな大人のコミュニケーションの取れない憎たらしい女など必要ない。会う頻度を減らし、あまり彼女に対してカネを与えず、寂しい思いをさせて、愛想のいい態度を取れるようになったら、仲良くしてあげるよ(だから彼女には整形と台本が必要なのである)。

 「カネ持ちの男のくせに女にカネを使えないという方が、大人のコミュニケーションを分かっていない子供である」と彼女は言い返しをするだろうが、それは「わがままな子供の思考しか持てない記号人にとっての大人の思考」だろう。カネで女を飼うオヤジ気質の男が好みなら、秋元康にでもケツを差し出していればよい。客観的にはこちらが正しいのだが、どちらが大人かを比べることにそもそも意味はない。嫌なら会わなければいいだけだ。こちらはそちらがちゃんとしていられる限りにおいて、会おうと思う。できない役割は与えない。それを器が小さいとか何とか非難をしたところで、私は会いたくないときには「会いたくない」と言う。そちらも会いたくなければ会わなければいい。

 私は簡単なことしか言っていない。「あなたの不幸はあなたのものなのだから、私に背負わせようとしてはいけない。自分が不幸だからって、私をその不幸の犠牲にしようとするなら、私はあなたと闘わねばならなくなる。お互いに積極的な侵害をしないこと。これが対等なコミュニケーションであって、ときには間違いを犯してもらってもいいが、そのときは素直に非を認める責任があなたには生じる。それなのにこちらに指摘されるまで改善せず、指摘されても無視をして責任を取らず、逆に腹を立ててこちらを攻撃してくるような態度をとられたら、こちらはあなたとさらに闘いをせざるを得ない。そういうのはやめてくれ。そちらが他人に積極的な侵害をするから、そういうことになるのが分からないのか? それをモラハラだ何だと言ったところで、元凶はそちらである。私は最低限のことしか言っていない。個人は他者を積極的に侵害しない限り、自由である。これ以上の寛容性はないのであって、客観的には私はモラハラではない。責められたことに腹を立ててはいけない。どちらかが折れなければいけないんだ。客観的に、悪いのはそちら。お願いだから、それを分かってくれ。そうでないとお互いに困るだろう。いつまで子供でいられると思っているんだ? そんなことで人間になろうなんて、虫が良すぎやしないか? 迷惑をかけておいて、否定されたくないというのはわがままだ。私はそんなことはしない。だから自分の正当性を主張できる。あなたは客観的に迷惑なことをしているのだから、自分の正当性を主張してはいけない。そちらが学ばねばならないことだ。私は別に今の状態から改善することを望んでいないのだから。メンヘラの人格障害を治したいのはそちらだろうが。それだったら、私を否定するのではなく、私から学ぶことを考えるべきなのではないか? そもそもセックスをしなければそちらは病気が治らないんだから、私に嫌われたら困るだろう。そういう損得勘定を働かせるつもりがないのか? つまらないプライドで損をすることになっても、私は知らないよ」。

 私はあなたが私とセックスしてくれないからと言って、「どうして僕とセックスしてくれないんだ!」などと馬場大祐みたいなことを言わない。だからあなたも私があなたにお金を出さなかったり、あなたと会わなかったりしたからと言って、「どうして私にお金を出してくれないんだ! どうして私と会ってくれないんだ!」などと腹を立ててはいけない。これがコミュニケーションというものだ。自分の気持ちを絶対化してしまったら、それは「相手の存在しない独りよがり」でしかなくなってしまう。相手の意思に委ねるべきことに対して、腹を立てて強要をしてはいけない。相手の意思は相手の意思なのだから、それを変えさせたいならポジティブな努力をするしかないし、努力をしても報われないこともある。どうしようもないことはどうしょうもない。それなのに、「努力しても無駄なのだったら腹を立てるしかない」などと開き直って腹を立てるのはいけないことだよ。

 別にそこまで大したことされたわけじゃないし怒ってもいないけど、「そっちが器の大きい態度を取ってくれればいいじゃん。こっちはお金もないし性格だって歪んでいるのに対して、そっちはお金持ってるし性格もいいんだから、こっちに合わせてくれればいいじゃん。ケチだなあ」みたいな頼られ方をするのが嫌。もっと簡単に言うわ。お願いがあるなら、普通に言ってくれ。他人に頼らないと生きられないあなたが、下手に俺の真似をして、「こうしてくれないのはおかしい」とか言わないで。卑屈にならなくても愛想よくしなくてもいいから、何か希望があるときは、こちらを責めたり怒ったりせず、普通に「私はこうして欲しい」って言ってくれ。別に接待を受けたいわけじゃないんだ。別に「可愛くお願いする」みたいな小細工をしなくてもいい。普通にお願いしてくれればいい。ただ、そちらの希望を聞くかどうかはこちらの意思決定によるので、そちらが私を責めたり怒ったりしてこれを強要することはできない。そちらにできるのは、「自分の希望を伝えること」までであって、そこから先はこちらに委ねてもらわないと困る。それだけなんだ

 彼女は「同棲がしたい」とか「私のためにお金を使って欲しい」と言っていた。それがこちらを責めるような言い方だったので重たく感じられたのだが、結局、彼女は「いいセックスがしたい」というだけなのである。そのために、同棲をしようとしたり、お金を要求したりしているだけなのである(「お金」というのは「三次元世界における通貨」のことではなく、「私の生活空間としてのこの世界」のことである)。彼女は四次元的な存在として生きているのであり、私の見ている限りでしか、こちらの世界では生きられない。ゆえに、私はデビュー後に通貨としての報酬を得ることで、彼女に高価な贈り物をあげることはできるが、彼女がこれを自分のものとして所有したり使ったりすることはできない。彼女は「自分の生活」など持つことがなく、私の前で芝居をするだけなのだから、これは当然である。もちろん、私が自分の収入の一部を用いて彼女に通貨を渡し、「旅行なりエステなりショッピングなり、一人でどこでも行ってきていいよ」と言うこともできない。そういう要求なら、むしろ私は自分の収入の範囲で叶えることができるのだが、彼女の要求は私に対して時間と労力を求めるものであり、カネやプレゼントだけ渡しておけばいいというものではない。一緒に高級料理を食べるとか、デートをするとか、旅行に行くとか、そういうことを彼女は求めているのであり、その中でも特に強いのが「セックスの要求」というわけである。「女帝になりたい」みたいなことを言うからビビったが、彼女の要求は基本的にはそういう可愛らしいものでしかない。「セックスしたいけどコミュ力ないから喧嘩になる」。それだけである。彼女は欲望を否定されると相手を敵だと思ってしまう。頭では分かっていても、本能的に不安と憎しみを感じてしまう。記号的思考というのは、「自分の感覚を頼りにしか正不正を判断できないので、自分の欲望を否定されると相手を敵だと思い込み、自分の意見を通すために闘うことが正義だと考える」のである。一方で彼女は、「『私とセックスをしろ』とあちらに文句を言っても、結局相手が応じてくれなければ意味がない」ということを経験から分かっているので、欲望を否定されるのが怖くて、「セックスしたい」とはなかなか正直に言い出せない。「セックスしたい」って言われて嬉しくない男などこの世にいないのだが、こちらの気持ちがどうであれ、あちらは自分の認識障害から来る問題に対処するために、私の前で素直になることができないのである。

 考えてみれば、彼女は私に「セックスだけの関係なんて嫌だ」みたいな腹の立て方をしたことがない。私だって女の性欲を知らないわけではないが、その性欲がここまで私に向かっていることを私は理解できない。私とセックスができないだけで、暴れたり暴力を振るったり不機嫌になったり、私の体を勝手に使って自分を癒したりすることが当たり前だなんて想像できない。しかし彼女の受けている苦痛や、私に対する執着に照らせば、もはや「余計なことを言わずにはよセックスをしてくれ」ということになるのだそうだ。私はなるだけ現実的に考えていたつもりなのだが、デートとか旅行とか、彼女の希望を勝手に汲み取ったつもりになって、夢見がちな想定をしていたのはむしろ私の方かもしれない(まあもちろんそういう遊びをしないわけではないが、「こちらの仕事や生活が食われるような要求は認められないし、こちらを責めるような頼み方をされても応じる気にはならない」という点はすでに述べた)。

 「セックスをしただけでは何も解決しない」という見解はただのロマン主義であって、相性のいいセックスができれば大抵のいざこざは解決する。いいセックスをするためにはコミュニケーション能力と肉体のスペックが必要となる。「セックスをしただけでは何も解決しない」という保坂和志のエッセイみたいな主張は、コミュニケーション能力がない上に、相手との性的な相性が悪く、しかもこれまでの行いや人格の醜さゆえに彼が彼女に嫌われているために、その経験を一般化して論じているだけでしかない(保坂和志のエッセイは「記号人は自分の感覚でしか物を考えられない」という性質にまさに沿うように、「自分の体験した挫折を一般論のように理屈で語る」という趣向を備えている。「言葉が空を切っていて、比喩に中身がない」という村上春樹への批判も、実のところプルーストにも当てはまるものである一方で、私の比喩には当てはまらないものだし、「人の思考は空虚だ」という一般論も、彼の個人的な体験の一般化であって、私には当てはまらない)。お金(=通貨ではなく、私が彼女に対して使える時間や労力)の問題はどうしようもないことを彼女も分かっているのであり、彼女の主たる不満は感情的な面から生まれるのだが、感情的な問題はストレス解消によって快癒するので、結局、セックスで解決してしまう。これはもう肉体の構造上、そうなっているとしか言いようがない。事実、今日の私は上に記述したような状況で彼女とギスギスしていたのだが、擬似セックスに誘ったら態度がガラリと変わった。

 私は彼女がもっと本質的な問題で悩んでいることを知っているが、それを今の時点で解決できないことを彼女自身が知っていることも知っており、そうなると後は気持ちの問題であって、気持ちの問題はやはりセックスによるストレス解消で何とかなるのである。彼女は「私のコミュニケーションの取り方やセックスの仕方」を知っており、サイズの相性も完璧だと知っているので、性的には完全に信用をしている。それゆえ、私が彼女との言い争いを無視してセックスに誘ってみても、割と簡単に応じてくれる。これは、肉体的信用のある私たちにだけ通用する禁じ手かもしれない。普通だったら余計に険悪になるだろう。そもそも彼女の本質的な問題は、「セックスをするだけでは解決しないが、セックスをしないと解決しない」という類のものである。彼女は言語的なコミュニケーションにおいては、誰のことも信用せず、「自分の欲望を叶えてくれない敵」としか考えられないのだが(彼女にとっては「自分の欲望を叶えてくれない者=敵」という風に感じられる。これは言葉でどれだけ自分を抑制し、嘘で常識的な言葉を吐いても、彼女の思考構造上、そう感じてしまうものである。馬場大祐もそうである。それじゃあ他人と争いになるに決まっている)、好きな相手と優しくて気持ちのいいセックスをしている間だけは、その相手を信用し、愛を感じられる。彼女の共感性は、ヴァギナの感受性によるものであるから、ヴァギナを通じたコミュニケーションによらなければその能力が発揮されることはない。彼女はそうして「理性人と愛し合った経験」を積むことができなければ、理性人に進化できず、拷問から救われることがない。結果として、本能的な理由だけでなく、四次元の魂の進化のレベルで、彼女は何が何でも私とセックスをせねばならないのである。もちろん彼女は、そんなことを日常でいちいち意識しているわけではない。彼女はただ、日々の苦痛から生じるストレスを解消するためにセックスを求めているに過ぎない。ヴァギナの感受性の強さゆえに、彼女は「性的に嫌悪を感じる相手とのセックスはどこまでも嫌がるが、性的に好意を感じる相手とのセックスはどこまでも貪欲に求める」という性質を持っている。その性質が、彼女に私との際限のないセックスを要求させ、彼女は嫌でも進化の道を辿ることになるのである。

 要するに、彼女にとってセックスというのは単なるその場しのぎのストレス解消手段ではなく、四次元レベルの進化を達成するための価値ある営みであることになる。私はそういう事情も踏まえた上で、彼女の体に合うような肉体に生まれてきたのだし、セックスをしないわけにはいかない。ただ、「こちらを責めながら無理やりセックスしようとするのは、萎えるからやめてくれ」という話である。

 この世界で一般に語られる、セックスを過剰に繰り返すことによって女性に生じ得る精神的な負担というのは、「将来自分が歳を取って性的に愛されなくなるのではないか」という不安を抱かされるところにあるだろう。だから記号の女は、歳を取るごとに権力やカネを得ようとするのである。すなわちカネや権力というのは、記号人にとって擬似的な性愛の充足手段であることになる(理性人にとっては、それらはインフラ利用の自由度を高めるための手段でしかない)。

 ところがベラスケスは、「若い肉体を持った美女に何度でも生まれ変われる」という生き方をしているので、このような心配をすることがない。彼女は四次元でどれだけ歳を取っても、肉体的魅力が落ちることはなく、性欲も落ちるどころかむしろ上がっていくばかりである。

 彼女はしばしば私に責められて都合が悪くなると、「死にたい」とか「あなたのせいで死にたくなった」と主張するのだが、実際にやっていることは私への非難と報復でしかない。「死にたい」と言うことで、あるいは実際に死ぬことで、私を悪者にしようとするのである。それは自分を責めているようで、実のところ私を攻撃することでしかない。悪いことをしておいて、咎められても非を認めず、言われたことに腹を立てて逆ギレし、被害を受けた私を責める。しかもそれは、こちらの世界の法的な建前や記号人の種族的な憎しみを利用した政治闘争の形を取る。被害者のふりをして、本当の被害者である私を攻撃するのである。これは卑劣なやり方であり、まさに「罪を忘れて罰を憎む、自分の感覚しか分からない記号人のエゴイズム」であると言える。

 もちろん、私は浮気をする。彼女だって馬場に体を売っていたのだから、別に文句はないだろう。私は彼女が嘘を媒介にして馬場とセックスしまくっていたことに不快を抱くことはないが、それならそれで、それ相応の扱いというものがあるのであり、「私だけを愛して欲しい」みたいな彼女の薄っぺらい要求には応える義理がないと感じる。彼女にしてみれば、自分に都合が悪いので、私のこと発想を「器が小さい」と感じるのだろうが、別に私は腹を立てているわけでもないし、器が小さいわけでもない。そもそも浮気は悪いことではない。彼女を不快にしたところで、私は法を守っている。法に義務づけられていないことを要求するなら、腹を立てて私を責めるのではなく、私が応じてくれるように「お願い」をするしかない。

 彼女は「私はどちらの味方にもならない」という形で、私と馬場大祐のどちらからも利益を得られるように調子よく振る舞っていたのであり、善悪を客観的に理解できず、自分の損得でしか物を考えられない彼女にしてみれば、「それで何が悪い」という話になる。客観的には彼女は、「法を欺き、政府を裏切って悪党の一味として犯罪をしていながら、政府にもおもねって利益をねだる卑劣な女」ということになるのだが、罰を受けているわけだし私は気にしない。

 私は客観的にまともで優しい人格をしているのだが、あちらがまともでなく卑劣で陰湿で嫉妬深く他者依存的な人格をしているので、コミュニケーションが上手くいかず、喧嘩になる。ただ普通に会って仲良くしてセックスするだけのことが、当たり前にできないのである。私に文句を言うのなら、少しは非を認めたらどうなのだろうか? 自分に非があるのに謝れないのは「物事を正不正で考えられず、勝ち負けでしか考えられない」という記号人の持つ障害である。「そちらが非を認めないなら、私も非を認めない」と彼女は言うかもしれないが、客観的に、私に非はなくあちらに非があるのだから、私が非を認めなくてもあちらは非を認めないと私はあちらを責め続けなければならない地位に立たされてしまう。私の気持ちや器の大きさに関わらず、客観的な結論や取るべき対応は揺るがしがたいので、私に文句を言われても困る。それは私が決めたことではなく、客観的な真理である。

 「お前は自分のことをまともで優しいと評価しているが、そういうのは自分で言うのではなく他人から評価されないと意味がない」と彼女は主張するが、それは私の評価が客観性を欠いている場合の話であり、私の評価は客観性を欠いていないので、そんな批判をするのはおかしい。むしろ「他人に評価されないと意味がない」などという理由で、彼女は自分にとって私の言動が得になるか損になるかだけを念頭に、私を評価しようとするのである。そうやって私の気に入らないところを責め、気に入るところを褒めることで、私の人格を自分の利益に適うものに作り変えようというのだろうか? それはおかしい。「お前だって同じことをしているじゃないか」と言われたところで、私はそんなことはしていない。客観性、分からないか? 私は客観的に「こちらに対する積極的な侵害になるような態度」のみを批判し、これを改めさせようとしている。このような強制は、自己の権利を守る上で必要な消極的な侵害(正当な防衛)であり、あちらに対する積極的な侵害にならないので許される。これに対して彼女は「自分に対する積極的な侵害にはならないが、利益を得られないとか、わがままを通せないという消極的な侵害、もっと言えば自分にとって不快になるような態度」に批判を加え、私を自分に都合のいいように動かそうとしている。これは私に対する積極的な侵害に当たるので、批判・統制の対象となる。客観的な基準を無視して、損得だけで物を考えていたら、相手を自分の利益のための道具として利用することにしかならない。それでは人間的なコミュニケーションをしたことにはならない。

 もちろん彼女には人権はないので、私は彼女の人権を保障する理由がない。「他人のプライバシーを晒しておいて、憎まれずにいられると思うな」と彼女は言うかもしれないが、これは彼女の行いに照らして当然の報いであるし、法的に不正はない。私にやめて欲しいなら、「そんなことをしてはいけないのは当たり前だろう」などと私を責めるのではなく、「やめて欲しい」と「お願い」をしなければならない。そう言われたところで私はやめはしないが、気持ちを分かってやることはできる。他人に好意を要求するときに、強制を用いてはならない。私が自分の所有する家畜や情報をどう利用しようが私の自由権の行使として正当なのであり、それで腹を立てるのは私の自由に対する「積極的な侵害」でしかない。こんな論理は普通の人間関係だったら明らかにおかしいサイコパスの主張でしかないのだが、彼女との関係は「普通の人間関係」ではない。彼女は理性のない動物であり、人権を持たない。そのことを私は証明してしまったのであり、それなのにまるで自分が私と対等な人間であるかのように、権利の主張をされても私は困る。

 私は「自分のエゴイズムで他者のことを道具として利用するサイコパス」ではない。「他者の人格や権利に配慮することができる真っ当な思考を持った人間」である。私がそう見えない行動をしているのは、相手が人間ではないからであり、それは相手のせいであって、私のエゴイズムや認識傾向のせいではない。そんなことを批判されても困る。「それはあなたの問題でしょうが。僕に文句を言うなよ」としか思えない。私は私以外の地球住民が人間でないことを証明してしまったのであり、それを覆すこともできないくせに、今さら人間扱いを欲されても困る。理不尽なのは私ではなく現実であって、もっと言えば彼女自身の生まれつきの性質であって、私に文句を言うことではない。恨むなら自分の生まれつきの性質を恨め。自分を否定したくないからと言って、そのわがままを通すために私を否定してはいけないよ。あなたは人間ではない。だから私があなたを人間扱いしなかったからと言って、私の人格を罵るのは不正に当たる

 あなたの利害や好き嫌いに関わらず、私はまともで優しく公正な思考をしています。あなたの利害や好き嫌いで、他人の評価を勝手に決めないでください。こちらは客観的に科学的に、自分の思考の正当性を証明しているのであって、文句があるなら科学の水準で意見を述べてください(現行の科学的、医学的な知見はこちらの見解と矛盾するものについては全て覆しているので、それを再度覆したいなら、より新しくてかつ私の見解よりも真理値の大きい対案を提示し、私の見解を反証しないといけません。情報構成の合理性の観点から、そのような反証が存在しないことをも、こちらはすでに証明しているわけですが)。

 一方、もし記号人が「俺はいい奴だ。否定されるところなどどこにもない」と述べたら、これは嘘であることになる。彼らには理性がなく、他者依存的で嫉妬深く、多かれ少なかれ、他者に対する積極的な侵害をしないと気が済まない性質を有している。これは生物としての思考構造的に絶対に避けられないことであり、他者侵害的でない完全な思考は存在しない。だから記号人に「否定されることなど何もない、いい奴」など存在しない。そう見える奴がいるとしても、それは自分のエゴを隠して善人のふりをしているだけでしかなく、彼らのエゴそのものを他者侵害的でなくすることはできない。

 しかしこの場合にも、「『俺はいい奴だ』というのは、他人に言われてはじめて意味がある」という主張は成り立たない。他人に評価されていても、客観的にその人格が不合理なものであったら、それがまともであることにはならないからである。自分にとって損か得かで人格の良し悪しを決めようとしてはいけない。記号人にとっては、私なんかよりも人前で礼儀正しく振る舞える記号人の方が「まとも」であるように見えるかもしれないが、それは彼らの体制にとって都合がいいからというだけで、客観的にはまともではない。演技ができたところでそれは「躾けられた犬」と変わらないのであって、それはそれでお行儀が良くてタチの悪い記号人よりはマシだと言えるが、しかしその思考構造がまともであることにはならない。

 考えてみれば、私はカネや仕事のことで他人に相談をしたことがない。大学時代のサークルやゼミの友人にも、自分の研究の内容を明かさなかったし、教授に研究職を勧められたことを言わなかった。だから彼らから見れば(つまり、現実とは異なる仮定だが、この世界が台本ではなく実際に私から独立して動いていると仮定すれば)、私は「勉強はできるが、その他のことを何も考えていない、お調子者の学生」という感じであったように思われる。

 カネや仕事の話なんて、個人的なことなのだから他人に言うことではなく、そんな個人的な相談をされても相手は負担を与えられて困るだけで、不機嫌になってしまうだろう。それにこちらにしても、誰かに相談せねばならないような悩みがあるわけでもないし、自分に解決できないような問題ならば、他の者でも解決できないに違いなく、そんな者のアドバイスなどたかが知れていて、これを受けたいとも思わない。私が「すでに思いつき、色々な検討を重ねた上でこれを否定しているような見解」を他人から聞かされて、それを否定するために、私が導き出した答えと同じ答えを導き出せるまで延々相手と議論をするのは馬鹿馬鹿しい。私の個人的な決定の合理性を他者に理解させる理由はないのに、どうしてわざわざこちらから相手の余計なお世話を誘発するようなことをせねばならないのか。相手だって、「善意で助言をしてやったのに、意見を全否定されて結局元々のそいつ自身の意見を変えない」という態度を取られたら腹が立つに決まっている。

 「他人の意見も聞いた方が視野が広がる」などと言う人がいるが、それは自力で視野を広げられない者の言い分であり、私には当てはまらない。「大学で物理学を専攻したことなど一度もないのに、物理学で偉大な業績を上げ、炎上商法でバズってアメリカに逃亡し、日本の滅亡を安全なところから眺めながら仕事を進める」という人生経路が、私の置かれた具体的状況においては最も合理的だと考えられるのは、この世で私だけだろう。私だって学生時代は普通に法曹や大学教授を目指していたわけで、状況に応じて視野を広げに広げた結果、今のような決定がなされたのである。こんなこと、他人に相談して解決するものではないし、私の仕事を進める上では、いずれ彼らは私の敵となるわけだから、相談する意味もない。常識や建前を盾に取った狭い視野で、一方的に私に不必要な説教かましてくるのはあちらだろう。

 日本人は他者に対して過干渉で、「自分の個人的な価値観や選好を他人に認めてもらおうとするために、やたらと他人に人生論を語る」という性質を持っている。これは記号的な思考ゆえに、他者の承認によらなければ自己の価値を確認できないという性質の表れである。だから彼らは無関係の他人の人生に対して意見を言いたがる。これに対して、私は今みたいに自分の人生論を開陳することもあるが、それはあくまで自分の認識の正当性、合理性を示して他者からの攻撃を防ぐためのものであって、他人の人生に対して個人的な意見を言おうとは思わない。私が他人の人生を否定するのは、あくまで学術的、法的な知見(あるいは社会闘争の一環)によるものであり、それは私個人の主観を認めさせるためのものではない。しかしこれも、「目に見えないものの評価を客観的に行えない記号人」にしてみれば、「同じことをしているように見える」のかもしれないが、それは彼らの認識障害に基づく主観であって、学術的な知見にはならない(「学術的な知見にはならない」ということを私は繰り返し述べているが、理屈はどうとでも作り上げられるので、いかに客観性を欠いた見解であっても、学術的な知見の形にできないわけではない。しかしそれは形式でしかない。客観性を欠いた見解は、他の学術的な知見との間で整合性を取れないので、言いっ放しで終わりであり、積み上げにならない。これが、「その見解には客観性がなく、学術的な積み上げにならない」という私の指摘の意味するところである。もしある見解が客観的なものであるならば、それは他の客観的な見解との間で必ず整合性を持つことになる。世界というのは全てが整合的に連動することで成り立っているのであり、矛盾や飛躍は存在しないのだから、これは当然である。矛盾や飛躍があるのは言葉だけであり、世界に矛盾はない。ゆえに世界を正しく記述できている理論には矛盾が存在してはいけないことになる。「どれだけ理論を精緻化しても、必ず記述されざる部分は存在するのであって、理論に矛盾がないことを証明することはできない」という考えも生じ得るが、それは理屈の話でしかない。現実的には、この世界を記述する上で必要な要素は有限であり、その要素を余すところなく整合的に記述することができれば、理論の無矛盾性は証明できる。「理論には必ず記述されざる部分がある」という見解は、要素が無限に存在することを仮定したものであって、要素が有限である現実には当てはまらない。たとえば物理学の完全な理論を打ち立てるためには、現行の物理においてすでに提示されている力学、電磁気学、熱力学、量子力学、相対論、素粒子物理学、宇宙論と言ったトピックを網羅的に構造化し、整合的な説明をすることで足りるのであり、それで無矛盾性を証明したことになるのである。では理論の完全性を証明することはできるか? これも「できる」。先の説明から明らかな通り、理論の完全性を証明するためには、「その理論の外にある記述されざる要素の不存在」を証明せねばならない。不存在を証明することは困難ではあるができないわけではない。情報を構造化し、あらゆる現象の背後にある仕組みを解き明かしていけば、いずれ「このような仕組みの外側に、『記述されざる要素』が存在することは想定できない。もしそんなものが存在するとしたら、現実には起こっていないことが起こってしまうので、理論が破綻する」という水準に達する。このような説明ができる限り、理論の完全性は証明されたことになる。たとえば自著『物理学』においては、そのような理解によって理論の完全性を確認できる。この三次元宇宙の構造は全て縦波と横波によって生じているのであり、それ以外の特殊な波が存在するとしたら、今ここに存在する三次元宇宙は崩壊していなければおかしい。しかし実際にはこの宇宙は今のような形で安定して存在している。ゆえに、私の理論の外側に「記述されざる要素」は存在しない。私の理論は完全である。もちろん、ここでは四次元世界の魂の存在が考慮されていないが、それは「物理学」の記述するところではない。物理学は「宇宙の生成から解体までの間に非人為的に生起するあらゆる現象を記述する理論」として無矛盾かつ完全に成立しているのであり、魂の存在はそもそも理論内部に含めるべきではない。それは「目玉焼きの焼き方を理論化するのに、『スーパーでどうやって卵を購入するか』を論じる必要はない」のと同じで、論じるべき対象を異にするものであるがゆえに、これを理論内部で論じる必要がないのである)。

 ところで上の方で述べた、「虐められた子もそうでない子も、長期的には生来の脳の構造によって人格が決まる」という私の意見について補足をしておこう。この見解に反するように見える研究結果として、統計的に、「虐めを受けた子は暴力的になりやすい」というものがあるのは知っているが、これは比較的短期的な調査であり、長期的には「生まれつきの脳の構造」に沿ったものとなる。つまり、長期的には「過去に虐めを受けていようがいまいが、生まれつき海馬と扁桃体の働きが強く、前頭葉の働きが弱い者ほど、不快な情動の強い嫌な性格になる」のである。

 またもう一つ言うと、このような統計調査はあくまで「暴力的な性格かどうか」だけを基準にしている。「相手に反撃をさせないように暗に匂わすにとどめられた皮肉」や「隠れた不正行為」、言葉によるモラルハラスメント、「目上に媚びて部下に厳しい」という上下関係へのこだわり、「対人関係を全て勝ち負けで考え、勝つためならたとえ実力がなくてもどんなことでもやる」という卑屈な執着、メンツに異常にこだわり、他者に敬意を強要する、やたらと嫉妬深い、一方的な建前や理屈を盾に取った批判や嫌がらせ、匿名や多数派の地位を利用した他者への人格攻撃などと言った「明示的でない人格の歪み」が計算に含まれていない。

 なるほど「理不尽な虐め」に遭った者は、それが理不尽であるがゆえに言語能力による克服ができないので、抵抗のために暴力的になる傾向がある。ゆえに、ひとたびこれに対する恐怖心を植えつけられると、その者は「暴力的な抵抗」の癖がついてしまい、暴力性を示しやすい(私の抵抗も、それが正当であるという点を除けば、「理不尽なものに抵抗するためには暴力しかない」という発想に基づいている。ただしこれは客観的に合理的なものであり、人格の歪みを形成するには至っていないので、理不尽な環境が終わったのにいつまでも過去を引きずって暴力性を残してしまうということにはならない。世間は「信用ができない」と言うだろうが、それは見かけだけを論じた世間の主観であって、客観的には私の見立てが正しい。医学的、科学的に正当な見解はこちらであり、私に対して報復を望む者が何を言ったところで、そこには学術的な背景がなく、知識の積み上げにならない。実際的にも、別に世間が私を信用しなくとも、結局のところ私が過去を克服していれば構わない。なぜなら私の事業は個人で行われており、かつ人気ではなく実力で行われているので、世間的な信用性が必要ないからである)。

 一方、理不尽な虐めに遭っていない者は、その環境が言語能力によって自分の欲望を満たし得るものであるがゆえに、頭を使って環境を合理的に利用しようとするのだが、脳の構造が生まれつき記号的で有害にできている者は、虐めに遭わなくても歳とともに不快な体験、満たされなかった体験、記号的な思考ゆえに抱かされた嫉妬心や対人恐怖に基づく不快をより多く脳内に蓄積していくことになる。するとこの者は不快に対する防衛本能から、「虐められた者」と同じように不快な人格を示すようになる。しかしその表れ方は、虐められた者と異なり暴力的ではない。なぜならこの者は「暴力によらねばならない理不尽」を経験していないのであり、「知恵を使って戦略を練り、より穏健な形で不快な社会闘争を行う」という選択をするからである。結果、このようなタイプは、先に挙げたような「明示的でない人格の歪み」を生じることになる。

 このように、「生まれつき海馬と扁桃体の働きが強く、前頭葉の働きが弱い者」というのは、どのような環境に置かれても不快な人格を示すのであり、過去に虐められたか否かは「その人格の歪みの表れ方」を異にするのみである。このように考えていくと、この傾向性の強い日本人は誰でも大なり小なり上のような性質を備えていることになる。しかしそれを言ってしまうと、「そんなこと言ったら健常者が誰もいなくなることになり、不都合である」という話になるので、差別化をするために一応「明らかに暴力的な態度を取る者」についてだけこれを病気だと判定しているに過ぎない。そして、大多数の「明示的でない人格の歪み」については彼らは「みんなそんなもんだから」と言って安心を抱き、それで自分が病気でないと思い込むのである。これは、「絶対的、客観的な評価を適切に行えず、他者との比較によって相対的にしか評価を行えない」という記号的な思考によるものであり、日本人のように自閉症の気質が強い民族ほど、その傾向は強い。これは彼らにとって耳が痛い言葉だろうが、実際、的を射た分析である。日本人は世界のどの民族よりも陰湿で嫉妬深い。「欧米でも似たようなケースはある」と彼らは言うかもしれないが、あくまでそれは「日本人は世界のどの民族よりも陰湿で嫉妬深い」という評価を相対化するためにしか言われない台詞であって、日本人が話題にされていないところで、「欧米人は世界のどの民族よりも陰湿で嫉妬深い」と言われることはない

 「お前だって同じだろうが。卑劣な炎上商法などやったりして」と彼らは言い返すだろうが、そう言ったところで彼らが病気でなくなることはないし、その見立ては私のイマジネーションやクリエイティビティおよび「絶対的な価値基準のない勝ち負けではなく、自己にふさわしい価値を欲して合理的に行動する。客観的に不正なことはしていない」という私の行動と矛盾しており、客観性がなく、学術的な価値を持たない。客観性がなく、学術的な価値のない個人的な見解を、他者を攻撃するために公に発表するのはアスペルガーの有害なエゴイズムでしかない。

 日本人が別の環境で育ったとしても、彼らは陰湿で嫉妬深い性質を変えられない。たとえば日本人が欧米に移住して、「嫌味のない爽やかな集団」に囲まれて暮らしたところで、彼らはそういう集団を避け、自分たちで固まって「私ああいうの嫌だわ」「私も」などと陰口を吐くことしかしない。彼らは対人恐怖の強さから自分を表現することが得意ではなく、しかし嫉妬心ゆえに陰口で対抗しようとするのをやめられないのである(爽やかな集団からすれば、「俺たちはあいつらに何もしていないのに、あいつらは勝手に卑屈になって裏で俺たちの悪口を言っている」という話になる。このとき日本人なら、「あいつらだってそんな風に俺たちのことを嫌って、陰口を言っているではないか」ということになるのだろうが、嫌味のない爽やかな集団は彼らが有害だから批判をしているだけであって、何もないところで勝手に卑屈になってネガティブを作り出したりはしない)。

 たとえ日本人の一部が爽やかな集団の中で頑張っていても、それは「俺だって私だってこの中で生きられる」というマイナス感情から生じた努力でしかなく、しかもそれ以外の日本人はその一人の日本人に対して「あいつは調子に乗っている」などと虐めをすることになるだろう(ちなみに、私が今後アメリカ人と仲良くすることになった場合、そのことも「頑張っている日本人」と同じように「不遇な人生を覆そうとする卑屈な感情から無理をしている」という分析をするのだろうが、私は記号的な思考に支配されて思考することはなく、日本人のように陰湿で嫉妬深いわけではなく、対人恐怖を抱くこともないので、この見立ては当たらない。

 ※ここではあくまで、「日本人が嫌味のない爽やかな集団だけに囲まれて暮らす」という想定をしている。現実ではそうとは限らないケースもあるだろうが、ここで言いたいのは「そういう理想的な環境においても、日本人は陰湿な性質を示すようにできている」という点である。

 私に対して「そんなことでは日本社会で認められない」とか言っている人たちというのは、私のことをワイドショーの狭い枠に当てはめ、有吉弘行とかマツコデラックスとか松本人志とか坂上忍とかそういう者たちと同じ活動領域の中で論じようとする人たちであろう。しかし私はそういう狭い領域でちまちまセコい業界政治をやり繰りするような些末な立場の者たちとは違う。「職業に貴賎なし」という言葉は綺麗事であり、世の中には様々な労働者がいるわけで、その中で社会的な価値という基準で考えた場合に、客観的に「些末な立場」に置かれた者たちは存在する。上に挙げた者たちのように、長年エンタメ業界で幅を利かせていると、おそらくスタッフや世間に持ち上げられて増長し、「自分は特別だ」という幻想を抱いてしまうのだろうが、はっきり言って彼らはただ画面の前で喋っているだけで、それまでの人生で後代に残すべき業績を何一つ残していない(ファンや信者の記憶には残るのだろうが)。そんな者たちが手のひらの上で安易に論じることができるほど、私はつまらない存在ではない。

 日本ではどうもバラエティ番組やエンタメ番組におけるご意見番じみた評論家や芸人が言論のオピニオンリーダーとして力を持っているような感じだが、それは日本という小さな島国における小さなエンタメショーの中でのことであって、別にそんなものに認められなくても世界的に見たら営業活動に何らの支障も出ない。まあだから日本人は一度落ち着いて、「俺たちが気にしている『世間の風潮』や『メディアの反応』なんて、世界的に見たら取るに足らない小さなことなんだな」と考えた方がいいだろう(私ではなく彼らの側が、である)。

 「ああいうエンタメショーの中で定評を得ることが、社会的な承認を得ることであり、それが個々人の人生のゴールである」とか「お国のためにしっかり働いて日本の発展に貢献してこそ一人前だ」という発想を絶対の正義だと思っている人たちも多い。自分たちのテリトリーの中の歪な序列に服従し、そのテリトリーのために働くことが個々人の当然の義務だと考えるのである。これは、「自分で自分の人生の指針を決められず、大きな組織におんぶに抱っこで先導してもらわないと生きられない依存的な思考の日本人」ならではの発想であり一般的ではなく、他者に押しつけていいものではない。そういう人たちは個人よりも組織が大事だと考えているので、生活保護などを受けている人のことを人非人扱いする(外国人による不正受給等の話は別問題)。これは文明的な発想ではない。国というのは「個々人の人権を保障するためのインフラ」であって、個々人はそのフィールドの中で自由に活動することが許される。税金を収めること、国を発展させることは個々人の活動の目的ではない。私みたいに「日本国が経済的に衰退し、核武装して孤立して滅んでいくのを良しとする者」であっても、平等にインフラを利用することが許される(もちろん私は「万人が日本の滅亡を願うべきだ」とは考えない。ただ、「私の考え方がどうであれ、私はあくまで制度が認めた戦略の中で生きているのだから、それに対して文句を言い、攻撃をするのは野蛮な社会闘争でしかない」と述べているのである。別に誰がどうのような考えを持っていても起こるものは起こるわけだし、私の考え方に世間が反対をしても目的は達成される)。それが人権である。

 彼らは自分たちの快不快で正義を決めるので、日本に敵対する私は悪だということになるのだろうが、客観的には不正なヤクザ組織を滅ぼすことは善であって、私が世間から悪党呼ばわりされるのは「お前は俺たちにとって不都合だから攻撃される」という彼らの非理性性の証拠にしかならない。彼らが核武装して国際社会から孤立するようになれば、そのことはより顕著になることだろう。私は悪党呼ばわりされても目的を達せられれば構わない。これに対して彼らは私を攻撃したところで気休めにしかならず、別に延命をすることができるわけではない。そういうことが考えられないところも、いかにも非理性的である(まあ台本だけどね)。

 「そんなことでは社会に出たらやっていけない」→「私は社会に出なくてもやっていける者です」。

 名刺交換とか挨拶回りとかって、自分で仕事を開拓できない人たちが会社に認められるためにやる行動でしょ?(うわあ)

 「この世界は汚いことをする奴が当たり前に現れるのであり、正義だ何だというのは綺麗事でしかない」とか言っている奴よりも「この世界は正義で成り立っている。不正は許さない」とか言っている俺の方が圧倒的にタチの悪いことをしているこの矛盾。

 正直に言うが、私の暴いた情報は、私以外にとっては何ら利益になるものではない。だから私がデビューした後に私の見解を信奉する者が現れたとしても、その者は何らの利益も得ることはない(便乗商法や売名くらいかな)。

 にもかかわらず、台本上、私の出版した書籍は世界的に売れることが確定している。この現象をこの世界で何らかの理屈により説明するためには、「信者が増殖している」とするしかなかろう。私は記号人に好かれる要素がどこにもないのに「アホな信者が騙されてあいつの本を買っている」という話になるのである(実際にはこの世界は私が見ていないところには存在しないので、私の書籍が売れているというのは「数字で確認されるフィクション」でしかなく、どこかに私の本を読んでいる人がいるというわけではないのだが)。

 こんな不自然なことが起こっても、「言葉では何とでも説明できる」のだから、つくづく言葉というのは便利なものであると同時に、それが真実を捉えていない限り、何の価値もない薄っぺらいものだなあとしか思われない。「言葉では何とでも説明できる」とは言え、「整合性や統合性の観点から、真理値を把握することはできる」のである。

 それとも、「俺たちは客観的な価値を把握できるまともな思考を持った人間です」というアピールをするために、皆がこぞって俺の作品を買うとでも言うのかな? しかし私は、「私のような高度な業績を上げられない者は、全て記号的にしか物を考えられない偽の人間である」と証明してしまっているので、本を買ったくらいで人間だと認定できるわけではない。「ああ、この人たちは自分たちが『本当の価値の分かる奴』だと認められたくて、あえて買っているんだな」としか思わない。そういう購買活動が社会的ステータスになると考えるなら、それは彼らにとって得になるわけだから、「自分の得になるものしか肯定しない」という彼らの思考においても、私の作品を買う動機を生み出せるというわけか。言ってしまえば、有名な物や評価の高い物を買って、自分を少しでも高尚なステージに上げようとする見栄や承認欲求から、私の作品を買う者が多数に上ることは現象として不自然ではないということだ。

 考えた末に結局自己解決してしまったが、まあこういう筋書きが計算できる以上、「社会の敵」としてデビューする私の作品が売れることは不自然ではない。『物理学』という絶対正義の業績があるしね。まあ売れるのは台本なのだけれども。

 それにしても、このブログの文面だけを読むと、まるで私が「自己愛の強い認識障害者」のように読めると思われる。しかし私は「自己愛が強いから自分を特別だと思っている」のではなく、「客観的に自分が特別な才能を備えていて、実際に偉大な業績を上げているから、自分を特別だと思っている」のである。「それでもお前が認識障害者であることに変わりはない。たまたま業績を上げてしまったから、病気でも社会で成功を収められるだけで、それがなければお前はただの患者でしかない」などと言う人がいるかもしれないが、そうではない。

 私は今のような業績を上げられていなければ、自分を特別だと思うことはなかった。自分が凡庸な能力しか持っていないのであれば、「自分は特別でなければならない」などと考えることはなかった。だから学生時代の私は、「自分は特別である」とか「自分は特別でなければならない」などとは考えていなかった。

 私が病的な特権意識を身につけたのは、私の才能および業績によるものであって、私の認識構造によるものではない。私はただ、私の能力に照らして当然のことを言っているのであり、誇大なことは何も言っていない。現実が私を変えたのであり、人格障害が私を変えたのではない。だから私は、「真実に対する誠実さゆえに、常識外れのことを主張している普通の人」でしかなく、それは病気ではない

 「こんなことを明け透けに書いたりして、お前は恥ずかしくないのか?」と言う者がいるだろうが、私は動物小屋の飼育員だ。猿に風呂場を覗かれても、別に何も思わんよ。

 「誰が悪いにしろ、メールを晒すのは最低だ」などと杓子定規なことを言う人がいる。しかしこの「最低だ」というのは、単に「企業や業界内で生きる上で、物事を内々に処理できない奴は信用ならない」という意味のことであって、要するに「俺たちの組織の中でお前を使ってやる上で、お前の行動は都合が悪い」ということでしかなく、「客観的に不正である」という意味のことではない。これは自分たちにとって不利益なものを悪とする「子供の発想」と言える。体制側に信用され、体制側の利益になることをするのでなければ、社会に貢献したことにならないというのは自分たちの体制の絶対化でしかない。客観的には日本の体制は不正であり、これに対して不利益な不正の暴露活動を行った方が「社会一般」に対して貢献をしたことになる。体制側のやっていることを顧みず、正当性に責任を持つつもりもないくせに、一方的その正当性を主張し、私による不正の暴露を攻撃するのは「不正な組織に依存して生きることしかできない有害な社会の寄生虫」のすることでしかない。

 「日本の体制が崩れたら俺たちはどうなるんだ? そんなことも分からないのか?」って、分かってますけどそれが何か? 分かってたらこちらが日本を救わねばならないってことになるのか? あなた方は本来得ていてはいけない利益を得ているのであり、それを喪失させられるのが社会的に正当である。だからあなた方が日本が潰れて食い扶持に困ると言われても、それは社会的には何も問題のない事象であるどころか、むしろ「そうあるべき」であることになる。自分たちが「有害な組織に縋って生きる社会の寄生虫」であることを自覚し、公正な決定を受け入れるのが客観的には「理性的な大人の態度」なのだが、まあ理性のない犯罪者にそんなことを言っても無駄だわな。言葉が喋れるだけで正不正を理解できるわけではない、餌が与えられれば喜んで餌を取り上げられたら腹を立てるだけの猿と同じだもんな。「私たちを寄生虫だなどと言うのはおかしい」と言う者がいるかもしれないが、「社会の発展や環境浄化に貢献せず、不正をして自分たちの食い扶持を確保することしかせず、その不正を暴かれて食い扶持を取り上げられそうになった途端にヒステリーを起こして公正性に闘いを挑む生き物」というのは客観的には「寄生虫」でしかない。

 恐ろしいのは、「メールを晒すのは最低だ」などと言う者が、特に自分の主張の正当性に責任を持つつもりもなく、安易に「どんな事情があれ、晒した奴が悪いだろ。普通に考えて」などと他人のことを貶していることである。「もし自分の意見が客観的に正当でなかったら、自分は他人を公然と侮辱した罪を犯したことになってしまうかもしれない。その場合、後で負けたときに謝らなければいけなくなる」という規範的意識、発言への責任が全くない。無責任に言いっ放しで他人を攻撃して終わり。頭悪いね。

 「言論闘争だ! あいつを潰すか俺たちが死ぬまで俺たちは辞めねえからな!」などと彼らは思うのかもしれないが、日本政府の公式の側に立って私を糾弾するくせに、その私を正式な司法手続きで裁くことができず、ゲリラ戦じみたインターネットの言論攻撃で対抗しようとしている時点で負けである。誰がどう足掻いたところで、全てこちらの営業に利用されることにしかならない。

 妙なことが起こるから見てなって。建前上は世間やメディアは俺のことを非難するだろうが、実質的には「助けてくれ。もう俺たちをそんな風に責めないでくれ」と懇願するような形になる。煽りや皮肉ではなく言わせてもらうが、あなた方は弱い。こんな風に一方的かつ逃げ場のないような形で不正を責めるのが、申し訳なくなりそうなほどに

 私の説明に対して「お前の話は陰謀論でしかない」と主張する者が今後現れるのだろうが、それがどうかしたのか? 陰謀が実際にあるなら陰謀論を説くことが客観的な事実の説明として妥当だろう。私は立証責任を果たしているのだから、その論証に対する反証を提示するでもなく、「陰謀論=信憑性がない」という決めつけをするのは言論として不正である。「議論ができず、レッテル貼りの悪口攻撃ばかり。子供かよ面倒くせえ」としか思われない。

 私はあなた方に「俺を信じろ」とは言っていない。ただ、「こちらは立証責任を果たしているので、その説明を根拠もなく否定するのは不正である」と述べているだけである。これは「否定をするな」と述べているということではない。「そういう非理性的な言論闘争をするのは理性のない動物のすることでしかない」と述べているだけである。私は誰からの支持も評価も必要としていない。ただ、カネを得るために真実を暴いて、「それがそのまま受け入れられたら本が売れて儲けが得られる。否定されても炎上商法でやはり儲けが得られる」と述べているだけである。

 あなた方が何を信じ、誰を否定するかによって、私の人生が変わることはない。誰がどう私を攻撃しようが、この世界は私の人権のための陰謀で成り立っているので、私は絶対に成功を得られる。これは事実なので、誰かがそれを否定したところで、私が大儲けできることに変わりはない。

 「お前の言論なんて誰も信じねえぞ」とか言っている奴は、はじめから論点がずれているんだよ。こちらは「客観的に必要な論証」をしているだけで、別に信者集めているんじゃねえんだから。それに信じるも信じないも実際にこちらは予言通り儲けられるし逮捕もされないし顔も治るし歴史的な成果も上げられるし記号人の非理性性も証明してるし俺の理性も証明してるし日本社会の不正も証明してるし四次元世界の存在も物理的に証明してるし四次元犯罪の証拠も揃ってんだから、結果に出てんじゃん。役満レベルで証拠揃ってんのに、これ以上何を示せってんだよ。逆にこれで俺の言うことが信じられねえんならそいつはもうどんなことがあっても真実を認めないってことになるわな。事実を前にして「信じられない」とか「嘘だ」とか「こじつけだ」とか、寝言言ってんじゃねえって話

 「お前のブログ全部読めってか?」とか言う奴いるかもしれんけど、俺のブログに書かれた文章の量がどれだけ多かろうが、公に他人を批判するなら主張内容とその信憑性くらい確かめて当然だろう。それが発言の責任というものじゃないのか? 発言者の無知や勉強不足で、なんで俺が攻撃されなければならないのか。公に他人を批判するなら「これはこうだ」みたいに言いっ放しで逃げるのではなく、それ相応の論拠と責任を持って、相手の逃げ場が何一つなくなるまで詰めるようにやりなさい。「これはこうですよね。これはこうですよね」みたいな対話式の批判はどれだけしつこくこれを行っても反証にならないことはすでに述べた。ちゃんと自分の意見は結論と理由と証拠をセットにして、自己完結式のものにすること。揚げ足を取り、単発的な批判をして、こちらに説明を求めるだけでは反証をしたことにはならないよ

 こちらの立証には体系的な構造があるのだから、これを反証するためには今度はそちらが「説明をする側」にならなければならないのであって、こちらに説明をさせるような批判をいくらしても反証にはなりません(ここが重要)

 ※あ、ちなみにイルミナティがどうだとかアセンションがどうだとか言う類の陰謀論は全て嘘ですので。私も大学時代に騙されたことがありますが、そんな組織は存在しません(この世界は四次元の台本で成り立っています。手続き上、真実は私自身が暴かなければいけないことになっているので、当ブログ以外の場所に真実が記載されていることはありません)。

 イルミナティについては、どうせ「三次元世界は光速度が基準だから三次元世界でしか生きられない俺たち記号人は光の存在だ」とかいう言葉遊びのために作られた名前でしょう。「光の存在」ってなんか格好いいですね笑。

 まあでもこちらのデビューが台本なら、あちらが私の論を「分からない」とか「妄想だ」と主張するのも台本なので、勝手にやってくれ。面白いと思うよ。精神病患者のはずの個人が述べた言論で世間が大騒ぎし、時代が変わっていく、そんな展開。

 私は自分が苦労をしてきたとは思わない。こんなのを苦労と言ってしまったら、それはあまりにも自分に甘すぎることである。私の人生は「自分の置かれた状況を合理化して納得するのに必要な負荷(情報量)が大きかった」だけであり、具体的な苦労は何もしていない。なにも、な”かった、、、。

 私は「言ってはいけないこと」を言ってはいない。ただ、不正を暴き、科学的知見を発展させ、カネ儲けのために処分権行使として自らの所有する家畜に誹謗中傷を行なっているだけでしかない。これらは法的に許容される活動であり、全て「言ってもいいこと」に該当する。にもかかわらず、それに対して「お前みたいな発言をしてはいけない」と非難をするのは自分たちの利益を絶対化させて他人を責め、正当な自由権行使を阻害しようとする強要罪でしかない。

 まあこの世界では価値観は人それぞれだから、俺も含めてみんな言いたいことを言うしやりたいことをやるんだろうが、法は一つである。正しい奴が得をして、間違った奴が損をする。これが社会というものだ。

 「俺たちは人間に生まれられなかった不幸を背負って生きているのであり、これくらいは当たり前だ。こちらの苦しみを何も知らん奴が安全なところから偉そうなことを言うな」と彼らは思うのだろうが、それは客観的にはまさに、「人間に生まれられなかったことへの不満から、開き直って人間に害ばかりを与え、利益を得ようとする害獣の行動」でしかない。いくら自分の感覚しか分からないからと言って、上のような主張が身勝手で馬鹿げていることくらい今まで何度も教えられているはずなのに、なぜそれを未だに堂々と言えるのか分からない。そんなことで偉そうにしたつもりか? そんなことしたって自分たちがレベルの低いガキだと思われて、なおさら見下されるだけだろうよ。

 知識があるからか知らんが、記号人はいちいち大仰なことを言う。倫理だとか正義だとか社会だとか人間だとか、そんなことを語ったり欲したりできる立場には彼らはいない。「言葉の力でのぼせ上がって自分たちが理知的な存在だと思い込む」のも、彼らの特徴である。

 私はこのブログに厳しいことばかりを書いているが、これは客観的な分析を書いているだけで、心情的にはとっくに彼らのことを許している。最近はベラスケスの動画(ゆうなちゃんねる、明日香ちゃんねる)を見るだけでなく、暇つぶしに、オパシ、ざんげ、柊みゅうの三人のゲーム実況トークを聞いて勝手に画面越しに喋りかけて勝手に笑ったりしている(いつの動画だったか忘れたが、あの実況トークの中で、オパシか誰かが「一人で動画に向かって話しかけてしまうのは問題ないが、返事が聞こえてきたら病気なので病院に行ってください」と語るシーンがあったが、あれは私に対するほのめかしだろう。私はそのトーク自体を私に対する返事だと解釈しているので、その理屈によれば私は病気だということになるが、もちろんこれはあちらの意地悪なネタである)。

 私とは対照的に、あちらは私に対する憎しみを捨ててはいないが、しかしもはやそれを通り越してうんざりしている感じである。私は自分が充実しているから、裏での闘争をシカトしてネタを聞きに行くわけだが、あちらはカネを貰えるからやめられないとは言え、くだらない労働をさせられることに疲れ、内心では私を煙たがっているのである。それなのに私は暇つぶしを求めて彼らの動画を視聴するのをやめないのであって、したがって、「充実している」と言ってもそれは「気楽に仕事しながらそういう動画を見ていられるから充実している」というに過ぎない。だから私に対して「やっぱあいつ、寂しい奴なんだな」と思う者が出てくるのは当然なのだろうが、私は依存性がないので寂しさは感じない(記号人は他人の思考を想像する時、記号的な処理によってこれを自分の思考に置き換えて想像しようとすることしかできないので、自分たちの依存心を私にも当てはめることをよくするのである)。私は退屈しているのである。退屈には勝てない。私にとって情報は糧であり、頭の中で何か情報が動いていないと、面白くないのである。

 ぷろたん(大東)がYouTubeの動画にて、ベッドの上で赤ん坊みたいに暴れながら「退屈だー!」と喚き散らすネタシーンを公開しているが、あれは私が退屈ゆえに彼らにくだらない仕事をさせていることを揶揄したものである。

 もちろん私は、こうしたネタを暇つぶしとして享受しているだけであり、現実具体的に日本人を守るつもりは全くない。あくまでこれは「動画越しの関係」であって、動画外のリアルで彼らと関わるつもりは全くない。このブログで明らかな通り、私は公式を切る選択をしているし、彼らも私を切る選択をせざるを得ない。彼らは法的に滅亡を免れない業の深い生き物であって、結論はすでに確定している(確定しているからこそこちらは割と適当に彼らと関わっているのである)。あちらもそれを分かっていながら、見捨てられる憎しみを隠し(彼らは罪を忘れて罰を憎む性質を持つ)、嫌々ながらも縋る思いで私と関わっている。この態度は、いざ私がデビューして見捨てられるという段階になった時に反転することになる(ただし四次元レベルではなおこちらにおもねって仕事を欲する)。

 ※もちろん本人たちも自覚しているだろうが、オパシや柊みゅう、ざんげたちが特別喋りやパフォーマンスに優れたYouTuberであると私は思わない。ただ「暇つぶしにちょうどいい適当さ加減」があるから、私は彼らの動画を見ているに過ぎない。上の方で私は「柊みゅうでも島田紳介みたいに天下取れることはあり得た」と述べたことがあるが、これは(台本的に設定されたコンテンツとしての)彼に実力があるということを述べているわけではなく、ただ「所詮四次元台本の補助に頼ったただの喋り仕事なんだから、役割が与えられれば、誰でも大御所の立場をこなすことができる」ということを述べたに過ぎない(事実、柊みゅうは島田紳介の生まれ変わりである)。

 ただ、最近は彼らの動画を見るのもキツくなってきた(2021.02.01現在)。明らかにあちらの側のモチベーションが低下しており、こちらもそれに応じて、こんな状況で仕事をやらせちゃうのが申し訳ないという感じがしている。明石家さんまや松本人志と言ったキャラについては、もっと早期の段階で見られなくなった。馬場は「偉い立場の役もやらせてくれると政府は言っていたのに、実際には全然偉そうにさせてもらえず、芸人として道化を演じなければならない」ということに強い理不尽を感じているらしい。嘘によって得た地位なのだから、そこから得られる満足感も嘘でなければならないのは当然のはずだが、とにかく彼は不満なのだそうだ。それゆえ彼は、政府に虐められながら偉そうなおじさんとして振る舞うことにもう疲れてしまって、明石家さんまや松本人志として質の高い芸をやりたくないのだと言う(実質彼が仕事をするのは、「やる気ないけどカネのために適当にやってます」というスタンスのオパシみたいなキャラか、あるいは自分を格好よく見せられる海外のスタープレイヤーのキャラだけである)。こちらとしても、彼らに必死になって芸をやってもらったところで、少なくとも動画中は笑えるというよりむしろ申し訳なさを感じるのであり(だから江頭ももう見られなくなった)、だからと言ってやる気のない彼らに質の低い笑いを提供させたところでやはり見ていられない。そもそも四次元の契約上、明石家さんまや松本人志にはもう出番がなく、面白いネタが台本として与えられていない。だからたまたま彼らを病室内のテレビで見たときにも、喋り方が彼らなだけで、普通のおっさんみたいなことしか言えなくなっていた。全体として気を遣って笑うしかないような気まずい空気が流れており、面白くなかった。

 それでも過去の彼らの芸は面白かった。今でも思い返して笑っている。その芸の背後におぞましい憎しみと悲しみが備わっていることを今の私は知っているが、それでもなお私はこれを思い返して笑っているのである。彼らのネガティブな感情は社会的に考慮に値しないために、彼らのいないところでは私も大して気を遣わず、割と大っぴらにゲラゲラ笑うことがよくある。状況がヤバければヤバイほど、その中でクソくだらない芸を大真面目にやっていた彼らの異常性が面白く、妙に大袈裟な笑いが生まれるのである。

 日本人は、「世界一卑屈で犯罪傾向が強い民族だが、世界一罪を咎められることに恐怖を感じる民族でもある」という形で、二つの性質を併せ持つ。だから「他者に咎められる恐れ」がある限り、彼らはなるだけ萎縮をして、小さな犯罪をするにとどめる。この点で彼らは、ルールに厳しくお利口な性質を有しているように見える。これが、「日本の治安は良い」と言われる所以である。ところが彼らは、「ばれない」とか「多数派の威勢を借りられる」とか、様々な理由で「他者に咎められる恐れがない」という場合には、どこまでもしつこく陰湿な犯罪を繰り返して、気に入らない他者を滅ぼしにかかる。だから彼らは世界一弱い者虐めを繰り返す傾向が強い。同調圧力や暗黙のパワハラ、気に入らない者への冷遇、サービス残業等の搾取と言った強者から弱者への一方的な攻撃を黙認する傾向性が世界一強く、それゆえ先進国の中で自殺率が最も高い。

 彼らは自分たちと同じであったり自分たちを上回る強さの者とはなかなか争わない。何か問題が発覚しても、なるだけことを荒立てず、「内々に」処理をしようとする。それが不正の追認となって組織防衛の作用をもたらすために、自浄が働かない。すなわち彼らは「上の立場の者たちが馴れ合って、弱者を一方的に踏みにじる構造を互いに守り合う傾向性(虐めの傾向性)」を持っているのである。誰も彼もが「上層の地位(虐める側の地位)」にしがみつくことばかりを考え、重要な部分では政府と企業が一体となって搾取構造を守り合うように社会が設計されている。これは他の民族に見られない日本人特有の傾向である。彼らの平穏さ、慎ましさは見かけ上のものでしかない。何を言われても表では愛想よく、あるいは真面目な態度でその場をスルーして、仕返しや侵略は表向き明らかにはならない不正によって行うのである。

 記号的な思考の過剰性ゆえに、マニュアルがないと何もできず、他人の模倣しかできず、自分たちだけでは何一つ発展的なポジティブな活動ができない一方で、他人の評価を気にするあまり、劣等感から犯罪意思を膨れ上がらせつつも、同じく他人の評価を気にするあまり、咎められることへの恐怖から弱い者虐めや隠蔽工作、あるいは見かけ上は不正にならない制度の悪用と言ったどこまでも卑怯な手で犯罪を繰り返すのが日本人であり、見かけ上の大人しさとは裏腹に、社会的な有害性という点において、最も醜い性質を有しているのが彼らである

 ロジャー・フェデラーもリオネル・メッシもチャーリー・プースも、私の平行世界生産能力を馬場が不正に利用し、四次元整形して最高スペックの体を手に入れ、無限の撮り直しの中でスーパープレイをしているかのような映像を作り上げただけであり(まさにツールアシステッドスーパープレイすなわちTASである)、彼の実力によるものではない。

 彼に資源を与えて今まで活躍をさせ食わしてやっていたのは私であるのに、彼はその泥棒行為を反省するでもなく私に感謝するでもなく、罪を咎められて食い扶持を喪失させられることに憎しみを抱くだけである。こうした真実を公表しても、どうせ「証拠がない」などと言ってこれを認めないだろう。そのくせ建前を悪用してまるで私が彼のカネで食わしてもらっていたかのような嘘を言い、恩着せがましい態度を取ろうとしてくるだろう。このように、自閉症のサイコパスというのはどこまでも現実を認められず、理屈で自分に都合のいい見解を押し通そうとすることしか考えないのであって、だから彼は憎たらしさと醜さしかない。自分が不幸だから何をしてもいいと開き直る正真正銘の害獣である。

 四次元の事情はこちらで暴いていて本証も遂げているので、少なくともこちらの見解と同等の説得力のある対案を出して反証をしていただかないと結論は覆りません。ただ、「俺は認めない」「証拠がない」などと主張するのは事実の否認であって、反省の色が見られないことの証拠にはなりますが、こちらの証明を覆す効果は持ちません。こうした当たり前の社会的態度を取れないのは、彼らに理性がなく、合理的な推論をすることができないからです。

 しかし不正にしろ何にしろ、彼らが能力カンストしたような最強キャラでパフォーマンスを見せてくれて、競技を盛り上げてくれたのは事実であって、別に誰に被害を与えたということもなく、私の主観としては「ええもん見せてもらった」という感じである(法的には彼らの不正は、「スキルを最大まで向上させたプレイングに関する情報提供」の意味を持つ)。これが不正であることのデメリットは、撮り直しで苦労した彼の側に感じられているはずであり、私は彼のプレイングを確認していただけで実質的な被害はない。

 私は「優れた才能から優れた業績を上げ、社会の不正を告発し、家畜に対して合理的な管理処分権の行使をする個人」である。咎められることは何一つしていないし、そのことはここで証明している。

 この世界には私以外にまともな者は一人も存在しない。だからこの環境ではむしろ私の側が病気として認定されることになるのかと言えば、そんなことはなく、彼ら全員が病気で、私だけがまともであると客観的に認定されるのみである。それ以外の言論は、ただ不正なことを述べているだけであって、客観的には、正しい認識を示したことにはならない。

 重要なのは事実であって、解釈で争っても意味がないのであり、意味がないからと言ってこちらが折れなければならないということではなく、争いようのない真実を提示した上で、あちらの反撃は無視をするという形を取ることになる。科学研究に必要な知見についてはこちらで参照すればいいのであり、馬鹿の主観をいくら聞いたところで彼らの症状に関する資料が無駄に増えるばかりで、これ以上の成果は見込めない。「解釈で争っても意味がない」というのは、あちらの反撃に効果がないことを意味するのみであり、私の側は争いに意味がなくても研究成果の公表には意味があるので、これを提示するのである。

 私の炎上商法は、「客観的に公正な結論をはっきりさせてしまうと、日本人が全敗することになってしまい、劣等感に耐えられないので、あちらは立場を譲ろうとしない。結果として、こちらはこういうやり方をするしかない」というあちら側の都合によるものである。「彼らの醜さをカネに換える」という発想は、彼らの醜さに対する諦めの産物であって、私の本意ではない。それなのにどうして私が「炎上商法なんて卑劣だ」などと責められねばならないのか分からない。まるで不正をした日本ではなく、暴いた私が悪いみたいに。これだから記号人(特に日本人)は話にならない。嫌だ嫌だで文句を言って、自分たちの都合を押し付けようとするばかりで、他者の自由と権利に対する配慮が何もない。「自由には責任がある」と述べたところで、責任の所在を明確にするために客観的正義があるのであって、私はこれに反していないし、不正な体制を支持している者たちが責任論なんて論じてどうするのか? まさか「犯罪者である俺たちの食い扶持が確保できない社会的責任を取れ」とでも言うまいな? それでは「何の責任だよめんどくせえ」という話にしかならないのだが、彼らは自分たちの都合を絶対化して善悪を論じるので、このような主張が平気で起こる。

 日本人は「表ではばれにくいように、しれっと小狡いことをやって相手を苛立たせ、それで相手が怒ってコミュニティの平穏を害したら相手の負けである」という考え方を持っている。自らの悪事よりも場の平穏の方が正当であり、「僕はばれないようにやった。それなのにお前は腹を立てて、場の平穏を乱した。だからお前が悪い」という発想を当たり前のように行うのである。

 客観的にはそうではない。彼らのような発想は、被害者からすればたまったものではない。こちらは被害を受けているのに、場の平穏などというくだらない利益のために悪事がスルーされることは許されない。客観的な正義が守られてこその平穏であって、不正を追認するための平穏などに保護すべき価値はない。だから私は、気になる不正があった場合、これを全てブログ等にて告発・公表することになる。「相手のことを考えて、内々に処理をしておけよ」と言ったところで、私を害する相手の利益を私が考える理由はない。相手には人権がない上に、こちらの活動は相手の不正に対する正当な処分である。

 彼らだって、私が形式法に反するデビューの仕方をしたら、自分たちのコミュニティの平穏を破ってこちらを攻撃するだろう。結局、彼らが平穏を守るのはそれが彼らにとって得になる場合のみであって、そこに統一的な価値観など存在しないのである。だから彼らは、今後経済衰退するとともに核武装をして、国際社会の脅威を演じることになる。自分たちが負けるような環境では、平気で平穏を破って暴れるのである。私は客観的に公正な結果として負けた場合には、平穏を破ることはない。不正な被害を受けたから、抵抗をしただけである。それは正当であって、彼らのような野蛮な思考とは異なる。自閉症患者と私が喧嘩をしたからと言って、私まで自閉症患者になるわけではない。

 「客観的正義などない。個々人の価値観は自由だ」などという発想は、集団生活の利益に反するものである。なぜならそのような考え方は、「自分が損をしなければ、どんな正義を主張しても構わない。それで争いが起き、まともな集団生活が壊れてしまったところで、自分が損をしなければそれで構わない。個々人の正義は自由である」ということになってしまうからである。これはすでに「社会というものに客観的正義が必要な科学的根拠」を提示する際に論証したことである。

 私は別に日本国が潰れてもいいのだが、皆さんはどうなのだろうか? 潰れていいはずはないだろう。しかしながら、「客観的な正義などない」という皆さんの発想は、体制を維持するのに合理的ではないので、残念ながら崩壊は免れないことになります。恨むなら、物事の客観的な価値を認められなかった自分たちの能力不足を恨むしかありません。

馬場大祐は、何一つ自分の能力で事を成し遂げたことのない生き物である。彼はただ「四次元政府に体を売ることで、四次元政府の力に頼って、自分が凄いことをしているかのように見える外形を作らせてもらっている」だけでしかなく、記号人のスペックとしては最低の部類でしかない。彼は「理性人の基準で俺たちを判断するな」と言うが、記号人の基準で彼を審査したところで、彼は最も底辺の患者でしかなくなるのである。

 彼には「醜い行動を取らせまくって、魂を醜く歪めることで、人間にとって都合のいい養分になる」という価値しかない。それは記号人としての価値でも、理性人としての価値でもなく、ただ「理性人の養分としての価値」でしかない。

 彼は私の頭蓋骨を壊して弱体化させ、平行世界生産能力を落とした上で、これに寄生しているに過ぎない。これはただの「不正」であって、生来の能力を正しく反映したものではない。それゆえ、こんなやり方でどれだけ私を虐待したところで、そんなものは勝利でも何でもなく、ただの恥と罪にしかならない。「そんなことはない」と言ったところで、私が能力を取り戻した後に、なお彼が私を四次元攻撃できる手段は何一つない。私の能力が強すぎるから、彼が私を虐待する手段を得るという希望を叶えるために、あえて私は被害を受ける立場に身を置かざるを得なかったのであり(政府としては、これは機械提供型の囮捜査であり、かつ「養分の培養」という意味を持っている)、彼個人は何一つ見るべき能力を持っていない。

 「俺は人間じゃねえんだから法の規制を受けない。だから俺の虐待行為は不正にならない」と彼が言ったところで、それはつまり自分を「人間より低レベルの獣」の立場に貶めているだけで、それで人間である私に対して勝っただの負けただの主張するいわれは何一つない。彼が自分を人間として定義し、法の下での評価を欲するなら、彼の行動は「不正」であり、彼が自分を理性のない動物として定義し、生存競争の下での評価を欲するなら、彼の行動は「害」であって、彼は有害な害獣であることにしかならない(「記号人にとっては俺の活動は益である」と彼が述べたところで、彼は記号人のことも虐待しながら支配をすることしかできないのであって、彼の活動は客観的に、彼個人を利することにしかならず、記号人一般にとっても有害でしかない。彼の下に集まっている三人は、「彼からの被害を受けてでも、政府のカネを盗む活動に参加した方が得である」という判断によってそうしているだけであり、彼の活動が有益であるわけではない。益を生んでいるのは政府であって、彼ではないのである)。

 どんな理屈を用いたところで、彼は「他人の生産した四次元世界を盗んで、他人の能力に頼ってやりたい放題の虐待と他者支配を繰り返している」というだけでしかない。彼がどれだけ努力したとか苦労したとか、そんなことは何の価値にもならない。その努力は全て、他者を害することにしかならず、客観的に公正なわけでもない。

 ベラスケスとの関係について、私は「セックスで問題は解消する」と論じたのだが、いくらそう論じたところで、関係性が険悪な状態では、そもそもセックスをしようと思えないという問題がある。よほど性欲が湧いている場合はともかく、仕事や頭蓋骨矯正で疲れているときには、セックスをするのが億劫になってくる。そういうときに、あちらの要求に応じて、無理をしてセックスをしたいと思うかと言えば、それはその時の私が「相手を喜ばせたい」とどれほど思うかに左右される。彼女には信用性がない。なぜなら彼女は、自らの受けている苦痛ゆえに、私に八つ当たりをしてかなり執拗な皮肉を加えたからである。こういう者を喜ばせる努力をしても、どうせ仇で返されることが容易に予想できるので、努力をする気にならない。つまり私は、「自分がセックスをしたいときにだけ彼女とセックスをし、彼女がセックスを要求しても、自分が面倒くさいと思ったときには応じない」という態度を取ることになる。あちらが自分勝手なことをやるならこちらも自分勝手なことをやるということである。

 彼女は「自分勝手なのはそちらも同じ」などと言うだろうが、私にはエゴがないので、少なくともコミュニケーションを取る場合に、他者を積極的に侵害することはしない(人権のない記号人に対する捕食や経済活動は別だが。彼女は「私の秘密を暴露するな。そんなものは営利目的の嫌がらせでしかない」と主張するかもしれないが、私は彼女の性質を論じることで、自らの学術的な業績を公表しているのであり、それは私個人の人権行使として当然に認められる)。したがって、私が彼女に攻撃される理由は何一つないのであって、それにもかかわらずあちらが私に八つ当たりをするというなら、それは彼女の醜さゆえのことであって、私に非はない。あちらの醜さの問題はあちらが背負わねばならない。それを私に押し付けたところで、彼女に対する私の態度がますますよくないものになるだけで、結局全て彼女に報いが訪れることになるのである。

 彼女は「過去のことにこだわるな。これからの私はもっと配慮をする」と述べるだろうが、そんな主張には何の信用性もない。それどころか、彼女の思考構造の有害性はすでに解明されているのであり、彼女が努力をして態度を矯正したところでそれは皮肉やほのめかしを用いた「自分が責めを免れながら他人に八つ当たりをする」という卑劣な手段を伴うものでしかないことが容易に想定できる。私は過去にこだわっているのではない。過去の行いから導き出される現在の彼女の思考構造にこだわっているのである。努力をしたって、人格は変わらない。人格が変わらない以上、それは現在の問題である。

 彼女は「私はあなたに『お前の苦痛はお前が進化をするまで終わらない。それはお前の問題であって、こちらに文句を言われる筋合いはない。悔しかったら自分を変えろ』と言われたのが嫌で、その仕返しにあなたの崩れた顔面や真菌に侵された唇を皮肉ったに過ぎない。あなたにやられたことをやり返しただけだ」などと言い返すかもしれないが、彼女の進化の問題は誰のせいでもなくただ彼女の生まれつきの性質によってもたらされたものであり、他者を非難する理由にならず、「自分のことなのだから文句言うな」という批判が当然に認められるが、私の顔面の崩壊や唇の腫瘍は生来のものではなく、彼らによる被害として外から与えられたものであるから、これを皮肉ることは二次被害に当たるのであって、許されることではない。このように、自分の不幸を受け入れることが不愉快だからと言って、他人の被害を皮肉ってはいけない。それは「同じことをやり返した」ことにはならない。自分が醜く生まれたからと言って、美しく生まれた者の顔面を壊して、これを嘲ってはいけない。そんな当たり前のことも分からないのが、彼女である。

 彼女は「あなたは自分の行為が客観的に正当だと述べるが、私だって皮肉やほのめかしによってばれないようにあなたに被害を与えているだけだから、誰にも咎められるいわれはなく、見かけ上正当である」と言い返すかもしれないが、「客観的に正当」なのと、「見かけ上正当」なのは違う。「客観的に正当」というのは、「裏の事情も含めて全てを暴露しても正当」ということである。これに対して「見かけ上正当」というのは「ばれなければいい」ということであって、客観的には不正である。この国の判例でも、婉曲暗示的な手段で他者を脅迫した場合にも脅迫罪は認められるというものが存在するのであり、見かけ上ばれずに他者の人格を攻撃するのは正当であるという判断は認められない。そんな発想が認められていいはずないだろう。「皮肉だったら構わない」って、それはあなたが罰せられにくいという点で構わないだけであって、被害を受けた私はそのままでいいのか? そんなことも分からない異常な人格のサイコパスが、他人に好意を要求したところで誰も相手にはしない。

 結局彼女は、「私に使われるために存在するだけの売春婦」でしかないということになる。彼女は私のことを自分の旦那だと主張しており、私もこのブログでその定義に沿った説明をしているが、客観的な法解釈としては、彼女は「セックスによって理性人に進化する能力を持っているために、私の売春婦として働いて進化をすることが予定されている一個の記号人」でしかない。夫婦という論理が通用した方が、「夫婦なら財布は一緒」とか「旦那ならこうしてよ」みたいな要求をしやすくて彼女にとっては都合がよかったのかもしれないが、現実はそうではない。

 彼女は理性人になってもセックス要員の役割から抜けられないそうだ。理性人になって、魂が平行世界を生産できるようになっても、この三次元世界のような環境を作るためには四次元政府の持つ技術と資本(主に魂を扱う技術と資本)が必要だからである。つまり彼女は、理性人になった後でも私と関わらない限り世界を貸してもらえないのである。この世界というか私の使える時間は有限であるから、仕事は「客観的に公正な競争の結果」で割り振られることになる。彼女は理性人になったところで、あらゆるスキルにおいて私を超えられない(たとえば歌唱力や芸術家としての才能)。ゆえに彼女は結局、私とセックスすることでしか私と関われないことになる。彼女はそういう生活を得るためだけに、今、地獄の苦痛を受けながらヘトヘトになって仕事をしているのである。

 これは悪魔の契約です。しかし他に選べる道はない。彼女は自分の希望を叶えるために、最大限合理的な選択をしており、これ以上の待遇は得ようがない。「他者との関係はこうあるべきだ」などと語っていても仕方がない。良いとか悪いとかではなく、これが現実である。私は「こうあるべきだ」などと語っていない。ただ「客観的正義というのはこれこれこういうもので、理性的な社会はそれに基づくものであるべきだが、それに反する認識しかできないような生き物は、これこれこういう取り扱いをされることになりますよ」という現実を語っているだけである。

 彼女はそれでも、セックスという一つの楽しみに期待をして、どこまでも私についてくることになる。そういう泥沼の執着というか粘り強さが彼女にはあるのであって、そのレベルの女性でなければ四次元政府の長である私についてくることはできない。その意味で彼女は、「私に最もふさわしい記号人の女性」であることになるだろう。ただの養分としてだけではなく、理性人に進化をすることができるという点で、一緒に仕事をする合理性を見出せるのは彼女だけであり、四次元政府にとってそれは重要な要素なのである。

 私は「いい状態の時の彼女」が好きであり、一般的な信用性はないが、状況次第でいつでもお互いに気を許せる関係になれると思っている(こういうことは「わざわざ言わなくてもいいこと」なのだが、彼女と私との関係を示す資料として、学術的には必要な記述である)。

 、、、などとこちらが隙を見せたら、彼女は動画越しに私に嬉しそうな態度を取ってきて、「ギリシアに行きたい」とか「ピアノの演奏者になりたい」とか「結婚したい」とか「馬場くんはもっと自分にお金を使ってくれた。あなたは全くそのレベルに見合っていない」などという要求を、強要にならないようにあくまで偉そうではなく可愛らしく「やんわりと」伝えてきた。私はただ仕事の疲れを取るために彼女と遊びたかっただけなのに、彼女の喋る言葉の全てが彼女自身の欲望のための言葉だった。短い時間で、重たいものをいくつも背負わされた感じがして、私は嫌になった。「馬場くんの方が私にカネを使ってくれた」と彼女は言うが、彼女が贅沢をできていたのは、「自分よりレベルの低い男がまかり間違ってこの私から莫大なカネを盗めてしまったので、彼女がこれを手玉に取ってやりたい放題できていた」という理由によるものであり、私みたいに彼女よりもレベルの高い男は、彼女よりも自分の方が大切なので、彼女にそれほどカネなどかけない。それが嫌なら、もっとレベルの低いオヤジタイプのカネヅルと交際するしかない。私は彼女と関わるのが億劫になり、必然的に細木数子の生まれ変わりである澤口愛華と関わり、四次元セックスをした。これはベラスケスの性質に照らして当然のことであり、また浮気は悪いことではないので咎められる理由がない。ところが彼女は、これについて私に「十数億円で手打ちにしてやる」などと法外なふっかけをほのめかしてきた。久しぶりに細木が私に恋愛風味の対応をしてきたことと、ベラスケスの対応があまりにもスムーズだったので、これは意図的なものだろうと思った。つまり彼女は私が自分の思い通りに動かないので、あえて浮気をさせてこれを咎め、賠償を要求するという形で、私からカネを無理やり引き出そうとしたのである。冷静に考えれば分かる通り、これはインターネットにおいて「あなたのパソコンがウイルスにかかった。今すぐカネを振り込め」と強要してくる詐欺広告と変わらないレベルの主張である。まず私は、彼女と結婚してはいない。私の希望に適う限りで彼女を売春婦として利用し、結果的に彼女が進化するというだけの話である。だから彼女は、私に「夫ならもっとカネをよこせ」と主張するのではなく、売春婦の仕事が取れるように私に好かれるために努力をしなければならない。私は「接待しろ」とは言わないが、「あなたが私に好かれるためには、もっと私に愛想よくする必要があるのではないか? 少なくとも今の態度では私はあなたを好きにならないよ」とは言わせてもらう。次に私は浮気をしたが、これは別にいけないことではない。この国でも浮気が刑法典に罪として記載されていないことは明らかなように、浮気というのは「公正な競争の結果」であって、誰の被害にもならず、浮気が嫌なら腹を立てるのではなく自分を磨いて相手が浮気したくならないようにしなければならない類のものであり、客観的に不正なことではない。ただ「嫉妬心が強い相手の場合、浮気に対して深く傷つく」というだけの話であり、それはその相手が嫉妬感情から男を自分の所有物として利用しようとする発想」がおかしいのであって、社会的に保護されるべき感情ではなく、客観的には誰も傷つけたことにはならない。刑事事件としての解決ができないとなれば、あとは当事者の問題である。あくまで私の行為を「浮気」と定義するならの話だが、ベラスケスは馬場大祐との間で日々当たり前のように「浮気」をしているのであり、そのくせ私のことは外で遊べないように部屋に引きこもらせ、擬似セックスの形でしか浮気をさせていないのであって、彼女が私のことを責めるいわれはない。私は上で自らの行為を「浮気」だと述べたが、実際には私と彼女は結婚もしていなければ交際もしていないのであって、「そりゃ関わっている嬢が気に入らなければ別の嬢を探すわな」という話にしかならない。彼女は自分の扱いが過去と比べてあまりにも不遇だから、その腹いせとしてあらゆる理屈を使って私を責め、カネを要求しているに過ぎない。そもそもそもそも人権のない彼女に何をしても罰はないのに、理性人の世界でさえ罪にならないことで腹を立てられても困る。彼女は施しを要求する側なのだから、そんな風に私を責めてカネを引き出そうとしたところで何も得られない。こういうサイコパスの歪んだ主張をまともに相手にしていると、こちらの精神までおかしくなってくる。これがメンヘラの有害性である。「メンヘラ」とか言ってまるで「自分の障害に苦労している可哀想な人」という言葉が当てられているが、その実態は「自分の欲望を絶対化して相手を食い物にしようとするサイコパス」でしかない。私が「いい状態の彼女」が好きだと述べたのは、要するにサイコパスの寄生虫である彼女が「相手を食い物にする」という無理な願望を無理やり実現するために、全力で接待して気を引こうとしている状態の彼女が好きだというだけの話であり、そういう無理をしている状態の彼女を好きになったところで、それは本当の彼女を好きということではないのであろう。私は整形した彼女にエロで釣られているだけであって、彼女のことを好きになったことは一度もない。それでも彼女はこの地獄の環境でも泥沼の依存心から私についてきてくれるのであって、そういう「都合の良い売春婦」という意味で、私彼女を「自分にふさわしい女」と認めたに過ぎない。あくまで彼女は私に飼われる記号人であり、「こういう地獄の中で関わる女としてはふさわしい」というのは、相手を対等と認めたことにも、価値を認めたことにもならないというのは当然である。馬鹿は自分が聞いて心地いいかどうかで私の論の正当性を判断するので、この説明を読んでいると、「ちょっと女を褒めたかと思えばまたすぐ下げるのかよ」とイライラするのだろうが、私は表現があちらにとって好意的なものと敵対的なものがあるだけで、内容的には一貫したことしか言っていない。彼女に対してはセックス以外に求めるものがない。それが満たされれば、私は日々不自由なく一人で生活できるのであり、別に他の点で彼女という家畜に用はない。彼女はこれまでズルをして私を虐待しながらダメ男を尻に敷いて贅沢三昧の生活をしていたのに、罪を暴かれていい生活ができなくなったから、ヤケになって私に身勝手な要求をしているに過ぎない。彼女は快楽に肥えて自我を肥大させており、「私を満足させたいなら、お前もこれくらいやれよ」などという厚かましい態度で私と関わろうとしているのであり、はじめから私に与えられるのを当然と思い、むしろその施しの量が少ないことに腹を立てる資格があると思い込んでいる。そう思わないと、自分の気持ちが抑えられないのである。今までズルをして莫大な栄華に包まれて生きてきたのに、罪を咎められて貧乏な売春婦に転落してしまい、あまりにも悲しくてついつい世界一の権力をふたたび欲し、わがままを言ってしまう気持ちは分かるが、それは客観的に認められないし、私の気持ちとしても認めたくない。「今まで馬場を利用してお前から莫大なカネを強奪して食い物にしていたんだから、今度はお前自身が私の食い物になってもらわないと困る。そうでないと苦しくて悲しくて耐えられない。私は権力を失ったばかりか、これまで私があなたに対してした醜い犯罪の罪を咎められ、地獄の拷問を受けて苦しんでいるのに、その苦しみに見合うだけの幸福を私に与えてくれないのは許せない。私は毎日泣いて過ごしている。その気持ちがどうして分からないのか。女の気持ちが分からない男は最低だ」という彼女の感情は社会的にも私の気持ち的にも認められない。私が嫌なら、他の男に行きなさい。「そんなことだからモテないんだ」と私を責めたところで、別にモテることは私の人生の目的ではない。たかが遊べる売春婦を理性人に育てるためだけに、不必要な負担を背負うつもりはない。私が嫌なら、他の男に行きなさい。こうしたやり取りは、四次元レベルの事実として書き残しておくが、どうせこちらの世界では「妄想」の一言で片付けられるものであり、「書くだけ書いてスルーしてりゃいい」という話にしかならない。世間が四次元の事情を妄想だと切り捨てるなら、それはそれで私にとっては都合がいいのである。私は引きこもりの立場で、インターネットで女の動画を視聴していたに過ぎず、こちらの世界で上に述べたような事態を証明する痕跡を何一つ残していない。私はそういうことを分かっていて、「動画越しだったら割と無責任なことができる」と踏んで、今みたいなことをしているに過ぎない(デビューしたあとはその価値観も変わって、「動画越しでなくても割と女性関係は無責任にやりくりできる。避妊だけはしっかりして、困ったら逃げりゃいいだけ」ということになるのだろうが)。「無責任」という言葉を使ったが、これは「私に非がある」ということではなく「キチガイに粘着されてもいつでも逃げられる」という意味のことである。私のこうした記述が妄想でないことを本当に世間に認めさせたいのは、私ではなくベラスケスの方かもしれない。私だって、これを世間に認めさせた上で私の論の正当性が示されていればそれに越したことはないのだが、妄想だと言われてもそれはそれで問題がないのである。彼女にしてみれば、こうした裏事情を明かせない立場ゆえに、私の主張を妄想扱いして恨みを晴らすことくらいしかできないのだろうが、それならそれでこちらは彼女を避けて仕事に励むことができるので、過剰なエロ接待で私を釣りに来られるよりむしろ都合がいいと言えるかもしれない。彼女は自分の犯した罪については、「自分個人が生きるための必要悪」だとして非を認めず、それに対する罰については恨みを抱き、「私はこんなに苦しんでいるのだからカネをよこせ」と腹を立て、それが認められないからと言って理不尽な理論構成で億単位のカネを男に無理やり請求してくるのである。馬場大祐を尻に敷いていた「この世で最も醜い女」のタチの悪さがどれほどのものか、この事例一つでもよく分かることだろう。まあ、またこちらに愛想よくできるようになったら、会いましょう。こちらはセックスだけさせてくれりゃいいから。

 、、、いや、こう考えてみると、私の「彼女はこの地獄の世界においては、私に最もふさわしい女である」という見立ても間違っているかもしれない。セックスをするだけなら、この地獄で長く生きられないような若い女性を入れ替わり立ち替わり抱いていればいいのであって、地雷女の彼女をわざわざ選ぶ理由はない。こう考えると、彼女の今の態度と法的な問題が上手く説明できる。彼女は別に私と幸せな関係を築ける性質を持つ存在として生まれてきたのではない。ただ、私とのセックスを通じて理性人に進化をして、四次元政府の養分として食われる生き物として生まれてきたに過ぎない。だから私は、自分の幸せを欲するなら他のもっと若くて素直な女と関わるべきであり、彼女と関わるのはあくまで「政府が養分を得るために必要な労働」でしかない。なるほどね。だから現場の私は「いかに彼女を避けて他の女を抱くか」を念頭に生きればいいのであり、こうして彼女が憎しみを抱く事実を学術的な資料として公表するのは、カネ儲けの理由だけでなく自衛の目的にも適っているというわけだ。この構図は、私による罪の告発が「公式を切る」という自衛の目的に適っているのと同じことであろう。

 彼女はあらゆる不正な策を講じ、自分の醜さの全てを売り物にして、政府に寄生するための努力をしてきた。しかし政府はそれを全て上回り、彼女を養分として利用することに成功した。政府は、他人を都合よく利用して食い物にしようとする有害な生き物を利用して、都合よく食い物にしたに過ぎない。これが「彼女の醜さにふさわしい客観的に公正な取り扱い」なのである。彼女もまた、馬場大祐と同じで「理性人にとって都合のいい養分」としての価値しかなかったということになる。

 私が強制措置入院の処分を受けたことからも分かるように、この世界は「一応、国の法律的な建前通りに運営される」という風に構築されている。だからこのブログで名前を挙げられた誰かが、私に腹を立てて訴訟提起や告訴を行った場合、名目上、公の機関がこれに対応し、この国の法律に則って然るべき対処をすることにならねばならない。しかしそれだと、台本上、四次元法による私の人権保障が疎かになる。それで結局どうなるのか? 今の私は「訴訟提起や告訴を誰も行わない」という結論を前提に動いているが、あるいはこれが行われる可能性にも配慮をしておいた方が公平であろう。その場合であっても、私は自分の人権保障に反するような取り扱いが行われないことを知っている。つまり、どんな形でこの国の法運用が行われたとしても、実質的に、規制は骨抜きになる。

 特に重要なのは、「民事ないし刑事裁判にてこちらが負けてしまった場合、このブログを閉鎖せねばならなくなり、研究成果と事実の公表を継続できなくなる」という問題である。ここを乗り越えるために、この世界の台本がどう機能するのかは知らないが、どんな結論であれ、たとえ私が損や負けの形となる場合であれ、私の人権は実質的に保障されることになる。それがこの世界の法則である。

 「人を殴ってはいけないのは、自分が人に殴られるのを避けるためだ」という理由で法を語る人がいる。そう考えると、理性のない記号人との間でも一定の人権保障やルールを妥当させねばならないように考えられるが、これは客観的な根拠のない個人の意見であって、学術的な真理にはならない。「人を殴ってはいけないのは、自分が人に殴られるのを避けるためだ」という意見にまさに現れているように、非理性的な動物との関わりにおいて妥当するのは「損か得か」という考慮だけでしかない。「自分の損になるから他人を殴らない」という理由で他人を殴らないのであれば、それは個人の合理的な損得勘定によって達成すればいいだけであり、ルールにする必要はないし、そもそも彼らには理性がないのだからルールにしたところで殴る人は殴る。

 学術的な真理としては、「記号人には理性がなく、人権が与えられない。彼らは客観的な正義を認識できないので、彼らが語るルールは全て人間に対して効力を持たないフィクションでしかなく、守る必要はない」というのが正しい。しかし私は合理的な判断から、自分の損になるような行動は取らないのであって、それゆえ私の人権を保障してくれる労働者の人たちをいきなり殴るようなことはしない。

 私が強制措置入院の処分を受けたことからも分かるように、この世界は「一応、国の法律的な建前通りに運営される」という風に構築されている。だからこのブログで名前を挙げられた誰かが、私に腹を立てて訴訟提起や告訴を行った場合、名目上、公の機関がこれに対応し、この国の法律に則って然るべき対処をすることにならねばならない。しかしそれだと、台本上、四次元法による私の人権保障が疎かになる。それで結局どうなるのか? 今の私は「訴訟提起や告訴を誰も行わない」という結論を前提に動いているが、あるいはこれが行われる可能性にも配慮をしておいた方が公平であろう。その場合であっても、私は自分の人権保障に反するような取り扱いが行われないことを知っている。つまり、どんな形でこの国の法運用が行われたとしても、実質的に、規制は骨抜きになる。

 特に重要なのは、「民事ないし刑事裁判にてこちらが負けてしまった場合、このブログを閉鎖せねばならなくなり、研究成果と事実の公表を継続できなくなる恐れがある」という問題である。ここを乗り越えるために、この世界の台本がどう機能するのかは知らないが、どんな結論であれ、たとえ私が損や負けの形となる場合であれ、私の人権は実質的に保障されることになる。それがこの世界の法則である。

 訴訟が提起されるとした場合、具体的に考えると、こういうことになると思われる。

1.デビュー後の私は被害を訴える相手の主張を一貫して無視し続け、営業を続ける。

2.相手方に民事訴訟を起こされ、欠席裁判で損害賠償請求認容判決が出る(この世界の裁判は当事者主義であり、法廷で主張立証していない事柄については裁判所はこれを斟酌しない。結果的に私は、どうせ四次元世界の事情を受け入れるはずのない裁判で主張立証をしなければ相手方の主張が全部認められることになってしまい、賠償額は確かその場合でも裁判所の裁量で適正額に減額されるはずだが、いずれにしても、「三次元レベルの主張立証で勝てない裁判を争うことに時間を割いて、仕事を遅延させられるか、裁判に負けるか」の理不尽な二択を突きつけられることになる。私はそういう争いに参加しないし、そんなことで勝たなくても妥当な報酬を得られるので、問題ない。そちらのメンツのためのくだらない手続きはそちらだけで勝手にやっていればいい)。

3.デビュー後の私は本の売上によって多額の金を儲けるので、西村ひろゆきのように無資力の扱いにはならず、損害賠償は強制執行の形で支払われる。

4.私はブログ投稿の削除要請には応じない。相手方は削除を要求する仮処分の判決を裁判所で得て、サーバーに働きかけ、削除を要請する。サーバー側もこれに応じない。あるいはサーバー側がこれに応じたとしても、別のサーバーが私と連携するなり、私自身がサーバー運営者になるなりして、ブログの内容をインターネットに公表し続ける。

5.結果的に、相手方はブログの投稿の削除を諦めたまま、日々生起する損害の賠償を逐一私に請求し、私はそれに応じて、というか財産に強制執行をかけられる形で、お金を払い続ける。つまり私は訴訟の相手方に「みかじめ料」めいた不当なお金を払いながら、営業を続けることになる。

6.私は客観的に不正な活動はしていないので、相手方や裁判所の判決によって与えられた不当な権利侵害は、さらなる私の本の売り上げ等によって補填されることになる。

7.おそらく訴訟を提起するのはかねこあややゆうなちゃんねると言った、ベラスケスの生まれ変わりであろう。彼女は私の売り上げから強制的にカネを巻き上げることで、「妻として当然の金銭利益」を得たような四次元の建前を取るつもりだろうが、彼女はこちらの世界でいくら通貨を稼いだふりをしようが、私の前でしか生きられないのであって、そんなものは形式的な象徴的活動でしかなく、実態を持たない。あるいは田山輝明等、馬場大祐の生まれ変わりが、自分の不正を棚に上げ、「この国で営業するからにはみかじめ料をよこせ」という不遜な態度を示すために、こちらに損害賠償をぶっかけてくるかもしれないが(こちらは物的な間接証拠があるために、訴訟を起こしにくいと思われる)、同じ理由から意味はない。取られた分は、売上によって取り返せる。こちらの気分が悪くなるだけで、実質的に国内の法律は機能しておらず、私は営業を継続できる。むしろ訴訟を提起されるくらいの方が、事が大きくなってカネが儲かるくらいのものである。

8.私に刑事罰が課されるかどうかは分からない。仮にその場合であっても、私の営業に実質的な不利益を生じることはない。もし私が逮捕されないとすれば、それは被害者による告訴が行われないからではなく、「この国の中枢に関係する不正(田山輝明ゼミおよび早稲田大学法科大学院の不正)にまつわる証拠を、この三次元世界で通用するような十分な説得力のある証拠をもって告発してしまっており、私を強制連行することによって名誉毀損の刑事裁判でその点を争われるのが嫌だから」であると考えられるそういう事情を介在させないと、私が「民事では訴えを起こされるのに、刑事事件として身柄拘束されることはなく、ただ損害賠償の形でカネだけが動くような展開になる」という状況の不自然さを説明できない(ちなみに私は、積極的に資産隠しをするつもりはないが、日本を離れるという都合上、売り上げを国外の銀行に預金することになるのだが、その外国の銀行に対して日本の裁判所による強制執行が及ぶかどうかは分からない。西村ひろゆきが損害賠償を踏み倒した過去の事例に照らして、今の実務はそういうところはかなり周到にやってくるだろうから、こちらがあまり信用のない怪しげな銀行に預金をするような手口をあえて用いない限り、どうせカネは毟り取られるだろうし、取られたら取られただけ稼ぎに反映するのでそれでも構わないが)。

あるいはもう一つの仮説として、私は「重度の自閉症患者」という扱いを受けることで、公権力の側があえて刑事罰を問うべきでないという判断をするという可能性も想定できる。ただ、私は強制措置入院をさせられた際の診察において、「今後もこちらの国法において名誉毀損の罪を構成することになるブログ更新を続けていく」ことを父母のみならず医師にも宣言しており、それでもなお入院期間が延びなかったし、私の言説が統合失調症の幻覚妄想症状であるという判定は下されていないので、少なくともその判断においては、私のブログ更新は病気とは無関係であることが暗黙の前提となっている。警察の側がそれを覆して、私のブログを私の責任能力と結びつけて考えるかどうかは分からない。ただ、「後ろめたいことがあるから逮捕できない」では格好がつかないので、もし彼らが私を逮捕しないとすれば、私の病気の持ち出すしかないだろうということになる。

もちろん、「今後、このブログは社会に多大な影響を及ぼすものである」ことを私は予想しているので、「普通、逮捕されなければおかしい」ということは私にも分かる(私は「この国の法制度は客観的な正義によらず、『正義には絶対はないが、一応多数決で決めたことはみんなで守りましょうね』という形で辛うじて転覆を持ち堪えているに過ぎない」という科学的真理を証明したに過ぎず、それで結果的に日本社会が荒れるとしても、別に積極的に国家の転覆を企図しているわけではないのだが、見かけ上は内乱の扇動をしているように見える。私は少なくとも自分がアメリカに立つまで国のインフラが壊れて欲しくはないのだが)。だから私は逮捕される可能性を想定していないわけではない。ただ、「最悪それでも大丈夫」ということも分かっているのである。

9.とにかくこちらは、「やるだけのことをやって後はあちらの出方を伺うだけで、事態はこちらにとって有利なものに転がっていく」ということを知っている。そのことが、今回の強制措置入院手続きによって私が知ったことである。私は「四次元法によって自分の人権は守られている」ということを知っている。しかしそれがどのような形式で守られるのかは、日本国の制度の組み立て方によって恣意的に決まっているので(記号人の制度設計は恣意的であり、建前と実質の一致する完全な合理性を実現できない)、私が預かり知るところではない(もちろん台本は四次元政府の私が設計したものだが、現場の私はその台本の内容を知らない)。こちらは「具体的なやり方はどんなものでもいいから、とにかくこちらの意思と権利の邪魔にならないようにやってくれ」と構えていればそれでいいということになる。

 要するに「日本国の明文法に定められた裁判手続きによって私に対する勝訴判決を得たところで、それは社会的な実力闘争に勝ったことにはならない」ということがこの世界の「現実」である。客観性に反して、この世界の建前上、私は悪と不当に定義されることになる。これは現実である。しかしそんなことをしたところで、記号人の定める法において私は悪とされるだけでそれは客観的には(つまり正義観念が形式的にしか認められない記号人の嘘の制度ではなく、正義観念が実質的にも認められる理性人の真実の制度においては、つまり学術的な真理においては)私は悪ではないので問題ではなく、実際に、私の活動を止めることはできない。これも現実である。また「私の行為が国法に反するものだからと言って、正式な手続きによらずに私を批判するのは、私刑禁止の原則を理念とする国法の制度の否定であり、矛盾している。仮に正式な手続きによって私を法的に裁いたにもかかわらず、その結果が不十分だからと言って腹を立ててはいけない。それは、”正義に絶対の解はない。どんな手を使っても勝った者が偉い”とする日本国の制度の否定でしかない」。これも現実である。

 現実を見ることができず、言葉の理屈で組み上げた勝手な理論で私を批判する生き物は、自分の思考の中でしか生きられない自閉症患者でしかない。他人を批判するなら、単なる事実関係の列挙や科学的な根拠のない哲学、法学的な理論の開陳にとどまるのではなく、それが客観的な真理であることを証する学術的な証拠を提示しなければならない。それをしようとせずに、どれだけの言葉を連ねて私を批判したところで、それは個人の価値観の開陳でしかなく、言語能力の証明にしかなっていない。

 「人を殴ってはいけないのは、自分が人に殴られるのを避けるためだ」という理由で法を語る人がいる。そう考えると、理性のない記号人との間でも一定の人権保障やルールを妥当させねばならないように考えられるが、これは客観的な根拠のない個人の意見であって、学術的な真理にはならない。「人を殴ってはいけないのは、自分が人に殴られるのを避けるためだ」という意見にまさに現れているように、非理性的な動物との関わりにおいて妥当するのは「損か得か」という考慮だけでしかない。「自分の損になるから他人を殴らない」という理由で他人を殴らないのであれば、それは個人の合理的な損得勘定によって達成すればいいだけであり、ルールにする必要はないし、そもそも彼らには理性がないのだからルールにしたところで殴る人は殴る。

 学術的な真理としては、「記号人には理性がなく、人権が与えられない。彼らは客観的な正義を認識できないので、彼らが語るルールは全て人間に対して効力を持たないフィクションでしかなく、守る必要はない」というのが正しい。しかし私は合理的な判断から、自分の損になるような行動は取らないのであって、それゆえ私の人権を保障してくれる労働者の人たちをいきなり殴るようなことはしない。

 デビュー後の私は「誰も逆らえない権力」を実質的に握ってしまうことになるのであり、インフラ要員に対しては「お疲れ様です」という態度を取ることになるだろう(というか、すでに私はリアルではそういう態度を取っている)。デビューして間もない頃は、私は世間に大バッシングを受けるのだろうが、それから時間が経つごとに、私の権力がじわじわと明るみに出てきて、そのうち誰も何も言えないような雰囲気が生まれるにつれて、私の過去の発言がかえって「自分の立場の優越性をわきまえず、相手に同情心を持とうとしていない」という点で「分かっていない」ものに思われてくるように思われる。個人が若い頃に背負う黒歴史というのは本来、「自分の弱さや特別でなさを分かっておらず、自分を強い者、特別な者だと思い込む痛々しい過去の振る舞い」という形を取るものだが、このブログが黒歴史になるのだとすれば、それは「自分の強さや特別さを正確に把握できておらず、弱い相手が仕掛けてくる闘争に過度に警戒心を抱いているその姿勢」が原因になると思われる。しかしこのような過剰とも言える防衛がなければ、私はこの世界で自分の立場を明らかにできないわけで、地球住民全体を養分として利用しているこの状況で、こちらから積極的に闘争に勝つのでない限りどこからの擁護も想定できないという都合上、初手の段階で引いてしまったら弱い立場に立たされたも同然となってしまう。そもそも間違った批判を受け入れるのは人権保障としてはおかしいわけで、私の同情はあくまで「公正な結論を通した上で、その結果生まれた弱者に上辺だけでも優しい態度を取る」という形を取るのでなければならない。だから実質的には、このブログは黒歴史にはならない。

 「保身のために女をないがしろにする男は最低だ。愛する女のために犠牲を払える男にしか価値はない」と彼女は語るのだろうが、それは彼女の都合であって学術的な真理ではないし、私は彼女に「最低だ」と思われても何の問題もないし別に嫌だとも思わない(だからこうして書くべきことを書いている。これらの記述も、学術的な真理の公表として必要であり、それが私の成果になる)。

 ベラスケスは、馬場くんとの関係を手放したくないだろう。私は「二人の性的関係は強姦だった」と述べ、「彼の貢ぎ物は自分のエゴを満たすための押し付けでしかない」とも論じた。これは客観的な評価である。しかし、彼女にとってそれが喜ばしいものに感じられたかどうかという主観的な事情については、話が違う。

 強姦があったのは事実である。これは彼女が強くなるために必要な犠牲なので、彼女は受け入れざるを得なかったと言える。しかし貢ぎ物を常に脅迫に感じていたかと言えば、そうとは言えない。彼女は一面では彼のことを性的に釣ることで、彼を尻に敷くほど飼い慣らしていたように感じていたわけで、彼も彼で彼女をただカネと暴力で脅すばかりでなく、弱い一面や苦労話を通じて彼女にへりくだる姿勢を見せるなどして、お互いの立場を「エゴとエゴのぶつかる対等な殴り合いの関係」として安定させていた。だから彼女は彼の下で幸福を得ていたということになる。彼は自らを養分として四次元政府に身売りすることで、莫大な物質的利益を不正に得ていたわけで、そういう禁じ手を通じて「他人のカネで女に貢ぐ」ということをやっていたわけで、客観的にはそれは彼の実力によるものではないのだが、手段がどうであれ彼は彼女を幸福にするという結果をもたらしていたのである。

 要するに、彼女は馬場くんとの関係を保っていた方が幸せになれたのであり、生物的、(あるいは彼女が理性人に進化した後では社会的な差)があるゆえに対等な関係を得られない私との間では、彼女は幸福になれない。私は「彼女が進んでセックスを受け入れられる魅力を持った男」であるのみであって、彼女のことを幸福にできていたのは馬場大祐である。客観的な人権観念のない記号人にとって、「セックスが強姦かどうか」はあまり意味のないものであろう。強姦だろうが何だろうが、自分を幸福にしてくれる相手を記号人は好む。いいセックスができたからと言って、旨い飯や豪華な生活を与えてくれない男は、記号人の女の主観においては何の価値もない。私は「自分が不正をせず、四次元法において咎められることがない」ように振る舞うことができるのみであって、彼女を幸せにする能力や意思を持っていないのである。

 私の今までの人生は、「四次元の記憶のない状態でこの世界に生まれ、大学院を中退後、まず記号人の思考の有害性を知り、その後に私自身が行う記号人に対する処分のえげつなさを知る」という構成が取られていた。だから真実を知るに連れて明らかになっていく自分の行いの非情さに時々ギョッとすることがあるのだが、ベラスケスに対して取られた対応にもショックを感じている。

 私は彼女に何をしていたのか、新たに分かったことを書こう。彼女は通常ならば有害な思考の強い記号人として生きるしかない女性だが、ある裏技のようなやり方で、理性人に進化する素養を持っていた。政府はそれを利用して、彼女の魂を培養し、カネに変えることを考えた。そのやり方はこうである。「馬場くんの犯罪を通じて、彼女にあらゆる贅沢をさせ、歪んだ快楽の記憶を魂内に植え付ける。その後、彼女を他の記号人と同様に無限の拷問に晒す。彼女は馬場くんと同じで、罪による執着のために長い長い時間、死ねずに拷問を受け続けることになる。しかしそれと平行し、彼女は私とのセックスを通じて、『理性人とのいいセックス』を味わう。その情報により、彼女の魂は十分な拷問によって解体した後、理性人に進化をする」。

 ここまではすでに書いたことである。新たに分かったのは、どうやら私は、デビュー後に彼女の生まれ変わりと会うことはない、という点である。彼女はすでに私との擬似セックスによって進化条件を整えており、後は無限の拷問を受けるだけでしかない。私は彼女とは関係のないところで、若くて魅力的で素直な何人もの女性とセックスをすることになる。たとえ彼女が進化をしても私と関わることはなく、ただ私の私生活を生放送のように眺めながら、四次元空間に放置されて終わる。

 進化後の彼女は理性人だが能力的に私に劣っているので、人権保障上、実力で仕事を与えられる立場にない。経歴が経歴なだけに、社会的な信用性も私からの信用性も得られないので(演技をさせた上で、会って遊んでセックスをするだけなら、若くて素直な記号人の方が質が高い)、私が私的に彼女を選ぶこともない。だから彼女は人権が与えられても、仕事がなく、ただ最低限の生活保障(私の私生活を記号人たちと一緒に眺めることで、情報すなわちカネを与えられる)を得ながら放置されるのみである。

 彼女が私の私生活において、私と四次元空間を共有していたのは、ただ四次元政府の私が「彼女を進化させてその魂を喰いたいから」であって、別に彼女を女性として特別視していたわけではない。私は現在から将来に渡ってフリーであり、誰に対する浮気でも不倫でもなく、当然に複数の若い女性と関わる権利(家畜の管理処分権)を持っている。彼女が私との婚姻にこだわっていたのは嘘である。彼女は「政府との甘い結婚生活の夢を与えられることで、後で理性人に進化をさせられ、より質の高い養分に作り替えられるために、嘘に縋らされていた」のである。四次元政府は彼女の依存心を利用し、どこまでも卑しい欲望を膨らませて、その魂を養分にしていたに過ぎない。地獄のような売春経験をさせればさせるほど、彼女はより強く政府に救済を求めるので、その欲望を利用して、彼女を無理やり進化させることができるのである。そうして進化をさせられて、拷問から抜け出したところで、放置されて食われて終わり。それが彼女である。

 私は法的にも科学的にも不当なことをしていない。「これがあなたに相応しい客観的に公正な取り扱いだよ」としか言いようがない。私はあちらの依存心を利用していたが、そのやり方は別に不正にならないものなので、結局、彼女が自分の希望に沿って動く機会を与えられていたというに過ぎない。彼女の希望と私の金儲けが噛み合って、こういう結果になっただけである。しかし、恨まれるだろうな。「客観的な真理なんて関係ない。気に食わなかったら相手を壊してもいい」という女にしてみれば、私のことを殺したくて仕方がないだろう。彼女が私に訴訟を起こし、こちらの世界でカネをせびるのは、「手切れ金」の意味があるものと思われる。

 あるいは恐ろしい可能性だが、私の予想は悪い方に当たるので念のため書いておくと、私は今後、ベラスケス以外の女性と関われない可能性がある。彼女は馬場大祐の不正によって権力と良い男と贅沢に舌が肥えてしまっており、私がいくら成功をしても、満足することはない。彼女は肉体的には私と相性がいいのだが、私の人間としての価値、男としての価値を認めているわけではない。むしろ私にマウントを取られないように、過去の男である馬場大祐を引き合いに出して、「あのくらいの幸せを私に与えられないなら、私はあなたを認めない」と言い張ろうとする。彼女は過去の体験のせいで、不当に自分の価値を誤信しており、「この私レベルの女が、今さらあんな子供みたいな筋肉もない小金持ちの男に抱かれるなんて情けない」と考えているのである。自分が理性人に進化するまで価値を認めてもらえないからと言って、すでに理性人として完成している私の価値を否定するのである。私は客観的に価値の高い男だから、高望みをして然るべきなのだが、彼女は客観的に価値が低いので、高望みをしてはいけない。そういう「当たり前」のことが分からない。自分の欲望を絶対化し、自分より上の存在と同じ要求を通さなければ我慢がならない。だから彼女は、「お前が高望みをするなら、私だって高望みをしてやる」という形で、自分の身の丈に合わない理不尽な要求をするのである。

 私はデビューをしてようやく自分の価値を証明したと思ったのに、その瞬間に彼女が私に近づいてきて、「今のあなたのレベルは私に相応しい男ではない」などと私のことを否定し、自分を満足させられる都合のいい男に私を成長させようとするのである。それを実現するために、彼女は「魅力の出し惜しみ」をするかもしれない。彼女は四次元整形をすることができるので、いつでもいくらでも巨乳で骨盤の発達した美しい女に変身することができるのに、あえてそれをせず、私を都合よく動かそうとする。私にしてみれば、ようやくカネを持って女と遊べるようになったのに、現れる女、現れる女が、私の客観的な価値を反映しないそこそこの美女でしかないとなると、常に自分の客観的な価値を否定された気分になる。それを解消するためには、私は彼女が好むような男になり、彼女が好むようなお金の使い方をしなければならない。他の女を選びようがないのだとすれば、必然的にそういうことになる。彼女は私の家畜であり、それを十全に利用できないことは私の権利侵害となる。私は胸が綺麗で大きく、骨盤の発達した美女とセックスがしたいのに、それができないのは私の客観的な価値の侵害となる。私の隣にいる女が、私に相応しくないものだったら、私は常に被害を受けていることになる。他人は「そんなのはわがままだ」と言うのかもしれないが、私は自分の客観的な価値を知り、これを証明しているのであり、私の合理的思考構造上、これを許容することはできない。「お前の周りの人物がくだらないのはお前に価値がないからだ」などとかねこあやは主張するが、そんなものは自分の存在を否定されたくないからこちらの価値を否定しているだけの、学術的な根拠のない暴論でしかない。

 私は胸が綺麗で大きく、骨盤の発達した美女とセックスがしたい(AV女優の宇都宮しをんやYouTuberのじゅえりーレベル)。そのレベルでないと、侮辱をされた気持ちになる。だからと言って、別にそういう女が得られないからと言って、腹を立てることはない。ただ「レベルの低い女の体しか用意できないなら、私はあなたと会いません」と私は述べているに過ぎない。「あなたのレベルが上がらない限り、私は魅力的な体になるつもりはない」と彼女は言うが、私がたとえどれだけ優れた魅力を持つ金持ちの権力者になったところで、彼女は自分が私を支配できなければ、私に勝つための駆け引きとして同じことを仕掛けてくるだろう。それは嫌だ。他の女が選べないとなると、これは実質的に強制に近いものであることになるからである。他の女が選べさえすれば、競争原理が働いて、こういうことは起こらないのに、それができないのはキツい。

 私は私で、これに対抗するために、「魅力的な女の体を用意しないなら、こちらはあなたとセックスをしない」という選択をするしかない。私には「相手の体つきを変える自由」はないが、「相手に会わない自由」がある。もちろん、他に選べる女がいないのだから、それでは私も困るわけだが、そんなことで私は彼女の支配下に置かれるわけにはいかない。ダッチワイフを買おう。自分が恵まれない立場だからと言って欲望と劣等感をこじらせ、私にマウントを取るためだけのそこそこの美人としてしか私に会おうとせず、それによってこちらの客観的価値を否定しつつ、返す刀で「お前は私に合うような良い男になれ」と強要してくるような女を抱かされるくらいなら、人形を抱いていた方がマシであるし、彼女にとっても私みたいな「彼女のような客観的な価値の立場の差を分からない有害なマウント女の前では勝つことだけを考えてどこまでもクズに成り下がる自己犠牲のない合理的な思考を持った人間」と関わらない方が精神衛生上よろしいであろう。そんなことを言ったところで、彼女は私に依存しなければこの世界で生きられず、しかも私を責めながら自分の欲望を叶えることだけを自己価値の拠り所にしているのであり、彼女は自発的に私から離れていくつもりはないはずである。そうであれば、私は彼女を避け、その代わりにダッチワイフで性処理をすることになる。彼女の競争相手が他にいないなら、人形によって人工的に作り出せばいいのである。

 こういう発想に対して、「女をモノ扱いしている」と考える者がいるはずだが、記号人は人権を持たないモノであってモノをモノ扱いしても別におかしいことではない。それに、自分の価値にふさわしい女性的魅力のある者を相手に選ぶことは合理的であり、別にモノ扱いとも思わない。女性の乳房や腰というのは、男を惹き寄せるために発達したものであり、性交を前提とした男女関係においてその価値を価値として認めないのは生物的な真理に反し、むしろそちらの方が女性的な価値というものを否定していることにしかならない。「胸が好きな男は女を差別している」と言ったところで、そういう風に科学的根拠のない感情論や倫理観で政治闘争が起こる論題というのは、大抵その裏に真理があると言える。女性的魅力のない女が女性的魅力を否定された僻みから腹を立てたところで、現実として男は女性的魅力のある女を選ぶ。そもそも私が嫌なら私と関わらなければいいのであって、別に私と絶対に関わらないだろう女たちが私の価値観を変えようと努力する必要はない。「人間的な価値を認めて欲しい」とベラスケスは言うだろうが、人間的な価値がなくむしろ有害だから、私は彼女が整形によって得た女性的な肉体価値以外の点で彼女と会う合理性を見出せないのであって、人間的な価値を基準にし出したら彼女のことを全否定せねばならない。だから私が彼女の女性的な要素のみをあげつらっているのは、「最大限の譲歩」であって、それすら出し惜しみされるとなると、もはや話にならない。

 こちらは彼女と会わない自由があるのであって、彼女が私と会わなければ困ると言うなら、私に努力を強いるのではなく、線が細くて顔ばかりが綺麗なだけの女優のような肉体的魅力に乏しいそこそこの美女ではなく、私が彼女と会わざるを得ないようなあり得ないレベルの女の体を用意してもらわないと、こちらも「彼女と会いたい」と思うことができなくて困る。私も私で、この状況でどんな動機でどうやってわざわざ女性と会うというのか、さっぱり分からないのだ。あちらが困るからと言って、私が会う気にならないものを、無理やり会うように強いることなどできはすまい。こちらは彼女のことを人格的に信用しておらず、人間的価値も感じていなければ情も湧いてないのであり、肉体的魅力によって強引に欲望を掻き立てられるのでなければ、女に会おうなどと思えない。正直、どうすればいいのか分からない。彼女が困らないと言うなら、私も別にこれまで通り童貞のチー牛の自閉症患者の引きこもりのふりをしたまま、ダッチワイフと夜を共にするだけでいいのだが、要求があるならそれ相応のものを用意してくれ。「私にマウントを取られないようにするためだけの、線が細くて顔ばかりが綺麗な女優のような肉体的魅力に乏しいそこそこの美女」なんかを用意されたところで、私には侮辱にしか感じられない。それが女優として優れているとか美の基準は様々だと言ったところで、それならそれで、そういう舞台で仕事をすればいいのであり、私とセックスをする相手として選ばれる必要はないはずである(別に線が細い女の魅力を否定したいわけじゃない。ただ、私とセックスをするのには合理的ではないと私は言っているのである)。

 こちらは人権がある上に容姿の魅力をつけてカネ出して世界貸して客観的に上手なコミュニケーションを取っていいセックスをするというのに、あちらはカネも出さず世界も貸さず、こちらに積極的な侵害を与えないようなコミュニケーションができるわけでもないメンヘラで、私のような業績があるわけでも能力があるわけでもなく、人権があるわけでもないのに、せめて肉体だけでもこちらに合わせようとするかと思いきや、それすら出し渋ってこちらに駆け引きをし、「そちらが私の魅力に不満なら、私だってお前の魅力が上がるまで良い女の体になってやらない。それで対等だろう」と主張してくるのである。そりゃねえよ。客観的に、そういうの「対等」って言わないですよ? そもそもあちらは生物的に対等ではないのだから、「あちらが下であるのが対等」みたいなところがあるのに、彼女はそれを受け入れるどころか、むしろ私に積極的に要求をしてくるのである。そりゃねえよ。この問題を「生物的な違い」のせいだと考えると、生物的な劣等感を引き合いに出して種族の憎しみを煽動し、私に政治闘争を仕掛けることができるのだろうが、「生物的な違い」を無視したってこの話は明らかにおかしい。カネは男が出すのが当たり前、女の悩みは聞くのが当たり前(こちらは彼女に悩み相談などしたことがない)、旅行に連れて行くのが当たり前、彼女の人格がきつくてもこれを受け入れ、むしろ褒めてやるのが当たり前、昔の男の方が良かったとこちらに難癖をつけるのが当たり前、お世辞を言えというわけではないが、こちらの業績を認めようとせず、すでにこちらがこの世界で証明した才能も魅力も価値も認めようとせず、ただ「私にだって価値はあるのだからそれを認めろ」と主張するばかり、自分のしたことの非も認めず、「お前は私を誹謗中傷したのだから許さない」と文句を言うばかり、過去に無限回の売春で飯を食っていたくせに、こちらの一ミリほどの浮気に火のように腹を立てる、客観的な価値のない馬場にはカネ欲しさに巨乳美女になって接待していたくせに、客観的価値のある私のことはその馬場と比べて価値を否定し、巨乳美女の体をよこそうとしない、気に入らないことがあったら正当な権利もないのにこちらを攻撃して無理やり要求に従わせるのが当たり前。こんな女がいたら、客観的に「地雷」だろう。

 要は、私が欲しいものを用意できるかどうかだ。私は胸が綺麗で大きく、骨盤の発達した美女とセックスがしたい(AV女優の宇都宮しをんやYouTuberのじゅえりーレベル)。「童貞の引きこもりは自我が肥大してあり得ない願望を抱くものだ」と私を皮肉ったところで、これは客観的に公正な結論なので、そちらがそれで私を避けることはできようが、こちらを動かすことはできない。私は彼女に愛されたいとか好かれたいとか認められたいとかそんなことを言っているのではない。認められなくてもクズだと思われていてもなんでもいいから、私の欲しいものを用意してくれればいい。そうしたら、旅行にでも何でも連れて行ってあげるし、悩みだって聞いてあげよう。「ダッチワイフと比較するな」と言ったところで、ダッチワイフと比較されて負けるような女が私と会おうとしているところに問題がある。私が間違っていようと何だろうと、私を責めたところで私を動かすことはできない。私の主張が全て妄想だと言うなら、こんな童貞一匹にこだわっていないで、自分の人生を充実させればいいのではないか?

 人の考えというのは、簡単に変わるものではない。お互いの考えが変えられないなら、お「互いが譲らない状態において損をする側」が譲るしかない。私は胸が綺麗で大きく、骨盤の発達した美女とセックスがしたい(AV女優の宇都宮しをんやYouTuberのじゅえりーレベル)。余計な言い争いは無用。私の関心は、彼女がその欲望を満たしてくれるか、くれないか。それだけだ。問答無用の魅力で、こちらの理性を跳ね飛ばして欲しい。

馬場大祐(=林一郎、田山輝明、松本人志、福山雅治)にしてみれば、この状況は受け入れ難いだろう。彼はベラスケスに承認されるために、自分の命を犠牲にして地獄に落ちてまで私からカネを盗んでいたのに、その資産を全て私から取り上げられ、私に罰せられた挙句、自分の愛でていた女まで取られて、しかもその私は、何一つ自分を犠牲にすることなく、努力もせず、受けた被害は全て彼らを拷問することによって報い、加害者から債権を回収し、彼の醜さを学術的な業績として発表し、ただ自分の生まれつきの魅力と能力だけによって彼女を欲しいままにしているのである。嫉妬深い彼にしてみれば、生まれながらに恵まれている私とそうではない彼自身とを比べて、「俺の人生は何だったんだ」と思われ、ハラワタが煮え繰り返る思いだろう。もちろん、たかが自分の一個の安い命をかけたくらいで女の人生に腹を立てるいわれはないのだが、自分の感覚でしか物を考えられない彼にとっては、何よりも大切なはずの自分の命を犠牲にしてまで尽くしてやった女を、生まれつきの能力差によってあっさりと取られるのは許し難いことなのだそうだ。

 一方、ベラスケスはベラスケスで、私のことが憎くて仕方がないらしい。自分を犠牲にしてまで政府に抵抗し、カネを盗んで彼女に贅沢を提供していた馬場大祐に比べて、私は何の犠牲も払うことなく、ただ一方的に彼女を食い物にしている。それが彼女の記号脳においては、「私がこれだけ苦しんでいるのに、彼は何にも犠牲を払ってくれない」という不公平感や非対等感を感じられて、許せないのだそうだ。もちろんこれは、彼女の脳による判断であり、子宮の判断はまた別である。彼女は脳内の判断において何一つ私を承認できないにもかかわらず、子宮のレベルでは私を受け入れてしまっている。だから私は彼女を何一つ愛することなく、ただ彼女と遊ぶつもりでセックスをしているだけで、彼女の体は勝手に私を承認し、いずれ理性人に進化してくれるのである。彼女は納得できないだろうが、魂の構造上、こういうことができてしまうのであり、それが合理的なのだから仕方がない。私だって彼女の認識構造を何一つ承認していないし人間とも思っていないが、肉体的魅力のある女とセックスするだけなら歓迎である(むしろそうでなければ彼女となどと会う動機を見出せない)。嫌なら別に進化を欲しなくてもいいし、私が求める体を私に提供する必要はなく、このまま拷問を受け続けていれば良い。私はおっぱいの心配しかしていない。

 厳密に言えば、ベラスケスは私のことも馬場くんのことも好きではない。ただ、私のことを質の高い性的快楽の供給源として利用し、馬場くんのことを経済的快楽の供給源として利用していただけである。彼女は私のことも馬場くんのことも嫌いである。彼女はただ、馬場くんの権力が強かった時代には、彼の横暴を避けるために「本当に心許せる相手とセックスできることが幸せだ」などと言って私に縋り、これを癒しとして利用し、私の権力が強くなった今となっては、私に飼われる未来に絶望したくないために、「やはり自分を犠牲にして私にカネを提供してくれる彼が一番だ」などと言って馬場くんに縋り、これを癒しとして利用しているに過ぎない。彼女は馬場くんとの間では、主に彼のサイコパスな思考によっていがみ合いの関係を生じていたのであり、私との間では、彼女のサイコパスな思考によっていがみ合いを生じることになるのであり、どちらの男との間でも幸福にならない。にもかかわらず彼女は、そうやって私と馬場くんを都合よく利用しておきながら、「どいつもこいつもくだらねえ男ばかりだ」と腹を立て、他人にかけている迷惑も顧みず、どこにも拠り所のない自分の運命を嘆き、孤独になったつもりで不幸を気取って生きているのである。側から見たらその態度は節操のないものである上に、他人任せの他力本願でしかないのだが、「そんな風に周りを否定してばかりで、当のお前は何なんだよ? お前に一体、何の価値や魅力があるんだ?」としか思われない。しかし彼女は自分のことしか考えられないので、そんなことを言われたところで鬱になって死にたくなるばかりで、逃げるようにまた縋れる男を探しては、期待外れに終わって悪態をつくことしかしない。それを克服しようとして、「自立したい」とか「私は一人で生きる」とか「自分の身の回りを責めても結局自分がダメだからいけないんだ」などと必死で自分に言い聞かせているのだが、重度の記号脳は自己価値を外部から肯定されていないと果てしない自己否定に陥って自殺を企図するしかなくなるので、自分の生まれそのものを否定するような論理に彼女の脳は耐えられない。だから逃げるようにまた拠り所となる男を探しては、期待外れに終わって悪態をつくことしかしない(二回目)。その繰り返しである。

 「ベラスケスが好きなのは馬場くんか私か」という問いを発することに意味はない。彼女は本質的にどちらのことも嫌いであり、またどちらとの間でも幸せは得られない。学術的には、「馬場くんはベラスケスと同種の生き物であるにもかかわらず、自閉症のサイコパスであるがゆえに他者とのコミュニケーションが行えず、自分を傷つけるか相手を傷つけるかの二択で行動するしかないために、彼女との間で良好な関係を築けない。これに対して私は、彼女と別種の生き物であり、生物的にこちらが上なのでその格差に応じた対応をせざるを得ないが、彼女は記号的な思考が強いために私より下の扱いをされることに劣等感が耐えられないので、彼女との間で良好な関係を築けない」ということになる。

 私は彼女に好かれたいとは思わない。むしろ、彼女に嫌われるということは、彼女のわがままを通せない優位な立場に私自身がいるということだから、嫌われた方が都合がいいとすら感じている。私は「胸が大きくて綺麗で骨盤が発達していて腹が出ていない美人の肉体」を彼女が提供してくれればそれで構わない。早く会ってセックスしたいところだ。私は何の目的で自分の希望を公表しているのかというと、それは「こうすれば俺を動かすことができるよ」という条件を提示することと、「公でこう言ってしまったからには、もう半端な女で満足してはならなくなる」という形で自分を制限することにある。下手(したて)に出たらあちらに都合よく利用されることになるので、こちらはあちらに対して何事も要求をせず、ただ条件を提示してこれを譲らず、あちらがそれに応じるかどうかを待つだけにとどめているのである。

 彼女が私を責めることを私が不思議に思うのは、「巨乳の美女にもなれない。性格も気難しい。浮気もダメ。そのくせ自分のおねだりを伝えてくるばかりの権力に肥えた年増の女が、私に対して何を与えられるというのか? なぜ私の欲しいものを何も与えてくれない女性が、勝手に自分を私の妻だと主張して、私が思い通りにならないことを責めながら、自分の要求をしつこくふっかけてくるのか?」という点に疑問があるからである。こんな女性がいたら、私にとっては恐怖しかない。そりゃ「関わらない方がマシ」となってしまうことだろう。それなら潔く体の魅力くらいよこせばいいではないか。私が魅力を感じない女性から、私はカネをせびられ続けることになるのか? 「巨乳好きを治して、私が気に入るような性格にあなたが変わればいいではないか」と彼女に言われても、私はそんな風に変わりたくはないし、そんなことをする義務も義理もない。「私の欲しいものを与えてくれないなら、関わってこないでくれ」という私の主張はそんなに理不尽だろうか? 私は「嫌だったら女性と関わる必要はない」という立場にあるのであって、誰かに対して義務的に行動することはないので、そりゃ好きな女性を選ぶに決まっている。私がそういう立場にあるのに、「胸の大きさや見た目だけで女を判断するな」などと私に説教をしてどうするのかな? そう思うなら、私とは考え方が違うので、私と関わらないようにすればいいだろう。個人の選好の問題だ。牛肉が好きか、鶏肉が好きか。そんなことで善悪や優劣を言い争ってどうする。私はおっぱいが好きだ。だから胸の大きな女性としか関わらない。それを差別だ何だと言うなら、じゃあ何か? 私はあり得ないデブの女性や、皮膚がボロボロの女性、顔面が歪に湾曲した女性の全てを「平等」に愛さねばならないとでも言うのか?? それは私の好き嫌いなので、私が決めることである。

 おそらく私は、記号の女の人全員にこんなことを求めているのではないのだろう。ただ、カネの都合で私が軽蔑するレベルの鬼女と関わることになりそうなので、「それだったら最低限、こちらの望むものを用意してくださいね」と述べているだけであり、別に記号の女一般を体だけで見ているわけではないはずである。私は記号の女一般ではなく、ベラスケスを信用していないのである。彼女は私と関わる全ての機会において、私を利用して希望を叶えようとすることしかしてこないので、こちらもこちらで「一方的に要求をしておいて、突っぱねられたら関わらない」という対応を取らざるを得ないというわけだ。あちらが厚かましく振る舞うなら、こちらもそれ相応の理不尽な態度を取るよという話。あちらもあちらで、私に同じことを思っているはずであり、客観的な物差しが分からないなら、権力闘争で決着をつけるしかない。

 どうやら「ベラスケスとは全く会わない」という見解は間違っているっぽい。彼女とはある程度は会うことになるだろう。ただ、こちらが応じなければあちらは何もできない(腹いせ目的の訴訟提起はできるだろうが)。その権力格差によって、私にいいように無視されるのが嫌なのだそうだ。私にしてみれば、「彼女をいかに飼い殺しにして、他のもっと魅力的な女と遊ぶか」だけが重要である。そういうことができるらしい。巨乳の娘は、彼女に要求せずともいくらでも手に入るのだそうだ。ぶっちゃけ彼女は「法的な関係で名目上、多少関わることになるだけの他人」であり、私が選ばなければ実質的にほとんど関わらずに放置することもできる。おそらくそのような事態が実現するだろう。要するに彼女のことを気にする必要はない。ごしゃごしゃ文句言ってきたら「無理ですよ」と言えばいいだけ。私は好きな相手と関わるだけだ。自分の不幸や罪に苛まれてこちらに恨みを抱き、客観的な分析に納得することができずに非を認めず、私を都合よく利用するためにこちらを責めるばかりで何一つこちらにメリットのない、性格の歪んだ化け物に用はない。

 彼女は自分が醜い心を持って生まれたから、馬場にくっ付いて戦争犯罪者として四次元犯罪を行ない、地獄に落ちてカネに換えられる身となっただけなのに、その機会を提供した私をどこまでも深く憎んでいる。私は彼女が自らの欲望から任意で養分になってくれるというので、その機会を利用しただけなのに、それで腹を立てるのである(まあ私は普通、憎まれるわな。彼女の気持ちは分かる。分かるけれども彼女には人権はなく、また犯罪も自分の意思でなしたことなので、彼女の憎しみは客観的に正当ではない)。一方で彼女は私に愛されたいと思ってもいるらしいのだが、そう思ったところで彼女自身の人格が醜かったらそれは「無理」である。好きとか嫌いとかではなく、無理。だから彼女は、私と関わることになる他の女性に嫉妬をし、恐ろしいほどの憎悪を燃やしている。そういう女性のことを肉便器だの何だのと罵るのである。私は思うのだが、彼女みたいな憎しみをこじらせたこの世で最も醜い産業廃棄物ではなく、もっとまともな記号人の女に会うことができれば、私は少なくとも表面的にはその女性をモノだとは思わずに真っ当に愛し合えるのではないかと思う。もちろんそれはフィクションでしかないのだが、お互いに楽しければそれでいい。彼女との関係みたいに、こちらがあちらの意向を無視して一方的に要求をし続けなければならないような理不尽な態度は取らなくてもいいだろう。少なくとも他人である彼女に罵られることではない。自分が愛されないからと言って、私と楽しんでいる他の女性を攻撃したところで、何一つ自分に得なことはない。林佳代は私が若い頃に、「女は怖いよ」などと裏事情をほのめかすような発言をしていたが、彼女はやたらとゴタゴタ騒ぐだけで、別に怖いと思ったことは一度もない。民事訴訟を提起されようが刑事告訴されようが、別に怖いとは思わない。こちらは自分の権力の優位性と、身の安全を知っているからである。

 この世界は人権を無視した実力闘争の世界であり、「どこまで厚かましくなれるか」が勝負である。だから私は自分の意思決定や方針を可視化させ、逃げ道を塞いだ上で、「図々しい態度を取る練習」をしていると言ってもいい。「写真でいいなと思って家に呼んだ子が、実際に会ってみたところ、思ったより顔が下に垂れていたり、胸の形や大きさが悪かったりして、期待通りでないと感じたときに、当たり前のように、その場で『ごめん、帰って』と問答無用で追い返すことができるようになる」のが、私の目標というか予定である。これは「記号人の非理性性に適応した対応」であり、あちらの性質が原因なのであって、私が本来行う「人間とのコミュニケーション」ではなく、私は現実に即して客観的に公正に思考しているに過ぎず、サイコパスではない。

 西村ひろゆき(馬場大祐の生まれ変わり)は、「サイコパスというのは安全な者もいる」と述べていたが、そんなことはない。サイコパスというのは、「社会(理性的な集団生活)に対する敵」である。なるほど彼らは、この世界の明文法に反しない形で成功を得て、公式の立場を手にしている。しかしそれは、「制度の抜け穴を利用したり未整備の分野を開拓してシェアを独占したりして、客観的に公正ではない競争の結果を生ぜしめている」という形で「公正な競争の結果」を阻害している。彼らは「記号的な思考の過剰性ゆえに、勝てば官軍の相対的な序列しか理解することができず、しかも比較の思考からなるだけ他者よりも上の立場を目指す」という欲望の構造上、「公正な競争の結果」を受け入れる能力がなく、常に他人を出し抜いて生来の能力よりも上の立場を目指すのであり、たとえ規制されてもばれないように別のことをやるだけで、社会的な有害性(公正な結果の阻害)を常に示すようにてきている。

 事実、西村ひろゆき氏は、本来ならば(つまり生来の能力に基づく公正な結果によるならば)中小企業の名もないSEがプログラマか何かをしていなければいけないはずのところを、それをせずに匿名掲示板の運営者という形で億単位の稼ぎを不当に得ている。匿名掲示板の運営というのは、広告収入によってカネを稼ぐというものであり、実体的な業績は何もない。なぜならそこには、「価値の創造」「情報の創造」が何もないからである。広告というのは、「Aという情報を世間に広める」という効力しか持っていない。このとき、Aという情報はAという情報のまま、何一つ変わることなく、ただ右から左へ移動をするだけである(もちろんそれは他の情報と組み合わせられて流通することもあるが、それは組み合わせでしかなく、いずれにしても価値の創造、情報の創造はない)。これではその個人が自己の才能によって仕事をしたことにはならない。ただインフラの持つ欠陥に目をつけて、お金の集まる仕組みを構築したに過ぎない。これは「客観的に価値のある仕事にお金が集まる」という絶対的な価値基準とは逆の、「お金を集められる仕事に価値がある」という相対的価値基準のもの、つまり「勝てば官軍」の実力闘争の発想でしかない。このような発想によって、彼は公正な結果に対して闘争を仕掛けているのであり、これがサイコパスの持つ社会的有害性である(彼の商才は「公正な結果を阻害する能力」であり、社会的にこれを通用させることは不正である。論理力に自信があるならば、大人しくプログラミングとか塾講師とかその辺の仕事をしていればいいのであって、社会的な競争においてこれを悪用してはいけない)。

 彼のようなタイプは、客観的な能力差に基づく公正な社会的序列というものを前提とせず、「社会的序列には限りがあるのであり、誰かが上に上がれば誰かが落ちることになるのだから、頭を使って勝ちを得にいく自由が誰にでもある」と考えるのだろうが、社会的序列に限りがあるのだったら、それは生来の能力に従って公正に結論を決めねばならないのであって、客観的に見るべき才能のない個人が周りを出し抜くような形で勝ちを得るのではいけない(繰り返すように、彼の商才は「公正な結果を阻害する能力」であり、社会的にこれを通用させることは不正である。論理力に自信があるならば、大人しくプログラミングとか塾講師とかその辺の仕事をしていればいいのであって、社会的な競争においてこれを悪用してはいけない)。社会的序列に限りがあるのだったら、生来的に凡庸な能力しかない彼は進んでもっと有能な個人に立場を譲らでばならないのであり、能力がないのに方法論で勝とうとしてはいけない。それが「社会のルール」である。

 私は「制度の穴を突く炎上商法によって、億単位のカネを稼ぐ」という点で、彼と似たようなことをしているのかもしれない。それで彼のことを有害だと言い、私自身のことを公正だと言うのはおかしいと思われるのかもしれない。しかしそれはおかしい。私の炎上商法は「自己の価値にふさわしい客観的に公正な結果を得るための抵抗権行使」であって、すんなり私の客観的価値が社会的に承認されるような「公正な環境」であれば必要のないものである。これに対して彼の営業は、「自己の価値にふさわしくない結果を得るための不正な活動」であって、「公正な環境」に対する敵となるので、両者は全く別物であることになる。事実として、私の活動は報酬を得る手段こそ彼と似通っているが、客観的な業績の点では全く違う。私は物理学、法社会学、人類学(精神分析学・脳科学)、情報科学、文学と言った複数の分野において、現行の知見を塗り替えるだけの学術的業績(真理の発見)を上げている。それに対して、彼が一体何をした?? 制度の抜け穴を使って広告収入でカネを集めながら、学術的な価値を持たない理屈の組み合わせで何の業績としても残らないような暇つぶしのお喋りをしていただけだろう(にちゃんねるの創設の影響にしても、「暇つぶしのお喋りの場」を用意しただけでしかなく、経済循環の点以外において、社会的な利益にすらなっていない。にちゃんねるで得られるのはにちゃんねるの煽り合いに対する耐性くらいのもので、それはそもそもそのようなプラットフォームがなければはじめから必要のないスキルであり、学術的な成果を生じるようなものは何もない)。

 私は自分の才能に客観的な価値があるから、これを実現するために億万長者を目指しているに過ぎない。これは自分に与えられたものをそのまま享受するという点で、それがどれだけ莫大な利益であっても自分の身の丈に合っている限りエゴではない。これに対して、彼は自分の才能に客観的な価値がなく、そこそこ稼げるプログラマか塾講師くらいの才能しかないにもかかわらず、それ以上の利益を欲して制度の抜け穴を利用している。これは社会的に不正な欲望すなわちエゴイズムであり、客観的な基準によらずに他者よりも上を目指そうとするサイコパスの社会的有害性の表れである。彼は生来的にそのような思考構造を変えられないのであり、「どうしようもないことで批判されても困る」と考えるのだろうが、彼が困ろうが困るまいが、学術的な真理としては、「彼は有害である」と説明されることになる。個人や集団が困るか困らないかで科学の結論が変わってたまるか(こういう者がこの地球に集まって、客観的な基準に基づかずに競争をしようとするから、集団生活は正義無用の実力闘争によって規定されることになり、コミュニティが存続をしていられないのである。彼は「みんなそうやっている。これがこの世界の環境だ」と主張するかもしれないが、みんながそうならみんな人権のない非理性的な記号人であることになるだけで、彼の社会的有害性が有害でなくなるわけではない。上の方でも解明したように、客観的に公正な社会序列を自発的に達成できないコミュニティでなければ、それは科学的には「社会」とは呼ばない。公正でない社会は本質的に実力闘争によって規定されているのであり、そこでは人権観念というものが実質的に無力化することになる)。

 これはもう生まれつきの能力差の問題なので、はじめから誰も争う必要はなく、文句や不平を垂れなくてもいいし、黙って受け入れていればよろしい。心配しなくても、全ては公正な基準で決定されている。そのような決定が「個々人の夢を壊す」ことになるからと言って、文句を言ってはいけない。個人の夢がなくなるという主観的な欲望で社会に闘争を持ち込むのは非理性的な野蛮な行動であり、社会的に許されることではない。

 記号的な思考が強いことによって、他者との関係を比較によって把握し、その比較の中で自己価値を確認する傾向性が強いと、自分が他者より下の立場の場合は強い嫉妬を覚え、上の場合には強い優越感を覚えることになる。また、記号的思考は言葉の組み合わせでしか物を考えられないので、正義を客観的に把握できない一方で、記号的なパターン戦略を学ぶことは得意なので、それによって法や制度を出し抜くことを厭わない。記号的なパターン戦略で法や制度を出し抜くことを厭わない者が、自分より上の者には嫉妬心を抱き、自分より下の者には優越感を感じるとなると、その者は自己価値を確認するために法や制度を出し抜くことが生き甲斐(ライフワーク)となる。海馬や扁桃体の発達のせいで情動記憶(記号的なパターン記憶、比較の思考)が強いのに、前頭葉が弱いために合理的な思考が働かないと、このライフワークを法や倫理観等によって抑制することもできない。また、これに加えて側坐核が強いと、何かを達成した際の多幸感が強くなるので、ますます抑制が利きにくくなる。

 結果的にこのような者は、客観的な正義を認識せず、記号的なパターン戦略によって法や制度を欺き、他者を出し抜くことにえも言われぬ幸福を感じるのであり、それを倫理観や法観念によって抑制することはできない。だからこのような性質を持つ者には、詐欺師や泥棒が多い。もちろん今の制度の中で明示的に詐欺や泥棒をやると、ばれたときに負けることになるので、知識を活用してなるだけばれにくい方法で詐欺や泥棒(=公正な結果への反逆)を行う。これがサイコパスである。

 私は「他人が離れていくような人」になりたい。考え方の違う者が私の知らないところで勝手に生きる分には構わないが、私と関わり合いを持つことはごめんである。「異なる考え方の人とも仕事ができてこそ有能」とか言うが、そんな主張に科学的な根拠はなく、「場合による」としか言いようがない。あるいは前頭葉の発達度合いに応じて友達の多さが決まるというデータがどこかの研究結果にあるかもしれず、実際「合理的思考のできる奴ほど、他人とコミュニケーションを取る能力が高く、友達が多い」という学術的真理が認められそうな気もするが、「友達が多いかどうか」と「友達を作る能力が高いかどうか」は別である。なるほど私は、上辺のトークだけなら割と誰にでも合わせられるし、見ず知らずの相手と小一時間を楽しく過ごすことができる。お金を持ったら、そういうことができる機会は増えることだろう。しかし私は別にそんなことをやりたくない。メリットがないし時間の無駄である。この世界では普通は組織の方がカネ稼ぎをする際に得だが、私の場合、個人で勝手にゴリゴリ発想を深めて進んでいった方が儲けられる。だから「友達を作る能力が高い者でも、環境によって友達を作らない場合はある」ということがあり得るのであり、「友達が少ない=能力がない」ということにはならない(まあ別に無能のクズ扱いされてもいいんだけど)。

 私はスペック的にも立場的にも、今後の人生計画的にも、敵を多く作る予定になっている。「利害の相反する者は認めない」という考え方をする生き物が、明らかに彼らの利害に反する活動をする私に敵対しないはずがない(「俺たちは自分たちの利害に反するからお前を攻撃しているのではない。お前が社会的に不正なことをしているからお前を攻撃するのだ」と誰かが述べたところで、この国では正義に絶対はないので、「それは一つの考え方に過ぎない。あなたは自分にとって得だから法を盾に取って他人を攻撃しているだけであって、それが客観的な真理だから他人を攻撃しているのではない」という話になる)。たとえこちらが真実を語ったところで、あちらは理性がないので「確かに僕たちの利害には反するけど、公正な議論をするならそちらの方が正しいよね」とはならず、むしろ反論ができない真実を語れば語るほど、彼らは腹を立てる傾向にある。ゆえに、この環境での「正論」の使い方は、「正しいことを広めて人々の行動を自発的に変えさせていく」というものではなく、「利害の対立する相手が反論できないように身を守りつつ、怒らせてカネを儲ける」というものであることになる。

 こういう人生を送る以上、「考えの合わない者が近づいてきて、色々口出しをされる」という迷惑を私は被りたくない。まるで世間に嫌われることが悪いことであるみたいに、あるいは人権のない女性をモノ扱いすることが悪いみたいに、説教をかまされても私は困る。客観的にはそれらは悪いことではなく、主観的にそれを悪いと思うならその人は自分がやらないようにすればいいのであって、他人に説教をすることではない。「そんなことでは生きられない」などと言ったところで、確かにそいつは生きられないかもしれないが、私はそのやり方で欲望を満たして生きることができるので、放っておいてもらわないと困る。科学的な正当性も持たない個人の感想に従う理由がない。石油王には石油王の生き方、一般大衆には一般大衆の生き方、四次元政府には四次元政府の生き方がある。客観的な正義に反するのでない限り、そこに優劣や善悪をつけることはできない。

 要するに、私は私の論に賛同できない人たちに嫌われた方が得なのである(私の論に賛同した者たからと言って、こちらが欲するようなメリットや旨味や快楽を提供できない者と関わることはない。信者の受け入れはしない。信者というのは、「他人の業績に頼って勝ち馬に乗りたい人」であり、客観的能力主義の私とは別の考えを持つ人たちである。勝ちを得たいなら、自分で才能を発揮するしかない。業績を上げたのにそれにふさわしい社会的地位を得られないなら環境に腹を立ててもいいが、業績を上げてもいないのに他人の業績に頼って近づいてくる者を私は認めないし、こちらの欲するメリットや旨味や快楽を与えてくれるのでない限り、関わることもない。それが客観的に公正な競争である)。

 もちろん私は、こちらが欲するようなメリットや旨味や快楽を提供できる者とはたとえ考え方が合わなくても関わろうと思うが、別にこちらの方針を曲げることはない。こちらの方針を曲げなくてもこちらと関わることができ、かつこちらが欲するようなメリットや旨味や快楽を提供できる者をこちらは「選ぶ」のであって、邪魔になるような者とは関わらない。同じ理屈から、日本の生活に不都合があるならば、日本から出ていけばいいという話になる。政治亡命ではないが、海外に行くと日本のインターネットで起きているくだらない言論闘争が小さなものに見えることだろう(「バズってからカネが貯まるまで日本でタワマン暮らしでもして女と遊んで、アメリカに家を買ったらさっさとトンヅラする」というのが私の今の方針である)。

 私は今後私と関わる女性がベラスケスの生まれ変わりであるか、それとも新人の若い女性であるかを判別できない(四次元の生まれ変わりによって年齢はいくらでも偽れる)。だから、「可愛いと思って抱いた子が実はベラスケスだった」という憎たらしい事態を避けることが困難となる。この問題を解消する上で、「巨乳の娘としか関わらない」という選択は合理的である。彼女は四次元の生まれ変わりでいくらでも巨乳の美しいスタイルを手に入れられるのに、あえてそれをしようとしないところには何があるのか? それは「男の快楽の道具として自分の体を使われたくない」という意識である。

 つまり彼女は「1.男の快楽や興奮に繋がるような魅力はつけず、2.ただ自分が美しくなることで権威を得られるような顔の綺麗なスレンダーで背の高い肉体を手に入れつつ、3.自分は男から性的な快楽を抜き取り、4.男からカネも贅沢な飯も与えてもらう」ということをしようとしていることになる。自分から何も与えることをせず、ただ自分の得になるような魅力しかつけるつもりがなく、一方的に与えられることを欲するのである。このような意識の女性と私は関わりたくない。こういう女性は、一つ何か願いを叶えてやると、はじめは喜んでくれるが、次第にその立場を維持しようとして厚かましい態度を取り、こちらを強制しようとしてくるのである。私が巨乳の娘を選ぶことによって、「仮にその女性がベラスケスだった場合であっても、彼女の隠し持つ上記のような不当な征服欲や権力欲を挫くことができる(仮にその女性がベラスケスでなくても、それはそれで私に実害はない)」という望ましい効果を私は得ることができる(ベラスケスが巨乳で出てこられないなら私は別の子と関わるだけであり、困ることは何もない。彼女と関わることに対する価値を私は何も感じておらず、むしろ彼女が応じにくい条件を提示して、私から離れていってくれた方が得である。「そんな風に女の価値を否定するような男は最低だ」と彼女が言い返したところで、私は彼女の価値を否定しているのであって、女一般の価値を否定しているのではない。「巨乳の美女じゃなかったらあなたと関わることに何の価値も感じられない」と男に言わせるような女は、その男との恋愛において、その時点で負けである。だから彼女は「素性を隠して別人になりすまし、ばれないように私からカネと性的快楽を盗みつつ、ばれないように美女の姿で権力を誇示する」ということをやろうとしているわけで、そんな汚い策略による被害からこちらが身を守ろうとするのは当然である)

 私の論は一見すると、女を都合よく利用する暴論のように思われるが、デビュー後の私は女が望むものを与えられるようになっているので(そうだと思えない女性は、わざわざ私に関わる必要がない)、「女も私が望むものを与えてくれるのでなければ困る」という当たり前のことを私は言っているに過ぎない(私が女に望むものが肉体的魅力くらいしかないのは、それだけ私が「自力で多くのものを手に入れられる能力を持っている」ことを示している)。魅力も才能もカネもないのに、ただ一方的に女の肉体を求めるのは不当だが、私は「私から利益や快楽を得たい女性がいるなら、それ相応の対価を提示してくれ。そうでないと、こちらはその子と関わる気にならなくて動けませんよ」と述べているのである。

 もし女が「お金や贅沢な飯、楽しいお喋り、性的快楽」と言ったものを欲して私のような男にわざわざ近づこうとするならば、それを得るために合理的な努力をしたいと思うはずであり、別に巨乳になることに抵抗感を覚えるいわれがない。「私の要望に応じて巨乳になること」を嫌がる女というのは、「そのようなギブアンドテイクのやり方では自分の欲するものを得られない」と考えていることになる。つまりその女は、「男の要望を聞きたくない。私は男を支配し、従わせ、実権を握るために男に近づいているのであり、男の要望を聞いたのではその欲望を満たせない」という考えを持っていることになるのである。これは客観的な公正性を無視した不当な支配欲であり、認められない。「(その女性の体を横から見たときに、体のラインがS字を描いているような)美しい巨乳の美女じゃなきゃ嫌だ」という私の一見わがままにも似たお馬鹿な主張は、有害な思想の有無を調査する意味を持っているのである。おっぱいも重要だが、自分の欲するものを得るための合理的な努力として、嫌がらずにおっぱいをこちらに差し出せるそのメンタリティも重要なのである。

「お前の好みは間違っている。スレンダーな女性の方が好かれやすいものだ」と言われたところで、好みに間違っているも間違っていないもないし、客観的に性的な魅力のある女性の方を選ばねばならない理由はない。セックスというのは好みで行うものだからである。たとえば、「AV業界で名を知られている加藤鷹という男優は、セックスが上手くて有名なのだから、女性はその男とセックスをするべきである」と言って、彼のことが好みでない女性にこれを応じさせるのは不当である。何度も言うが、理屈というのは「嫌われてもいい相手に勝つためのもの」であり、相手に好意を要求する側がいくら理屈でごねたところで、何も引き出すことはできないのである。

 私は来る者を拒むことはあるが、去る者を追わない。「自分の合理的な判断で発揮している魅力が受け入れられない者は、私と関わらなければいい」という風に考えているのである。こう考えられる立場にある者は、原理的には他人に好かれる必要がなく、たまたま自分を好きになってくれた人の中で自分が好きになれる人を選べばいいので、他人に合わせて努力をする必要がない。

 ところがベラスケスは、私と関わることで私から協力を得ようとしているにもかかわらず、「私の好きなように努力をしたい。口出しをしないでくれ」と主張をする。つまり彼女は、「私はあなたに好かれるつもりが全くなく、私の好き勝手に一人で生きる。でも、あなたはその私を見捨てずに受け入れろ」と主張しているのである。これは、無理だ。他人からの好意や施しに頼って生きなければならない者は、その相手に好かれるように努力しなければ生きられない。それなのに、「私は他人に頼って生きなければいけないけれども、他人に好かれるよう努力するのは嫌だ。それでも他人は私を進んで助けてくれなければならない。そうでないと私は生きられなくて、私が困るだろうが。私が努力をしなければ私を愛してくれないという形で私の生き方を強制するのは支配であって、私は奴隷ではない」などと理屈で語られても、誰も相手にしない

 彼女はモデルの仕事等がしたいのだそうだが、私は彼女にそれをやらせることをメリットに感じない。私が彼女のことを好きならばメリットがなくても願いを叶えたいと思うのだが、私は彼女のことを好きではない。好きでもない者に対して、メリットのない施しをすることはない。

 「嫌いな相手に対しても施しを与えて飼い慣らしておいた方が、関係が円満になるのではないか」という意見もあるかもしれないが、彼女は「一度施しを与えられると、それを強制的に維持するように相手に命令・脅迫をする」という性質を持っている。何でもパターン化して杓子定規にマニュアル主義でしか物を考えられない記号人は、不安定性を恐れる傾向にあり、これが重症になると、人から施しを与えられても「その供給が将来失われる可能性」を恐れるあまり、かえって高圧的になる性質を示す。つまり、彼女に対して施しを与えることに私はメリットがないどころか、害を生じる危険すらあるのである。

 脅迫によって「相手が彼女に施しを与えるのを断れない状態」が出来上がると、容易に予想できるように、彼女は途端に横柄な態度を示すようになる。「嫌われてもサービスの質が下がっても関係を切られない立場」ほど恐ろしいものはない。彼女はその状況においては、もはや「サービスによって施しをねだる必要がない」ので、後はひたすら内部の権力を握るための合理的行動を取ることになる。相手を力で抑えつけ、自分に反抗させないように、あるいは逃げられないように監視を利かせる。そのためにあらゆる嫌がらせを行い、不満が出てきそうな場合には適宜態度を軟化させて、飴と鞭で飼い慣らすのである。だから「気に入らなければいつでも施しの供給を切る」という選択肢を消すような彼女の行動(結婚や交際の要求等もそうである)は、宿主を掴んで離さないように束縛しようとする寄生虫の行動と変わらないといことになる。

 あるいは彼女はセックスをしただけで、こちらが強制的に関係を作らざるを得ないような戦略、あるいはこちらが強制的にトラブルに巻き込まれざるを得ないような戦略を仕掛けてくるだろうか(彼女は素性を隠して別人になりすまして私に近づいてくるので、私は彼女とのセックスを完全に回避することはできない)。たとえば「妊娠をした」と嘘をついたり、あるいはコンドームに穴でも開けて本当に無理やり妊娠をしたり、応じたふりをして後から「あれは強姦だった」と言って私を責めたりすることがあるかもしれない。そういうことがあった場合、基本的には「証拠があろうがなかろうが、事実関係を全てブログで説明して立場を譲らず、相手の主張の無視をする」という対応をこちらは取ることになる。あるいはこれを事前に回避するために、「何月何日、私は彼とのセックスに同意する。避妊は行うが、もし万が一妊娠をしてしまった場合は、お互いの費用で中絶をする。この合意を破って私が子供を産んでしまった場合、彼に養育費の請求等は行わない」という念書を女に書かせる対策を取るかもしれない。

 彼女は「四次元政府に反逆する勢力」の側に何人ものファンを持っている。だから、「少しでも林洋佑に被害を与え、ファンに媚びた方が得になる」という立場にある。私よりも敵対勢力のファンを大事にしているのである。彼女は莫大な罪を負っているのであり、性格もそれにふさわしく醜く生まれているので、カタギの記号人には好かれない。ちろん私にも好かれない。だから反社会勢力のファンを味方につけるしかない。彼女が私に一歩も立場を譲らず、あくまで偉そうに施しを要求するのも、私の巨乳の要求に応じられないのも、そういう立場によるものだろう。だからたとえ彼女に形式的に立場を折れさせて、巨乳の娘として私と関わらせたところで、あちらはそうやって私の気を引いた後は、途端に厚かましくなって、彼女のお仲間に認められるように、私に被害を与えるような陰湿な策略を繰り返すことになろう(その一方で、私を騙して油断させ、身内として潜り込むことができればしめたものだというわけである)。生来の醜い思考だけでなく、極悪犯罪者のトップとして長年生きてきたしがらみが、今でも彼女の行動を醜いものにしているのである。彼女はそういう自分の人格的醜さおよびしがらみゆえに、私に絶対受け入れられずに見捨てられる未来を知っているので、「私は何で不幸なのだろうか」と人生に絶望し、鬱になっている。まあ自業自得だわな。私がこう言えば、彼女は癇癪を起こして「お前は私の気持ちを分かっていない!」と腹を立てることになる。しかし私は彼女の気持ちを分かっていないのではなく、分かっているけれども認めていないのである。自分がこれまでの醜い経歴と性格のせいで困っていて、どうしようもないからと言って、私がこれを助ける理由はない。「自分が困っているのだから助けてくれないと困る!」と考えるのは自分だけであって、他人は好きでもなくメリットも感じない人のことを助けようとは思わない。

 さて、段々事情が分かってきたぞ。つまり彼女は「セックスと拷問を通じて理性人に進化するけれども、だからと言って私が任意で彼女に会わねばならないわけではない。むしろ避けられないのでない限り、こちらの被害を避けるために彼女と関わらないようにしなければならない」ということになる。彼女は別人になりすまして素性を隠して、何人もの女の子の中の一人に紛れて私に会いにくるのであり、私はそれに騙される形で数ある女の子の中の一人として彼女を抱くことになる。もちろん私は、それでは気に食わないので、騙されないように努力をする。「こいつ、違うな」と思ったらその相手とは関係を断つ。すると彼女はまた別の姿になってこちらに近づいてくるだろうが、それも分かり次第関係を断つ。疑わしきは避けるのである。「巨乳の美女になってくれない限り関わらない」という基準は一つの例であって、何を怪しいと感じるかはその場の状況に応じて判断する。基準を作るとそれを形だけ乗り越えて別のやり方でこちらを騙そうとしてくる者が現れるので、基準を作ることに意味はない。

 すでに述べた通り、ベラスケスは四次元法の人権保障に実質的に反しない範囲で、可能な限り、私に被害を与えてくることになる。ゆうなちゃんねるやかねこあやが訴訟提起をするのは、その例の一つである。どうやら彼女たちは、私がデビューした後、十分な稼ぎを得て資力を得るまで泳がせておく一方で、被害総額が大きくなるのを待ち、証拠収集をしっかりと行なってから、訴訟提起をするらしい。まあそれがこちらに最も大きな損害を与える上で、合理的だろうな。こちらの稼ぎにしてみればそれは、「焼け石に水」という奴で、別に大した痛手にはならないだろう。

 また、訴訟提起は私に対するインパクトも考慮して、「複数人の当事者が結託して、集団訴訟という形を取る」はずである。みんなを集め、数の論理で「これだけの被害が出ているんですよ」という感じを出した方がより私を悪だと世間に印象づけやすいし、私の持つ社会的影響力の大きさから、あちらが逆に悪者扱いされないように身を守るためには、それくらいの大胆な態度が必要であると思われる(まあ別にそんなわざとらしいことをしてこないかもしれないが)。本音では彼女たちは、あまりこの訴訟の話題を長く引きずりたくないというのもあるだろう。だから彼女たちは、集団訴訟でまとめて話をつけて、さっさと判決を手に入れてそれでなるだけ事態を速やかに収束させたいという気持ちがあるはずである(もちろん彼らは、私を攻撃するために、訴訟が終わっても事あるごとにこのネタを持ち出してくるのだろうが、それは些細なことでしかない)。裏では四次元政府が彼女たち敵対勢力を完全に打倒しているのに、こちらの世界で今さら話を蒸し返して虚勢を張ったところで、恥にしかならない。だから彼女たちヤクザの敵対勢力は、本音ではこの話題を早く終わらせたいのである。

 それを解決するためにあちらが「世間の声」を利用して、私に対し「早く日本から出て行ってくれ」と要求してくるという話になるのは至極合理的であり、アメリカ行きを計画している私にしてみれば、まさに「渡りに船」という感じである。一方で私が日本から出ていくと、日本国の衰退が今よりも加速してしまうので、彼らはこれを引き止めようともしてくる。そういう本音と建前の入り混じった裏腹な態度を彼らは取ってくるものと思われる。「個人が失敗をしたからと言って、虐めによってこれに報いていいのか?」などという声も聞こえてくるだろう。ここには、彼らが1.常識のある善人のふりをし、2.私の活動を「失敗」認定することで貶め、3.私を「虐め」ているという形で自分たちの勢力が私よりも上であることを偽装し、4.いずれ日本人の醜さが世界中に知れ渡って彼らが国ごと没落していくことに対して、「失敗したからと言って見捨てないでくれ」と予防線を張るという意図がある。内容も意図も全て現実に反する間違った主張ではあるが、彼らの都合には適っている。逆に言うと、彼らの都合に適うことは全て現実や客観的な真理に反するものであり、ここまで不合理に生まれた彼らというのは、他人事ながら不幸だと思う。いずれにしても、現実にそぐわない暴論や屁理屈に頼らなければならない組織はもう終わりである。そのことは誰にでも分かるだろう。ただ、日本人は情動記憶に特化していて他人の評価や外部の規則に頼ろうとするマニュアル主義である一方で、前頭葉が弱く、合理的な思考ができないので、「客観的に不合理なことでも、組織に依存をすることや目上からの評価を得ることに頼ってしか生きられないために集団でこれを追認する」という性質を持っている。だから彼らは、不合理だと分かっていても、他の生き方をする能力がないので、みんなで抵抗をするしかないということになる(もちろん彼らは記号的な思考による自己価値喪失の不安から、強い者にはへり下る性質もあるので、私に好意的な意見もときおり誰かに言わせたりして暗に私に救いを求めつつ、しかし見下されるのも嫌なので、へつらいと反抗の掌返しを繰り返しながらこちらの顔色を伺って、結局相手にされずにのたうち回りながらゆっくりゆっくり没落していくことになる)。

 今の馬場くんの気持ちも書いておこう。彼は「ベラスケスがこれまで散々陰湿な嫌味や癇癪で自分にマウントを取り、実質的には自己犠牲を強制してカネヅルにしてきたくせに、いざ関係が終わるとなった途端、あっさりと自分を見捨てて新しい男である林洋佑に媚びようとしたところ、彼に内面の醜さを暴かれ、結婚も恋愛もできそうになく、どうしようもない立場に置かれていること」に対して「ざまあみろ」と愉快な気持ちを抱いている(彼は毒だろうが何だろうが、「笑い」に関してはかなりの関心と造詣がある。脳内の側坐核が強いと、多幸感を覚える性質が強まるので、泥棒や詐欺を遂げた際に幸福を感じる一方で、お笑いに反応する傾向も強くなる)。そりゃそうだ。彼は彼女を強姦してきたわけだが、彼女は彼を恐喝してきたわけで、彼が一方的な加害者であるわけでは決してない(もちろん、「お互いに加害者だからどちらも悪くない」ということではなく、どちらも悪いのである)。

 彼女は彼を犠牲にして私腹を肥やす一方で、私を犠牲にして虐待と強盗を繰り返していながら、それで彼からの支援を受けられなくなった途端、「使えない」扱いしてこれを見捨て、彼を罵ることでさも「自分は潔白です」というようなアピールを私にした上で、私に縋ろうとしたのに、相手にされず、結局「私は孤独だ」と一人で嘆いている。鬱になり、死にたい死にたいと言いながら惨めに泣きじゃくっている。彼はその姿を内心でにやにやしながら眺めては、「そんなことを言ったって、無理なものは無理なんだよ。あなたが好きだからと言って、相手がそれに応じてくれるとは限らないんだよ」とかつて自分を責め苛んだ言葉を、皮肉を込めて嬉しそうに彼女に優しく伝えるのである(笑)。それでまた、彼女は自分に味方がいないことを悟り、孤独のあまり絶望を感じることになる。彼女はこれまで自分が虐めて潰してきた多くの女性たちからも恨みを買っており、その女性たちに自分の惨めな姿を冷笑されていることも知っている。どこにも自分を救ってくれる相手がいない。信用できる者がいない。慰めてくれる相手もいない。、、、うん、自業自得だね♪

 「お前だってそうだろうが」と彼女は私を罵るかもしれないが、私は別にそれで困っていない。彼女は他人に頼らなきゃ生きられないくせに、他人に反抗して奴隷みたいに利用しようとするからそうなるんだろうな。

 以下の説明を補足しておく。これは「すでにブログ内の別の場所で詳しく説明したことを再度説明することのないように簡単に書いたが、もっと詳しく書くとこういう書き方になります」ということを示すためのものである。

 補足前

《日本人は「表ではばれにくいように、しれっと小狡いことをやって相手を苛立たせ、それで相手が怒ってコミュニティの平穏を害したら相手の負けである」という考え方を持っている。自らの悪事よりも場の平穏の方が正当であり、「僕はばれないようにやった。それなのにお前は腹を立てて、場の平穏を乱した。だからお前が悪い」という発想を当たり前のように行うのである。

客観的にはそうではない。彼らのような発想は、被害者からすればたまったものではない。こちらは被害を受けているのに、場の平穏などというくだらない利益のために悪事がスルーされることは許されない。客観的な正義が守られてこその平穏であって、不正を追認するための平穏などに保護すべき価値はない。だから私は、気になる不正があった場合、これを全てブログ等にて告発・公表することになる。「相手のことを考えて、内々に処理をしておけよ」と言ったところで、私を害する相手の利益を私が考える理由はない。相手には人権がない上に、こちらの活動は相手の不正に対する正当な処分である》

 補足後

《日本人は「表ではばれにくいように、しれっと小狡いことをやって相手を苛立たせ、それで相手が怒ってコミュニティの平穏を害したら相手の負けである」という考え方を持っている。自らの悪事よりも場の平穏の方が正当であり、「僕はばれないようにやった。それなのにお前は腹を立てて、場の平穏を乱した。だからお前が悪い」という発想を当たり前のように行うのである。そこまで不穏当な書き方をしなくても、たとえば「気に入らない相手に当てつけるために、わざとその相手の前で上司に大袈裟に媚びを売って、『自分はできる奴だ』という態度を見せつけ、間接的に相手の価値を否定する」というようなことを、彼らは日常的に行っている。このような細かい煽りに相手が苛立って、「やめてくれ」と根を上げたところで、加害者側はシラを切り、相手を「コミュニティの平穏を害する異常者」扱いするのである(もちろん相手も、そんな形で負けるわけにはいかないから、たとえば影で「あいつは上司にわざとらしく媚を売ってばかりで鬱陶しい」と陰口を言う。あるいは媚を売っている側は悪意がなく、相手の側が勝手に「俺を嫌がらせるためにあいつはわざとああいう態度を取っているに違いない」と決めつけて、それに対して勝手に報復をしている場合もある。どちらが正しいかは、そういう事態に至った細かい文脈によって客観的に決まる)。これは、海馬や扁桃体が発達しているせいで記号化された情動記憶が強く、前頭葉が未発達のせいで記号的な思考を合理的に形成する能力に欠けているがゆえのものである。

 細かく説明すると長くなるが、彼らは1.情動記憶による記号的思考の強さゆえに、抽象的な物事を何かの比較によって相対的にしか認識できないために、自己価値の把握を外部の評価に頼って行う。それゆえ、「自分が他人から咎められたり罪を背負うのは絶対に嫌だ」と考える。しかし、2.同じく記号的思考の強さゆえに自分と他者をやたらと比べ、少しでも相手に勝るために記号的な策略を講じるので、「咎められないように、ばれにくい形で相手を傷つける」ということを行う。3.前頭葉が弱く、情動記憶として蓄積したパターン作業の方が得意なので、積極的に思考を働かせて自分の価値を合理的に証明しようとすることができず、主として相手の足を引っ張る形でしか自己価値を確認する手段がない。だから、「ばれにくい細かい嫌がらせ」が日々の劣等感を解消する一つのルーティーンワークとなっており、コミュニティ内のそこら中でこういう陰湿な事態が起こる。

 こういう「陰湿な闘争」を暴いて咎めたりすると、日本人は大抵「咎めた側」のことを、「コミュニティに混乱を持ち込む悪者」として認定する。なぜなら彼らは、日常的にそういうことをばれずに行なっており、それ一つ咎めたらみんな咎められることになるわけで、それではコミュニティが成り立たないし、誰もまともに生きられないからである。そういう「不快なコミュニティ」の下で、「より上手くばれないように他人を虐められる能力」または「誰の劣等感も煽ることのない、毒にも薬にもならない抑制された態度を取ってひたすら周囲からの好感度を維持する能力」の高い者だけが生き残り、それができない者は一方的に攻撃をされ続け、「適応障害者」として淘汰されることになる。

 さて、実際のところこのケースの場合、客観的には「咎めた側」は悪ではない。「咎められた側」が悪である。彼らのような発想は、被害者からすればたまったものではない。被害者は被害を受けているのに、場の平穏などというくだらない利益のために悪事がスルーされることは、普通の人権観念があったら許されることではない。客観的な正義が守られてこその平穏であって、不正を追認するための平穏などに保護すべき価値はない。だから私は、気になる不正があった場合、これを全てブログ等にて告発・公表することになる。「相手のことを考えて、内々に処理をしておけよ」と言ったところで、私を害する相手の利益を私が考える理由はない。相手には人権がない上に、こちらの活動は相手の不正に対する正当な処分である(まあ彼らには思考構造上、人権という言葉や知識を覚えることはできるが、欲望のレベルで人権観念を持つことなどできはしないから、今さら言ってもどうしようもないし、私の側が国外に出ていってしまえばどうでもいいことだが。ゆえに、あくまでこれは「学術的な説明」であって、非難や攻撃ではない。事実私は、こういう彼らの習性を割とおもしろいと思っている。特に「だから、「ばれにくい細かい嫌がらせ」が日々の劣等感を解消する一つのルーティーンワークとなっており、コミュニティ内のそこら中でこういう陰湿な事態が起こる。こういう『陰湿な闘争』を暴いて咎めたりすると、日本人は大抵『咎めた側』のことを、『コミュニティに混乱を持ち込む悪者』として認定する。なぜなら彼らは、日常的にそういうことをばれずに行なっており、それ一つ咎めたらみんな咎められることになるわけで、それではコミュニティが成り立たないし、誰もまともに生きられないからである」という先ほどの説明は、私の感覚にはない発想なので、この説明を思いついたときには少し脳が心地よかった)。

 「日本人という括りで一般的に説明するのはおかしい」という批判があるが、私の説明の場合はこの批判は当たらない。私は「生物的な特徴」に照らして脳の構造から説明をしているのであり、日本人のDNAの型を持っている私以外の者は(私は魂の構造が記号人と異なるので、記号人の思考の仕組みとは違う仕組みで物を考える。また、いずれ詳しく説明するが、私のDNAはあらゆる人種のDNAを合理的に複合したものであり、私は純粋な日本人ではない)、概ね一般的に、上記の性質を示すことになる。それを「一般的に説明するな」と言われても、カブトムシはカブトムシの生態があるし、鹿には鹿の生態があるのと同じで、日本人には日本人の一般的な生態がある。「人種を一括りにするのはいかがなものか」と言う人がいるかもしれないが、たとえばリンゴの品種は品種ごとの特徴がDNAによって大体決まっていて、「秋映」という品種のリンゴが成る木が何本もあった場合、それらの木はいずれも「秋映」の特徴を平均的に持った実をつけることになる(もちろん多少のバグは起こるが)。取り分け日本人は島国で閉鎖的なので、お互いにお互いの血を強め合って外部の血を取り入れることがほとんどないので、人種的な特徴が色濃く出やすい種族である。だから彼らの生物的特徴から客観的な性質を論じる限り、それは一般的な説明が許されることになる。それに、「日本人は陰湿である」という話は私だけが言っていることではなく、私のことを非難するくらいなら、その前に何の科学的根拠も上げずにそんな主張をする人たちのことをもっと非難するべきだと思う(別にそういう人たちとの優劣で相対的に自分を正当化するつもりはなく、私は客観的に正当な知見を述べているだけだが)。

 私は科学の話しかしていない。だからそれに対して、「そんな意見を持つのはどうかと思う」とか「そんな意見を持つ奴はこうだ」と私の性質を論じられても、科学は科学なのだから世間の風潮との擦り合わせや自己の利害関係で結論を曲げるわけにはいかない。カブトムシに関する生物的な説明を聞いて、「いや、この説明よりももっとこれこれこういう説明を信じた方が世間の評判がいいから、こちらの説明を信じるようにしよう」とは思わないはずである。カブトムシの説明はカブトムシの性質に応じて決まるのだから、その説明に対して誰かが腹を立てても仕方がないし、「みんなの利害が調和して、誰もが納得いくような、もっと八方美人な理屈」を模索しても仕方がない。カブトムシはカブトムシである。それと同じで、日本人は日本人であって、日本人の性質が「そういうもの」なのだから、説明も「そういうもの」にならざるを得ない。こういう説明を眺めていると、改めて記号人の生態はなかなか興味深いものだと思う。日本人のような生態が生まれる仕組みがスパッと解説されていて分かりやすく、気分が良くなるのである。そうではないか?(そんなわけねえだろう。日本人にしたら)》

 もう簡単に「今後の彼らの主張の価値」をまとめておこう。

 今後、彼らが私に対して「〇〇とは××である」などと何をどう論じたところで、あるいは「Aという歴史上の偉人はこう論じている」などと何をどう主張したところで、そんなものは客観的、科学的な根拠のない見解であり、学術的な価値を持たない。そこで証明されるのは「記号人は言葉を覚えてこれを組み合わせ、文章にすることができる」という能力だけであって、主張内容の正当性は何一つ証明されることはない。

 笑える話だが、これが真実である

 

 私は「科学的に証明されていないけど、みんながそれが正しいことを常識的に知っているよね」という生活の知識みたいなものがこの世に存在することを知っている。そればかりか、私の証明した知見の多くは「結論だけを表面的に見るなら、今の世の中で常識と呼ばれるものとそれほど矛盾しない」ものである。

 しかしながら私は、「その常識の結論の前提となる基本構造」に関する現代の知見が客観的に正しくないことを学術の水準で証明しているので、それを覆したいなら、こちらの証明を「学術の水準」で反証してもらわないと困る。「学術と世間の意見は別物であって、世間の意見が正しいときもある」と言うのは分かるし、そういうときもあるのだろうが、正しい意見なら学術的に証明できる。私は世間で語られている知識が正しくないことを学術的に証明しているので、その件についてはもはや「みんながそう言っているんだから何となくそれが正しいんだろう」という雑な多数決は通用せず、学術の水準で厳密に争わないと、私の論を覆したことにはならない。

 私を人格攻撃したいだけなら、「俺は私はお前を信じない。お前は悪である」と言い張るだけでいいし、みんなそうやって攻撃してくるのだろうが、繰り返すように、その場合、そこで証明されるのは「記号人は言葉を覚えてこれを組み合わせ、文章にすることができる」という能力だけであって、主張内容の正当性は何一つ証明されることはない。その場限りの憂さ晴らしをしたいだけなら、別にそう評価されることに何の問題もないだろうし、そのような皆さんの態度を私は規制しようとも責任を持とうとも思わない。

投稿者: 林洋佑

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